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アパートに戻ってきたイムレとナシラは、買ってきた食材を粗末なテーブルの上に並べた。
通りの喧騒を離れ、静かな室内に戻ったナシラは、ほっと息をついた。
買い物袋から買ってきた果物や野菜を取り出し、そっと並べていく。
横に立つイムレが、テーブルの上に置かれたタマアを手に取って、微笑んだ。
「今日の買い物、よく頑張ったわね。特に交渉は上出来だったわ。まるで本物のパナパウの子みたいだった」
ナシラは照れくさそうに目を伏せた。
頬がほんの少しだけ赤らんでいた。
初めての外出で感じた緊張や恥ずかしさが頭をよぎり、思わず小さなため息が漏れた。
一方でナシラは、今の姿が何の疑問も不審も持たれることなく外の人たちに受け入れられたということに対する奇妙な感覚も覚えていた。
それは達成感にも似ており、ナシラに愉悦を感じさせるものであった。
「……でも、警官を見たときは、すごく怖かった」
ナシラはぽつりと呟いた。
呟きを耳にしたイムレは少し思案するように首を傾げ、それから合点がいったようであった。
「ああ、そうね。あなた、身分証……パナパウ人としての在留許可証なんか持っていないものね」
イムレは小声でつぶやいた後、不安そうな表情のナシラに微笑みかけた。
「でも、あなたみたいなかわいらしい女の子が疑われるなんて、まずありえないわよ。だって、どこにも不審な点がないもの。安心して、心配いらないよ」
そう言ったあと、イムレは肩をすくめ、冗談めかした調子で続けた。
「ただ、まあ……ログレス人のくせにパナパウ人になりたがる変な子だなんて知られちゃったら、連れていかれちゃうかもしれないけどね!」
ナシラは驚いたような表情に変わり、それから思わず笑みをこぼした。
イムレの冗談が、心の緊張をほぐしてくれるような気がした。
「……ありがとう、イムレ」
ナシラははにかんで少し横を向くと、小さな声でお礼の言葉を述べた。
イムレはテーブルに並べた食材を点検し終えると、ナシラに声をかけた。
「さあ、それじゃあいつものように、食事の支度を手伝ってもらおうかな」
ナシラは軽く頷き、エプロンを手に取ると手早く身につけて準備を整えた。
流し台の横で鍋に湯を沸かし、イムレと並んで食材を切ったり煮込んだりしながら、今日の出来事を心の中で反芻する。
人々の視線を浴びながら雑踏を歩き、慣れない買い物や交渉をこなし、見知らぬ人たちを前にパナパウ人の少女としての振る舞いをうまくやりおおせたということが、どこか自分を満たしているように感じられた。
さじで鍋の中をかき混ぜながら、イムレがさりげなく話しかけてきた。
「ナシラ、今日の経験はどうだった?もう外を出歩くのだって、怖くないでしょ?」
ナシラは少し考え込んでから答えた。
「まだ、ちょっと怖いけど……でも、なんだか自信が持てた気がする」
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日が過ぎるごとに、ナシラは少しずつこの新しい生活に馴染んでいった。
毎日のようにイムレと一緒に街に出て買い物をし、アパートメントでは掃除や洗濯、料理といった日常のことをこなす中で、見た目通りのパナパウ人の少女として振る舞うことに慣れていった。
街を歩くと向けられる人々の視線も気にならなくなり、むしろ自分がかわいらしい少女として注目を浴びているということに、ナシラは誇らしさのような感覚すら覚え始めていた。
片言のログレス語で店主たちに話しかけるときも、自然なパナパウ訛りで会話できるようになり、ぎこちなさは少しずつ無くなっていった。
顔なじみになった店主たちからも、いつものお嬢ちゃん、と親しみを込めて接されるようになり、値引き交渉も特別な体験から日常の一部へと変わりつつあった。
そんな街での自然な様子をときおりイムレに褒められると、ナシラとしての自分が認められたことへの嬉しさが湧き上がり、その度に小さな達成感が積みあがっていく。
街中で警官を見かけるとまだ少し緊張はするものの、イムレのかけてくれた言葉を思い出しながらごく自然体でやりすごすことができるようになった。
ナシラは街での生活に確かな足取りを感じ始めていた。
それだけではなく、見た目や振る舞いがナシラそのものになっていくにつれ、心の中でも自分がナシラであることが少しずつ自然に感じられるように思えた。
そしてパナパウ語の習得も少しずつ進んでいた。
イムレの指導を受けながら毎日少しずつ語彙を増やしていき、言葉の発音やリズムにも慣れていった。
ナシラが言葉に慣れ始めると、イムレは日々の生活での何気ない会話に、パナパウ語を織り交ぜるようになった。
そうやってナシラは生きた用法で言葉を習得していくとともに、練習を繰り返すことによって言葉のイントネーションや微妙な言い回しも身につけていった。
ある程度上達したとみると、イムレはナシラとの会話ではログレス語の使用を禁じた。
ナシラはいやでもパナパウ語だけで会話を成り立たせなくてはならず、結果としてめきめきと会話の能力を向上させていった。
日常の会話がきちんと成り立つようになっていくにつれ、パナパウ語で話すことへの抵抗も無くなっていった。
いまや、パナパウ出身の人間がナシラを見ても、その姿は生粋のパナパウ人として通用するに違いない。
明るい褐色の肌は、暖かみのある色合いをしており、明るい場所で光を受けるとほのかに艶めくような質感と若々しい滑らかさを持っている。
その漆黒の瞳はほんのわずかに琥珀の輝きを持ち、艶やかな長い黒髪と相まって見る者を惹きつけるような深い魅力を醸し出している。
少女らしい丸みを帯びた細い体からほのかに漂う南洋の甘やかでほのかな花の香りは、近くにいる人々を陶酔させてしまうようなものであった。
そして身に着けている鮮やかな色合いのパナパウの模様が刺繍された素朴なワンピースやアクセサリーが、その初々しい可憐さを引き立てている。
見た目の上では、ナシラがパナパウ人のかわいらしい少女であるということに疑問を持つ人は誰もいないだろう。
もちろん見た目だけではない。
振る舞いや仕草もイムレの指導の下、その姿に沿った自然なものに変わっている。
パナパウの少女らしい控えめで柔らかな振る舞いだ。
そしてパナパウの言葉も、若干の拙さはあるにしても、ごく自然に日常会話をこなせるまでに達している。
今のナシラが話すパナパウ訛りの片言のログレス語と比べれば、ナシラがログレス人だとはとても信じられない話である。
イムレと過ごすローダンでの生活のほんのわずかの間に、ナシラは見た目だけではなく、振る舞いや言葉、そして少しずつ心までもが南洋の小国パナパウから来た、純真な少女ナシラという存在に、完全に変貌しつつあった。
(つづく)