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7. 白日
分からなかった。
どうしてここに叶夢がいるのか。
彼女が何を言っているのか。
さっきから、羅那には分からないことしか起こっていない。
寒川は言っていた。
叶夢が、金繭小事件の新城彩華である可能性が高いと。
そして彼女が贖う者に成るためになにか良からぬことを起こそうとしているかも知れないと。
頭では理解したつもりだった。
だけど。
だけど。
いざここに来てみると、羅那はここで起こった事実の全てを受け入れたくなくなった。
「何が起こってるか分からないって顔だね。そうだよね」
叶夢は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「まぁ…色々あったんだよ。羅那ちゃんの知らないところで。みんなのいざこざをこう…こちょこちょっと刺激したというか。まぁそれくらいなんだけど」
彩華は人差し指をこちょこちょと動かした。
「何言ってるの…?」
羅那は心底、分からなくなった。
人が大勢死んでいるのに。
異様な状況なのに。
なんだか満足げな叶夢の様子が。
「分かるように言ってよ。どうして。どうして皆…死んじゃったの!?」
羅那の張り上げた声が、吹雪のひょおひょおという音をかき乱す。
「殺し合ったからだよ」
叶夢はぼつりと言った。
羅那の身体から力が抜けた。
「こういうの…"名探偵、皆を集めてさてと言い"みたいで嫌なんだけど、知らないままなのも嫌だよね。うん。だから…話すよ。ちゃんと」
叶夢は黒いコートのポケットに手を入れた。
「最初はね、羅那ちゃんに死者の恐ろしさを知ってもらいたかっただけだったんだ。ただそれだけだった」
「私に…死者の恐ろしさを…?」
「うん。私はね…死者こそが一番恐ろしいんだってそう思ってる。知ってるでしょ。昔っからさ…そういう話、してたもんね」
叶夢は懐かしそうに目を細め、遠くを見た。
ソラナキとのチャットのやり取りが羅那の頭をよぎった。
そうだ。
この女が。
この西原叶夢になりすましていた女が、ソラナキであり新城彩華なのだ。
当たり前のことなのに、羅那には叶夢の姿が幻のように思えた。
「その考えはずっと変わってないよ。それに…私は人を殺しちゃったから。だから…その償いも兼ねて…私は死者こそが本当に畏れ多い存在なんだって考えることにしていた。死者を敬うことが…恐れ慄くことが贖罪だと思ったから」
叶夢は一瞬俯いて、顔を上げた。
「でも、羅那ちゃんがそれをぶち壊しちゃった」
感情の読み取れない叶夢の目が羅那をとらえた。
「私が…」
「夏だよ。ほらあの呪詛事件の時。羅那ちゃん言ったよね…全世界に向けて…生者こそが強いんだって。生きている方が死者より強いって」
生者より強い死者などいない。
羅那は確かにそう発信した。
あれは…。
「あれは、一人でも多くの人が呪詛から助かるためにっ…」
「分かってるよ。でも、発信してしまったことは事実。おかげで…死者を軽んじるような思想が広まっちゃった」
叶夢がふうと鼻息を立てた。
「許せなかったな…私」
言って、少しだけ笑った。
「と言ってもさ、だからって羅那ちゃんを強く恨んでるとかそういうことじゃないよ。殺してやろうとか思ったわけじゃない。でも…"あの時"、全てが変わった」
叶夢の顔から笑みが消えた。
「あの時…?」
「旧校舎に行こうって話になった時」
記憶の底から、あのフードコードでの会話が甦る。
「面白半分で、死者を茶化してあの旧校舎に入ろうって話になった時…ついにみんな一線を超えたんだって思った。私が許していられる一線を」
羅那は何も言えなかった。何も言えず、雪の上に立っていた。
「みんなには考えを改めて欲しかった。でも、私の口から直接そんなことを言っても…聞かないでしょ。特に愛維なんか。
そりゃあ、力づくで良いなら阻止はできたよ。でも、私の中では、みんなを旧校舎に立ち入らせないことより、みんなが死者を恐れてくれる考えを持つことが大事だったんだ。だから、死者の恐ろしさを分かってもらえる計画を実行することにした」
「それでも…。それでも…何かひとことくらい言ってくれたら良かったじゃない。そんな気持ちがあったなら…」
確かにあの時から叶夢は旧校舎に立ち入ることに乗り気ではなかったように思う。
でも、死者こそが第一であるという考えなんかは口にしなかったし、羅那たちもそんな考えを叶夢が持っているなんて思いもしなかった。
叶夢は、羅那たちに旧校舎に立ち入らないよう説得さえしてこなかった。
叶夢はポケットに手を入れたまま、半壊した小屋を歩き出す。
「私。警告したんだよ」
叶夢は床の"祭壇"を見つめながら言った。
