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ある日の午後のことだった。
午前中のルーチンワークを終えたナシラは、ひとり母屋の廊下を歩いていた。
エレアの執務室に呼びつけられたのだ。
普段、エレアはナシラのような新人メイドと直接やりとりをするようなことは皆無である。
家宰であるエレアは全ての使用人の上に立つ管理者であり皆からは畏敬の念を持たれている。
彼女はラグラウス家の経営する海運を始めとする様々な事業の舵取りまで担っているのである。
そのエレアが執務室に呼びつけるということは、ナシらにとって何か特別なことが待っているということは間違いない。
エレアが一体自分に何をもたらそうとしているのか、ナシラには全く予想もつかない。
これまでの経験からすれば、それはナシラにとって思いもよらぬ、羞恥を伴いながらも刺激的な提案である可能性が高かった。
廊下を歩むナシラは期待と不安を感じながら漠然とそんなことを考えていた。
やがてエレアの部屋の前にたどり着いたナシラは立ち止まり、扉を軽くノックをした。
「入ってきなさい」
部屋の中からエレアの柔らかな声が聞こえた。
ナシラは深呼吸をしてからドアを開けて、執務室に足を踏み入れた。
デスクの向こうで、エレアは何事か書類を作成していた。
ナシラが入ってきても顔を上げることなく、ひっきりなしにペンを動かしている。
ナシラは一礼してからそろそろとデスクの前まで進むと、手を行儀良く体の前で組んで、エレアが自分に声をかけるのを待った。
やがてエレアは手元の書類を書き終えると、ペンを置き、やっと顔をあげた。
「待たせてしまってごめんなさいね、ナシラ。今日は少し大切な話があってあなたを呼んだの」
じっとナシラを見つめながらエレアは言った。
ふたりきりの場であっても、エレアはあくまでもナシラを見た目通りの下級のメイドとして扱うつもりであるらしかった。
それからエレアは顔に微笑みを浮かべると、穏やかな声で問いかけた。
「……その前にまずはあなたの近況を聞かせてちょうだい。そろそろこの邸でのお仕事や暮らしに少しは慣れてきたかしら?」
エレアの問いにわずかに戸惑いの色をみせた後、少し考えてからナシラはおずおずと答えた。
「はい……みんな、優しくしてくれる……だから、少しずつ慣れる、ました」
ナシラの答えを聞いて、エレアは微笑みを浮かべたまま、小さく頷いた。
エレアがそうしたのと同じように、ふたりきりのこの場でも、ナシラが自分の置かれた立場通りに答え、振る舞うことに満足したようであった。
エレアはゆっくりとナシラの全身に視線を滑らせた。
ことの始まりからエレアはときおりそうしてみせる。
今のナシラの様子を、その内面までも見定めようとするかのような視線だ。
エレアはナシラの姿を見つめ、口元に微笑みを浮かべながら、心の底から満足したようにもう一度ゆっくりと頷いた。
「そう、あなたはすっかりナシラね」
エレアが静かに紡いだその言葉と、どこか愛おしむようなその視線が、ナシラの心にじわりと染み込んできた。
エレアにそんな風に言われたことに、彼女が自分をナシラとして認めてくれているということに、不思議な感情がこみ上げ、心を満たしていく。
それはほのかな誇りともいうべき感情だ。
エレアは目が細ませて、さらに柔らかい口調で続けた。
「今度のパーティでも、あなたには当家のメイドとしての役割をしっかりと果たしてもらいますよ。期待してますよ、ナシラ。あなたは来賓の誰からも、当家の名に恥じない立派なメイドとして見られなくてはなりません」
エレアの言葉を聞いて、ナシラは戸惑いに目を見開いた。
「あの……パーティって、何のこと、ですか?」
ナシラの質問に対し、エレアは一瞬不思議そうな顔をして首を少し傾けてみせた。
「……ふふ、そうよね、ナシラにはパーティという言葉は少し聞き慣れないかしら」
そう言ってから、エレアは丁寧に説明を続けた。
「パーティというのは、このお屋敷で開かれる大きな集まりのことよ。近々、ご主人様が海外から戻られるの。それに合わせて、賓客を招いた盛大な催しが行われるのよ」
エレアは、外国人の少女に知らぬ言葉を教えるような言い方をしてみせた。
だが、それを気にするよりもナシラは、エレアの告げた内容の方に気を取られてしまっていた。
