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第二作『Rotkäppchen』 全文・下

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第二作『Rotkäppchen』 全文・下
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「ほらっ、起きなさい、寝ぼすけさん!突っ伏してないで!」

…………もうとっくのとうに目は覚めていたが、昨晩の記憶が蘇ってきてとても平静に彼女と顔を合わせられる気がしない。ただでさえ昨日は色々な事が起こり過ぎたんだ…

「ねぇ、ほら、顔をみせてよ!」

「………………」

「ぷっ……!!あははっ……!!真っ赤だし、へんな顔…!!」

「……君はよく、昨晩からそう切り替えられるな」

「……だって、恥ずかしいけど……それよりも、うれしくて、幸せだったんだもの…」

「…昨日よりだいぶ、かつての君みたいに明るくなったな」

「うーん…………あなたの愛をたくさん注ぎ込まれたからかなっ!」

「だからっ…!そういうのはやめろって……!」

「ふふふっ……!だってその通りじゃないっ」

「……はぁ…………!!ってそれだ。前も気になったが大丈夫なのか?その……って…それは……?」

「……え?なにが?」

彼女は、紫色の瓶から白い丸薬を一つ出し、水で飲み干した。

「そ、それは…薬か?」

「ああこれ?……ここの薬売りさんから買ってる薬よ。なんでも、病とか…………まあ、そういう…都合の悪いものを祓ってくれるらしいの」

「今、何か濁したか?」

「さ、察してよ……!そこは。ちょっ……っと、こほっ!い、言いにくいから…」

…………?……!!彼女は娼婦…!もしかして、身篭りを防止するための薬か…?!

「……聞いたことないぞ、そんな効用の薬は」

「……けほっ……!で、でも、あそこの他の娘も使ってるし…正直あそこ、それが売りで成り立ってるところもなくはないし…はぁ……うぅ……」

「お、おい……?大丈夫か……?」

「だ、大丈夫……これは、すぐ…治まるやつだから…」

まやかしの類じゃないのか…?そんな薬は。……いや、むしろそうだった方が良いかもしれない。もしかしたら無理矢理その効用を出すほどの劇薬で、身体に多大な負担がある薬なのではないだろうか。…そうだ。さっきまで元気だった彼女が急に咳き込みだしたのが何よりの証だ。そもそも、今までは灯りや夕暮れの光でしか見なかったから気付けなかったが……彼女の素の顔色がかなり悪いことに、たった今気が付いた。

「……そうか。しかし…まさかそんな薬売りがこの街に存在するなんて知らなかったぞ」

「表からはなかなか分からないから…無理ないわ…場所もこの区画の一番奥だし…」

……遠回しにその店がこの都市に確かにある事を聞き出した。後日、貧民街の住民から場所を聞き込んで密かにそこへ行こう…。そう、彼女の体調を案じつつも決意した。

その薬売りの店は貧民街の最奥にあった。門構えには看板も何もなく、表から見ると人が住んでいる気配すら感じない不気味な家だったが、建物自体はそれなりに大きかった。意を決し、入口の扉を開けた。

「……おやおや、これはまた随分と怖い顔のお客さんが来たもんだ。そんな剣幕でどうしたっていうんです?腰に短剣まで差して」

薬売りらしき男が、来客が入る音を聞いて奥からのっそりと出てきた。声は俺と大差なさそうな若さだったが、髪はぼさぼさの白髪で、着込んでいる割に不気味な程細い男だった。

「…ここに、白髪で赤い目をした若い女はよく来ているのか」

「ああ、その女ならたまに娼婦用の薬を買いに来るが、それが何か?」

「…彼女に、妙な薬を売るのを辞めていただきたいんだが」

「何です、いきなり…彼女も一応お得意様の一人だってのに…まずあんたの素性と関係を述べるのが筋ってもんじゃないですかい?」

「…………恋人だ。彼女は、二年前まで俺と同じ騎士だった」

「……はははっ!!こりゃ傑作だ!!あの…!あの白兎色のつまらん娼婦が、元は騎士か! いやぁ、何があったかは知らんが自分の命可愛さにためらいなく騎士道を放棄したのだろうな……ああ、こんなことなら私も寝ておくべきだったかな、そうすればもっと可笑しかっただろうに!」

「……それ以上彼女を侮蔑する言葉を吐かない事だ」

言葉より先に俺は、無意識のうちに男を正面に睨みつけ、左手を短剣の鞘に掛けていた。

「おお、怖い怖い、もう言いませんよ。…だが考えてみてくれよ。 ……ほら、この薬なしにあの女は果たしてあと何年生きられると思います?」

「……何?」

「確かにこの薬は身体への負担が大きいかもしれないが、服用する限り身篭りや男伝いの病といった娼婦の当面の困難は確実に払えるものだ。あの女は売り物にならなくなれば簡単に取って替えられる存在で、そうなったらもはやどこにも行き着く先はない、そうだろう?あんたの自己満足の正義で彼女の行末を左右するっていうんですか?」

「……それは……」

「それとも、あんたが彼女の面倒を全て見るとでも? いやぁ……よく見ればまだ若い。きっとそんな器も財も無いだろう。…違います?」

「……………………」

…悔しいが、目の前の男の言う通りだ。俺は構えを解き、観念したように睨むのを辞めた。

「そうそう、解ればいいのさ。話の通じる騎士さんで良かったですよ…」

「……突然押し入ってしまい、すまなかった」

「いやぁー、とんでもない、丁度あんたみたいな人に売りたい商品が出来たんだよ」

「…………?」

そう言って男は、奥の棚から赤い絵柄が貼られた小瓶を持ってきた。

「何だ……それは…」

「かなり強力な戦闘用の高揚剤ですよ。こいつを葡萄酒か何かに一滴でも混ぜて飲めば、まるで獣のように頑強で獰猛になって、痛みも感じにくくなる……もっとも、まだ浮浪者で実験した程度で、正式な服用者は居ないがね」

