no preview
DESCRIPTION
ナシラとイムレがラグラウス邸を訪れた日の翌朝、ふたりはモリーの後について使用人用のダイニングルームへ向かった。
支給された真新しいメイド服に身を包んで廊下を進んでいくふたりの姿は、この屋敷に仕えるメイドとして何の違和感もない。
ふたりが見せる神妙な様子も、新しい職場にやってきて、いくばくか緊張しているようにしか見えはしない。
だが少なくともナシラに関しては、見た目からは伺いしれない葛藤を心の内に抱えているのだ。
ここは見知った場所……かつての自分が慣れ親しんだ邸宅である。
そうだというのに今は、まるで異国の土地を訪れているような心細さを感じる。
いつも堂々とした立場で歩いていたはずの屋敷の廊下を、今日は不安と羞恥にうつむきながら歩いている。
歩むごとに、ふわりと揺れるメイド服のスカートがタイツにぴったりと包まれた両足を撫でる不思議な感覚。
視界をよぎるエプロンのフリルのディテール。
いやがおうにも自分がメイドとなってこの屋敷にいるという事実を思い起こさせる。
高鳴る鼓動を悟られぬようにわずかに羞恥に染まった顔を下に向けながらも、気がつくとナシラは、そこかしこにある反射するものに……今の自分の姿を映し出すものに視線を向けてしまっている。
そこに映るのはどこからみても、南方人のメイドの少女でしかない。
「こちらですよ。ふたりとも」
そう言ってモリーが笑顔で振り返った。
その様子にはナシラの正体を疑っている様子は微塵も感じられない。
どれだけ顔立ちが似ていようとも、目の前の南方人の少女が屋敷の主の長子と同一人物であることなど、想像することもできないに違いない。
ナシラは既に、堂々としている限り自分の正体が露見するということを心配する必要がないということに気が付き始めていた。
既にローダンでの生活でナシラは見た目通りの、パナパウ人の少女としてどこにもおかしいところのない立ち居振る舞いができるようになっているのだ。
残る問題は見知った顔の前でも素知らぬフリをして、自分の役割を演じることができるかどうかということである。
きっと自分にはそれができるはずだ。
ナシラの胸の高鳴りは不安だけによるものではなかった。
皆の前でナシラとして振る舞い、そう見られるということに対してのどこか痛快な、憧れのような気持ちが、確かに心の内に存在していた。
やがて使用人用のダイニングルームが見えてきた。
そこには既に他の使用人たちが集まっているはずである。
扉の向こうに待ち構えている物事を想像して、思わずきゅっと背筋を伸ばした。
モリーに続いて部屋に足を踏み入れると大きなテーブルを囲むように粗末な木のイスがいくつも並べられている。
使用人達が普段、気軽に会話や食事を交わすくつろぎの場である。
部屋の中に響いていた談笑の音が静まり、使用人たちの視線が一斉にナシラたちの方を向いた。
注目を浴びて、ナシラはどきりとする。
その視線を受け止めるように、ナシラとイムレの前に立ったモリーは、和やかな調子で皆に告げた。
「皆さん、今日から私たちと一緒に働く新しい仲間を紹介しますよ。こちらがイムレ、そしてこちらがナシラです」
モリーの紹介を聞くと、イスに座っていた使用人達は立ち上がって姿勢を正した。
「さ、みんなにご挨拶して」
モリーがそう促すと、イムレが一歩前に足を踏み出した。
イムレは微笑んで頭を下げてから、いつもと変わらぬ落ち着いた様子で自己紹介をした。
それとなく目前の使用人たちの様子を伺うと、いたって穏やかで打ち解けた様子である。
イムレが言い終えるとモリーはナシラに視線を向けた。
ナシラは使用人たちの視線が自分に集まるのを感じながら、息を吸い込むと一歩前に出た。
