仕事を終えて園舎を出るとき、外はすっかり暗くなり空は厚い雲に覆われてゴロゴロと雷鳴がこだましていた。パラパラと小雨が降る中駐車場に向かった私は、突然身が裂かれるような衝撃に襲われ、そこで意識が途切れた。
(ん……?)
目が覚めると、硬い地面の感触が背中を痛めていた。天井が遠く見慣れない。状況にも全身にもすごい違和感と不安を覚え、頭が急速に覚醒した。ここはどこだろう。家じゃない。私は確か……ああそうだ。仕事を終えて帰ろうとして……車の前でなんかすごい音して……痛かったような……。
ゆっくりと上半身を起こす。目の前に広がる光景が変だった。私はここを知っている。知らない。見覚えがあるけど、見覚えのある場所であるのはおかしい。二つの相反する判断が脳で同時に下され、混乱した。私、駐車場にいたよね? どうなったの? なんかで倒れた? でもここは絶対……病院じゃない。脳の判断が正しければここは私が勤めている幼稚園の廊下……のはず。あの遠くに見える壁と、周りの光景は間違いようがない。でも、それはありえない。だって、大きすぎる。私の知っている廊下だけど、知ってる廊下じゃない。混乱の原因はスケール感にあった。壁も天井もすごく遠いし、大きく見える。まるで魔法で巨人用に拡大されているかのようだ。何が何だかわからない。寝ぼけているんだろうか。視線を落とすと、自分が全裸であることに気づいた。
「ひゃっ!?」
慌てて両腕で胸を隠す。けど、私の体も何か変だった。いつもと違う。ツルツルしている。全身の肌がいやに綺麗だった。いや、綺麗すぎる。曇りなき肌色一色の均質な色合い。産毛の一本も生えてない。毛穴も黒子も皴もない。血管さえ見えない。まるでマネキン人形だ。腕を緩めると、胸に乳首がないことに気づいた。そして、股間にも。何もない。子供たちの人形のように、股間が平坦でそこには何も存在していない。
(え……え……?)
何これ!? 私どうなっちゃったの……。そして、両脇を見ると大きなキーホルダーやハンカチが置いてあった。以上にでかい。どっちも座布団ぐらいある。そして、私が腰を下ろしているのは小さな箱の中だった。見覚えがある。これは……。後ろを振り向くと、落とし物コーナーと書かれた大きな紙が目に映った。嘘でしょ……信じられない。ここは幼稚園の廊下、その棚の上で……今私が座っている場所は……落とし物の箱。すべてを説明するたった一つの答えがさっきから脳内に出てはいるが、選びたくなかった。だって、そんなことありえない……。後ろの掲示板にめちゃくちゃデカいポスターが何枚張られていようと、床からここまでマンションぐらいの高さがあろうと、ハンカチが布団くらいデカくても……それでも、人が……私が……。
その時、ズンズンと振動を感じた。巨人が職員室から姿を現したのだ。私の数倍ある。知った顔だった。同僚の落葉先生……。観念せざるを得なかった。認めるしかない。受け入れるしかない……。これが現実だと。
「あ……あの!」
私が大きな声を出すと、巨人が私のほうに顔を向けた。大きい。産毛や肌の細かな皴がハッキリ見えてしまう。気持ち悪い。私は立ち上がり、大きく手を振ってアピールした。
「こっちです! 私です! 助けてください!」
落葉先生はしばらくポカンとした顔で硬直し、数秒後叫んだ。
「うそっ!? えっ!? ……喋ったー!?」
間違いない。私は……小さくなっているのだ。人形ほどに。
その後、彼女が平静を取り戻してからようやく事情がわかってきた。私を落とし物コーナーに置いたのは落葉先生だった。駐車場で拾ったのだという。ものすごい落雷がすぐ近くで……おそらく駐車場で起こり、様子を見に行ったら私が……人形が落ちていたらしい。私が意識を失う前にいた場所……そして現状を合わせるとおそらく……私は雷に打たれて、人形になってしまった……らしい。
「こんなことあるんですね~」
「いやないですよ! なんでこんなことに……」
「まあまあ、生きてたんだから良かったじゃないですか~」
生きてるって言っていいのかなこれ。私の体はいまや30センチにも満たず、フィギュアみたいな質感の人形と化していて、とても生きた人間とは思えない。ていうか雷に打たれたら人形になるって……そんなことある!?