「……また随分と非道徳で胡散臭い薬を出してきたものだな。公になれば只では済まないぞ」

「ははは、あんたは密告しないでしょう。私がいなくなれば恋人の薬も無くなりますから…… ああ、この薬をもっと安全性を高めて改良出来れば、軍に売りつけてぼろ儲けするのも夢じゃないだろうなぁ…」

「そんな努力は無駄だ。騎士がそんな得体のしれない薬に頼る事は永遠にない」

「さぁて、どうだか……人間ってのは、大切なものを守るためならあんがい簡単に外法に頼るもんですよ」

「………………」

大切なもの……その言葉を聞いて、不意にスカーレットの顔が頭に浮かんだ。

「さ、もう要件は終わったんでしょう?お引き取り願えます?」

「……ああ、失礼したな」

薬売りの男はそのまま奥の部屋に入っていった。その部屋の端に、小さめの狼の死体が何体も吊るされているのが見えた。……狂っている。だが、この男が作る薬無しには、スカーレットはまともに生きられない……それもまた事実だった。

……彼女と再会してから、三ヶ月が経った。

結局、現実はそう簡単に変わるはずも無く、俺は騎士のままで、スカーレットは相変わらず娼婦のままで生活をしていた。…だが、それでもなお、変わったことはある。

「じゃあ、また時間が空いた日に…」

「ちょっと、もー……いつもいつも忘れて帰ろうとするんだから」

「ん?ああ…」

「ほら、ヴォルフ……」

…………ちゅっ。

「うん、またね、わたしのヴォルフ。いってらっしゃいっ」

スカーレットは毎回、別れ際に唇が触れるだけの浅い口づけを求め、こう言って満面の笑顔で俺を送る。…正直、俺は少し恥ずかしいのだが、日々仕事で男の相手をしている彼女にとっては、このぐらいの接触が一番心地よいのだろう。

スカーレットが記憶を取り戻してから、都合がある日は出来るだけ彼女に会いに行っているが、今や彼女はすっかり二年前までの明るさを取り戻している。……そういえば、最近は心なしか顔色も少し良くなり、徐々に健康的になっている気がする。あの薬売りの劇薬はまだ服用し続けているようだが、精神面での変化が大きいのだろうか…?

「…………おい」

「ひひっ!騎士様、またいらしたんですか、なんだかんだであぁたもずいぶんお節介で、おかしなお人ですなぁ」

「うるさい、ほら、金だ」

「ひひっ、ありがとうごぜぇます」

彼女がいる娼館主に、たまに密かに金を渡して彼女の近況を聞いている。…前はあれほど嫌悪した男なのに。確かに、俺もかなり酔狂だな…

「……いやぁ、最近の赤目ちゃんはずいぶん変わりまして、薄暗さが無くなったから男受けが良くなって、今や看板娘と言っていいくらいですよ。そっちの奉仕だって最近は——」

「そういうのは言うな。それより……あの野郎はまた何かしてないか」

「ん…?ああ、あの貴族様なら最近の明るくなった彼女がお気に召さなくなったのかすっかり来なくなりましたなぁ、でも今の赤目ちゃんならあんな方が居なくてももう大丈夫でしょう。」

「そうか……なら良かった…」

「…………なぁ、騎士様…以前はともかく、今の赤目ちゃんは花売りであってもすっかり一人前の女として身を立てていますから……もう、まるで親無し子か何かを案じる様にあれこれする必要はないんじゃあないですか?」

「……そうかもしれないな」

「ね、ですからこんな回りくどい事はせずにまたお客として来ればいいんですよ。あっしはまたお二人の初心なやり取りを見た……」

「じゃあ、失礼する」

……確かに、あの男の言う通りだ。今や彼女は自分の境遇を受け容れ、物にしつつある。俺があれこれと過保護になる必要はもうない……なぜか、それが少し寂しい。だが、立場は変わらずとも、スカーレットが幸せそうな顔を見せることが多くなり、嬉しく思う。俺も、もっと長くこの時間が続いてほしい……だが、一つだけ気がかりな事があった。

この城塞都市がある北端の地は、二十年前に我が国が北方民族から奪い、占領したものだ。だからここの城には俺をはじめ多くの騎士が常駐しており、北方との境界には砦も設置されているが… ここ最近、北の国に奪還軍がにわかに蜂起し、我が国への進攻を考え出しているという情報が入っている。もし境界の砦が陥落すれば、俺にも防衛線の構築のために出征の命が下るだろう…それだけが気がかりだった。

このような事はスカーレットには全く話していない。下手に懸念になる話をして、彼女の笑顔を曇らせたくなかった。俺は一日でも長く、彼女との幸せな時間を過ごしたかった。だから、決定的な状況になるまで、取り巻く状況が厳しいことは黙っていることにした———

「……ヴォルフッ!もー、またわたしの話を聞いてないんだから」

「…え?ああ、聞いてるさ。…仕事は…大丈夫なのか?」

「ほら、ぜんっぜんちがう!」

咄嗟に取り繕って、つい心配していた事柄が漏れてしまった…

「…ねぇ、ヴォルフ…わたしに同情してなんとかしたいとか考える必要なんかないんだからね?たしかに前は…辛かったけど…… でも、あなたともう一度会えて世界が変わったんだから、大丈夫よ!」

「……そうか。ああ…強いな、君は…以前のように」

「そうよ、前はヴォルフのほうがよっぽど繊細なところがあったじゃない!……でも、だからこそ…ほうっておけなかったんだと思う」

「ありがとう、スカーレット。少し前まで君を救いたいと思っていたが、本当の所…救われてるのはずっと、俺の方だ」

「い、いいって!そんなこと言われると……泣けてきちゃう…」

「……スカーレット。」

「な、なに…?」

「そのままの意味で、抱いてもいいか」

「…もう、甘えたがりなんだから」

「前はあんなに粗暴な一匹狼だったのに、まさかこんな風になるなんてね…」

「ああ…騎士の時にも、君は一度だけこんな風に抱いてくれた」

「今はなんでもないけど、あの時はすごい恥ずかしかったんだからね?他に思いつかなかったからとっさにやっただけで、いきなり抱き着くなんて…」

…あの時、孤立していた俺を心配する彼女を無下に突き放した時だ。

「…でも、君がああしてくれた瞬間から、俺は変われた気がする……あの時は夢も理想も何もかも失くして、他の人間が全て下らない存在に見えていた。…そんな俺の世界に、君が色彩をくれたんだ」