「警告…?」
「覚えてるでしょ。玄関ホールの警告文」
羅那たちが旧校舎に行くと決めたあとに玄関ホールに現れた死人の文字で書かれた警告文が羅那の脳裏に強く映し出された。
「あれはっ…」
あれは、叶夢が書いたものだったのか。
羅那はあの時、校内に自分以外に鬼界文字を操れる人間などいないと思い込んでいた。
だから、あれは死者の仕業なのだと。
でも。
叶夢なら、いや、羅那と同等かそれ以上に心霊の知識を持つ新城彩華ならば鬼界文字を操ることは可能なのだ。
「羅那ちゃんにだけ伝わるようにしたのに、見て見ぬふりをしたね」
叶夢の感情の読み取れない笑みが羅那の胸を突き刺す。
「それはっ…」
情けない声が漏れる。
「愛維に強く言えなかったから?本当にそれだけかな。羅那ちゃんもさ…思ってたんでしょ。旧校舎の曰くを調査したいって」
叶夢の言葉が羅那を鋭く貫いた。
「最後通達も無視されたから…こっちもやるしかなくなった」
叶夢はポケットから手を出し、白い手を握り締めた。
「なにをやったの…」
「大したことじゃないよ」
照れくさそうな笑みをこぼす叶夢。
「最初に旧校舎に入った時は、こっそり扉を閉めちゃうとかね。あれだけでも怖いでしょ?」
言われてみれば、そんなことがあったような気がする。
「あとは、羅那ちゃんが水羽さんと旧校舎に入る時、これで旧校舎の鍵を開けておいたり…そんなものだよ」
叶夢はキーピックを取り出してひゅんひゅんと指で回した。
あれはてっきり寒川が開けたものだと思っていた。
「まさか…愛維ちゃんが封鎖されてる旧校舎に忍び込めたのも…」
「そういうこと。あれはまた…別の話になるんだけど。とにかくね…みんなには死者の恐ろしさを知って欲しかった。恐れ慄いて欲しかった。まさか…歌巴が死んじゃうとは思ってなかったけど」
叶夢は眉を上げてため息をついた。
「知ってたの…?歌巴ちゃんのこと…」
歌巴の名前を口に出すと、さっきのあの非現実的な光景が現実味を帯びてきて、頭が痛くなる。
「見てたからね。"全部"」
当然のことのように叶夢はそう言った。
ずっと、知っていたのか。
滝歌巴が死人であったことを。
「あれには流石にびっくりしたからさ…。慌ててこれ使ってみんなで脱出したんだ」
叶夢は、コートのポケットから何かの牙のようなものを取り出した。
呪物だ。恐らく…とある人喰い殺人鬼の牙。
「ああいう結界って…強い霊力を持っていると無理やりに突破できるでしょ。自由な出入りは出来ないけどね」
叶夢は牙をポケットにしまう。
歌巴の首が刎ねられた時は、羅那も慌てていて状況を把握できていなかった。
でもあの時、玄関ドアを開けたのが叶夢だったのは覚えている。
「そのあとは…歌巴が首無しになって学校全体を脅かしたから…私としては目的通りの展開ではあったかな」
「なに…それ…」
理解出来ない。
友達の死がもたらした結果を喜ぶなど。
「でもやっぱり、一番は羅那ちゃんたちに恐怖を感じてもらうことだったから…色々…仕掛けさせてはもらったよ」
叶夢はそこでにっこりと微笑んだ。
仕掛け──。
羅那を脅迫するような死者からの手紙も全て鬼界文字を操れる叶夢が仕掛けていたのか。
ならば、愛維に向けられた"くだん"の存在を示すようなメッセージも──。
どうして。
どうしてここまで出来るのか。
「どうして。私を助けたの…最初に旧校舎で怪異に襲われていた時…」
羅那がくね子に襲われた時、ドアの鍵を開けたのは叶夢だったと聞いている。
「羅那ちゃんに死なれたら困るから。影響力のある生き証人がいなくなったら本末転倒でしょ」
叶夢は手を後ろで組み、ぐるりと小屋の中を歩きながら答えた。
「そんな…じ、じゃあ藤島小百合を倒すのに協力したのはどうして!?死者を恐れて欲しいなら…藤島小百合の味方をしなかったのはどうして!」
声が震え、感情が抑えきれなくなる。
湧き上がってくる感情が何なのか、羅那にも分からない。
「彼女が羅那ちゃんたちによって浄化される存在だってことはなんとなく分かってたからだよ。難しいけど、羅那ちゃんはそれをやり遂げる人。死者の力を信じているからこそ、私は死者に加担はしない。そんなことしたら…私の実力になっちゃうでしょ。藤島小百合が羅那ちゃんだけを残して全員殺してくれてたら…まぁ良かったんだろうけどね」
気持ちが昂る羅那に対し、叶夢は冷静に答えた。
藤島小百合との戦いなど共に死戦を潜り抜けた叶夢の姿と、いま目の前にいる叶夢の吐く言葉が一致しない。
すっぱいものが腹の底から込み上げてくる。
「藤島小百合の消滅をもって、計画は終わったということね。じゃあ、あの有様は一体…」
寒川が口を開き、乃恵たちの死体のある方を指差した。
