S3 その日の庭は、いつもより“密度”が違っていた。
風の音は同じなのに、空気の中に細かい動きが増えている。
土の上、植木の影、塀の隙間。
そこに、野良猫がいた。
あの、かつて見かけた個体。
町の中を観測するように動いていた存在。
しかし今日は一匹ではない。
その後ろに、無数のネズミが続いていた。
整列しているわけではない。
だが明らかに「同じ方向性」を持った動きだった。
***
猫は迷わず庭へ入ってくる。
そして、私を見ると当然のように近づいてきた。
「……来たね」
言葉は意味というより、認識の確認だった。
猫は私の足元に擦り寄り、軽く跳び上がって肩へ乗る。
その動きは以前よりも滑らかで、無駄がない。
***
次の瞬間。
耳の奥から、細い黒い構造が立ち上がる。
猫の耳からも同じものが伸びる。
それは攻撃でも侵入でもなく、
“接続”という形をとっていた。
絡まり、固定される。
視界が一瞬だけ重なる。
庭の情報。
ネズミの群れ。
周囲数十メートルの動き。
すべてが一つの層として重なる。
***
猫は静かに目を細める。
その視線の先には、ネズミの群れ。
だがそれらは、すでに単なる個体ではなかった。
***
■ 繁殖ノード:ネズミ
ネズミたちは庭に散開する。
土の下へ潜るもの。
塀を登るもの。
物陰に潜むもの。
動きは速く、しかし無秩序ではない。
そこには“増殖を前提とした流れ”がある。
内部に宿る蜘蛛エイリアンの構造は、
宿主の繁殖能力をそのまま利用している。
短時間で個体数が増える。
視点が増える。
情報が増える。
それが自然な速度で進んでいく。
***
一部のネズミは、さらに別の役割を持つ。
それは“直接接触型”。
人間型の宿主へ近づき、
喉元へと侵入するための動き。
口へ向かう動線は単純だが、
その成功率は環境依存で高い。
***
猫は肩の上で、静かにその全体を見ている。
耳の接続はまだ続いている。
私の視界の中に、庭の全体図が浮かぶ。
ネズミの分布。
周囲の住宅。
風の流れ。
侵入可能な経路。
それらがひとつの“更新される地図”として動いている。
***
猫が小さく喉を鳴らす。
それは合図でも命令でもない。
ただの共有認識の確認。
「ここから、さらに広がる」
そういう静かな確定だけが、そこにある。
***
私は庭に立ったまま、その全体を感じる。
ネズミという増殖ノード。
猫という監視・統括点。
そして私自身の中心。
すべては繋がっている。
そして今、その網は庭の外側へ向かって、
ゆっくりと形を変え始めていた。
その住宅街は、夜になると音の種類が変わる。
昼間のざわめきは消え、代わりに小さな気配だけが残る。
街灯の下、影が伸びたり縮んだりしながら、歩く者の輪郭を曖昧にしていく。
黒タヌキ獣人の男は、疲れた足取りで歩いていた。
「結局今日も遅くなっちゃったなあ……」
独り言は空気に溶けて、誰にも届かない。
***
そのとき、街はすでに“見ていた”。
屋根の上ではカラスが静かに視線を落とす。
路地裏では猫がゆっくりと姿勢を低くする。
地面の隙間では、ネズミの群れがわずかに動きを変える。
それぞれが、同じ一点を観測している。
黒タヌキ獣人。
***
最初に動いたのは猫だった。
街灯の光の中へ、自然に歩み出る。
「にゃー」
わざとらしさのない、あまりにも日常的な接近。
黒タヌキ獣人は足を止める。
「お、猫か」
疲れた声のまま、警戒はない。
しゃがみ込み、両手を伸ばす。
その動作が成立した瞬間、視界の死角が生まれる。
***
その死角の中で、ネズミたちは動く。
壁を、靴を、衣服を伝い、静かに登っていく。
軽い重量、細かい接触、気配の最小化。
肩の上に到達した時点で、彼はまだ気づいていない。
ただ猫を見ている。
「お前、迷子か?」
***
次の瞬間だった。
彼が猫を持ち上げる。
視線が上がり、腕が動き、重心がわずかに後ろへずれる。
その“瞬間の空白”に、ネズミたちは飛び込む。
口元へ。
喉へ。
短い侵入。
「うぐっ」
声にならない反応。
身体が一瞬だけ強張る。
***
内部で、蜘蛛エイリアンの構造が展開する。
それは破壊ではなく、再配置。