「ばっ……ばぁーか!!大真面目に言わないで!」

「……どこで覚えてくるのよ…そんな言葉」

…それが俺の率直な気持ちだ。この時間がいつまで続くか分からないから、どんなに歯が浮くような響きになっても彼女への積年の感謝を伝えたかった。

「とにかく、仕事のことはもう大丈夫だから平気よ!なんならヴォルフだっていつでもどんとこいってくらい!」

「な……!!」

「——っやっぱり忘れて!想像したら…はずかしい…」

「ああ…お互いに物凄く気まずい空気になるぞ。」

実際、あの夜以来はお互いどこか気恥ずかしくて夜の営みを誘うことはなかった。以前と彼女の立場は全く違うが、スカーレットの明るさ、共に過ごす空気は今ではすっかり騎士時代と変わり無くなっている。失われた過去を、少しずつ取り戻せている感触がした。

今日も同じように、別れ際の口づけをして、その感触の余韻を持って城へ戻る。だが、今日は門へ向かう道中の空気が妙に張り詰めており、何故か嫌な予感がした。城門に着くと、使者がしきりに大声を張り上げていた。

「領主様からのお達しである!!城内の騎士は全員、明朝に中庭へ集え!騎士長から今後の出征の概要を聞くように!各々も、抜かりなきよう各騎士に伝えよ!!」

他の騎士達も落ち着かないのか、ところどころ数人で集まっては噂を持ち寄っている。

……とうとう、恐れていた事態が来てしまったようだ。

明朝、城の中庭に騎士達がぎっちりと整列し、正面には緊張した面持ちの騎士長が立っていた。

「…揃ったようだな。みな、予想しているだろうが私がこれから話すのはこれから諸君らが向かう戦いの事に他ならない。先日、北との境界の砦が陥落したとの伝達が入った。生存者、殆ど無し。」一同に一瞬だけ、どよめきが起こった。

「かの国はかつての戦いで敗れ、土地を奪われて以降、我が国への報復に躍起になっていた。こちらの騎士道は通じない、恐らくは捕虜ももう生きていない。その上、彼奴らは既にこちらへの侵攻の備えを始めているとも聞く。もう猶予は半月もないだろう。

既に我が国の各地に伝令が送られ、防衛軍が編成されるだろう。だが、兵が集うまでの日数、我々でなんとしてもこの地を、この都市が蹂躙されぬよう死守しなければならん。」

「想像の通り、数では我々が劣る。だが、進軍する隊列に立ち塞がり、徹底して抗戦し、損害を与えれば敵も歩を停めざるを得ないだろう。そう、我々の戦いこそがこの地の命運を分かつのだ!!」

「我が国を、この地を、人々を護るために戦う事ができるのならば、騎士としてこれ以上の栄光はない、そうであろう!諸君らに待つのは生か、名誉か、どちらかしかない!諸君ら一人ひとりが次の戦いで英雄となるのだ!!」

「ぉぉぉぉおおおおおおおおおお!!!!」

騎士長の名演説にその場の騎士達は一斉に喝采を浴びせた。

だが、それとは裏腹に、両隣にいた騎士は明らかに動揺しており、不安の表情を浮かべていた。…恐らく、俺も同じ顔をしていただろう。

…どうするか。

俺自身では、とうに覚悟をしていた事態だ。だが、この時が来た時に彼女にどう伝えるか、といった問題はこの日まで先延ばしにしていた。悲しむだろうか?約束を破ったと怒るだろうか?あるいは逃亡を提案…いや、それが困難なのは彼女も理解できるはずだ。

彼女の家に向かう貧民街の細道に入ろうとして、引き返す。なんと言い出すべきか、どう反応されるか、答えもない迷いを頭に、同じ道をひたすら徘徊した。

「……ヴォルフ?」

「——!! ス、スカーレット…!」

「今日はずいぶん遅くにくるじゃない」

「い、いや…君に少しでも会いたくて」

「……そっちはわたしの家じゃないでしょ? ほら、一緒にいきましょ」

ど、どうする…?今日はもう間が悪いのではないか?だが…彼女の事だ、俺の不自然な態度で既に何かを感じ取っているだろう。…今日、告げるより他はないようだ。

「………………………」

「…ねぇ、今日のヴォルフはなんか変よ…とても心配なことがあるんでしょ…?」

「……ああ」

「じゃあ、話してよ……ほらっ!わたしのことなら気にしないで言って? …そんな、初めて再会した時みたいな辛そうな顔しないで…」

……歩きながらずっと、どこまで事実を伝えるべきかを考えていた。希望を持たせる為に上手く戦局を誤魔化して伝えようともしたが、俺は上手く嘘が付けない性質で、彼女に対してもこんな大事で嘘は付きたくなかった。それに、どれだけ優勢だろうが、兵一人ひとりはいつでも死ぬ危険があるのが戦いであるという事は、彼女にも理解できるだろう。だから……どれだけ残酷だろうが、ありのままを全て話すことにした。

「……スカーレット、よく…聞いてくれ。北との境界の砦が落とされた。だから、敵が次にこの都市に攻めてくる前に迎え撃つよう、俺に出征の命が出た。」

「……やっぱり、そうなんだ… じゃあ、わたしたちの国の兵がそろったら、戦いに行くのね…」

「違う、敵は占領した北の砦に留まって、既にこの都市に攻め入ろうと準備を始めている。各地が軍を編成して集結するのを待つのでは絶対に間に合わない。だから…この都市と周辺地域の戦力で決死の足止めをしなければいけない。…たとえ数で遥かに劣っていても」

