「あら、あそこなんていいんじゃないかしら?」
8月の夜。コンクリートに染み込んでいた熱気と湿気が滲み出てくる時刻。日が暮れても暑気が残る街中を、俺とご主人様は並んで歩いていた。並んで、と言っても俺がご主人様の後ろを歩く形でだが。「犬の散歩よ」と言ったご主人様に連れ出されていたのだ。
その途中でご主人様は一軒のドーナッツショップを指さし、休憩を提案してきた。
「ああいうところ、入ったことがないのよ。ねぇ、貴方は?」
「最近はすっかり。子どもの頃は好んでいましたが……」
「あら、なぁに? 私が子どもって言いたいのかしら?」
黒く、艶やかな髪を腰まで伸ばしたままにさせている彼女が俺の方を振り返って問いかけてくる。真っ黒なワンピースに身を包み、赤いサンダルを履いた様子はまさに少女そのもの。
だが、満月を思わせる金色の瞳と残月の光よりも青白い肌は人間のそれではなく、見る人が見れば彼女が人外の存在であることを察することができるだろう。
彼女が俺のご主人様。人狼の番犬を従えた吸血種だった。
そんな彼女に「子どものよう」と言えばお仕置きされるのは目に見えているので、「いえ」と断ってから「それより……」話題を変える。
「お腹が空いたんですか?」
「そうね。この季節は暑いし日の出ている時間が長いものだから、寝ているだけでよくお腹が空くのよ」
ヴァンパイアとサキュバスのハーフであるご主人様は、日光を浴びれば簡単に灰になってしまう。そのため、日中は完全に遮光した部屋の中で眠っているのだが、この時期は日の出ている時間が長いせいで睡眠時間も伸ばさざるを得ない。その上、暑さによって眠っている最中ですら体力で消耗してしまって空腹になるのだろう。
「そういうわけで、エスコートをお願いできるかしら? 世間知らずな子どもの私と違って、貴方は幼い頃から慣れているようだしね?」
意地悪く笑ったご主人様が、わざと恭しく俺に手を求めてくる。華奢な指を揃えた小さな手を握りながら、俺は彼女の上機嫌ぶりにまた何か悪戯をされるのだろうな……と内心苦笑するしかなかった。
「さて、どれにしますか?」
トレーとトングを持ち、様々なドーナツが陳列されたガラスケースの前に立つ。店内にはバターと砂糖の甘い香りと油の芳しい匂い、それからコーヒーの香ばしい薫りが調和を持って漂っており、なんとなく気分が高揚する。
「ねえ、ここに並んでいるものってどれも選んでいいものなの?」
気分が高揚しているのは俺だけでなくご主人様も同じなようで、ガラスケースに乗り出してドーナツを物色する様子はまさにあどけない少女そのもの。普段は畏怖さえ感じるほどの美しさと全身に纏う気品とで隠れてしまいがちだが、こうして見ると外見は小学生の女の子にしか見えない。
それでもガラスケースに姿が映らないところに、彼女がヴァンパイアである証が表れている。大丈夫だろうとは思いつつも、その異変を他の客の目に見つけられてしまわないように、俺は彼女の真後ろに立つ。
「そうですね。選び放題です」
「選び放題? 素敵な言葉ね♡ 全部でもいいのかしら?」
「俺のお金は使い放題ではないです」
とはいえ、ご主人様が望むならそれを叶えるに足る程度の貯金はある。ヴァンパイアハンターとして教会に所属し、人間に紛れて人間を食らう吸血鬼を殺しているうちに預金が溜まっていったのだ。使い道は特にないので、ご主人様の戯れに使ってしまっても問題はない。
そんなことを考えているうちに、ご主人様が「取ってもらっていいかしら?」と声をかけてきた。
「そのチョコレートのと、あっちのと……。そっちのピンクのは何かしら?」
「苺チョコか苺クリームですね」
「じゃあそれも取ってくれる? あと……」
ご主人様に言われた通り、次から次へとトレーにドーナツを乗せていく。
「さて、食べましょうか」
「はい……」
結果、テーブルの上には皿が2つ。ドーナツはそれこそ10は下らない量がこんもりと重なっていた。
チョコレートとスプレーのかかったものや苺チョコの塗られたもの、生地にチョコが練られているのか全体が黒いもの。それからプレーンのものに、砂糖がかかったもの。etcetc……と色とりどりのラインナップ。ご主人様が「取って♡」と言ったものを片っ端から取った結果だった。
(よく食べられるなぁ……)
