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大事な話があるから、この日は空けておいてくれ。
父からそう通達されたのは、ちょうど真綾も特に予定の無い週末のことだった。
親子二人、何を今更改まることがあるのかと訝しむと、隣家の白井家にも関係あることだからという父の返答に真綾は表情を明るく変えた。
当日は彼らも参加することになると聞けば、猶更真綾が希望を抱くのも無理も無い事であっただろう。
とうとう、父も決心したのだ。
父さえ心を決めて菜穂にプロポーズをしてくれれば、菜穂がそれを受け入れる可能性は小さくはないだろう。
まだまだ子供の自分ではあるが、同じ女性として真綾はそう直感していた。
そうでなければ、誰が信頼も何もない相手に自分の息子を預けて旅行にまで行かせるものか。
全ては、父の意向次第だったのだ。少なくとも、真綾の中では。
もしこの4人で家族になれるのであれば真綾としてはこれ以上望む事は無かった。
父にとって、それが菜穂の夫になるためでも、悠太の父になるためでもどちらでも構わない。
どちらの立場も、父の甲斐性があれば全う出来るはずだ。
きっかけも動機も、この際なんでもいい。
真綾は菜穂と悠太と、この家で本当の家族になりたかった。
指定された日。
昼間に家のダイニングテーブルに四人が揃う。
こんな時間帯に両の家族が揃うのは滅多に無いことであった。
白井家の母子がこの家で食事を摂ったり、団欒の時間を過ごすというのはもはや日常茶飯事であるというのに。
「今日は時間を作ってくれて、どうもありがとう。真綾。菜穂さん。」
いつになく畏まった調子の父。
だが、礼を言うならば自分と悠太に対してだろうと思った時には、真綾は既に違和感に気が付いていた。
なぜ、自分と悠太、父と菜穂ではなく、父と悠太が自分達女性陣と向かい合わせに座っているのだろう。
ごくごく自然に、寄り添うように座っている目の前の二人にいよいよ何かを言ってやろうかという段になって、父はそんな真綾を上から押さえつけるように語り始めた。
「俺…いや、私、稲葉耕助は、白井悠太君を、私の妻として我が家に迎えたいと思っています。」
父の口から神妙に発せられたそれは、言語として真綾の耳に入ってくることは出来ても、その内容をそのままの意味で受け止めることは、真綾の頭では出来かねるものだった。
「菜穂さんを私の妻に」、ということならば真綾は全面的に受け入れることは出来た。当然だが。
それを父は、気でも触れたにしてはやけにはっきりと『白井悠太君を』と口にした。
そう言ったその手で、隣に座る悠太の華奢な腰を抱き寄せると悠太はむず痒そうに俯いて、母や姉に対して照れ照れと俯いたまま視線を合わせようとしない。
悠太のその様子から、父の言葉が何の言い間違いでも何でもないそのままの意味で発言されたものだと嫌でも呑み込まざるを得なくなる。
「な、なに……なっ…ちょっと待ってよ!!!何なの?こないだから!!!!!何言ってんのお父さん!!!!!!」
確かに父のこの最近の悠太への構い方や愛情の注ぎ方には異様なものを感じていたが、それがこんな形で暴走するとは思いもよらなかった。
尊敬する父は常識も良識も備えているはずだ。
男同士で、とか小学生を相手に、とかそんなこといちいち取り上げて指摘するのも馬鹿らしい。
何かの冗談かエイプリルフールか、そんな想定をするしかこの状況を真綾が理解することは出来なかった。
「悠太!!!お父さんのこんな変な冗談に付き合うことないよ!?こっちおいで!!!」
真綾はそう言って手招きするも、父に肩を抱かれたままの悠太は、ほっぺを赤く染めたままううん、と小さく首を振った。
「冗談、じゃ、ないよー………おれ、おじちゃん…のこと、その……あいしてる……んだもん。」
悠太の言葉に、真綾は愕然とその表情を凝視した。
それはついこの間まで、お互いの父と母の結婚を望み、共に語り合った少年のそれではなかった。
悠太のその言葉に耕助はみるみる鼻の下を伸ばしていく。
「………その『おじちゃん』はもう卒業してほしいなあ。これからは耕助さん、て呼んでくれるか?」
「う、うん、耕助さん……。」