「……え?」

「さらに、だ。相手はこの国への報復感情が強い北の民族で、騎士世界の倫理は全く通じない。捕虜になっても、恐らくすぐに殺される…北の砦でも……殆どの兵が殺された…だから…」

「俺が生きて帰れる可能性は全くない。君とは……もうすぐ、永遠に別れる事になる。」

「……え…」

「だから、もう……俺の事は…」

「…によ」

「……?スカーレット?」

「なによ、それ」

それだけ口に出して、彼女は固まったまま何も言わなくなった。暗く澱んだ目は、明らかに俺ではなく、遥か遠くを見ていた。

怒り、悲しみ、嘆き、憎しみ、その全ての感情の噴出。騎士としての生も誇りも奪われ、娼婦の惨めで苛酷な生活の中でさえ、懸命に優しく生きてきた彼女が取り戻せたたった一つの幸せ。それすらも無慈悲に奪ってゆく世界へ、今まで密かに積もり積もっていた怨嗟が一気に爆ぜたような、暗澹とした恐ろしい表情だった。

「スカーレット、 スカーレットっ!」

「……え?なに?ヴォルフ」

「大丈夫か?今言った事が分かるか?」

「うん、ヴォルフ、北との戦いに行くように言われたんでしょ?」

「ああ、だからもう俺の…」

「でも大丈夫よ!ヴォルフならきっと無事で帰ってこられるから!」

「…………は?」

「だって二年前の戦いでもヴォルフは生き残れたんでしょ?剣の腕だって前からとびきり凄かったじゃない、ヴォルフは強いもの!」

「だから…今回は足止めで…相手も———」

「大丈夫だから」

「なあ、スカーレッ…」

「わたしにはわかるの」

笑みを浮かべて言う彼女の言葉にはどこか有無を言わせない圧があった。

「だからもう俺の事は忘れてほしい」言い掛けて遮られた言葉は今のスカーレットにはとても言えず、そのまま胸に仕舞った。死してなお、彼女を縛りつけたくなくて言うつもりでいたが、今思えばそれはただの欺瞞だった。俺は死に行く前に心残りを晴らしたかっただけだ。この願いが……彼女にとってどれだけ残酷で、受け入れ難いものかすら考えずに。

「あ、ああ……君にそう言われると大丈夫な気がしてきた… きっと…また…」

それ以上はとても言う事が出来なかった。

「ねっ!さあ、ヴォルフが行っちゃう前に、お見送りの準備しないと!」

彼女はそう言って話を切り上げた。

…仕方ない。どんな胸中であれ、スカーレットは明るい態度を崩さずにいてくれた。ならばそれに応えよう。俺だって、彼女と最後に過ごす時間を少しでも楽しいものにしたい。

…俺がいつまでも戻らなければ、彼女も時間と共に俺が死んだ事実を受け容れるようになるだろう。今ある幸せに水を差すことはない。そう…これでいいんだ……

あと三日、この地の軍が出征するための準備期間がある。

……それは俺がスカーレットと一緒に居られる残された時間を意味していた。

次の日は、昼過ぎまで城で装備の手配と準備をし、時間が空き次第すぐにスカーレットの家に向かった。だが、珍しくも彼女は不在のようだった。

……もしや何かあったのでは……と、急に背筋が冷える感覚がした。俺の出征を聞いて何か早まった事をしたのでは————

「……!!………………」(無言、スカーレットが光のない目で後ろに立っているスチル)

「ヴォ・ル・フっ」

「———うわっ!!い、今帰ってきたのか、スカーレット……」

扉の前に立ち尽くして考えている時に、急に背後から声をかけられて心臓が跳ね上がった。彼女は麻袋を両手で大事そうに持っていた。……なんだ、買い物をしていただけか…

「ふー……なんだ。昨日の今日で、つい妙な杞憂をしてしまった」

「あはははは。ヴォルフはあいかわらず心配性なんだから。あなたのお見送りに必要なものを買いにいってただけよ」

「俺のために……ああ、ありがとう。スカーレット」

「いいわよ。わたしがしたくてやってることだから」

「今日はまたすぐ城に戻ることになる、明日もおそらく日が落ちるまで時間が空かない。こんな時にはせめて少しでも長く君に会いたいが…すまない」

「……ねぇ、ヴォルフ…」

「どうした?」

「あなたが戦いへ行っちゃう前に……したいの」

「…………俺が想像してる通りでいいんだな…?」

「そ、そうよ!……いいでしょ?あれ以来…ぜんぜんだし」

「ま、まあ、もちろんいいが……」

「…その、できれば、明日の夜に娼館まで来てほしいんだけど……ほら、あなたのために一晩中空けておくから」

「……なっ?! き、君が望むならいいが…どうしてわざわざ向こうで?」

「だ、だって、その日はわたしも向こうにいなきゃいけないから……それに、この家だと狭いし、寝台は肌触りが悪いし、外に聞こえないか不安じゃない…!おもいっきりしたいの、おもいっきり」

「は、はぁ……思いっ切り……」

「……ふふふっ、もう赤くなっちゃって。へんな想像しちゃったの?……かわいい」

「全く……まだ日は高いってのに……」

「……楽しみに待ってるからね。その夜は二人だけの世界にしましょ……」

そして翌日の宵。すっかり見慣れた貧民街の娼館まで足を運んだ。

……ここに、客として最後に来たのはいつぶりだ……?思えば初めて来る時は、赤目の娼婦が居るという情報を確かめるためだけに扉を開けたのだった。なんとも奇妙なことに、始めから娼館本来の目的のためにここへ来たのは今日が初めてだった。