病院……行っても元には戻れないだろうなあ。そもそも信じてもらえるかどうか……よくできたロボットか何かとしか思われないんじゃ……。
「うう……これからどうしよう」
こんな体じゃ日常生活もままならない。仕事も無理。事情を説明してもまともに取り合ってもらえるかどうか……。
「いや……できますよ仕事」
「え?」
「私に任せてください!」
落葉先生はドンと胸を叩いて言った。ふ、不安……。
「とゆーわけでえ、今日からお人形になってくれた花咲先生でえーす!」
「よ……ろしくね……」
園児たちがコンサート会場のように沸いた。口々に「かわいいー!」「ほんとー!?」「すげー!」と連呼しながら私を取り合い、もみくちゃに。
「ちょ、ちょっとちょっとー! やめてー!」
落葉先生はただニコニコ見てるだけ。止めてよー。この年齢の子たちって遠慮ないんだから。体折られちゃったりしたらどうするんですか! しかし小さな私の助けを呼ぶ声は子供たちの歓声にかき消され届かなかった。
落葉先生の提案は、元に戻るまで幼稚園で子供たちの相手をしてもらう……ということ。お人形として。私は嫌だったけど、小さな体じゃ抵抗も逃亡もできかねた。車は落雷でやられちゃったし、そもそも運転できないし……。この体じゃ歩いて外に出るのも危険すぎる。変な人に拾われても最悪だし……。ほかの先生方も面倒は嫌なのか、家まで送ってくれたりもしてくれなかった。そもそも私が私だということを完全には信じてもらえてない気がする。落雷現場で私を発見し拾った落葉先生だけが、この物理的にありえない現象を何とか受け入れられたのだ。結局、幼稚園に留まるしかないので、私は彼女の目論見通り、新たな人形……それも生きて動き、お話してくれる人形として子供たちの相手をしなければならなくなったのだった。
私もここの先生だし、子供と遊ぶこと自体に抵抗はないんだけど……昨日まで当たり前のように一緒に遊んでいた子たちが巨人の幼体にしか見えず、ただただ恐ろしかった。それも分別の利く年齢でないとなれば猶更だ。
もし私が「壊され」たら……どう責任とるつもりなんですか落葉先生!?
「痛い! 痛いから引っ張らないで! 順番に遊んであげるから!」
大げさに痛がって見せることでようやく取り合いは落ち着いたが、私はこれまでにない形でみんなの遊び相手を務めなければならなくなった。それは……着せ替え人形としてだ。
「せんせー、ぬぎぬぎー」
「自分でやれるから……」
服くらい自分で着れるし脱げると言いたいけど、子供たちは自分で着せ替えたがるので、私は折れた。サイズ差がすごくて抵抗できない。加えて幼児だからまだ加減も信じきれないし。両腕を真上に掲げて服を脱がせてもらっていると、いい歳してこの年齢の子相手に何やってるんだといういたたまれなさが押し寄せてくる。しかも、下着がないから男の子もいる中で裸にされるし……。恥ずかしいやら情けないやらで顔が真っ赤に染まる。乳首も股間のあれも存在しない人形ボディとはいえ、そうそう割り切れない。ていうかこんなん保護者の方々、特に男児親に見られたら怒られそうだな……と思ったりする中、私はお姫様のドレスを着せられた。
「かわいいー」「せんせーキレー」
「あ、ありがとね……」
私、こんな服似合うようなタイプでもないんだけどなあ……。しかし地獄はこれからで、さらに私はフリフリの魔法少女衣装やアイドル衣装を矢継ぎ早に着せられることになったのだった。
「ねえねえ踊ってよー」
「えっ?」
アイドル衣装を着せられ、頭に大きなリボンを取り付けられた後、私は人気のアイドルの曲を踊るよう懇願された。そんなの踊れないし断ったんだけど……落葉先生が気を利かせてくれちゃってタブレットで動画を開いて私の前に置いたのだ。