小さな山を作っているドーナツを前に、そんなことを思う。ご主人様は身体こそ小さいが、意外と健啖家なのかもしれない。いや、普段の様子を見ていると決してそんなことはないので、甘いものは別腹なのかもしれない。
「なぁに? 食べないの?」
「いえ、食べますが……」
目の前のドーナツの量に圧倒されている俺を尻目に、ご主人様はドーナツを手に取って小さな口で食べ始める。ちょこ、ちょこ、と食べる様子はあどけなく、可愛らしい。
そんな彼女につられて、俺も自分の分を食べ始める。ずっしりざくざくとしたプレーンのドーナツと、フランクフルトのパイ。それからアイスコーヒー。ご主人様の選んだものと比較すると地味な色どりだが、幼い頃によく食べていた好物だ。
「一口貰っても?」
「ええ、もちろん」
俺が手に取ったフランクフルトパイを見てそう言ったご主人様の口元に運んでやる。サク、と音を立ててパイを一口食べたご主人様は「美味しい。ありがとね」とはにかんだ。その笑みが、本当にあどけない少女の笑顔そのもので思わずドキッとしてしまう。
それを隠すように、わざと食事に集中するのだった。
「それにしても、よく食べますね」
俺が自分のドーナツを食べている間に、ご主人様は全てのドーナツを一口だけずつ食べていた。どれもお気に召したようで、「へぇ、苺のチョコレートって美味しいのね」だとか「あら、このチョコのいいわね」だとか、毎回毎回口に出していた。
「あら? 貴方が食べるんでしょう?」
「えっ!?」
まさかの返答に、驚いて大きな声を出してしまう。しかし、ご主人様は全く気にも留めず、「私、もう満足したわよ」と言い出す。
「持ち帰りますか?」
「いいえ。それより私、貴方で遊びたいの♡」
そう言った瞬間、ご主人様の目が妖しく輝いたように見えた。いたずらやお仕置きをする時の、あの目だ。
「はい♡ あ~ん♡」
「あ、あ~ん……」
ご主人様が、一口だけ食べたドーナツを俺の口元に運んでくる。それだけなら嬉しいだけで済むのだが、いかんせんペースが速い。というかほとんど俺の口にドーナツを詰め込む勢いで食べさせてくるせいで余裕がない。飲み物をおかわりしたいが、それを申し出られないほど口の中がいっぱいなのだ。
「あら、そんなに急いだら喉に詰まるわよ? ほら♡」
急いで食べさせているのは貴方なのですが……という言葉を、ドーナツと共に呑み込む。ドーナツだけでなくストローも口に運んできて、自分のアイスティーを飲ませてくれたご主人様の優しさへの感謝として。
しかし、俺が気になっているのはそれだけではなかった。
「周りの人の目が……」
「まあ、私のせいでしょうね。どうせ〝私〟は見えていないのだから気にする必要はないでしょう?」
ご主人様は、俺以外の人の目には〝最も理想とする女性の姿〟に映る。そのせいで人目を集めてしまうのだ。加えて、見た者を魅了する力も有している。恐らく、今店内にいる人間は俺を含めて全員がご主人様に恋をしていることだろう。
「いちいち気にしていたらキリがないし、私は貴方のご主人様なんだから貴方も気にする必要はないのよ」
周りからの熱っぽい視線も意に介さず、ご主人様はドーナツを「あ~ん♡」と言って次から次へと俺の口へと運んでくる。周りの人の目には、自分の理想となる女性が俺と仲睦まじくしている様子が見えていることだろう。
皆は、ご主人様をどんな姿で見ているのだろうか。金髪碧眼の西洋美少女のように? グラマラスな大人の女性のように? それとも、かつての恋人の姿に? もしかしたら、女優やアイドルの誰かの姿に見えているのかもしれない。
だが、どんな姿に見えていようとも俺が一番ご主人様を美しく見えていることに変わりはなかった。
黒く、艶やかな髪。まっすぐ伸びた髪の毛は一本一本が細くしなやかで、絹のように柔らかで滑らかな触り心地。代々日光を一度も浴びたことがないために髪の黒は夜空より深く、肌の白は新雪よりも儚い。俺を見つめる瞳は眩い金色の満月で、眦に向かって弧を描いた猫目は、常に悪戯っぽい笑みを見せる。
そんな、世界で一番綺麗で可愛くて美しくて魅力的な姿を、俺だけが独占できているのは少し嬉しかった。
「ねえ、貴方の目には私はどんな姿に見えているの?」
不意に、ご主人様がそんなことを問いかけてくる。ドーナツを俺の口に詰め込みながらだから返答できないのだが……。