「……ええっ?! 赤目ちゃんが言ってた大切なお客さんって本当に…?!」

「………………」

目すら合わせず、代金だけ目の前にゆっくり置いた。悪いが俺は今宵、スカーレットの事しか考えたくなかった。二人だけの世界で最後の一夜を過ごしたかったのだ。

…それにしても、普段から会っているというのに、娼館で彼女に会うのはかなり久々で何故かかなり緊張してしまう……意を決して、彼女がいる部屋の仕切りを開けた。

「わあ……素敵な騎士様。お選びいただいて光栄です…!よろしくお願いしますね」

「———!!え、え……?!君は……?」

「ふふっ……!!あははっ…!やぁね、はじめてここで会った時の真似をしただけよ。前のわたしに逆戻りしたわけないじゃない」

「あ、焦った……あの瞬間は未だに鮮明に覚えているから、余計に」

「驚かせてごめんね、狼さん。じゃあ…しよっ……」

「……狼?」

「ヴォルフって、騎士になったばかりの頃は子狼って他の騎士にからかわれてたでしょ?今のあなたはすっかり大人っぽくなったから、狼さん。」

「はぁ……いや、良く分からないが…」

「わからなくてもいいのよ。なんとなくそう呼びたくなっただけよ…」

彼女はまず、初めて交わった夜と同じように襟を開けた。

「……ほら」

「………………!!」

「今日はまた、ずいぶん鋭い眼差しで見てくるじゃない。ほら、遠慮しないで、ヴォルフ」

………………

「ひぃん……!!あひっ……珍しく、すごいがっつくじゃない…!」

「君と……俺が、望むままに…今夜は思いっ切り、だ……!!」

「んっ……!ふふふ、やだ、こわぁい。狼さんに食べられちゃいそう…」

その後、スカーレットは俺の下衣の紐を解き、そして顔を近づけ————

———ッ!!待て、これは……

「ま、待ってくれ…!そういうのは…俺は……あまり…」

「……あら?」

脳裏に思い出したくもない記憶が急に蘇り、俺に悦ばせようとする彼女を咄嗟に拒絶してしまった。かつて、苦しそうに咥えていた彼女の姿を……

「あ、す、すまな———」

「あ、そうか!……こっちのほうが好きって言いたいんでしょ?」

「……え?」

—————!!!

「ほら、全部わたしに任せて。最近はこっちも上手くなったんだから…」

彼女は遮られた行為の代わりに、その豊満な乳房で挟みだした…!俺には発想すらしなかった手法で、動揺が止まらない。だが、頭の戸惑いをよそに、その感触の柔らかさに挟まれた俺の性器もみるみるうちに興奮を示し始めた。

「ふふ、なにその顔。わたしの胸の何が怖いのよ。だいじょうぶ、すぐに気持ちよくなるから……」

「ふっ……んっ……!」

「…………あ、ぐっ……!」

「はーっ、こんなに目の前で見るのは初めて…どんどんおっきくなってく…」

「…………あ、うぁ……」

彼女が手慣れた手つきで自分の胸を揉みほぐし、圧力を与えて離すのを繰り返す。羞恥心と興奮が入り交じり、俺の頭は何も考えられなくなっていった…

「…ふっ…はぁ…はぁ…ねぇヴォルフ、我慢しないでもいいんだからね。今夜はまだまだ長いから…ねっ…んっ…」

「はぁっ……はぁっ……」

なぜか俺は、身体がどこにも着かずに宙に浮いている感覚になった。この味わった事のない快楽に、気付いた時には首を反らせ、自分が今、どんな姿勢でいるのかすら判らなくなっているほどだ。ただ…頭の中に、この感触でも一秒でも長く味わいたい、という気持ちだけがあり、込みあがってくる感覚を必死に堪える。

「はぁ、はぁーっ……ヴォルフは、はぁっ、なかなかつよいわね…でも、わたしももっともっと続けられるからね…!」

「すか……あぁ……あっ…れっ……」

俺が騎士でなければとっくに射精していた。

もっとしてほしいという本能と、こんな姿でも何故か意地を張りたくなる男としての感情で、少しでも長く彼女に続けてもらえるよう歯を食いしばり、寝台の布を握り締める。

「くっ……さすがに、もう……!」

「ほらっ……はっ…いいよっ……だして……!」

「ぁぐ………ああぁぁぁっ!!!」

「——————!!!」

「はっ……あっ……うっ…スカー……レット……」

「はーっ……つかれた……がんばったね…ヴォルフ……」

もちろん、まだまだこんなものでは終われない。館の人間に湯で濡らした布を持ってきさせ、彼女の顔にかかってしまった体液を綺麗に拭った後、しばらくして再開した。

…………………様々な姿勢に変えつつ、お互いに少しでも相手の存在を自分に刻め付けるかのように、激しく混ざり合った。この空間は今や、夜明けまで俺達二人だけのものだ。彼女以外の全ての存在は今の俺の頭にはなく、願わくばこの夜が明けないで欲しい、という思いを抱きつつ、彼女を抱き続けた。

「————ああっ…はぁ、あぅ、あっ、ヴォルフっ……ヴォルフっ……!!」

「はーっ、はーっ、あぁ……ヴォりゅふっ……」

彼女は身体を激しく揺さぶりつつ、潤んだ目で懇願したようにさっきから何度も俺の名を呼ぶ。ここで前回繋がった時と似た姿勢だが、それよりももっと彼女が覆いかぶさるように圧しかかり、両者の顔と顔の距離が近くなった。