「はじめまして……ナシラと、いいます。皆さん、よろしく、お願いします」
ゆっくりと、歌うようなパナパウの訛りの入った言葉で、絞り出すように話し始めた。
使用人たちは、ナシラが初々しい様子で一生懸命に言葉を絞り出す様子に、自分たちも徐々に緊張を緩め温かい微笑みを浮かべ始めた。
「なかなか可愛らしい子ね」
と誰かが小声で囁く声がナシラの耳に入った。
そうかと思えば年かさの使用人の中には、こんな若い子が働きに来るなんて、とでも言いたげな心配そうな表情を浮かべている者もいる。
ナシラは周囲の好意的な反応に少しだけ安堵するとともに、今のところ自分の正体について何らの疑われている様子もないことに胸を撫で下ろした。
実際に使用人たちの前に立ってみても、どうやら自分の正体をうまく隠しおおせているということを確認することができ、ナシラの胸の内の不安は少しずつ落ち着いていった。
その代わりに高揚感にも似た奇妙な感覚がその場を埋めていく。
ほんのりと羞恥を伴う、自信とも、興奮ともつかない感覚だ。
ナシラが話し終えると、モリーはふたりを振り返り優しく微笑んだ。
「さあ、これでみんなとの顔合わせも済みましたね。安心して。みんな親切な人たちよ。困ったときはすぐに助けてくれるわ」
ナシラははにかんで、こくんとうなづいた。
イムレはその横でいたって朗らかな表情を浮かべ、モリーの指示を待っていた。
モリーはふたりの顔を眺め、早速仕事についての説明を始めた。
「それじゃあ、まずは簡単な仕事から覚えてもらうわね」
そう言うとモリーは、ふたりに今日の仕事の内容を説明し始めた。
まずは邸内の掃除や食事の準備の手伝いなど、比較的簡単な作業がふたりに割り当てられた。
「他の人の働きを見て、一日の間にどういう仕事があるのかを覚えるようにするのよ。私の言っていることがわかる?」
そんな風にモリーは、メイドの仕事にナシラがはやく順応できるように注意すべきことを説明してくれた。
ナシラの拙い言葉遣いを慮ってなのか、ゆっくりと丁寧に話してくれた。
「わかります……みんな見て、仕事覚える……がんばります」
ナシラは、モリーの言葉を一生懸命に理解しようとしている風に、ぎこちなく返事をしてみせた。
言葉がちゃんと伝わっていることに安心し、モリーは具体的な作業指示を始めた。
「さてナシラ、あなたには食器を洗って、それから棚に戻してもらうわ」
うなずくナシラの横で、別の若いメイドがイムレに声をかけた。
どうやらイムレナシラは別の仕事が割り振られるようであった。
新人はベテランと組になって仕事を覚えていくというのは、いたって合理的な方法であろう。
ナシラが年かさで経験の長いモリーと組むのは、イムレの方がここで働くための経験を積んでいると判断されたからであろう。
確かにメイドとして働く上で、ナシラはイムレよりもずっと諸事に慣れておらず、何よりログレス語すら覚束ないのだから、当然の判断と言える。
「じゃあナシラ、頑張ってね」
イムレはナシラの肩をポンと叩くと自らに割り振られた仕事に取り掛かるためにその場を去っていった。
ナシラの胸にほんの少し心細さがもたげてきた。
考えてみればこれまでナシラとしての経験を重ねる中で、いつもイムレが傍にいてくれていたということを、ナシラは思い出した。
だがイムレの助けがなくとも、ナシラは何とかうまくやれそうな気がしていた。
正体が露見する恐れがないのであれば、拙い言葉も、不慣れな仕事も、ナシラにとって問題になるようなことではない。
いずれ、今のナシラにできることは、なるべくはやく仕事を覚え、新人メイドという立場に適応することだけなのだ。
ナシラは自分を力づけるようにぐっと拳を握りしめ頷いてから、モリーの後に続いた。
(つづく)