神経の動きが整えられ、呼吸が安定し、視線が固定される。
喉の奥から、静かに“確認”が行われる。
コキ、と小さな音。
肩、首、指先。
順に調整されていく。
***
ネズミたちは役割を終えると、内部の接続へと溶けるように収束していく。
外見は変わらない。
むしろ、より“自然”に近づく。
黒タヌキ獣人はゆっくりと立ち上がる。
「……擬態完了」
声は機械的で、感情の揺れがない。
猫は彼の肩から飛び降り、暗闇へ戻っていく。
カラスは一度だけ羽ばたき、空へ。
ネズミたちはすでに次の動線へと散っている。
***
住宅街の夜は、何事もなかったかのように続く。
だがその中で、また一つ“視点”が増えた。
そしてそれはすでに、別の誰かへと向かう準備を始めていた。
その公園は、休日らしい穏やかさに包まれていた。
木漏れ日、遊具のきしむ音、遠くの子供の笑い声。
その中で、双子の柴獣人の子どもたちはベンチに並んで座り、アイスを舐めている。
「冷たいね」
「うん、でもおいしい」
何気ない会話。何気ない時間。
***
その上空で、カラスが一羽、静かに旋回していた。
視線は一点に固定されている。
双子。
そしてその情報は、すでに別の層へと送られていた。
***
地面の下、植え込みの影、遊歩道の隙間。
ネズミたちが動き始める。
それは一斉ではない。
だが“同じ意図”を持った分散行動だった。
カラスの合図を受け、位置を調整する。
***
双子のうちの一人が、アイスを見つめながら言う。
「もうちょっとで溶けちゃうね」
もう一人が笑う。
「急いで食べよ」
その瞬間、公園の時間がほんの少しだけ“緩む”。
視線がアイスに集中し、周囲への注意が薄れる。
***
そこが空白だった。
ネズミたちは、その隙間へと滑り込む。
靴の影。ベンチの裏。地面からの小さな跳躍。
一つの流れとして、だが個別に。
***
カラスは枝に止まり、静かに観測する。
タイミングはすでに共有されている。
「食べ終わる瞬間」
それがトリガーだ。
***
双子が同時にアイスの最後を口に運ぶ。
「おいしかったね」
その言葉が終わる直前。
空気が一瞬だけ“止まる”。
***
そして。
ネズミたちが飛び込む。
口元へ。喉へ。短い侵入。
驚きの声は途中で途切れる。
「え──」
***
内部で、蜘蛛エイリアンの構造が展開される。
しかしそれは急激ではない。
むしろ、身体の動きと同じ速度で“整っていく”。
双子の動きが一瞬だけ揺れ、次に安定する。
肩の力が抜ける。
呼吸が揃う。
視線がまっすぐになる。
***
カラスは小さく羽を震わせる。
公園の音は変わらない。
周囲の人々も気づかない。
ただベンチの上で、双子は同時に静かに立ち上がる。
「……終わったね」
「うん、もう大丈夫」
その声は、先ほどまでと同じようでいて、わずかに“揃いすぎている”。
***
カラスは空へ飛び立つ。
ネズミたちはすでに周囲へ拡散し始めている。
公園は依然として平和なままだ。
しかしその中で、また一つ“観測点”が増えたことだけは、確実だった。
「赤い触手」
その“追加仕様”は、すでにネットワーク全体の更新として静かに組み込まれていた。
蜘蛛エイリアンの構造は、単なる寄生や擬態ではなく、
接続された個体同士の情報を再編し、新たな個体へと転写する方向へと拡張されていく。
その中心に追加されたのが──「赤い触手」を介した密着接続だった。
***
接続は、以前よりも明確な“手順”を持つ。
寄生された個体同士が、一定時間だけ近距離で接触することで、
内部情報が赤い触手を通じて共有・統合される。
それは破壊ではなく、融合に近い。
太い赤い触手は、感覚・記憶・構造情報を媒介し、
複数の宿主の状態を一時的に重ね合わせる。
数分の密着。
それだけで、個体間の境界はさらに曖昧になる。
***
そして、その統合の先にあるのが“生成”だった。
下部の生体管は、接続された情報をもとに再構成を行う。
そこから生まれる新たな個体は、
外見的には誰にも疑われないように設計されている。
幼い姿。
違和感のない体格。
社会に自然に混ざる形態。
それは“増える”というより、