「うっ……うぐっ……あっ…ひっく……」

「はっ…はっ……あっ……?スカーレッ…ト……?」

「なんでっ……なんでっ……いっちゃうの……いやよ…わたしっ…いやよ…」

……ここでやっと彼女は、涙を流して俺が戦いへ行ってしまうのを嘆いた。…もしかしたら俺は、彼女がこう引き止めてくれるのをずっと心待ちにしていたのかもしれない……

「……っ!!はっ……ごめんなさっ……こんな時に……」

「…いいんだ……はっ……気持ちは…同じだ。わかってる……」

「あぁ……この、今がいつまでも続けばいいのにっ……」

「…だが、時は止まってくれない……だから、せめてその時が来るまでっ…お互いと居よう。どんな運命が待とうとも、確かに…俺達はこうして在ったんだ…」

「うんっ……うんっ……ありがとう…」

「さっ……そのためにはっ……思いっ切り、だろ…!」

「んぐっ……んぁぁっ!!」

「あっ……!あっ…!やっぱ、りっ…あなたが、いちばんッ…いいっ…!」

「あんっ!!はーっ……やっ!んっ…!!ああ、とろけ…ああ…」

「…………はぁ……はっ……あぁ…………」

「…………?」

「あぁ……どうせ、いつか…死ぬのなら…やさしい狼さんにさらわれてしまいたい…」

……?いきなり、はっきりとした小声で彼女は不可解な事を零した。疲労で意識が混濁し、小休止した状態で出た言葉だ。これといった意味を持たないのかもしれない。

「はぁ、はぁっ……!!んっ…!ああ、ごめっ…!ねっ……!あっ…!!」

「つれっ…てって……ああ、ヴォルフっ……いっ…しょっ……に…!!」

「……ああっ……!俺もっ……そろそろっ…一緒に……!!」

「ああっ……!!あぁぁぁ!!ずっと……!!ヴォルフッ…!」

「ひぅ……!あぁぁぁ!!!あうっ!!!」

「あっ……はっ……はっ…ま、ら、おわらな……」

「はぁ……はぁ……そうは、いっても…このまま…だと…きついだろが…」

「…あ……いまの……ちょっと、むかしっぽかった……」

「……ふぅ…激しくなくてもいいから、ずっと…しよ…?」

「……ああ…」

………………………

「んっ……ちゅっ……はっ……ふっ……」

「……ああ、なんだか普段とは別の世界にいるみたい。やっぱり……あなたと、二人きりがいちばんいいな……」

「…………スカーレット」

お互いにほとんど身体を投げ出したままの、静かで、優しい交わり。先程までの半ば動物的なものとは正反対に、人間として、心で彼女と溶け合っている感覚がする。話す余裕もあり、他愛ない、それでいて幸せだった時間の懐古にも花が咲いた。……それによって、騎士として、殆ど死ぬ事が決まっている戦いへ行くことを受け容れていた俺の、無意識に抑えつけてきた、彼女の恋人であるただの一人の男としての本当の気持ちが徐々に溢れてきた。

ああ……出来る事なら俺もスカーレットとは離れたくない。思い返せば、初めて会った時からずっと、俺の世界に光を、色彩を、幸をくれたのは君一人だけだった。たとえどんな形になろうとも俺は構わない。何だっていい。君の傍にずっと居て、共に添い遂げたい。だが、運命に殉じても逃れてもそれは叶わぬ夢。俺が騎士である限り……

別離を思って溢れる感情。快楽によって抑えられぬ情動。二人だけの世界で、ここが夢か現かもわからなくなるほど意識が浮き、俺の赤裸々な想いは不意に口から発せられた。

「……ああ……好きだ。ずっと今であってくれ…君から離れたくない…」

「……ヴォルフ……泣いてるの?」

「……やっぱり……嫌だよ、スカーレット。俺も……行かなきゃいけないのが」

「そんな顔しないで、大丈夫。……わたしたちの絆は運命よりもずっと強いから……」

「……怖いんだ。もうすぐ俺の全てが終わるかもしれないのが」

「あなたは、平気……たとえほかの何もかもが壊れても、わたしたちは離れないから…」

「…….君と一緒に居たい」

「ずっといっしょだから……だからあなたも…運命を壊して」

「ああ、必ず生きて、君の元へ帰る。」

「……ありがとう、ヴォルフ。たとえあなたになにが起きても、これだけは絶対に変わらないからね。ぜったいに……」

「あなたのことが、大好き。」

そして、俺がここにいられる最後の日は、夕方までを彼女の家で過ごすことになった。スカーレットは、これから出征する俺にかなり上等そうな葡萄酒を振る舞ってくれた。おそらく、二日前にわざわざ買ってきてくれたものだろう。

赤黒く、杯の底が見えないその液体は、どこか吸い込まれそうな恐ろしさがあった。

「さ、わたしには遠慮しないで飲んで!私にはちょっと強すぎるお酒だし……」

「……ああ、ありがとう…頂くよ」

……!!!普段から飲んでいる葡萄酒とは全く別の飲料に感じる。水のように澄んで、淀みなく口に流れ込むというのに、含んだ瞬間に口全体に葡萄の芳香が広がり、少しだけ混ざる名状し難い玄妙な味と匂いがそれを引き立て、より奥行きのある味わいにする。非常に甘く、僅かに混ざる酸味と苦味、舌を刺す香辛料のような感覚が味を飽きさせない。

「……!!……くっ……!」

「あっ…………」

「い、いや……大丈夫だ…」

「……ほらっ、強いお酒だから…!大丈夫?」

不意に、全身に熱が走り意識が遠のいて身体がぐらついた。……確かに、味の通りかなり濃厚らしい。上等な酒とは、普段常飲している物とここまで違うのか。普段、酒を飲み過ぎた時とは違う感覚だ。不快感はなく、不思議とどこか心地よく落ち着かない高揚感を伴った。

「ありがとう。とても、旨い、酒だった。」

「はは、ほら、真っ赤!……一杯で十分だったわねっ」

「ああ、ごちそうさま」

「————!!そうだ、最後に君に渡す物だ。これを忘れてはいけない」

「なに? ヴォルフ? …………!!!」

彼女に渡したのは、貨幣、貴金属、そして署名入の預金証が入った大袋。要するに俺が所有する財産の大半である。彼女の全てを支えていけるほどではないが、それでも騎士として、平民よりはずっと多く蓄えた財。たとえ俺が……居なくなっても大丈夫なように。

「え、あ、その……なんで、私に……?」

「戦場には殆ど不要なものだ。故郷の家へやるにもここからでは遠いし、戦いへ赴く前に大切な人間に持たせておくのは何も不自然ではないだろ?君に持たせるのが一番良い」

「………………」(ちょっと怪訝)

「……ありがとう。でも、ヴォルフが戻ってくるまで預かっておくだけよ?」

「…………ああ、そうだな。大事に…持っておいてくれ」

「……いってらっしゃい。私のヴォルフ」

「ああ、スカーレット。行ってくるよ」

これが俺が彼女を見られる最後の時になるだろう。それでも俺は、短い挨拶を快活に済ませて、振り向くことなく城へ向かった。名残を惜しむ別れは初めて再会した場所で済ませた。…ありがとう、スカーレット。どうか君の未来に、少しでも幸のあらんことを……