「お察しの通りです。私は、神からの永遠の罰を望んでいます。彼女たちにはそのために…犠牲になってもらいました」
叶夢は淡々と続けた。
「こっちの校舎に来てから、この贖う者の祭壇を発見した。運命だと思った。だから、何度か試した。でもダメだった。やっぱり…人一人の命を奪ったことって神様からしたら軽い罪なのかな」
叶夢は鉛のような色をした雲を見上げた。
「彼女たちを生贄にすることをいつ…思いついたの」
「成り行きです。もしかしたらいけるかもって。思いついたのは…旧校舎に入ってからです」
叶夢の目が遠くの旧校舎を見つめた。
「死者の恐ろしさを思い知らせるために、はっち…鉢上乃恵に歌巴になりすました手紙を出しててはっちの心を揺さぶった」
「歌巴ちゃんになりすました…?なんで…」
どうしてそんなことをする必要があるのか。
「最初に旧校舎に入った時、私たちは藤島小百合の放った死の風に襲われたでしょ。その時…はっちが歌巴の背中を押して…歌巴が死ぬことになったから」
羅那の脳は、叶夢の淡々とした説明を拒絶する。
いつもの理解力がまるで機能しない。
「乃恵ちゃんが…?どうしてそんなことを…」
羅那が問うと、叶夢は少し苦しげに目を閉じた。
「そうしないと仕方がない状況だったから…かな。私がはっちでもそうしたと思う」
叶夢は、死者の恐ろしさを乃恵に植え付けると同時に、歌巴を犠牲にした罪悪感と焦りと不安を煽ったのだ。
「それから…愛維はパパ活してたからね。そこが弱みだって分かってた。有名人になるのに愛維には必要な手段だったんだろうけど…あんなのいつか露呈するに決まってるよね。愛維はくだんを信じてたし、そこを利用した。愛維がハイブランドのものを身につけなくなってからはっちと距離が出来てたから、はっちは愛維のパパ活のことを知っている…あるいは現場を目撃したんじゃないかなって思った。だから、私は"くだん"を演じてそのはっちを愛維が消すように仕向けた」
知らない。
知らない。
羅那は何も知らない。
愛維がパパ活しているとか、乃恵がそれを目撃したかもとか。
知らない。
「それから…。澪には、はっちが歌巴を犠牲にしたことをこっそり教えたんだ。ついこの前ね。澪は歌巴と一心同体。まぁ許すわけないよね…」
澪が歌巴のことで乃恵を憎むのは、羅那でも容易に想像がつく。
これで、乃恵は愛維と澪の二人から怨まれ、殺意を向けられることになったのか。
「どうやって三人をここに集めたの」
寒川がじっと叶夢を睨みながら言った。
気のせいか寒川の呼吸は乱れていた。
「藤島小百合との戦いが終わったあと、はっちに言ったんです。二人で始末しようって。今日、ここで」
「それで乃恵ちゃんはここに…」
「それでそこに…松山愛維さんが鉢上乃恵さんを殺しに来た…?」
「はい。愛維には、はっちが一人で歌巴を始末しにくるって言っておいたんです。そうすると…やる気になるかなって」
「やる気…?」
「学校は閉鎖されているし、目撃者はいない。しかも吹雪で、怪異もいる。人を消すのには絶好のコンディションです」
叶夢は降り注ぐ雪を手のひらで受ける。
叶夢と一緒に歌巴を始末しようとした乃恵。しかし実際には叶夢との合流は果たされなかった。
そこへ、乃恵が一人でいることを知っていた愛維が来て──。
そして、愛維は乃恵を殺したのか。
いや。恐らくあの死体の様子からして、愛維は乃恵に返り討ちにされたのかも知れない。
そもそも小柄な愛維が背が高くて武道の経験もある乃恵に勝てるところを想像出来ない。
「澪には私が藤島小百合との戦いで歌巴が首無しだと気づいたと嘘を言いました。実際、あの戦いの中で歌巴の様子がおかしいところも確かにあったんですけど」
羅那は、気づかなかった。
羅那が唖然としていると、叶夢は羅那の心を読んだように、気にしないで良いよとそう言った。
「歌巴が藤島小百合との戦いの中で見せた異変って、歌巴が死んでるって分かっていないと気づかないレベルだから。羅那ちゃんは自分を責めなくても良いよ。それに…羅那ちゃんはきっと、私たちの中に首無しがいるって思いたくなかったんだろうから」
慰められても、どう感じれば良いのか分からない。
「それで…はっちが一人で般若の包丁を使って歌巴を殺そうとしてることを澪に伝えたんだ。はっちに狙われると危ないから歌巴は家に待機させておいてねって」
乃恵が一人で裏山に行くと聞かされた澪は親友を守るために、あるいは恨みを晴らすために、乃恵を手にかけたのか。
だが、乃恵と澪のあの死に様からして二人とも恐らく怪異となった歌巴にやられた可能性が高い。
ここではない場所にいたはずの歌巴が何故──。
「なんで歌巴ちゃんがここに…」
「私が呼んだんだ」
「呼んだって…」
「普通に電話でね。言っただけだよ。この場所に私がいることとそして…歌巴はもうとっくに死んでるってこと」