「はい、これみて踊ってねー」
「えっ……でも」
さらに勝手に曲もかけられるし、巨人たちの眼差しに本能的に屈していた私は、たどたどしく動画をまねて踊る羽目になった。職場、それも園児たちの前でアイドルのコスプレして完コピしないといけないのも恥ずかしいけど、照れと恥じらいでものすごい拙いダンスになるのもさらに羞恥とみっともなさを煽った。
「へたっぴー」
男の子からヤジが飛ぶ。うう……どうすりゃいいの。
そのあとは魔法少女ごっこをやらされた。勿論、私が主役だった。ごっこ遊びに付き合うくらいなら抵抗はない……んだけど、私が全身にアニメの魔法少女の衣装を着て園児相手、というのがキツかった。大人一人だけ本気みたいな雰囲気がいやだ。しかも同僚見てる前で。そして例によってその同僚が変身シーンの動画を目の前に提示してくる。
「き……希望の力と未来の光……夢幻の守護者、プリティーピンク……」
「ほら先生、ポーズポーズ」
落葉先生も参加してきて私を煽る。くそ……覚えてなさいよ。
その後普通の服(といっても人形用の可愛すぎる服だけど)に着替えても、ままごとからは逃れられない。人形として参加することになった。まあ、魔法少女やアイドルよりはずっとマシ。
生きて動くお人形は園児たちの心をつかんでしまったらしく、私はその日ずっと手放されることはなく、玩具として遊ばれ続けた。お歌の時間も女の子に抱きかかえられたまま、園児側で参加する羽目に。そしてお片付けの時間には……。
「待って! 私は違うから! 片づけなくていいから!」
「えー?」
わしづかみにされておもちゃ箱に運ばれそうになった時、私はあわてて拒否した。冗談じゃない。私は玩具じゃないんだから。人間なの。生きてるの。
「もー! 駄目じゃないですか花咲先生!」
落葉先生が近寄ってきて、園児から私を取り上げてささやいた。
「そんなこと言ったらお片付けできない子たちになっちゃうじゃないですか」
「えぇ!? いや私は玩具じゃないんですから片付けられちゃ……」
「みんなは先生のことお人形だと思ってるんですから、お人形が片づけないでって言ったらみんな信じちゃいますよ?」
「なんで私が玩具代表みたいになってるんですか!」
といっても、ツルツルの樹脂の体にフリフリの着せ替え人形の服を着て、身長30センチ足らずじゃ私の言葉に説得力はなかった。どう見てもお人形でしかない。
案の定、男の子たちが片づけをしない言い訳に私の訴えを使いだしてしまったので、仕方なく私は玩具として片づけられることを受け入れざるを得なくなった。
「さっきはごめんねー。私……本当はお片付けしてほしいと思ってる……から……」
「そうなのー?」
「うん……ほら先生その……お人形に……なったばっかりだから、その、混乱しちゃって」
まさか自分からお人形として片づけてほしいと懇願しなければならないだなんて、思ってもみなかった。自分が人間ではなく人形だと公に認めてしまったかのように感じて、胸の奥が締め付けられるような気がした。
その後ルンルン気分でおもちゃ箱にしまわれた私は、自分で言い出した手前勝手に出ることもできず、園児たちが教室を出ていくのを黙って見送るしかなかった。
そうして激動の「初日」を終えた私は、帰ってきた落葉先生にふざけた調子で労われたあと、そのまま教室に置いて行かれた。
「それじゃあ、また明日~」
「え!? 私は!?」
このまま放置なの? と思ったけど、じゃあどうしてほしいのかも具体的なプランがないから抗議のチャンスを逸し、そのまま彼女を帰らせてしまった。
(うう……最悪)