目の前で睦みあう男子2人に、自分よりもむしろ菜穂の事を案じてハッと隣を見やると、菜穂はどういうわけか自然な、むしろどこか泰然とした表情で目の前の光景を受け入れていた。
「菜穂さん…っ…お父さんと悠太の悪い冗談ですから!!忙しいのに、こんなことで菜穂さんを呼びつけるなんてサイテ………。」
真綾は目尻に涙を滲ませながら、菜穂に縋りかけた。
父のこんな茶番でこれまで4人で築き上げてきた絆が壊されてしまうなんて、真綾には正気では耐えられない。
けれど、どういうわけか菜穂は動じるどころかむしろ安らかな表情で真綾の事を見据えていた。
「真綾ちゃん、私なら大丈夫。私はちゃんと受け入れてるから、あとは真綾ちゃんの気持ちなのよ。」
いつもなら暖かくて落ち着く菜穂の声であったが、そこから発せられた言葉は決して真綾の気を静めるものではなかった。
本来なら自分以上に取り乱しても不思議ではない菜穂のその妙に達観した態度は一体何事か。
むしろ、まるで自分の方を言い聞かせようとするかのようなその態度に、真綾はまるで自分の常識の及ばない異世界に放り込まれたような気さえした。
動揺を収めきれない真綾に、父は少し気後れしたように苦笑しつつ続けた。
「菜穂さんには事前にお父さん達の意向を話していたからね。でも。真綾はまだこういう話にはセンシティブな年頃だから、と3人で機会を伺ってたんだ。」
流石にもう隠しきれなくなってきたしな、と照れ笑いを浮かべる父。
非常識かつ非倫理的な内容を、かつてと変わらない良識のある大人の口ぶりで話し出すその顔は、正に慣れ親しんだ父親のものでありながら、全く知らない別人のように真綾には見えていた。
自分の知らないところでそんな忖度が働いて、それを菜穂が受け入れていたとは。
百歩以上果てしなく譲って、小学生の息子を中年男の嫁にという選択が個人であり得たとしても、社会がそれを受け入れないだろう。
「勿論、今の日本の制度じゃ男同士で結婚は出来ないから、ゆくゆくは俺と悠太で養子縁組ということになるかな。」
「おれ、かわいい奥さんになる………。」
むずむずと今の今まで落ち着かなくしていた悠太がそう言うと、父はそんな悠太を抱き寄せて「今のままで十分だよ」と、その頭を掻き撫でていた。
真綾はそんな光景に眩暈を起こしていた。
このまま気絶でもしてしまえればどんなに楽だったか。
けれど、人間はそんな簡単に気絶などしない。
何より菜穂に申し訳が立たない。
自分達親子と関わったばかりに可愛い息子がこんな訳の分からない状況に。
真綾自身はそこに罪悪感を感じていたが、菜穂は変わらず穏やかな表情をしていた。
「悠太。稲葉さんのお宅にご迷惑かけないように、耕助さんの言う事を聞いて、ちゃんとしないとだめよ。」
決して、この状況を心から喜んでいるようには見えなかった。
けれどどういうわけか菜穂は真綾よりもずっと今の事態に順応していた。
ともすればこの場で2人を祝福しない自分の方が、まるで融通の利かない悪人かのように錯覚してしまいそうになる。
仮にも小児科医の父が、まだ小学生の男児を相手に求愛し、自分の嫁に迎えようとしている。
簡単な字面だけでも、それが娘としても社会的にも決して容認されるものではないとわかっているのに。
ならば警察にでも通報するか。
そんな選択が取れるわけもない。
今の自分の生活を自分自身の手で崩すだけではない。愛する父を自らの手で犯罪者にする事になる。
菜穂や、悠太にももう二度と会うことが出来なくなるだろう。
善とか悪とか、そんな単純な理由で賛成することも反対する事も出来ない。
この期に及んで、今のこの状況が自分に仕掛けられた冗談なのではないかという疑念は強く残っていた。
3人で、「冗談でした」と自分に笑いかけて、クラッカーでも鳴らしてくれるのではないか。
それを期待して黙っている間も、3人は真綾の言葉をただじっくりと待って、伺っている。
しばしの沈黙の後、真綾は目の前の2人の選択を肯定する言葉を口にした。
そうすることで、むしろ3人からこの状況が冗談であると暴露してもらえると信じて。
けれど真綾の答えに、3人は表情を綻ばせることはしても、決してこれまでの自分達の発言を撤回することは無かった。