…………さようなら。

そして、運命の日。北方の地は朝から雪が降り積もっていた。…なるほど、殆ど戦争が行われない季節だからこそ境界の砦は北方民族にまんまと不意を衝かれて落とされたのか。

敵軍が進軍準備を終えたと斥候から報告があり、直前まで野営基地で待機していた俺達は一斉に出陣の準備を始めた。俺が脇から横腹にかけて鎖帷子が縫い付けられた鎧下に着替え終わると丁度、俺の従士は袋に入った甲冑を引きずって戻ってきた。従士が黙々と主人に鎧を着せ、俺の体は足甲、胸甲、手甲と、順番に白銀色の金属に覆われてゆく。そんな中、既に準備を終えた全身鎧の騎士がこちらに話しかけてきた。

「ああ…くそっ!くそっ!本当に俺達このまま死にに行くのかよ…!!」聞き覚えのある声。以前からの同輩の騎士だった。「…騎士の癖に、死ぬのは怖いか」「そ、そんなわけあるかよ!…だけどよ…確実に負ける戦いに、ただの足止め役として行かされるなんて想像してなかった…いくら栄光だ名誉だと言葉を飾ろうが、結局そういうことだろ?!」「だが、俺達の犠牲はあの都市の人々を守るためだ。お前には居ないのか、大切な人間が」「……畜生っ!あと少しであの伯爵の娘を娶れるところまで来れたってのによ…!」「…俺は、必ず生きて戻る。愛する人間の為に。その為なら…かつてお前達に子狼と馬鹿にされてきた俺は、大狼にでもなるさ」「……はぁ? ちっ、最後までわからねえ奴だったぜ……」

……ふっ、ずいぶん気障な事を言ったものだ。これもあの夜、スカーレットが狼、狼と連呼したせいだ。だが、それほどの意気込みで自分を奮い立たせて戦わなければ。俺達が護るあの都市には彼女もいるのだ。

 たとえこの先に死が待っていようとも、彼女と共に在った騎士として、彼女が愛した人間として、最後まで戦おう。親父と同じように、誇り高く……

…そして、敵の進路に立ち塞がり待ち構えた我々の眼前についに敵軍が現れた。重騎兵が主力のこちらに対してあちらは歩兵中心の編成で、装備も前時代的であったが、数ではこちらの倍を優に超えていた。敵が視界に入った瞬間、周囲に緊張が走ったが、それぞれの部隊長は冷静に弓兵に一斉射撃の号令を出した。

一射、二射と夥しい数の矢が敵軍に浴びせられるが、こちらからは前列で倒れる兵が見える程度で、戦列が薄くなる気配もなく、こちらへの歩みを止める気配も全くない。……これが、奪還と報復の意志で一丸となった軍隊か。

「見て判っただろう!!この戦力差では半端な時間稼ぎの戦法は無為に命を散らすだけだ!騎士達よ、今、この瞬間に、一丸となりて全てを賭けよ!!!」

そして、敵の弓兵が射撃体勢に入ったのを合図に、騎士長が一斉突撃の号令を出して騎士達は馬を全速力で駆けさせた。

騎士達の雄叫びと、馬が一斉に雪面を踏みつける音でけたたましい轟音が耳を劈く。兜からの狭い視界は不規則に揺れ、考えられるのは敵に向かって突撃する事のみ。円錐状の重く長い騎兵槍の穂先がぶれぬように、右腕の渾身の力を込めて腰だめに固定してひたすら駆ける。…大丈夫だ。馬上槍試合と同じ要領だ。自分に言い聞かせながら敵の隊列へ近づいてゆく。

————!!一瞬、肩から先が千切れたかと思うくらいの凄まじい衝撃が右腕に走った。だが……どうやら、騎兵突撃は成功したようだ。敵兵の数人を突き倒した感覚がした。すぐに体勢を立て直し、同じように助走をつけての突撃を繰り返したが、三回目で足止めを喰らい、敵兵の鉤状の槍が俺の鎧の繋ぎ目に引っかかり、そのまま引きずり落とされた。……だが、雪面だったことが幸いし、なんとかすぐに立ち上がられる程度の打撲で済んだ。…まだやれる。不要になった騎兵槍を放し、腰に差した直剣を抜いて応戦した。

敵の装備は鎖帷子、下級兵に至ってはただの布鎧なのに対しこちらの騎士の装備はほぼ全身を覆う鎧。白兵戦においても戦闘面ではこちらが圧倒的に有利だった。…これはいけるかもしれない。しかしそう思った瞬間、敵兵の槍が左肩の鎧の隙間にねじ込まれ、俺の肩の肉が深々と抉られる感覚がした。

…………!!!!!

…………………………………

「オオオオオォォォォォォォ!!!!!」

その直後、視界が断続的に赤く染まり、全身の血が沸騰するような高揚感が俺を支配した。一瞬だけ感じた激痛はすぐに薄れていった。俺はすぐさま叫びながら左肩を刺した敵兵に体当たりし、首筋に剣を深々と刺して殺した。

その後、続けざまに五人の敵兵が襲ってきたが、俺は恐怖もなく、怯まずに立ち向かった。

一人目は剣で相手の武器を弾き、顔面に刃を突き立てて殺した。二人目は比較的重武装だったので、剣の柄頭で何度も殴りつけて倒し、首の隙間に自分の剣を突き刺して殺した。三人目は剣でこちらを突いてきたが、俺は強引に剣を持つ手を掴み、引き寄せ、投げ倒し、相手の剣を鎖帷子ごと胸に深々と刺してやった。…この間に俺の兜の留め具が外れた感覚がしたが、気に留めなかった。四人目はまた頭を覆う兜を着けていたので両手で無理矢理目の部分の隙間をこじ開け、右目から指を根本まで突っ込んで殺した。五人目の小柄な敵兵は身に纏っている鎖の服を左手で掴み、千切れるまで相手を雪面に叩きつけ、鎖が千切れた後にすっかり大人しくなった相手を落ちていた槍で心臓を刺して殺した。

なぜか、敵のみならず味方までこちらを見て怯えたかのように後ずさりしている。どうした、どうした、我々は都市を、人々を、国を護るために戦うのだろう。殺せ、殺しまくれ。自分以外のために戦うのであれば残虐さなど問題にならんだろう。殺戮の戦士となるのだ。ここで奴らを殺せなければどの道お前らは死ぬんだ。

天候が悪くなったのか、先程よりも視界が色あせている気がする。噴き出す血飛沫も今や赤よりも黒に近い。だが俺はまだまだ殺せる。痛みも疲れも感じない。これが本気の戦いで得られる感覚なのか……?