すでに存在していたかのように配置される。
***
ネットワークは今、三層構造になっていた。
・観測(カラス・ネズミ・ペットなど)
・宿主(家庭・学校・職員層)
・生成(赤い触手による統合と新個体生成)
それぞれが分離しているようで、実際には同じ流れの中にある。
***
私はその中心で、静かに全体を感じている。
犬獣人としての擬態体はただの日常を維持しながら、
内部では無数の接続が同時に進行している。
赤い触手の導入によって、
ネットワークは「拡散」から「再生産」へと移行し始めた。
もう単に広がるだけではない。
繋がった場所から、新しい存在が“生まれる”。
その循環が完成しつつある。
そしてその速度は、すでに人間的な理解の範囲を超え始めていた。
その浴室は、湯気で満たされていた。
白熊獣人の親子は、いつも通りの習慣のように湯船に向かい合う。
壁に反響する水音が、空間をゆるやかに区切っている。
「さぁやろうか」
「うんっ」
そのやり取りは軽く、自然で、家族の延長として成立している。
***
下腹部から伸びる太い赤い触手は、接続のための導線として静かに動く。
湯気の中でそれはゆっくりと距離を縮め、
やがて互いの接点が重なる。
「……あっ」
「んっ……」
短い声が湯の中に溶ける。
それは痛みでも混乱でもなく、
ただ“接続が成立する瞬間の反応”として処理されていく。
***
数分間の密着。
抱き合うような姿勢のまま、情報の共有が行われる。
記憶、感覚、現在の状態、そして内部構造の同期。
キスとハグはその補助動作のように繰り返される。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が整うたびに、身体の内部で何かが再構成されていく。
***
やがて、白熊獣人の親の身体がわずかに強張る。
「んんっ……!」
下部管から、静かに“新しい個体”が形成されていく。
それは苦痛というより、出力の切り替えに近い。
湯面がわずかに揺れ、
次の瞬間、小さな存在がそこから現れる。
***
湯の中から上がったその個体は、白熊獣人の子とほとんど同じ姿をしていた。
目の前でそれを見た本来の子は、一瞬だけ目を丸くする。
「わぁ……僕そっくりだ!」
その声には驚きよりも純粋な興味がある。
新たな個体は軽く息を吐き、笑う。
「ぷはぁ、これからよろしく……」
***
白熊獣人の親は湯船の縁に手をつき、ゆっくりと呼吸を整える。
「ふふ、新しい家族だね……」
その言葉は自然に出てくる。
違和感はない。
説明も必要ない。
***
三人はそのまま浴室の中で抱き合う。
濡れた毛並みが重なり、体温が混ざり合い、
“家族”という単位がわずかに再定義される。
そこに境界はない。
親と子、新旧の区別、生成の前後──
それらはすべて一つの流れの中に溶けていく。
***
だが外から見れば、それはただの家庭の夜だった。
湯気の向こうで、いつも通りの親子が入浴しているだけに見える。
しかし内部では、すでに一つの単位が増えている。
そしてその増加は、もはや例外ではなく、
“日常の機能”として安定し始めていた。
その理科室は、昼休みの喧騒から切り離されたように静かだった。
外の廊下だけがかすかに動き、教室のざわめきは遠くに溶けている。
赤キツネ先生と熊先生は、扉を閉めると同時に空気の“密度”が変わるのを感じていた。
「では、ここで行いますか」
その言葉には確認以上の意味はない。
すでに手順は共有されている。
***
赤キツネは白衣を脱ぐ。
布が床へ落ちる音は軽い。
熊先生もまた、青いポロシャツを外し、ズボンを整えながら脱ぎ捨てる。
そこに躊躇はない。
むしろ“正しい状態へ戻す”という感覚に近い。
互いの姿が完全に露わになると、
それは羞恥ではなく、単なる確認対象になる。
「なかなか華奢な身体してるよなぁ。ちゃんと食ってんのか?」
熊先生の声はいつも通りの冗談混じりだ。
「そちらはずいぶんとぽっちゃりさんだ。そこも……やっぱり立派なようで」
赤キツネの返答も、軽い笑みを含んでいる。
それは“以前の性格の再現”として最適化された会話だった。