「そうか。嬉しいよ。菜穂さんの言った通り、あとはお前の気持ちだけだったからな。」
清々しささえ滲ませる父の表情は、既に隣の悠太しか視界に入れてはおらず、それは悠太も同様の様子だった。
今にもハグかキスでもしそうなその手を動かさないのは、すぐ目の前に菜穂がいるからだろうか。
そんな父の様子を伺いながら、自分でもどうしてもっと取り乱さないのかが不思議であった。
本当なら女子の身で父を殴りつけてでも取り押さえなければいけない状況とも考えられるのに。
隣で長閑に父と悠太のやり取りを見ている菜穂も、どこか心を殺した瞳でいるのが真綾にも察することが出来た。
今日から稲葉家と白井家の4人は、家族になる。
それは真綾がかねてから望んでいたことではありながら、決して望むべくもない形で実現する事となった。
───
結婚式は正式には行えないことから、また4人で時間を作って、どこかちょっと高級なレストランで会食でもという話で纏まった。
例の告白の日から、1週間ほど経った休日。
その日は菜穂も休みを取って、町中の高級な中華料理屋で息子の結婚式に参加することになった。
結婚式と言っても、披露宴やスピーチがあるわけでもない。ほぼ只の会食である。
いつものように仲の良い4人で食事をし、歓談するだけの時間であった。
それでも途中で指輪の交換をする時間を取った。
耕助からの給料三か月分の指輪は、とっても大きなダイヤのはまったシルバーのリング。
けれど、それはまだ悠太の親指になんとかはまる、大人向けのサイズのものだ。
一方で、悠太からは菜穂に教えてもらって一生懸命毎日少しずつ時間をかけて作ったという、ビーズの指輪が送られた。
お互いにお互いの指にそれらのリングを嵌めてあげると、真綾と、菜穂の、2人の前で耕助と悠太は深く深く唇をくっつけた。
熱々な結婚式を終え、揃って同じマンションに帰る。
けれど、新居である稲葉家に戻るのは耕助と、新妻である悠太だけであって、真綾は滅多に足を運ばない白井家の部屋に菜穂と共にお邪魔する事となった。
それは全て、新婚である耕助と悠太の夫婦の為の菜穂からの粋な配慮である。
家に戻ると、菜穂が砂糖たっぷりのミルクティを入れてくれた。
それをありがたく受け取りながら、真綾は今もずっと抱え続けていた申し訳ない気持ちと共に、菜穂に頭を下げた。
「なんか、お父さんが、本当にごめんなさい。私も、お父さんが悠太とあんな行動に出るなんて、全然、分からなくて………。」
話しながら思わずまた涙が滲みそうだったが、菜穂の方は小さく首を横に振っていた。
「そんな気にしなくていいのよ。私はむしろ、気持ちが楽になったんだから。これで、悠太の将来は大丈夫って。」
菜穂の言葉に思わず納得しかけて、それでも奇妙な引っ掛かりを覚えた真綾はその先の言葉を伺わずにはいられなかった。
「うちね、真綾ちゃんも知ってるかわからないけど、夫…悠太の父親が8年前に交通事故で亡くなって、その賠償金と、私のパートで賄ってるの。」
悠太の父親が、自分の母と同じく不慮の事故で亡くなったという話はどこかで聞いたことはあった。けれど、白井家の懐事情まで詳しく知っているわけではなかった。
「たとえば悠太が今後、将来の為に大学に行きたいと思ってもうちの経済状況じゃ、悠太に満足にお金をかけてあげられないかもしれない。そういう事を考えたら、ずっと悠太が心配で、可哀そうで。」
確かによその家の子供を旅行に連れていき、プレゼントまですることをそれほど負担に感じない稲葉家とは違い、給料が決して高いとは言えずかつ重労働の介護職でいつまで定収を得て居られるかは定かではない状況は安定しているとは言えないだろう。
口ぶりからすると、賠償金とやらもそれほど生活に余裕を持てる額では無さそうだ。
「昔は少しでも生活の安定のためにと思って何回か結婚相談所にも行って、色んな男の人と会ったけど、やっぱり子持ちの未亡人となるとちょっと厳しくてね…。」
真綾からすれば菜穂は素敵な女性だ。
だが、それでも同世代の男性から見た菜穂の結婚相手としての評価は違ってくるのだろう。
「お父さんは?菜穂さんから見て、お父さんはどうだった?」
今更聞くべきことではないかもしれないが、真綾は聞かずにいられなかった。