そんなに残酷な告白があるだろうか。
それを聞かされた時、歌巴はどうしたのだろうか。
「死んでいることに気づいていない類の死霊って、死んでることを教えてあげれば怪異に染まっていくんだよ。死を受け入れるまでに時間は掛かるけどね」
羅那がさっき歌巴と遭遇した時も、歌巴はまだ狼狽していた。
でも恐らく、最後には受け入れたのだ。
だから完全に怪異となり、寒川に祓われた。
「それにしても…藤島小百合が私たちとの戦いで歌巴を使わなかったのは何故なんだろうね。やっぱり、怪異になり切れてない存在だったからあの状況では完全に操れなかったかな?あの場では歌巴も生きてるって強く思い込んでただろうし。もしくは、切り札にとっておいたのかも…?もう分からないけどさ」
叶夢はガラクタの上に積もった雪を指で擦るように落とした。
藤島小百合と戦ったあの時、歌巴の正体が明らかになっていたのなら、叶夢の計画は破綻していただろう。
そしたらこんなことには──。
叶夢は、直接、手を下していない。
誰も殺していない。
既にあった状況を利用しただけだ。
人間関係に既に入っていた亀裂に指を入れて広げた。
そして、殺し合うように仕向けた。
生贄にするために。
「分からないよ…人は…そんなに簡単に誰かを殺そうと思うものなの…」
羅那は震える喉から無理やり声を絞り出した。
「きっかけだよ。全部。きっかけ次第」
きっかけ。
怪異の現れる吹雪の日。それは確かに誰か不都合な人物を消すにはうってつけかも知れない。
条件が揃っていればそれは殺人を犯すきっかけになるのか。
でも、たったそれだけで人は命を奪う邪悪になれるのか。
「貴女が五年前に"彼女"を手にかけたのも…キッカケがあったからだと言うの?」
寒川の言葉に、叶夢の目がくわっと大きく開いた。
「"夏妃"ちゃん…」
叶夢の唇が小さく動いた。
「あの日は…すごく晴れていて、でもあの時、急に強い風が吹いて…砂煙が舞って…夏妃ちゃんが背中を向けて…うなじが見えて…それで…」
叶夢はぶつぶつと呪文でも唱えるように言った。
「貴女は杉崎夏妃さんの命を奪った。その罪を本当に悔いているの?私には…今の貴女は命を軽んじているように見える」
寒川のよく通る声が響いた。
「命──か」
叶夢は空を見上げた。
寒川が羅那の前に出る。
「今の貴女に、罪を贖う資格などない」
寒川は静かに怒りを滲ませた。
「それは──神が決めること」
叶夢が両手を広げた。彼女の足元には、祭壇がある。
ひょおひょおと吹いていた吹雪が乱れる。
容赦なく吹き付けていたその吹雪は、叶夢を避けるように消えていく。
鉛色の雲が掻き消えて、
乃恵たちの死体のある方から赤い雫が雨のように天に向かって降り注ぐ。
空は真っ赤に染まった。
どこまでも続く真っ赤な空は、羅那が夢で見た空と同じだった。
「これはっ…!?」
寒川が眉を歪ませる。
「同じです…これっ…私が見た夢と…!」
足元の雪が腐るように煙を上げて消え、地はやがて、無数の赤い死肉と骨に成り変わった。
そこは、羅那たちがさっきまで立っていた場所ではない。
あたりには旧校舎も、裏山も見えない。
血肉と骨の地が永遠に続く広大な異空間だ。
叶夢は顔色を変えずに辺りを見渡していた。
「貴女が贖う者に成ることを…認められというの?」
「そうみたいです」
「今すぐ引き返しなさい!取り消すの…こんなの…!」
寒川の声は震えていた。
彼女も、今更、引き返せないことは分かっているのだろう。
「もう…手遅れです」
叶夢がそう言っても、寒川は銀の剣で血を突き刺したり、銀色の炎を空に向かって放ったりした。
だがどれも、無駄だった。
寒川はくそっと悔しげに吠えた。
「多くの犠牲者を出した者を受け入れるなんて…私には、神の考えることが分からない!」
「神なんてそんなものなんだと思います」
叶夢はじぃっと赤い空の奥を見つめたまま答えた。
「そうかもね。でも…私には神どころか貴女の考えていることさえ分からない!そもそも…五年前貴女は、なぜ友達を殺したのか。さっき貴女はキッカケと言ったわね。そのキッカケを利用する前に何があったの。杉崎夏妃さんと。動機を…教えて…」
寒川は焦り、完全に取り乱していた。
感じているのだ。
"終わり"を。
西原叶夢──新城彩華と言葉を交わせる時間が終わりに近づいていると。
それが自分の手ではもう止められないことを感じている。
羅那も同じだった。
「それはあの当時話した通りです。もう、よく、覚えていません。私が夏妃ちゃんを殺したのは、やっぱり殺せるキッカケがあったから。殺意なんて誰でも抱きます。だから、あとはキッカケがあれば良い。人なんてキッカケだけで他人を殺しちゃうものなんだと思います。納得できる動機なんて後からついてきたり、誰かが付け足したりするだけ」