おもちゃ箱から出てタオルを床に広げて寝ころんだ。今日は疲れた……。もうずっと大きな子供たちに玩具扱いで振り回されて、気が気じゃなかった。恥ずかしいこといっぱいやらされたし……。
これからずっと、こんな扱いが続くんだろうか。ここで一夜を明かし明日を迎えてしまったら、またこの幼稚園の人形としての一日が始まってしまうし、私はそれを選んでしまったことになる。かといって家に帰ることもほとんど不可能だし……。30センチの体で歩いて帰るのは危険すぎて。お金も手持ちないし……。スマホも落雷で人形化した時服と一緒に消えてしまったみたいだし。
(はぁ……)
誰もいない、ドームのように広い薄暗い教室で、私は思ってもみなかった人生の急展開を嘆き、呪った。なんでこんな目に……私何かした? これから人間に戻れるまでずーっと子供たちの玩具にされなきゃいけないの? いや待って、そもそも……私、元に戻れるんだろうか。もう一度雷に打たれたらもしかして……いや普通に死ぬだけかな。私は焼け焦げた人形がゴミとして捨てられるところを想像してゾッとした。
(寝て起きたら、夢だったことになるかもしれない……)
その日いつもよりずっと早く、私は眠りについた。諦めの中に一縷の望みを託して。
残念ながら、朝になっても厳しく冷たい現実を思い知らされるだけだった。私は小さな樹脂の塊で、幼稚園のお人形だった。人間が雷に打たれて人間になる方が現実離れしてるんだからなかったことにしてほしかったなあと思っても、何も変わらない。昨日と同じく園児たちが登園してくると早速私の取り合いになり、子供たちの遊び相手を全力で務めなければならない日が始まるだけだった。
夜に放置して帰らないでほしいと落葉先生に抗議しても、タブレットと操作用のペンを渡されるだけだった。これで人気のアイドルの曲や女児向けアニメを見てお勉強してね、と。冗談じゃない。でも閉園後はやることないし寂しいから、結局彼女の思惑通り、私は気が付いたらダンスの練習をしたり女児向けアニメを見て一人でごっこ遊びに興じたりするようになってしまった。人間の慣れとは恐ろしいもので、日々子供たちにかわいい服を着せられてかわいいかわいいと騒がれながら踊らされたりしていると、何となくそんな気になってきてしまうものらしい。そうしていつの間にか私はお人形として働くことをなし崩し的に受け入れてしまい、玩具として過ごす日々が過ぎていった。髪もピンク色に染められてしまい、見た目は完全にフィギュアみたいだった。
春になって年長さんたちの卒園を見送ると、「流石に一生このままってことないでしょ? そのうち戻れるんでしょ?」という淡い期待と正常バイアスにヒビが入ってくる。長すぎる。もう半年。人間に戻れないまま年度が変わる。ひょっとしたらこの先ずっと人形として生きなければならないのかもしれない。先の見えない恐怖が最も大きくなったのは、ちょうど一年が過ぎたころだった。
「「せーのっ」」
「せんせー、お誕生日おめでとうー!」
「……はい?」
初夏のある日、私は突然誕生日を祝われた。あの……私の誕生日は九月なんですけど。落葉先生が間違えた?
「「はなさきせんせー、おにんぎょうになってくれてありがとうー!」」
ゾッとした。間違えてない。子供たちが、落葉先生がとても嬉しそうにニコニコ笑って私に小さなお花をプレゼントしてきた。私の、人間・花咲クルミの誕生祝じゃなかった。私が人形になって一周年を祝っていたのだ。……嘘でしょ。
あるかもわからない心臓がバクバク鳴る。血の気が引く気がした。どういうこと? 私が人形になったのが嬉しいの? そんなの祝わないでよ。まるで私が……人形でいてくれたほうがいいみたいじゃん。人間のころの私はそんなダメだった? 私が人間より人形でいてくれた方がみんな嬉しいってこと?