父がなぜか菜穂より悠太に執着し始めたのはこの最近のことのように思えた。
もしそれ以前から菜穂に父と結婚する意志があり、それを父本人に伝えていれば、こんなふうに4人の関係が妙な捻じれ方をすることは無かったのでは。
殆ど八つ当たりに近い発想だったが、菜穂は首を横に振った。
「稲葉さんはいい人だし立派な人だけど、悠太のお父さんになってもらおうとは思えなかったな。」
真綾にとってはこれ以上ない残酷な本心の吐露であった。
その言葉にショックを受けている暇もなく、少し言い淀んだ後、次に発せられた菜穂の言葉に、真綾の心は凍り付いた。
「私はともかく………悠太がね、今だから言えるけど、稲葉さんがお父さんになるのは「きもちわるい」って言ってたの。真綾ちゃんの事は今も昔も、本当に大好きみたいなんだけど。」
菜穂の口から発せられたのは、今まで自分にすら秘匿されてきた悠太の、父親に対するこれ以上ないほど辛辣な本心だった。
それはいったいどういう意味で発せられた言葉なのだろう。
確かに、父は見た目にはあまり清潔感があるとは言えないし、子供から見て憧れそうなところもない、典型的な中年親父だ。
だが、そんな父に対して悠太なら好意を持っていてくれていたと信じていたのに。
菜穂と耕助が結婚し、4人で家族になる事を望んでいた同志だと思っていた。それなのに。
だが、自分は悠太の本当の気持ちをどこまで理解していたのだろう。
あまりの暴露に動悸を起こしそうになっている真綾に、菜穂はすかさずフォローを入れる。
「今は悠太も少し成長して、稲葉さんの大人として立派なところが分かるようになったんだと思うの。だから今こうして、稲葉さんともあんなふうに仲睦まじくなって…。」
そんな菜穂は真綾に対してフォローを入れているようで、そうやって自分自身にも言い聞かせているかのようだった。
菜穂自身も今の状況が異常であり、不自然なものであると感じている。
だからこそ、真綾にとって失礼で、心に傷をつける暴露であるとわかっていながらかつての悠太の気持ちを明かさずにはいられなかったのだ。
部屋の中は、灯りは点いているというのにどこか暗く淀んだ空気が流れているように感じられた。
時計を見やると、いつの間にかもうすぐ日付が変わろうという時刻に差し掛かっている。
すぐ隣の部屋。自宅では今、新婚夫婦が初夜を迎えているはずだ。
一体どんな色の空気が流れているのだろう。
想像も付かなければ、疲れた頭で考えることもしたくはなかった。
───
4人の新生活が始まってからほどなく、真綾は貴重な休日に一人、朝から電車に乗ってある場所に向かっていた。
目的地は、たった一度だけ行ったことのある大きな運動公園。
春に父と白井家の4人でお花見に出かけた、あの公園だった。
あの日、確か自分は帰り道に不思議な廃神社を見かけて、自分達の幸せを願った。
ここしばらくの、激動とすらいえる自分達家族の変化は、思えばあれから起き始めたのではないのか。
今ではそんな妄想じみた発想にまで至っていた。
最初は、悠太の骨折事件がきっかけだと思っていた。
あれから悠太は稲葉家にほぼ常駐するようになり、あのあたりから父との関係が急に親密になり始めた。
菜穂の言からすれば内心で「きもちわるい」と思っていたはずの父を、悠太は実の父親のように慕うようになった。
しかしそれはあくまできっかけに過ぎず、そこから起きたありとあらゆる出来事が、まるで自分達をこのゴールに無理やり押し込む為に敷かれたレールかのように今では思えていた。
もう一つ不思議なのは、これほどまでに受け入れがたいはずの現状を、頭を悩ませながらも真綾も菜穂も、結局は受け入れているところだ。
冷静に考えなくても、父の今やっていることはれっきとした犯罪であり、不道徳極まりない行為のはずなのにどうしてもそれを阻もうと動くことが出来ない。
ましてや菜穂にとっては幼い自分の息子を拉致されたに等しい状況だ。
息子を産んだ覚えのない真綾ですら想像だけでも身が引き裂かれそうな思いがするというのに、そんな菜穂ですら父に抗おうとしないのはなぜなのか。
確かに理由は菜穂の口から語られていた。
悠太の経済的に何不自由の無い生活。
医師である父に囲われるという形で、菜穂のその願いは一応は叶えられたといえるだろう。