自分に言い聞かせるように言った叶夢の姿が赤い光に照らされる。
「寒川さん…あれはっ…」
羅那は真っ赤な空の向こうを見つめていた。
赤い空の向こうに、途方もなく巨大な何かの影がぼうっと現れた。
大きい。いや、大きいなんてものではない。
影は、この世界全てを見渡せるのではないかというほどに"広大"だった。
影に目を奪われていた羅那は、気づけば膝をついていた。
こうしていないといけない気がした。
あの影を直視してはならない気がした。
だらだらと汗が溢れ出してきた。
呼吸が乱れる。
「私の罪の意識が、認められた」
叶夢は影を見つめて、微笑んだ。
「嘘よ…そんなはずがない…新たに人をあれだけ犠牲にしておいて…!」
寒川が叫ぶ。
「私は使えるものを使っただけ。後のことは…彼女たちが選んで決めた道」
巨大な影の果てしなく細く長い腕のようなものが動いた。
影の一部がぷつりと千切れ、こちらへ飛んできた。
それは、かろうじて手のひらに乗る大きさの"真っ黒い箱"であった。
漆黒の箱には、見たこともない紋章や模様が刻まれている。
箱は一人でに音を立て、パズルのように動いて開いた。
箱の中は闇のように真っ黒だった。
箱は、ふわふわと叶夢の前まで移動すると、突然、生き物のように周囲の空気を吸い込み始めた。
凄まじい吸引力により、叶夢の左胸内側にある何かが箱に引き寄せられ、今にも胸を突き破らんとモゴモゴと動いているのが分かる。
叶夢の顔が苦痛に歪んだ。
そして。右胸の筋肉を突き破り、それは飛び出した。
どくんどくんと鼓動を続ける"筋肉の塊"が、箱にの 飲み込まれ、箱はまた音を立てて動き、蓋を閉じた。
叶夢の口からごぼごぼと血が溢れ出している。胸には、大きな穴が空いていた。
羅那はこの状況を理解することを完全に──放棄していた。
真っ赤な血肉や骨で埋め尽くされた地が盛り上がり、漆黒の棺桶が地の底から顔を出す。
叶夢の心臓を封じ込めた箱が、棺桶の中央の四角い窪みに嵌ると、何かが解錠されるような音がして棺桶の蓋がゆっくりと滑るように開いた。
棺の中には──"漆黒の鎧"が収められていた。
目と口元だけを露出した丸い形状の兜。内側に向かって棘や刃、かえしのような太い針の伸びる鎧。
それは贖罪のため、究極の痛みと苦しみを与える漆黒の鎧。
鎧はひとりでにふわりと浮いて棺桶から抜け出し、叶夢の元へと飛んでくる。
鎧を失った棺桶は、心臓入りの箱を収めたまま、真っ赤な空の向こうにいる"巨大な影"に吸い込まれていく。
叶夢は無言で、鎧を見つめたまま全てを受け入れるように両手を広げていた。
「叶夢ちゃんっ…!」
羅那は何故か彼女の名前を呼んでいた。
呼んだところでどうにもならないのは、分かっていたけれど。
真っ黒い兜が二つに割れ、叶夢の頭部を挟むように装着される。
兜の内側の針や棘が頭部に食い込み、兜からどろどろとあり得ない量の血が流れ落ちた。
叶夢の目と唇が、真っ赤に染まる。
叶夢の指がわなわなと震えている。
手を広げている叶夢の背後に重なるようにして浮いている贖罪の鎧は、がちゃがちゃと音を立ててその形状を変え、叶夢の肉体にぴったりとフィットするような形と成った。
あらゆる痛みを与える器具のついた黒い鎧が、叶夢の全身に喰らい付く。
叶夢の目が大きく開いて、耳を塞ぎたくなるような断末魔が驚いた。
バケツをひっくり返したような凄まじい量の返り血が羅那と寒川を汚した。
叶夢の肉体に食い込んだ鎧はほとんど肉体と同化しており、それは鎧というより、まるで皮のない漆黒の人体のようであった。
兜の吊り上がった目の形状も、漆黒の手指爪も、まるで悪魔のようだった。
──ああ。
叶夢は声を漏らした。苦しげな声だ。
彼女が動くたび、真っ黒い血液がぼとぼとと滴り、飛び散る。
「みんなのお陰で──成れたよ」
叶夢は多分、笑った。赤い唇を曲げて。
「ありがとう。さようなら」
"贖う者"となった叶夢は、赤い空の果てにいる大きな影の方へと歩き出す。
叶夢と二度と会うことが出来なくなるのは明白だった。
このままでは──後悔する。
「待って!」
羅那はようやく声を出し、叶夢に向かって手を伸ばした。
その手を、地から盛り上がった血と肉と骨の塊が阻んだ。
「これがっ…これが貴女の償い方なのっ?これがそうなのっ?」
羅那は足を血肉の塊に飲み込まれながらも、叫んだ。
叶夢は黙ったまま何も答えない。人ならざるものと成った叶夢にはもう、羅那の声など聞こえていないのかも知れない。
「私はっ…こんなの逃げだと思うよ…!何か罪を犯した人間がやるべきなのは…生き続けること。生きてる人にしか出来ないことをし続けることだと思う…。死者を弔ったり…二度と同じ過ちを犯さないように努力したり…ぜんぶ自己満足かも知れないけれど…こんなふうに痛みに逃げるよりはマシだよ…!」