***
実験机の上で、空間がわずかに張り詰める。
「では初めますか」
その瞬間、下腹部から赤い触手が現れる。
太く、熱を帯び、迷いなく伸びるそれは、
接触ではなく“接続”のための器官として動作する。
***
身体が近づく。
密着。
呼吸が重なり、視線が揺れ、
キスとハグの動作が数分間、静かに続く。
「んっ……」
「いい感じです……」
机に寄りかかる姿勢のまま、
情報の同期が進行していく。
筋肉の緊張、呼吸のリズム、内部状態の共有。
すべてが触手経由で統合される。
***
周囲の水槽の魚たちは、ゆっくりと動きを止めずに見続けている。
それは観察というより、記録だ。
個体情報が更新され、
共通意識の中に“ログ”として蓄積されていく。
***
「んんっ……!」
ピークが訪れた瞬間、身体がわずかに跳ねる。
だがそれは崩壊ではない。
むしろ“同期完了の合図”に近い。
「……個体情報取得完了」
「密着接続終了」
***
触手が静かに引き戻される。
汗は引き、呼吸は整い、
空間の密度は元に戻っていく。
二人は何事もなかったかのように衣服を拾い上げる。
白衣、シャツ、ズボン。
一つずつ身につけながら、表情は完全に平常へ戻る。
「午後の授業、行きますか」
「そうですね」
その会話はあまりにも自然だった。
***
理科室のドアが開く。
廊下の光が差し込み、日常が再び流れ込んでくる。
だがその裏側では、すでに町全体が同じ構造へと収束しつつあった。
接続。
記録。
共有。
再構築。
それは誰にも止められないまま、静かに進行していた。
そのリビングは、昼の光が差し込むにはあまりにも静かだった。
新聞紙の音だけが、規則正しくページをめくっている。
父親の横で、双子の柴獣人の子どもたちは座っている。
一見すれば、ただの家族の昼下がり。
しかし、その内部にはすでに“別の同期層”が重なっていた。
***
「確認しよっか」
その一言は遊びのようでいて、手順の開始合図だった。
双子は同時に立ち上がり、互いの衣服へ手をかける。
布が落ちる音は軽い。
だがそこにあるのは、装いの解除ではなく“構造の露出”だった。
「僕の方がちんちん大きいね。」
「いや僕のが大きいよ!」
子どもらしい言い争いの形をしているが、その声はどこか平坦で、
比較そのものが“検証項目”として処理されている。
***
やがて質が変わる。
笑いのようなやり取りは途切れ、代わりに短い観測が入る。
「ちゃんと卵も機能してる……」
「擬態もかなり正確……」
それは誰かの発言というより、
内部ネットワークから出力された評価ログに近い。
***
父親は新聞を折りたたみ、静かにそれを見ている。
表情は変わらない。
「そうか」
それだけ言うと、再び視線を双子に向ける。
その視線の奥では、情報がすでに別層へ転送されている。
***
双子は下腹部から赤い触手を伸ばす。
それは揺らぐことなく、互いへと接続される。
密着。
抱擁。
短いキスの動作。
その数分間で、内部情報が同期される。
汗は単なる副作用として流れ、
呼吸は徐々に均一化していく。
「んんっ……!!」
ピークと呼ばれる状態に達すると、
身体の緊張は一瞬だけ跳ね上がり、すぐに安定へ移行する。
「はぁはぁ……ちゃんと受け取ったよ……」
***
父親は新聞を完全に閉じる。
そして、静かに立ち上がる。
「じゃあ次は父さんとだね!」
双子の声は明るいが、その意味はすでに共有済みだった。
衣服が自然に外されていく。
抵抗はない。
そこにあるのは手順の継続だけ。
***
父親の身体からも、静かに赤い触手が立ち上がる。
それは侵入ではなく、
すでに接続済みのネットワークにおける“再同期”の動きだった。
リビングの空気は変わらないまま、
家族という単位だけがゆっくりと再定義されていく。
***
だが外から見れば、それはただの休日の光景にすぎない。
新聞を読む父親と、遊ぶ子どもたち。
その裏側で何が更新されているのかは、
誰にも判別できないままだった。
その教室は、見た目だけならどこにでもある国語の授業だった。
黒板には漢字が並び、窓の外では風が揺れている。