けれど、経済的に不自由が無いというだけで、もっと大きな災厄が降りかかっているのではないのか。
そこを菜穂は見えないよう振舞っているようにしか思えない。
結局どんなに悩んでも、どうしても「父を止める」という最適解の行動に双方結びつかないでいた。
願いといえば、真綾の願いも一応は叶えられてはいた。
確かに自分達4人は家族になった。
いずれは菜穂も今住んでいる家を引き払って、稲葉家で一緒に住む予定になっている。
しかし、当然だがこんな歪な形で家族になることなど望んではいなかった。
頼れる父の耕助、優しい母の菜穂、時々生意気だけど愛くるしい弟に囲まれた、そんな稲葉家を切に夢見ていたというのに。
自分達の望みが異様に曲解された形で叶っている。
その妙な法則性に気が付いた時に、真綾の脳裏からとある記憶が蘇っていた。
それが例の神社で自らがかけたあの願掛けだった。
自分達4人の願いが叶って、幸せになれますように。
確か、自分はそう願ったはずだ。
真綾とて、そう信心深いわけでもなければスピリチュアルな事に興味があるわけでもない。
けれど今の自分達家族に起きている異常について、何か理由を求めずにはいられなかった。
これが自然の流れで起きた事だなんて、どうしても安易に認められない。
居てもたってもいられなくて、もう一度あの神社に向かうことにした。
別にあの神社が何の神がかりもないただの神社でもいい。
何なら、もう一度願いを訴えても良かった。
この半年を、どうか無かったことにしてほしい。
父と菜穂に結婚してほしい、なんて贅沢なことは言わない。
元の、ただ仲の良かった稲葉家と白井家の関係に戻りたい。
車で数時間かけて向かったあの公園は、電車を乗り継いで1時間程度で最寄りの駅に辿り着いた。
満開の桜があちこちで花弁を揺らしていたあの時とは打って変わって、紅葉の紅や黄色が趣深くはあったが今はとらわれている余裕は無い。
朝の清涼な空気を纏わせながら広場を駆け抜け、覚束ない記憶を頼りに例のトイレまで向かう。
確か、トイレからの帰り際に、たまたまあの神社に向かうための小さな石段を見つけたはずだ。
木々に囲まれた小道を抜け、確かにトイレは記憶通りに見つけることが出来た。
「…………どこ……?…確かに、この辺にあったはずなのに………。」
確かに、トイレはそこに変わらずある。
けれど肝心の、神社への石段が思った場所に見当たらなかった。
丁寧に舗装されているわけではない、土に埋まって僅かに顔を出したような石段ではあったが、目を凝らして見つけられないという程ではなかったはずなのに。
無理やりに登ろうとするのは少々無理のある角度だった。
空を見上げると、真綾はそこにあったはずの階段の先まで回り道をして向かうことにした。
ぐるりと大きく回って、ちょっとした山登りと言ってもいい高さと距離を上って本来ならあの神社があるはずの場所を目指して小走りに急ぐ。
そうしてやっと辿り着いたのは、例のあの神社のある小さな庭ではなかった。
小さいどころか、そこでは数人の子供達がサッカーボールを追いかけて遊んでいたし、別の出口が大きな道路と繋がっている。
あの神秘的で閉鎖的な空間は、影も形も見当たらなかった。
そこから来た道を見下ろしても、ただ斜面の上に木々の緑が広がっているだけであの神社らしい建物はどこにも見えない。
それからも真綾は辺りを息を切らして散策したが、自分がここに来た目的は何も解消されることは無く、休日の朝をただ遠出の散歩をしただけで終えたのだった。
帰りの電車。真綾は携帯の中の画像フォルダを開いていた。
そういえば、と以前にあの公園に行ったとき、神社の写真を撮ったことを思い出したのだ。
けれど、探せど探せど、その写真は実物と同じく、まるで雲隠れをされたかのように見当たらなかった。
こうしてあの神社の存在を証明するものは何も残らず、ただ真綾の記憶の中だけにある幻の存在と化した。
───
神社は見つからなかった。
その事実が示すことは何なのか。
最も現実的な答えは、あの時の神社の事は真綾の記憶違いで、本当は夢の中の出来事だった。
そう思い込んでしまうことが出来ればどんなに良かったか。