(聞きなさい、ということかな)
俺が思った通り、ご主人様はつらつらと言葉を続けていく。
「私、自分の姿って見たことないのよ。吸血種だから当たり前だけど」
ヴァンパイアは、鏡にもガラスにも水面にも映らない。そのため、自分で自分の姿を見ることは叶わないのだ。しかも、ご主人様は他の人の目にも正しい姿では映らない。
「誰にどんな風に見えていても興味ないの。どうせみんな、私ではなくて誰かの姿を私に映して見ているだけだもの」
つまらなそうに、ご主人様が言う。自嘲も皮肉も含まれていない、純粋な退屈だけが表れている声だった。
「でも、貴方にはどう見えているのか気になるの♡」
その問いかけとちょうど俺がドーナツを呑み込むタイミングが合い、返答を求められていることを理解する。
「真実の姿を見ているから……?」
「半分ハズレ♡ 特別な相手の目に私は可愛く映っているのか気になるだけよ♡」
意地悪く、でも上機嫌そうに笑うご主人様。その言葉に、俺はドキドキさせられてしまう。
「か、可愛いです……」
「ふぅん? それだけ?」
顔を赤くして答えるも、それだけでは足りないようでご主人様は追加の言葉を求めてくる。
「えぇっと……」
「うぅ~ん? ご主人様にせっかく誉め言葉を言えるチャンスをもらったのに、無駄にするつもりなのかしら? それとも、私って可愛いだけの女の子なのかしら?」
目を細め、口角を上げてニヤニヤと意地悪く笑いながらご主人様が問い詰めてくる。俺が困っている様子を見て心から楽しんでいるのだ。
「ほぉら♡ 答えて♡」
そう言いながらもご主人様は俺の口にドーナツを入れてくる。返答を考える時間をくれているのだろう。と好意的に解釈をした。
(可愛い以外に、どんな風に……)
もそもそと咀嚼を続けながら、頭の中でこね回す。ただ外見の情報を並べ立てても意味はないだろう。でも、可愛くて綺麗であどけなくて、そんなありきたりな言葉しか出てこない。そんな言葉で表現しきれるはずもないのに。
「ねえ、私、今夜は少しお洒落してみたの。このワンピースもサンダルも、新しく買ったものなのよ」
知っている。どちらも、以前夜の散歩をした際に一緒に買ったものだ。裾が細く直線的なシルエットの黒いワンピースも、厚底の赤いストラップサンダルもよく似合っており、ご主人様の愛らしさを際立てている。
「でもね、他の人には関係ないの。みんな、〝自分が理想とする誰か〟が服を着ているようにしか見えないの」
つまらなそうな声色でそう言い、ご主人様は言葉を続ける。
「そして私も、服を着た自分の姿を見ることはできない。服を見ることはできてもね」
自嘲気味に溜息を吐いて、ご主人様がそう言った。
「ねえ、私、誰に見てほしくてお洒落をしているのだと思う? この服を着た私を、私は誰に見られたいと思っているのだと思う?」
「お、俺に……」
「そうよ。私、貴方に可愛く見てほしくてお洒落をしたの♡」
「ねえ、どうかしら? 貴方の言葉で、聞かせて♡」
そこまで言われてようやく、俺はご主人様が何を言ってほしいのかをやっと理解する。同時に、ここまで気づかなかった自分に嫌気がさす。
「その服、可愛いです」
「まだ不正解♡」
「ええっ!?」
まさかこれでも足りないとは思わず、ご主人様の言葉に驚いてしまう。
それから、もう一度頭をひねって考えなおして言葉を紡ぐ。
「よくお似合いです」
「だぁめ♡ まだ足りないわ♡」
これでもまだ足りない。俺はもうわからなくなり、思ったことを全部口に出す。
「新しい服も、その服を着ていつもより可愛いご主人様も、大好きです!」
言った瞬間、顔が熱くなっていくのを感じる。周囲の人の目が俺にも注がれるのを感じた。
「はい正解♡ 私に好きって言わせてもらえてよかったわね♡」
満足そうに笑ったご主人様が、最後のドーナツを俺の口に押し込んでからアイスティーのストローを咥えさせてくる。
「さ、食べ終えたし帰りましょうか♡ やることもできたしね」
「やること?」
何か用事でもあるのだろうか? と思って尋ねると、ご主人様は今夜1番の笑顔を見せて答えた。
「ええ♡ 帰って駄犬のお仕置きをするの♡ とっても大事な用事でしょう?」
その言葉に、俺は「はい……」と答えるしかなかったのだった。