否定したかった。怒りたかった。泣き叫びたかった。でも……子供たちがニコニコ笑っている中でそんなことできるほど、私は人間を捨ててもいなかったらしい。言いたいことが山ほどあったけど全部飲み込んで、私はできる限り嬉しそうに見えるよう花を抱きしめ、
「みんなありがとう……先生も嬉しい」
と感謝してしまった。
一年。もう一年経ったんだ。早くない? 私、一年間も人形のままだったの? まだ戻れないの? もしかして本当に一生? でも……そのことを大変なことだと思っているのは、私だけらしい。みんな私が人形になったことを、人形として一年を過ごしたことを祝っている。喜ぶべきことだと感じている。私の人生が否定されたかのようでショックだった。
そしてその年、九月になっても私の本当の誕生日は祝われなかった。
二年目も元に戻れないままあっという間に月日は経ち、私は二回目の人形としての誕生日を祝われてしまった。人形になってくれてありがとう。子供たちの言葉が私を突き刺す。やめて。私は人形なんかになりたくなかったの。元に戻りたいの。人間になりたいの。でも……。
「……みんなありがとう。これからもよろしくね」
そう言うしかない。このお祝いムードをぶち壊せるほど私は我儘を通せる人間じゃなかった。それに……私がもう二年間も人形として生きているのは事実だし……。いや、だからといって人間として祝ってほしいのがダメっていうのもおかしい話だ。私は夏休みの間にそれとなく落葉先生に尋ねたけど、一年に二回も誕生祝やるのは変でしょーとバッサリ断られてしまった。うう……。半年くらい間が開いていたらワンチャンあったかな。お人形としてだけ、人形になったことを祝われるのは嫌だと伝えたけど、子供たちは喜んでるからいいじゃないですかとこれもバッサリ。受け入れるしかないのかなぁ……。嫌だよ。私は人間なのに。人として生まれたことを誰にも祝福されなくなって、代わりに人形になったことを祝われるだなんて。
(私……元に戻らないほうがいい、のかな……?)
そんなことまで考えてしまうことがあるくらい、人形誕生日は私の中で尾を引いた。だってみんな、そっちを祝ってるんだもん。人間の私は誰も求めてないのかな……。
極めつけは三年目だった。去年までとは違っていた。何が違うのかというと、普通に誕生日祝いだった。といっても九月に人間として祝ってもらえたわけではない。私が三年前人形になってしまった初夏の日に祝われた。
「クルミちゃんいくつになったのー?」
「えっと……にじゅう」
落葉先生が割り込んだ。
「三つ。三歳になったのー」
「え?」
「そうなんだー」
子供たちは自分の方がお姉さんだと知り誇らしげだった。「三歳の誕生日」を祝われた私は困惑しきりだった。人形になって三年ではなく、三歳になったことを祝われている。
(わ、私、本当なら27歳になるんだけど)
しかし、じゃあその歳で髪も服もピンクに染めて魔法少女ごっこに勤しんでいるのかということになる。私は特に何も言えず、例年のように黙って受け入れ、謝辞を述べることしかできなかった。
「ありがとう。これからもいっぱい私と遊んでね」
夜になってから悲しみと絶望が襲ってきた。三歳? 私が? どういうこと? 確かに人形になってから三年だけど、だから三歳は違うでしょ。私の人間として生きてきた二十四年を否定しないでよ。消さないで。無かったことにしないで。なんでこんな……ああ。私、年少の面倒は見てなかったな……三年前は。今の年長さんたちは知らないんだ。私が人間だったことを。人間・花咲クルミの存在を。あの子たちの中で私は最初から人形だった存在なんだ。生きてお話できる不思議なお人形・クルミちゃん。だから……人形になって三年ではなく三歳の誕生日。
胸の中がギュギュっと締め付けられる。来年からは正真正銘、「私」を知らない子だけになる。最初から私が人形だった世界になってしまう。想像したら戦慄した。もう三年になるんだ。人形になってから。もう三年も人形として生きてしまったんだ。一生ってことはないでしょ、いつかは戻れるでしょという淡い希望がジワジワと蝕まれ消えていく。一生人形のままだろうという絶望が日に日に強固になり、人形として生きた実績が積まれ、人間だった時代が過去に遠ざかっていく。私は言葉にならないうめき声を出して暴れたが、夜の幼稚園には誰一人いない。私しか。三歳の誕生日を迎えた小さなお人形しか。
落葉先生だって永遠にここに勤めてるわけじゃないだろう。もしも彼女がいなくなったら、私はどうなるの? ここに置いて行かれるの? そうしたら……本当に、私が人間だったことを知る人はいなくなってしまう。私は正真正銘のお人形として、幼稚園の玩具として生きることが確定してしまう。想像すると青ざめた。
(私……私……どうすればいいの?)