羅那も罪を犯した。殺人でこそないけれど、羅那は潤を殺したのも同然だと思う。
だけど、その罪から逃げようとは思わない。
「正しい償いの方法なんてわからないよ…!でも…罪を背負った人はそうやって悩み続けるものなんだと思う…!私は…私はそう思う…!」
震える声を、無理やりに張り上げる。
「羅那ちゃんは自分の信じた道をゆけば良いと思うよ。私は、私の信じた道をゆく。そこに例え…どれだけの犠牲が伴おうとも」
叶夢は羅那に背を向けたまま言った。
直後、また血が飛び散り、叶夢はうめき声を上げた。
「羅那ちゃんは生きて伝えて…死者の恐怖を。世界に伝えて。藤島小百合が…滝歌巴が与えた恐怖を」
旧校舎に立ち入ってから藤島小百合を倒す一昨日までずっと、生きた心地のしない日々だった。
死者は恐ろしい。
だけど──
「それは…出来ないよ…」
羅那が消え入りそうな声で言うと、叶夢は立ち止まり、羅那の方を見た。
叶夢の真っ赤な瞳はもう、人間のそれではなかった。
「私…嘘はつけないよ」
羅那の目から、涙が流れ落ちる。
羅那の身体を肉塊が飲み込んでいく。
「虎谷さんっ!」
寒川が銀の剣を振るい、肉塊を断ち切ろうとする。
だが、その刃先は肉塊に触れるその寸前で──爆ぜた。
寒川の顔が引き攣る。
「寒川さん。やめてください。ここはもう寒川さんたちの力の及ぶ世界ではない」
叶夢は口から血を吐いた。
真っ赤な空を埋めるように、無数の黒き贖う者たちが並んでいた。
皆──"贖罪"のため、苦しみを浴びている。
「お願い羅那ちゃん。死んだも同然の私…怖いでしょ。首無しも怖かったでしょ。藤島小百合もさぁ。だったら…自分が間違っていたってそう言ってよ。生者よりもずっと…死者の方が怖いって。世界に向けて言ってよ。死者のために。でないと…貴女をここから出してあげることは出来ない」
叶夢は、手足を肉塊に囚われた羅那の顎を、悪魔のような指先でくいと上げる。
叶夢の要求を飲まないと、ここからは出られないようだ。
でも、それでも羅那は──。
「私。できないって言ったよ…嘘はつけないって。だって──」
羅那は涙を流しながら、叶夢に微笑みかけた。
「──私は藤島小百合さんや歌巴ちゃんより…貴女の方が…誰でも犠牲にする新城彩華という人間の方がよっぽど怖いんだから」
羅那がそう言った時、叶夢の兜の奥の赤い目が大きく丸くなった。
「私が──」
叶夢はぼそりと呟いた。
贖罪の空間がどよめいた。
その瞬間。
真っ赤な空間に大きな亀裂が入った。
亀裂から眩い光が差し込み、その光のスジが羅那と叶夢を照らした。
叶夢の顔が歪む。
煌々とした光の下に、誰かがいた。
黒紫色の長い髪を揺らし、その人は何か光の剣のようなもので羅那を捕らえる血と肉と骨の塊を
切り裂いた。
肉塊は蒸発したように消えた。
「悪いけど──ここまでよ」
和装の女は、光の剣を握り潰し、左足を踏み込む。
驚愕している叶夢の腹に、光を握り潰した拳が打ち込まれる。
贖罪の鎧に亀裂が入り、叶夢は血を吐いた。
叶夢の身体がよろめいて、後方へ飛んだ。
赤い空が剥がれ落ちいくように消えていく。
血を埋め尽くしていた血や肉や骨が、溶けていく。
「新城さん──」
羅那はよろりと立ち上がって新城彩華に手を伸ばす。
叶夢は苦しげに腹部を抑え、咳き込んで血を吐いていた。
「私は行くよ。全ての犠牲を無に返すために。みんなの命も…」
叶夢はそう言い残し、真っ赤な空と共に消えた。
つい今し方まで広がっていた悪夢のような空間が嘘のようになくなった。
目の前には、半壊した小屋があるだけだ。そこに叶夢はいない。
雪は止んでいた。
力が抜けて、羅那はそのまま雪の上に仰向けに倒れた。
曇り空が割れて、僅かに夕陽が差している。
この現実で起きた悲劇も、あの異様な非現実の空間で起きた悲劇も、何もかもが羅那の理解を超えていた。
「貴女は…」
寒川が起き上がり、光と共に現れた和装の女──"藤留聖美(ふじどめきよみ)"を見た。
「上層部に報告とかしないでよ。ちょっと色々あってね。偵察してたらこれだわ」
藤留聖美は猫みたいな目を歪めて不快そうな顔をした。
「偵察って…どうして貴女が…」
「まぁ色々よ。色々。もういいでしょ。助かったんだし?それにしても…サイアクね。これは。まさか本当に"成る"なんてさ…」
藤留は頭を掻いてそのまま旧校舎の方へ歩き出し、雪に埋もれるように倒れている羅那を見て立ち止まった。
最強の退魔師の目が、放心状態に陥っている羅那をとらえる。
「折れんじゃないわよ。ここからなんだから。"死の時代"は。お互いめんどーだけどね」
藤留は羅那にしか聞こえない声でそう言って去っていった。
