パナパウから来た少女 〜クレンターニャの秘術〜 #12 パーティでの邂逅
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その夜、ラグラウス邸のホールは華やかな光に包まれていた。
豪華なシャンデリアの下に、さまざまな賓客が集い、上品な笑い声と音楽が響きわたっていた。
幾人かのラグラウス家のメイドが給仕として、賓客達の間を縫うようにして立ち働いていた。
その中に、明るい褐色の肌とまっすぐで艷やかな黒髪をポニーテールにまとめた少女ナシラの姿もあった。
他の使用人達と同じラグラウス家のメイドの制服に身を包み、スカートとフリルのついたエプロンを緩やかに揺らしながら忙しそうに立ち働くナシラであったが、心なしかその様子は普段のナシラとは少し違っている。
頬には薄く赤みが差しており、その瞳はわずかに伏せられ、視線を周囲にさまよわせながらも、決して賓客達とは目を合わせないようにしているようだった。
メイドというものは宴の主役でもないのだから、必要以上に目立たぬように立ち振る舞うというのは当然のことであったが、彼女のどこか気後れしたような様子は、そういうこととも少し違う事情があるようであった。
言ってしまえばそれは、この場に集う賓客達の中にはエヴランの顔をよく見知っている人物も数多いるということである。
そしてもちろんそれだけではなく、今日この場には、永らく海外にあったエヴランの父親、レオナー・ラグラウスが久方ぶりに姿を見せているのである。
レオナーが会場の一角に立ち、来賓たちと談笑する姿をちらりと見やると、ナシラは一層緊張し、心臓が高鳴るのを感じた。
なるべく彼の視線に入らないように、顔を向けないように、できるだけ目立たぬように歩き、ともすれば体を壁際に寄せて隠そうとしてしまう。
ナシラはメイドとして、背筋を伸ばし、丁寧な身のこなしを心がけつつも、どこか怯えるように小さく体を縮めながら周囲の気配を探っていた。
見覚えのある顔がちらほらと目に入るたび、ナシラの胸の奥に羞恥心が押し寄せてくる。
過去に彼らと交わした会話の記憶が頭をよぎり、いたたまれないほど恥ずかしくなる。
しかし、周囲の賓客たちはナシラの存在に気を留めず、それぞれの会話や飲食に夢中になっていた。
当然である。
貴族のパーティの席で、数多くいるメイドの存在が、いちいち注目されるはずがない。
ときおりナシラに視線を投げかけてくる者もいたが、それは黒い髪や褐色の肌のメイドを珍しく思っているようなものであった。
例えそれが年若いメイドに対する好色めいた視線であったとしても、ナシラにとってはまだましというものであった。
とにかくナシラにとっては、この何の変哲もない外国人のメイドの少女の奥に隠れた別の存在に誰も気がつくということがないことが何よりも大事なことなのだ。
だがナシラの中には、それとは別の感情も確かに生まれている。
それはローダンで、そしてこれまでの屋敷での生活で、ナシラとして認められるうちに少しずつ実感するようになった感情だ。
それは、かつての自分を良く知る人々の間で、全く異なる別の人間として振る舞うことに対する罪悪感と羞恥心がないまぜになったような奇妙で甘美なな心地良さだった。
夜会もたけなわとなり、賑やかさが満ちていく会場を、ナシラはドリンクを盆に載せて運びながら静かに歩いていた。
そこに、唐突に背後から声をかける者がいる。
「ねえ、そこのメイドさん、ちょっと待って!」
聞き覚えのあるその声に、ナシラはハッとする。
だが無視するわけにもいかず、ナシラは小さく深呼吸をすると、そろそろと振り向いた。
明るい笑顔を浮かべた少女がナシラに視線を向けていた。
年の頃はナシラとさほど変わらない。
美しい金色の髪が揺れ、華やかなドレスがシャンデリアの光を受けて輝いている。
ナシラは……エヴランは、その少女をよく知っていた。
マルグレータ・ヴァーレン。
ログレスの主要港湾の荷役業務を独占するヴァーレン家の長女だ。
ヴァーレン家は、海運事業を展開するラグラウス家とは自然関係が深くなり、エヴラン自身もマルグレータとは幼い頃から見知った仲である。
女性でありながら実力でアカデミーの首席となる等、才媛の名を欲しいままにしている。
弟がいるためヴァーレン家を継ぐことはないにしても、その家柄や才能からは将来間違いなく王国の重責を担うことになるだろう。
その彼女が今、メイド姿のナシラの目の前に立っている。
着飾った彼女はいつにも増して気品に溢れ、周囲の目を惹かざるにいられない輝かしい存在に見えた。
ナシラの胸に緊張と、ほんの少しのスリルが湧き上がってくる。
メイドらしく控えめに視線を少しだけ下げ、ナシラはマルグレータに相対した。
緊張を感じながら、素知らぬ風に、装う。