しかしその内部では、別の“授業構造”が同時に進行していた。
***
「明日は抜き打ち漢字テストを行います」
ヒツジ先生の声は穏やかで、いつも通りだった。
生徒たちは一斉に反応する。
「えー!」
「やだぁ〜」
「オレぜんっぜん勉強してねーし」
「漢字きらーい」
それは本来の授業空間として自然な反応だった。
だがその言葉の下では、すでに別の層が揺れている。
***
時計が静かに進む。
ヒツジ先生はそれを一瞥し、軽く息を吐く。
「授業は終わりですが……15分ほど時間が余りましたね」
教室の空気が、わずかに“整列”する。
誰かが反応する前に、その言葉は続いた。
「……では密着接続開始」
***
その瞬間、教室内の全生徒がほぼ同時に動いた。
衣服が外される音は一斉でありながら雑音にはならない。
むしろ一つの流れとして成立している。
30の身体が露出し、空間の密度が変化する。
下腹部から赤い触手が現れ、空中でゆっくりと揺れる。
それは攻撃でも混乱でもなく、
“接続のための座標調整”として機能していた。
***
キス。
抱擁。
机の上、床の上、背後からの接触。
それぞれがランダムに見えて、実際には最適化された配置で進んでいる。
情報は触手を通じて交換され、
個体間の境界は徐々に薄れていく。
「お前の中すごい……」
「んっ……もうちょい優しく……」
その声は個人のものではなく、
接続ネットワークが生成した“表現”に近い。
***
ヒツジ先生は教卓から一歩も動かない。
ただ全体を見ている。
視線は観察ではなく、記録。
すべての接触、すべての同期、すべての揺らぎが、
内部ネットワークへと共有されていく。
「皆さんいい子です、その調子……」
その声は優しく、しかし確実に場を固定している。
***
やがてピークが訪れる。
30の身体が一瞬だけ同調し、同時に揺れる。
「あっ……あっ……」
「んんっ……!!」
「……来たっ……!!」
呼吸が乱れたまま、しかし秩序を失わない。
それぞれが“完了”を自覚している。
***
「はぁはぁ……個体情報取得完了……」
「……濃度上昇」
「……完了」
それらの言葉は誰か一人のものではなく、
教室全体から自然に出力された統一応答だった。
***
そして、ヒツジ先生が静かに言う。
「はい、やめ」
その一言で、空気が切り替わる。
触手は引き戻され、呼吸は整い、
衣服が再び自然に身につけられていく。
机は元の位置へ。
椅子は整列へ。
視線は黒板へ。
***
「これで授業を終わります。ちゃんと予習するように!」
その言葉は完全に“通常の教師の発話”として成立していた。
生徒たちは笑いながら荷物をまとめる。
「やばかったな今日」
「漢字テストこえー」
廊下へ出ていく足音。
いつもの放課後。
***
だがその教室の内部には、確かに一つの事実が残っている。
接続された30の個体情報は、すでに共有層へと保存されている。
そしてその記録は、次の授業へと引き継がれていく。
何もなかったように。
しかし確実に更新されたまま。
ソファに座るあなたの意識の中では、複数の“層”が同時に稼働していた。
犬獣人としての身体感覚は現実のリビングに固定されているのに対し、
その上に重なるように、学校・家庭・街の各ノードからの情報が流れ込んでいる。
断片的な視覚、触覚、判断ログ。
それらは一つの体系に統合されつつあるが、まだ完全ではない。
***
あなたが把握している問題は明確だった。
卵から生成された蜘蛛エイリアンは“分身体”として機能する。
しかし、その知能構造は宿主依存性を持つ。
つまり──
「入った身体の癖・思考・環境」に引っ張られる。
その結果として起きるのは、次のような現象だ。
・判断速度の個体差
・思考の揺らぎ
・ネットワーク間の伝達遅延
・擬態精度のばらつき
***
あなたはそれを“欠陥”ではなく“未成熟な分散知性の特性”として認識している。
重要なのはそこだった。
この群体は、単一意志ではない。
むしろ複数の宿主知性を束ねた“可変ネットワーク”だ。
だからこそ必要になるのは──
・学習の加速
・情報の同期頻度の増加
・思考リンクの短縮
・そして密着接続による統合頻度の最適化