ほかの先生たちはすでに何人か入れ替わっているし、私が真実を訴えても信じちゃくれないだろうな。すでに設定……つまり子供たちの間ではそういうことになっているみたいに受け取られているのが何となく伝わってくるし。雷に打たれて人形化なんて普通信じられないよね。生きた人形も大概ファンタジーなはずだからそれくらい信じてくれてもいいのになあ。三年も人形扱いを受け入れたのがまずかっただろうか。これからどうしよう……。来年のことを思う。四歳を祝われる。お人形として。そしてその先、またその先も……。暗い教室の中で、私は目に涙をにじませる……錯覚を覚えた。実際に涙は流れない。この冷たい樹脂の体からは。
ある秋の日、子供の手からすっぽぬけた私は今年入ってきたばかりの若い男の先生に向かって飛んでいき、偶然たまたま……口と口がぶつかった。その時だった。全身に衝撃が走り、意識が途切れた。
「……さん? クルミ……さん?」
「ん……?」
目に映ったのは小さな顔と近い天井。伊藤先生。なんかスケール感がおかしい。背中側が柔らかい。私は毛布にくるまりソファの上に寝ていた。
ゆっくり起き上がると、伊藤先生と視線があった。彼はちょっときまずそうに顔をそらした。伊藤先生の顔がやけに小さく……顔だけじゃない。部屋全体が……ここは応接室? おかしい。小さすぎる。狭い。じゃなくて……。
自分の体を見下ろすと、毛布一枚羽織っただけの裸の……毛を生やし血管が浮かぶ生々しい体が目に飛び込んできた。
(え……ちょっ……うそ!?)
夢にまで見ていた……諦めかけていた幻の光景だった。私はあわてて自分の顔をあちこち手で触って確認した。生きている。暖かい。皮膚。
「あ……あああああっ」
私は三年ぶりの涙を流しながら、神様に心から感謝した。やった……よかった……もとに……戻れてる……人間に……なってる!
実質裸なのも忘れて立ち上がり快哉を叫ぼうとした瞬間、全身が白く発光し始めた。
「へ?」
世界が見る間に広がり大きくなっていく。天井が遠くなり、伊藤先生が巨人に戻っていく。あっという間に、私は全年齢ボディのお人形に戻っていた。
一分近く、私は本当に人形になってしまったかのように動かなかった。それから叫んだ。
「なんでえええーっ!?」
「伊藤せんせー、クルミちゃんがせんせーのこと好きなんだって!」
「ちょっ、違う! 私はその……もう一回、その……」
わずかな奇跡のあと、またお人形に戻ってしまった私は、どうしてちょっとだけ元に戻れたのか考えまくった挙句、一つの結論に達した。伊藤先生と口同士が触れたこと、つまり……キスしたことが切欠ではないかと。確かめる必要がある。それをちょっとだけ園児に漏らすと、たちまちのうちに私が伊藤先生を好きだということにされてしまい、私は彼の前に押し付けられた。
「あのっ、違うんです先生、これはですね、この前ちょっとだけ人間に……」
「あー……はい。そう……なんですかね、やっぱり」
伊藤先生は私を人形だと思っていたから本当に驚いただろうな。あれ以来何も言ってこなかったけど、夢だと思っていても仕方ない。変な誤解されてて恥ずかしいけどチャンスだから言うしかない。
「きょっ……今日の夜、ちょっとつきあってくれませんか」
「え、ええ……わかりました」
やった! と思った束の間、私は恋愛好きの女の子たちに振り回された。
「よかったねークルミちゃん!」「せんせーも好きだってー!」
「あ、あはは……」
来年……いや早ければ今年、人間の誕生日を迎えられるかもしれない。私は子供の手に握りしめられて教室に連れ戻される中、伊藤先生に向かってはにかみながら会釈した。