「そのお飲み物、いただいてもいい?」
マルグレータは上品で屈託のない口調でそう告げた。
その表情からは、目の前のメイドに対して、何か特別な感情を想起した様子は窺えない。
「はい……どうぞ」
ナシラは平静を装いながらそう答え、トレーを彼女の前に差し出した。
疑いを得られないためには、できるだけ自然に振る舞わなくてはならない。
だがその時、マルグレータは表情を変えた。
何かに気がついたかのように瞬きをしてから、じっとナシラの顔を見つめる。
ナシラは一瞬、正体がばれたのではないかと身構えた。
心臓が、大きく跳ねた。
思わず目を伏せ、動揺を隠そうとする。
マルグレータが口を開いた。
「あれ?なんだか不思議な香りがするね」
彼女は言いながら、不思議そうに匂いを嗅ぐ仕草をしてみせる。
「どこの香水かしら?すごく素敵」
ナシラは一瞬呆気にとられ、それからホッとするような気持ちがこみ上げてきた。
マルグレータはナシラの顔を見て、その正体に気がついたというわけではなかった。
ただ単にナシラの身体からほのかに漂う珍しい香りの方に関心を持ったというだけだったのだ。
美しいマルグレータに自身の香りを称賛され、ナシラは恥ずかしさと共に心のどこかで嬉しさを覚えた。
マルグレータは興味津々の表情でナシラを見つめ、ついっと身体を寄せてきた。
「あなた、初めてよね?新人メイドなのね?それに……南洋群島から来たの?」
マルグレータに息遣いまで感じられるほどに間近に寄られ、大きな瞳で見つめられて、ナシラはどぎまぎしながら頷いた。
「はい……パナパウから来ました」
マルグレーテは目を輝かせて続ける。
「やっぱり!パナパウの、どの島?」
「バリシャ島……です」
ナシラは、自分の出生証明書に記載されていた出生地の内容を思い出しながら、答えた。
「バリシャ島!知ってるわ。素敵なところよね」
マルグレータは目を輝かせ、両手を胸の前で組んで少し興奮した様子でそう言った。
南洋群島の島々はときに感性の高い芸術家や、ログレスでの生活に疲れた富裕階級の間では憩いの地ともなっている。
陰鬱なログレスとは異なる暖かい気候。
明るい日差しに照らされた美しい青い海や白い砂浜。
マルグレータもおそらくそうした光景を想像しているのだろう。
「パナパウには一度行ってみたいと思っていたの。暖かい南の風を浴びたら、新しい自分に出会えそうな気がして……ね、あなたはいつこちらに来たの?」
矢継ぎ早に発せられる問いかけにナシラは、ドギマギした。
知性に溢れたマルグレータの鋭さの前では、すぐに取り繕うことができなくなってボロを出してしまいそうだ。
だがその時、不意にナシラの背後から、低く響く声が聞こえた。
「マルグレータ、こちらにいたのかね?」
その声を耳にして、ナシラは一瞬に硬直した。
背筋が凍る思いだった。
それはレオナー・ラグラウス……エヴランの父親の声だった。
マルグレーテは視線をナシラの背後に向けて、にこやかに挨拶をした。
「ラグラウスさん、こちらにいらっしゃったんですね」
父親は穏やかに微笑みを浮かべながらマルグレータに声をかけた。
「ああ、マルグレータ。楽しんでくれているかね?」
レオナーにとってマルグレータは幼い頃から良く知る友人の娘である。
幼い頃からこの屋敷にも良く遊びに来ては、母親を早くも亡くしたエヴランの遊び相手をしてくれていた。
したがってレオナーからすればマルグレータは実の娘のように思える存在であった。
ナシラは硬直したまま、レオナーが背後から自分の脇を抜けて前に出る気配をごく間近に感じていた。
息を詰めたままかろうじて横目でその顔を見上げると、ナシラに少しも注意を向けることなく、ただマルグレータに暖かい眼差しを向けているレオナーの横顔が目に入る。
ナシラは胸の奥で高鳴る緊張を押し殺しながら、何とかメイドとして不審を持たれないように、慎ましく、礼儀正しく立ち続けた。
手に持っているトレーが不安と緊張でほんの微かに震えていたが、その様子はレオナーの目にはほとんど映っていない。
それどころか彼はナシラに一瞥すらくれなかった。
そしてそれはマルグレータも同じことである。
ふたりは傍らに控える使用人の少女の事など完全に目に入らないかのように互いの会話に興じ始めた。
そのうちに、マルグレータはふと思いついたようにレオナーに尋ねた。
「ラグラウス様、そういえば今夜はエヴランはいらっしゃらないんですか?」
その問いに、レオナーは少し肩をすくめた。
「ああ、あの子は今は少し事情があってね。王都には居ないんだよ」
ナシラはそのレオナーの答えを聞いて、わずかに体を震わせた。
確かに、この王都には今、エヴラン・ラグラウスという人物は、存在していない。
そのことについてエレアは一体どのような説明でレオナーを納得させているのだろうか。