しかし、覚めてしまえばすぐに忘れてしまう夢とは違って、真綾の頭には確かにあの時の神社の佇まいも周囲の空気も、触れた枯木の感触もしっかりと残っていた。
夢や妄想の類で片付けてしまうにはそれらはあまりにも生々しい記憶として真綾の中に刻まれている。
ならなぜ辿り着けないのか。
一度願いが聞き届けられたら最後、二度目は無いとでもいうのだろうか。
現地や神社の事について、ネットで検索してみてもそれらしい情報を得ることは出来なかった。
その代わりに、いくつか興味深い話を読んだ。
「願い事」という検索ワードで導き出されたのだろうか、人々が不思議なアイテムを使って自分達の願いを叶えようとするという伝承は様々な時代、様々な国で語り継がれているようだった。
だが、それらの逸話の悉くが、不相応な願いを叶えようとして思いもよらない災難や無理難題に直面し、思うような幸せに辿り着けないという顛末を迎えていることに、真綾はぞっとしないものを覚えた。
例えば「猿の手」という話がある。
願いを3つ叶えてくれるという不思議アイテムである猿の手を使って大金を得ようとした夫婦が、その大金を得る事と引き換えに息子の命を失ってしまい、ならばと失った息子を蘇らせようとすれば、今度はその息子は異形の化け物となって帰ってくるという不幸を味わっている。
もっと卑近な例で言えば、人魚姫なども人間の王子と結ばれたいという願いを叶えるために声を失い、結局その恋は叶わず海の泡となって消えていく。
しかしこれらは彼らの願いそのものが元々大それたもので、本人達にとって分不相応なものだったからという解釈も出来るのではないか。
自分達4人は血縁関係こそ無いが、自他ともに認める仲の良い家族だったではないか。
そんな自分達が本当の家族になることを夢見る事がそれほど大それた願いであったとは思えない。
けれど、菜穂の口から語られたことが事実だったとするなら、自分の望みは少なくとも悠太にとっては受け入れがたいものだったのだ。
その時点で、自分の望みが決して満場一致のものではなかったことは確定している。
───
「悠太と、新婚旅行に行こうと思う。」
例の結婚式の日からひと月ほどが経ち、真綾が自宅に戻って生活を再開してからしばらく経った頃だった。
朝食を摂っている時に、父からそんな言葉を聞かされた。
悠太との養子縁組の手続きも完了し、悠太も晴れて正式に白井悠太から稲葉悠太を名乗ることが出来るようになった。
その記念を兼ねて旅行に行くつもりだというのが父の言だった。
「そう。どこいくの?」
そもそもそんな旅行に行くような連休があったかどうかと首を傾げていると、父はうんうんと頷いて。
「こないだ行った京都の旅館が俺も悠太も気に入っててなぁ。今回は、こないだみたいにあちこち行ったりせずに、京都の町を散歩して、美味しい物食べて、温泉でまったりして。そんな静かな旅行にしようと思ってるんだ。」
確かに、新婚旅行らしいといえばらしい。
そして、この人達は「新婚」なんだ、と真綾は少し遅れて納得せざるを得なかった。たとえ世間的には決して認められることは無いとはいえ。
「おう、ありがとう。ちょうど俺の好きな焼き加減を覚えてくれたんだなあ。」
「う…うん……。」
父の為に一生懸命に作った半熟目玉焼きとベーコンを盛り付けた皿を悠太が持ってくると、そんな悠太の頭を自然な手つきで撫でる父。
さらに顎の下や首筋までを愛撫する父の大きな手の動きに、悠太は擽ったそうにしながら、けれど自分から差し出すようにして身を乗り出していた。
それだけを見ると、新婚というよりはまるでペットと、それを愛玩する飼い主の関係のようにすら感じられる。
旅行の日程は今から数週間後の連休を使っての、二泊三日となる予定だった。
やんちゃ盛りの小学生の男の子が京都の温泉に二泊三日籠りきりというのはどうなのかと思わなくも無かったけれど、父と悠太が夫婦で決めたのであればそれに口を出すことも出来ない。
新婚水入らずの空間に戻ってきてひと月と少しで、今度はたった一人で家の番をすることになった。
それに関して特に不満はない。
それよりも二人がいない家の中で、やりたいことが真綾には一つだけあった。
───
「しあわせかぞく 後編」へ続く…