◯
──2022年12月26日月曜日──
真冬は二つの事件の処理に追われていた。
二つとは言うが、どちらも非常に複雑な事件だった。特に、後から起きたほうは。
新城彩華による悪魔のような計画が引き起こした惨劇により、西倉山高校に通う女子生徒──松山愛維、鉢上乃恵、笹木澪が死亡した。
彩華は人の憎悪を増幅させ、邪悪を司った。
人は何故、殺意を抱き、人を殺すに至るのか。
彩華は、殺意は誰でも抱くことがあり、殺すかどうかはキッカケが全てだと言う。動機はあとからついてくるのだと。
そうかも知れない。
そうなのだろう。
だったら、真冬のような警察のやっていることというのは果たして意味があるのかやはり分からなくなる。
真冬には、やはり人間のことなど分からない。
新城彩華は真冬の力の及ばないところへ行ってしまった。
二度と、会うことはないだろう。
彼女を罰することは出来ない。
例え彩華が生きていてもそれは難しかったかも知れない。
彩華の手のひらの上で踊らされ、殺し合わされた犠牲者たちへの罪の意識が重く真冬にのし掛かっている。
もし真冬がもっと早くに歌巴を祓えていれば──少なくとも三人の少女の命は救えたし、彩華を止めることもできた。
自分のせいだ。
真冬は己が情けなくて堪らなかった。
でも、この罪から逃げるつもりはない。
真冬は知った。新城彩華のような人間がいることを。
真冬は生きている者としてこの大罪を背負い続け、二度と、絶対にあんな悲劇は起こさせないと誓った。
罪を犯した人間を誰も、神の領域なんぞに逃さない。
逃げずに贖う方法を、真冬が示すのだ。
寒川真冬はそう決意した。
◯
──2022年12月28日水曜日──
もうしばらく原稿に手をつけていない。冬休みの宿題にも。
羅那はそれらの存在をそもそも忘れていた。
頭の中は常に、惨劇でいっぱいだった。
苦しみに歪んだまま固まった乃恵の顔。虚空を見つめる愛維の目。割られた澪の頭。頭部を失った歌巴の身体。
本当にあれが、羅那がずっと一緒にいた友人たちとは思えなかったし、今も、思えない。
あんなことが起こる少し前まで学校で一緒にいたのに、何が起こればあんな死に方をしてこの世からいなくなるのかが分からない。
あまりに受け入れられなくて、涙も流れない。
時折、無性に悲しくなるのだけれど、涙は流れないし、何が悲しいのか自分でも分からない。
乃恵や愛維たちのことを何も知らなかったことが悲しいのか。
救えなかったことか。
分からない。
それでも悲しむ。ただ一人、暗闇で。
全部、自分のせいだ。
呪詛事件の時、あんなことを言わなければ、新城彩華を刺激することはなかったのに。
彩華の警告を無視せずに旧校舎に立ち入らなければ、誰も死ななかったのに。
歌巴の異変を見逃さなかったら、乃恵も愛維も澪も死なずに済んだのに。
生徒会宛に届いたあの殺人を告白する投稿は、きっと、彩華からのものだったのだろう。
だとしたらどうしてあんな手紙を──。
自分の正体に気づいて欲しかったのか。止めて欲しかったのか。
今となっては分からない。
サイトの更新もしていない。何を発信すれば良いのか分からない。
自分はもう、何も言わない方が良い。
そう思った。
羅那は布団の中でうずくまった。
こうしていても、頭の中はあの日のことでいっぱいだ。
慌ただしい足音がした。
母のものではない。
どんどんと激しくドアがノックされる。
「虎谷。入るよー」
ノックから間髪入れずに、羅那の返事も待たずにドアが勢いよく開かれた。
廊下の灯りが暗い部屋に差し込んで、眩しい。
「うわっ。暗っ」
東海来夢が顔を顰めた。
「返事くらい待たないと!」
閑林リクが慌てた様子で部屋に入ってきた。
来夢とリクが何故、自分の部屋にいるのか理解が追いつかなくて、羅那はしばらくぼーっとその様子を見ていた。
これは夢だろうか。
「どうしたの…?」
羅那はとろんとした目で二人を見た。
「どうしたのじゃないし。連絡もろくに返さないなら死んだのかと思ったじゃん」
来夢は不機嫌そうにそう言って、勝手に部屋の明かりをつけた。
「ぼ、僕は一応家に電話を入れてからの方が良いって言ったんだよ?」
リクは何故か、部屋の入り口の辺りで止まったまま身振り手振りをした。
「うるさい」
来夢がリクの横っ腹を突く。リクは飛び上がった。
その様子を見ていて、ようやくこれが現実の光景なのだと受け入れることが出来た。
「ごめん…なんだか携帯見る気にもなれなくて」
羅那は、机の上に放ってあるスマートフォンを見た。
「そりゃあそうだろうし別にいいけどさ。あんた…どうせまた責任感じてんじゃないのかなって心配したんだよ。東院先輩もそう言ってたし」
「先輩も…?」