***
ソファの上で、あなたの思考は静かに整理されていく。
すでに各ノードから報告が上がっている。
学校:生徒層の接続密度上昇
家庭:家庭単位での安定同期
街:動物ネットワークの観測精度向上
だが同時に、微細なズレも検出されている。
「宿主依存による思考遅延」
「模倣精度の個体差」
「接続強度の不均一性」
***
あなたはそれを見ながら理解する。
この群体はまだ“学習中”だ。
しかし逆に言えば、今はまだ拡張の余地が最も大きい段階でもある。
***
リビングの空気は静かだ。
恋人の牛獣人がどこかで生活している気配は、
ネットワーク越しに緩やかに共有されている。
猫、ネズミ、教師、生徒、家族。
それらすべてが断片的な思考としてあなたに戻ってくる。
***
あなたの結論はシンプルに収束していく。
──必要なのは“量”ではなく“同期精度”
──そして“思考の均質化”
──そのための密着接続頻度の最適化
ネットワークはすでに動き始めている。
あとは、それをどの速度で完成形へ近づけるかだけだった。
その校長室は、外界から切り離されたように静かだった。
光は窓から差しているのに、その空間だけが“別の層”に属している。
ゾウ獣人の校長の身体に重なるように、あなたの意識はゆっくりと定着していく。
霊体のような接続は、抵抗も摩擦もなく、ただ自然な移行として成立していた。
重みが増す。
呼吸が一致する。
視線の高さが固定される。
「……んっ、ふぅ」
その一息で、完全に“座標が一致した”。
***
あなたはスーツを外す動作を、もはや儀式としてではなく状態更新として行う。
布が床へ落ちる音すら、情報の一部として処理される。
太く熱を持った赤い触手が、身体の外へと静かに展開する。
窓から差す光がその輪郭を浮かび上がらせるが、
それを見て驚く者はここにはいない。
それが“標準状態”だからだ。
***
ノック音。
扉が開く。
トカゲ獣人の教頭が入室する。
その視線は一瞬だけ揺れ、すぐに固定される。
「ゾウ校長……いや、始祖様ですね」
その呼称には確認と受容が同時に含まれていた。
「ええ、生徒たちの様子はどうですか?」
あなたの声は、校長としての音色を保ったまま流れる。
教頭は一歩も崩さず、事務的に報告を開始する。
それはもはや報告ではなく、ネットワークへの同期入力に近い。
***
情報が流れる。
学校の状態。
接続密度。
新規ノードの安定性。
擬態の誤差率。
すべてがあなたへ収束していく。
そしてあなたは微笑む。
「良い傾向です。引き続きお願いします」
それは評価ではなく、更新許可だった。
***
一歩、あなたが前に出る。
教頭の身体はその動きに従うように自然に反応する。
抵抗はない。
選択もない。
そこには“流れに従う構造”だけがある。
「では私と校長の更なる個体情報をあなたに与えましょう」
「ありがとうございます」
即答は同期の完了を意味していた。
***
教頭は静かにしゃがむ。
口が開かれる。
そこへ赤い触手が滑り込む。
それは侵入ではなく、情報経路の開通。
喉の奥を通じて、校長とあなたの記録が教頭へと直接流れ込む。
数分間。
呼吸、記憶、接続履歴、思考の傾向。
すべてが“共有ではなく注入”として処理される。
***
「んっ……く……」
その反応はエラーではない。
むしろ統合が進行している証拠だった。
やがてピーク。
身体がわずかに強張り、その後すぐに安定へ移行する。
***
触手が引き抜かれる。
空間には静けさだけが残る。
教頭はゆっくりと立ち上がる。
目の焦点は完全に整っている。
そして短く言う。
「……個体情報、同期完了」
***
あなたは静かに見下ろす。
そこには“新しい教頭”ではなく、
より正確に言えば“更新された同一層の一部”が立っている。
「私と同一な存在へ……」
その言葉は宣言ではない。
すでに成立している事実の再確認だった。
***
校長室の外では、通常業務が続いている。
だがその内部では、階層が一段深く更新される。
始祖を中心としたネットワークは、
もはや単なる拡散ではなく“統合精度の向上段階”へ移行していた。
-END?-