少なくともレオナーの言葉はその真実を知っていて何かを隠そうというような様子には感じられなかった。
マルグレータはレオナーの答えに心なしか少し寂しそうな表情を浮かべ、それから微笑みを浮かべて言った。
「まあ、そうなんですね。今夜は久しぶりにエヴランの顔が見られると思って楽しみにしていたのに」
マルグレータのその言葉を聞いて、ナシラはそっと息を呑んだ。
それは多分に社交辞令を含む言葉であろうが、マルグレータがエヴランについてそのように言うのは意外なことでもあり、嬉しいことでもあった。
「すまないね。エヴランにはマルグレータが残念がっていたと伝えておくよ。あの子もそれを聞いたらきっと喜ぶだろう」
父親は軽く頷いてそう応じると、再び周囲に視線を向けた。
「さて、まだお客さんがたくさんいらっしゃるから、ご挨拶を続けないといけないな」
そう言うとレオナーは、マルグレータにもう一度丁寧に微笑みかけてから踵を返し、ゆったりとした足取りでその場から去っていった。
レオナーが完全に視界から消えるまで、ナシラは息を詰めたように立ち続けていた。
レオナーの背中が遠ざかっていくと、ようやく緊張が少し和らぎ、肩の力を抜くことができた。
レオナーを目前にして、何事もなくうまく切り抜けたことにほっとしながらも、実の父親が目前にいる自分の存在にまったく気づかずに立ち去ったということに、妙な寂しさのような気持ちがナシラの胸の内に漂っていた。
ナシラと同じようにレオナーの背中を見送っていたマルグレータが再びナシラに目を向け、優しく微笑んだ。
「なんだか緊張しているみたいね。大丈夫よ、あなた、きちんとお仕事をしているわ」
自身の緊張がマルグレータに気がつかれていた
ナシラは恥ずかしそうにうなずき、小さな声で答えた。
「ありがと、ございます……」
「またお話ししましょうね。あなたの故郷のことをもっと聞いてみたいわ」
そう言って、他の賓客との談笑に戻っていくマルグレータの後ろ姿を黙って見送ると、ナシラはホッとため息をついた。
それから自分も静かにその場から離れ、給仕の仕事へと戻る。
ふとした折に、レオナーやマルグレータ、他の賓客たちが互いに談笑する様子を盗み見ながら、ナシラは今の自分の置かれた立場というものを改めて痛感していた。
今、この場にいるのはただの下層階級の住み込みの使用人でしかないのだ。
貴族や富裕な階層の列席者たちから見れば、いや、一顧だにすらされるような存在なのである。
端からそうとしか見られていない以上、自分の正体が露見することなどあり得ない話であった。
それどころか唯一、自分に関心を示したマルグレータでさえも、ナシラが纏う珍しい香りに惹かれ、その故郷である南洋の夢のような風景への憧れを述べるだけであった。
どうしてか少し物悲しいような気持ちが胸のうちに渦巻くのをナシラは感じていた。
父親や幼馴染ですら自分のことを認識できなかったという事実は、自分がうまくやりおおせたという気持ちよりも、そうした人々から……彼らが所属する場所から自分が遠ざかってしまったという感覚であった。
ナシラとしての生活に慣れきった今の自分からは、本当にかつて自分がこの華やかなパーティの列席者たちのうちの一人であったのか……それすら信じられないようなことのように思えてくる。
ナシラは思った。
今夜、どれだけ多くの知人が邸に集まっていようとも、誰もを自分をエヴランとしては見ていない。
今夜こにいるのは言葉も満足に話すことのできない南洋出身の貧しい住み込みの使用人、ナシラでしかないのだ。
いや、ナシラが仕える人々からすればその名前すら重要ではない。
ただのメイドというだけで、彼らにとっては充分なのである。
その現実が、羞恥とともに彼女の胸を締めつけていた。
けれどもナシラはその感覚が、自分の心の奥底でじくじくと何かを満たしているのを感じていた。
今夜この場でこうなるということを、心のどこかでナシラは望んでいたような気がしてならなかった。
今のこの状況……他の使用人達からは健気で可愛らしい少女として親しまれていた自分が、今やかつての自分の知人……肉親や親しい幼馴染みからですら、単なる使用人達の中に埋没するだけの存在となってしまった……まるで自分が完全に別の存在に変わってしまったような錯覚を覚えてしまう。
誰からもそのように見られ、そのように振る舞い、公的書類すらそのようになっている自分。
以前の自分から完全に解放され、この場にただ隠れるように存在し続ける自分……それこそが、エヴランであった自分が本当は求めていたものなのかもしれない。
夜会の喧騒の中、ナシラは少し俯き、しばらくの間、胸の奥に満ちる複雑な感情に想いをはせた。
それから気を取り直すように顔をあげると、再び控えめに、礼儀正しく賓客の間を歩き始めた。
(つづく)