……いつのまにか、周囲を敵兵に囲まれてしまったようだ。必死に戦い続けているためはっきりしないが、濃さの違う灰色の二種類の旗に囲まれている。だが、俺は諦める訳にはいかない。スカーレットの許まで、生きて戻ると約束したんだ。だからお前等を全員殺して、帰る。そう、お前等は俺達ふたりのために……全員、死ね。

(…黒色の血飛沫の描写、暗転から徐々に戻る)

……気付いたら、あたりはすっかり静かになっていた。濃灰色の空の下に、ぽつぽつと黒が混ざった白色の海。そこにつやのある金属片が浮かび、ところどころ小さな槍や剣が刺さっていた。…俺達は勝ったのか?だが、俺の他には誰も立っている人間がいない。

しばらくすると、敵が来る音が聞こえて来た。聞こえた方向を向いた。俺よりも一回りも二回りも小さい小人の軍がこちらへ来るのが見えた。…北の国は、あんな小さい子供まで国のために駆り出すのか?なんてばかな… だが、相手が子供だろうが女だろうが俺は殺す。あいつら全員殺せば、俺は胸を張ってあそこに帰れる。

…………何の為に?

……そうだ、あの女の元へ戻るためだ。

(かろうじて色が見える不明瞭なCG)

そう、あの赤目の女だ。あの女の所に戻らなければいけないんだ。あのひどく哀れな、乳だけやたら大きい白髪の赤目の女。男に身を売って生きている女。だからこの俺があの女のところへ戻って、もっと支えてやらねばならん。約束したんだ。あの赤い部屋のなかで二人きりで。ああ、赤い部屋。赤い服。赤い頭巾、赤い目。赤い葡萄酒。….ああ、あとあいつにやった赤い珠の付いた十字もだ。あの女を思うと、目の前には全く見えないあの強烈な色を思い出す。赤、赤……ああ、そうだ。

赤……スカーレットだ。あの女の名前は。

(ガウス度が下がる)

ああ、なんて安直で、それでいて愛しい響きの名前なんだ。名前を思い出した瞬間、はっきりと感覚や映像が頭に浮かぶ。涙を浮かべる赤目。柔らかい抱擁。白い肌に俺の全てを捩り込む感触。ああ…またヤりたい。また感じたい。また触れたい。…また見たい……

……また会いたい…………

(過去→今の別れの時のCGで文字無し)

(空白で空を映す)

…………また会おう。彼女を、独り置いていかないためにも。こちらへ進軍する、あの軍勢を全て追い払えば約束を果たせる。そうすれば俺はまた、彼女に会えるんだ……

スカーレットの事を想い、俺は記憶も目的も鮮明に思い出す事が出来た。そう、たとえ味方側が俺独りでも、ここから勝てば全てを守ることができる。可哀想だが、あの小さい兵士達が相手なら決して不可能な事ではないだろう。

……今の俺はどうやら、捕虜や苛烈な戦場を生き抜いた兵に降りかかると言われる精神世界の呪いに罹ってしまったようだ。頭も手足も尋常の感覚とは全く異なるうえ、見た目も暗く不明瞭でぼやけて見える。だが、それも呪いのせいだろう。俺は以前から上衣も脚衣も手袋も靴も黒で統一していたはずだ。……とにかく、生きて戻ってから考える事だ。

小人の軍隊が、小人の上官の号令で一斉にこちらへ駆けてくる。決死の形相で、殆ど悲鳴に近い雄叫びを上げながら必死に走る。それを受け、俺は彼らの倍以上の速度で走り出す。俺が転がり込めば、彼らも連鎖的に転ぶ。俺が腕を振り回せば、彼らは吹き飛んでゆく。…はは、今の俺はまるで積み木を散らかす子供のようなものなのだろうか…?この軍勢が戦意を失って退却してくれればそれでいい、だから剣や槍は使わずに体一つで戦う。どのみち俺の手に合うような武器は雪に埋もれたのか、どこにもないのだから。

無邪気な子供のように暴れるだけで、次々と敵兵が倒れていく。矢も、剣も、槍も、彼らの体に合った大きさでしかなく、俺にとってはほんの小さな釘程度でしかない。傷付いても、また新たに血が沸く感覚がして痛みが消える。そう、この敵が全員諦めるまで戦い続けろ。必ず生きて帰るんだ。俺が戻ると信じ、あそこで待ち続けている、彼女のために————

戦いながら、俺はこの決意を込めて大きく叫んだ。その叫び声は何故か狼のように、長く甲高くはるか遠くまで響いた。

(異形の手、黒い血飛沫、暗転。)

(最期のCG、部屋で虚ろに待つスカーレット)

「……大丈夫。きっと帰ってきてくれる…」

「だってあなたは…………」

「優しい狼さんだから。」(狼の赤瓶の中身を注ぐ女の手)

(赤い液体が注がれるワインの水差し)

(零れるワインの液体から赤いシルエットの狼)

(異形の赤腕と血飛沫)

扉絵(文字なし)

「赤ずきん」(タイトルのドイツ語意のネタばらし)

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POSTEDMay 24, 2021
ARCHIVEDJun 10, 2026