用務で長くログレスを離れていたこの家の主であるレオナー・ラグラウス……エヴランの父親の帰宅……それは、今の自分の立場が改めて試される瞬間が訪れることを意味していた。
もしその時にエヴランの姿が無ければ、一体どうなってしまうことだろうか。
だがエレアはナシラにはっきりと言った……パーティの席では立派なメイドとして見られなくてはならない、と。
つまりその時訪れてもナシラでいることが可能なのだと、エレアは言っているのだ。
それどころか、言葉の上ではナシラのままでその時を迎えるように求めている。
その時にエヴランがおらずとも問題にならないような手立てが講じられているとでも言うのだろうか。
そんなナシラの内心の葛藤など全く知らぬげにエレアは、ふと少し残念そうに目を伏せた。
「それにしても……せっかくご主人様が戻られるのに、エヴラン様がお屋敷にいらっしゃらないというのは本当に残念ね」
その言葉を聞いたナシラの胸に、何とも言いようのないゾワゾワした感覚が湧き上がった。
エレアは、ナシラを見た目通りに扱うというだけではなく、エヴランを自分とは別の存在として言及している。
そんな言われ方をされてしまうと、ナシラとしての生活に慣れ、このところすっかりと遠ざかってしまっていたエヴランという存在が、ますます遠くなってしまっていくように感じられてしまう。
それどころか、自分が本当にナシラという下働きの少女であって、エヴラン・ラグラウスは自分とは別の人間であるかのような錯覚すら怯えてくる。
ナシラは手を体の前で組んだ姿勢のまま、所在なさげにもじもじと体を震わせた。
少しの間エレアはそんなナシラの反応を上目遣いに見つめていたが、やがて顔をあげ言葉を続けた。
「……でも、今の私たちにはナシラがいてくれる。それだけで十分よ」
エレアの言葉を聞いて、ナシラはぴくりと体を震わせた。
ナシラとしての自分を必要としてくれるかのような物言いに、ナシラの心の中は、期せず羞恥の入り混じった不思議な高揚感に包まれた。
ふと、ナシラの頭の中に、華やかなパーティの会場で自分がメイドとして賓客に奉仕する様子が浮かんできた。
メイド服に身を包んで、着飾って歓談する賓客の間を目立たぬように動き回り、食事や飲み物を運ぶ自分の姿だ。
パーティの賓客達は、いずれもラグラウス家に何らかの関わりのある人々となるはずである。
エヴランの顔を知っている人物も少なくないことだろう。
そうした人々の前で、自分が下働きのメイドとして振る舞うのだ。
ナシラ自身がよほど動揺しない限り、その正体が露見することはない……そのことについて、今のナシラは自信を持っている。
だがそれは一体、どれほど恥ずかしいことだろうか。
ましてや、実の父親の眼前にメイド姿で現れることなど……想像しただけでナシラの頬は赤くなっていく。
万が一にも父が自分を認識したらどうすればよいのだろうか。
父が自分を見下ろしながら驚きの表情を浮かべる様子を想像するだけで、ナシラは顔が熱くなるのを感じた。
「不安なのね、ナシラ……でもこれは、あなたがメイドとしてこのお屋敷で働く限り、避けられないことなのよ。私の言うことが、わかりますね?ナシラ」
エレアが何を言っているのか……それはナシラにも良く分かった。
彼女は自分に選択を求めているのだ。
ここでそれを辞め、元の生活に戻るのか。
それともこの先もまだ……少なくともしばらくの間、この屋敷の下働きのメイドとしての生活を続けるのか。
選択を突きつけられたナシラは、思わず俯いて視線を下に落とした。
メイド服に包まれた細く頼りない……それでもやがて女性として花開く目前の控えめな曲線を備えた自分の体が目に入る。
エレアがそのように言うまでもなく、今のナシラにとってエヴランという存在は、遠くかけ離れたものになりつつあった。
それに。
エレアは恐らく、突きつけた選択にナシラがどのように答えるのかを、既に知っている。
ナシラは俯いたまま、おずおずと口を開いた。
「あ……あの……」
暫し間、逡巡したあと、ナシラは顔をあげてエレアを見つめた。
「エレアさま、わたし……パーティ、がんばります」
笑顔を浮かべたまま、ナシラの全てを見透かしているかのような視線を向けて、エレアは頷いた。
(つづく)