「うん。あんた東院先輩めっちゃ好きでしょ。生徒会だし。どう?ちょっとは元気出た?」
「うん」
「絶対出てないじゃん」
「いや、そんなこと…」
二人が来てくれたことも、先輩の心配も嬉しいのだけれど、今は顔に出せるほど喜べない。
「無理もないよ…あんなことがあったんだから」
リクは俯いた。
「まぁね…。私たちが掛けられる言葉何もないと思うしそれは分かってたよ。ほらっこれだけでも貰っといて。奢りだから」
来夢はぶら下げていたスーパー袋を羅那のベットに放り投げた。
中には、ミックスジュースやお菓子が入っていた。
「あ。ありがとう…。二人も辛いのに…」
来夢もリクも、亡くなった乃恵とは昔から知り合いだ。
「ここで暗い話はやめよう。今、とある人が来てんの。一階でお母さんと話してたけど…そろそろ来るかな」
来夢は廊下の方を見た。
「え?」
上品な足音が階段を上がってくる。
姿は見えないが、既に香る。
華やかな香りが。
規則正しく気品に溢れた足音は、そのまま部屋に入って来た。
「えっ」
羅那は思わず目を丸くした。
「お久しぶりです」
白金色の長い髪を後ろに撫で付け、真っ赤なブレザーを羽織った高貴な女──"愛染 菊(あいぜんきく)"が羅那を見下ろしていた。
「菊──さんっ?」
羅那はベッドから飛び出し、目をぱちぱちとさせた。
せっかく目が覚めたと思っていたのに、また夢に迷い込んだような感覚だ。
「思ったよりお元気そうでなにより」
菊は高い声でそう言って、ふふと笑った。
「菊さん…でも…この前の大戦で重症だって…」
菊は腹を切り裂かれ、生死を彷徨い、療養中だとそう聞いていた。
「わたくしを誰だと思っておられるのですか。共に…死線を潜り抜けたというのに随分と過小評価されたいるようで残念です」
菊はわざとらしく悲しげな顔をする。
「い、いやそういうわけじゃ…」
「それより羅那さん。どうしてサイトの運営を止めているのです?」
菊は開いたままのノートパソコンを指差した。
「え…いや…それは…。もう私は何も話さない方が良いと思って…。身を引いた方がいいかなって…」
「そうですか。では、戦いから降りるのですね」
菊は残念そうに言って、息を吐いた。
「戦い?」
「ええ。これから…恐らく世界にとって死の時代がやってくるでしょう。いえ…もうやって来ている。退魔師の行動制限はほんの手始めです。退魔師の分断が進み、退魔師の役割も縮小していくでしょう」
死の時代。藤留聖美もそんなことを言っていた。
「その中で…情報と影響力を武器にする貴女が、発信をやめると言うのは、武器を置くということ」
「でも…私は…」
もう、何かを発信する気にはなれない。
自分が何か言うことで誰かが犠牲になる気がする。
「話は聞いています。随分と厄介な相手に一本取られたようですね」
「はぁ…」
一本どころではないような気がする。
「羅那さんは、このまま死者に屈するのですか」
菊は羅那の前に立つ。
「え…」
「貴女を貶めた人は、既に人間ではない。死者と呼んで差し支えないでしょう。このままでは貴女は彼女が望んだ通り…死者に屈した者となる。それで良いのですか」
彩華は、羅那が死者を恐れ、死者の恐ろしさを世界に向けて発信することを望んでいた。
羅那はそれを断った。
そのはずなのに、何も発信しないことでいつの間にか死者に屈しかけていた。
死者となった彩華のような存在がまた現れることを恐れて。
乃恵たちのような死者の怒りを恐れて。
このまま何も発信しなければ、全て彩華の望んだ通りになる。
そんなことでは、乃恵たちの魂はきっと浮かばれない。
「お友達を失ったことはさぞ悔しく悲しいでしょう。ですがもう起きてしまったこと。悔やんでも仕方がありません。死者に囚われ過ぎてはいけない」
菊の瞳が羅那の瞳を真っ直ぐに見据えた。
犠牲者に囚われ過ぎるのではなく、生きて、罪を背負い続けること。
それが、羅那のするべき贖罪のはずだ。
「羅那さんが世界に発した言葉を受け取った一人の人間が羅那さんを負かそうと動いた。それは、彼女が羅那さんを恐れていたから。貴女の力を」
菊は口角を緩ませた。
「力を持つ者には責任と犠牲が伴います。わたくしたちも同じです。羅那さんもようやくそこへ到達したということ。これは辛いことでもありますが…ここまで来た以上は、立ち向かい続ける義務がある」
菊の言葉を聞いていると、気のせいか部屋がさらに明るく眩しくなった気がした。
「貴女の存在に怯えている者はまだまだ大勢いるでしょう。その連中を安心させてはいけません。挑みましょう──共に」
菊の手のひらが差し出される。
大きくて指の長い厚みのある手。
自分にはまだやることがある。
犠牲者のためにも。
未来のためにも。
羅那は、菊の手に静かに自分の手を重ねた。
『シニンノカゲ』
(了)