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【活動再開のお知らせ】生成AIと今後の活動について

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はじめに

いつもご閲覧、ご支援ありがとうございます。不燃ごみ太郎です。


まず、長いお時間お待ちいただきありがとうございます。この約一か月間の休止で自身の創作の意義を見つめ直し、自分が本当にやりたいことは何なのかを探し回りました。また以前の記事についても、思い付きで書いたような乱文にもかかわらず皆様にお読みいただき、コメントも多くいただきました。重ねてお礼申し上げます。


さて、本題に入ります。以前の記事でもお伝えしたように今回私が長期のお休みをいただいた理由は「生成AIの登場によって、創作の意義を見失った」からでございます。さらに言うと「生成AIの存在する時代に、全て手描きで描く価値などあるのか」という迷いです。この件については沢山調べ、考え、悩みました。そして私は生成AIの使用について以下の結論を出しました。


「生成AIを使いたい人は使えばいいし、見たい人は見ればいい」


「しかしながら、私が生成AIを作品に使用することは一切ない」


以下、なぜこの考えに至ったのかに述べていきます。たかが創作、されど創作。創作とは人の願いが具現化したものであり、それはやがて現実へと繋がっていくものです。ただの絵描き、それも成人向け二次創作者という卑しい身分でありながら、暑苦しいご高説を垂れ流すような長文になります。生成AIの是非は簡単な問題ではありません。「一体なにが人間を人間たらしめるのか」という人間の本質にも迫るような問いです。そして無論、この問題は正解のない問いであり、後に述べていくことも私個人の思想に過ぎません。それでもご興味のある方は読み進めてください。




生成AIの抱える二つの問題

まず、前置きとして現在生成AIの抱える問題を改めて把握していきます。生成AIには「法律上、倫理上の問題」と「芸術面での問題」のふたつの問題があります。これらを混同してしまうと思考が混乱してしまうため切り離して考えていきます。


一つ目の「法律上、倫理上の問題」については以前にもお話したように、それは私の迷いの本質ではありません。法律とは所詮、人間の創り出したものです。時代の流れで人間そのものが変われば、いずれ絶対的に見える法律も変わっていきます。これから先、仮にAIによる著作物の学習が完全な合法になろうと、名実ともにクリーンなデータセットが産まれようと、それは大した問題ではありません。なぜなら「どのような時代、どのような環境であろうと揺るがぬ信念を持つこと」こそが私が思う創作において最も大事なことだからです。


従って本記事では生成AIの「法律上、倫理上の問題」については一切考慮しません。これより先はすべて「生成AIによる創作物の生成において法律上、倫理上の問題が全てなくなった場合」を想定して進めていきます。つまり、「誰もが抵抗なく簡単に生成AIを使用して、手作りと全く同じものを作れるようになったら」と仮定して話を進めていきます。もちろん、我々一人一人が政治的問題に興味を持ち、討論を重ねることは大事です。しかし、それは私にできる最大限の貢献ではないと感じています。私にとっては「信念をもって創作の素晴らしさを説き、表現し続ける」ほうが大事であると考えたまでです。以上のことをご留意の上、読み進めていただければ幸いです。


生成AIは創作か?

では本命である生成AIの抱える二つ目の問題「芸術面での問題」についてお話していきます。具体的には「生成AIでは表せない、人の手で創られたものの価値の有無」と言い換えられるかと思います。この問題について確かな答えを持つ方は少ないかと思います。いわゆる「温かみ」や「情熱」そういった言葉の陰でなんとなく生成AIを敬遠している。そう感じている人が大多数でしょう。もちろん私もこの難題に対してはこれまでは同じくそのように感じ、見て見ぬふりをしていました。


まず、「そもそも生成AIは創作と言えるのか」についでですが、私は現時点では生成AIの行っている行為は「創作ではなく生産」であると思っております。生成AIは、ペン、カメラ、3DCGソフト、楽器、それらの創作の道具と部分的には同じです。「作者がアクションを行い、観測者が感じ取れるものを作り出すための道具」という点では同じです。では生成AIがそれらの道具と明確に異なる点は何か。それは生成AIは「努力を削減し、効率化するためだけに生まれた道具」であるということです。ペンは字や絵を通して世界を最もアナログに表現でき、カメラは現実を瞳と同じように切り取ることができます。3DCGソフトは現実に存在しないものをあたかも存在するかのように表現でき、楽器は聴覚を用いた特有の表現ができます。これらの道具にはそれぞれにしかできない表現というものがあり、それらの手段で世界を表現したいという願いから生まれたものです。しかし生成AIは「如何にコストをかけずに今までの表現技法を真似するか」の一点で作られた生産のための道具です。生成AIで作られるものはイラスト、音楽、小説、映像、などと多くありますが、そのすべてはこれまでにあったものの模倣の枠を超えることはできていません。少なくとも、現在において生成AIにしかできないような表現技法が普及してるとは全く言えないのが現状です。そして、生成AIを使った生産が今までの創作の模倣の枠を超えることは今後もない、と私は思っております。つまり生成AIは「新たな表現技法としての道具ではなく、生産を効率化するための道具」であると言えます。そしてさらに言うと「効率化の程度が極めて高い道具」であるとも言えます。効率化、という点でくくればデジタル描画ツールや原稿に文字を打つキーボード、カメラや電子音楽機器も同じように効率化のための道具です。しかし生成AIの膨大なデータセットを用いた効率化は当然、それらの比ではありません。これらをまとめて「同じ道具」としてくくるのは、「10も100も0以上」とくくるほどの暴論です。


では、生成AIによる「圧倒的な効率化」は悪なのでしょうか?我々が手作りの作品の裏に感じ取れる「努力」は善なのでしょうか?生成AIの様々な問題は「創作における努力の必要性」という点に帰結するかと思います。


「努力」の価値

創作において「努力」は必要でしょうか?生成AIによって「努力」を省き、効率化することは悪いことなのでしょうか?単刀直入に申し上げますと、私の答えとしては「記号として情報を効率よく伝えたいだけなら努力は不要」であると思っております。しかし裏を返せば「芸術として説得力を生み出すなら努力は必要」であるとも言えます。


ここで一度、創作物の持つ記号的側面と芸術的側面についての持論を説明します。私たちが日ごろから見ている様々な創作物は、記号と芸術というふたつの側面を持っています。例えば道路標識なんかは記号的側面の最たるもので、記号として誰にでもわかりやすく的確に情報を伝えることだけを目的としています。逆に、難解な現代美術などの芸術は人の心や世界の解釈を如何にありのまま伝えるかだけを目的とし、それは言うまでもなく芸術的側面の極致にあるものです。もちろん、その間に位置するものもあります。例えば何かを告知するポスターや商品の宣伝などは「行事や商品の詳細」という情報を伝えると同時に、「如何にそれが楽しいものか」という感情も伝えています。そして、世の中に存在するもののほとんどは「記号と芸術」両方の側面を持っていると言っていいでしょう。あらゆる創作コンテンツが「記号と芸術という両極の間にあるグラデーション」の中のどこかに位置しています。そんなグラデーションの中で、記号として何かを作ることに寄っていればそれだけで努力は不要であり、芸術として何かを作ることに寄っていればそれだけ努力は必要である。つまるところ、創作に記号的消費のみを求める人にとっては努力は必要なく、創作に芸術性を求める人にとっては努力は必要なのです。日々時間に追われてカップ麺を啜る人に、「そんな偽物のラーメンじゃなく本物のラーメンをスープから作れ」なんてわざわざ言わないことと同じです。これが私の持つ生成AIと手作りの使い分け、棲み分けの見解です。


そして、私の行っている創作活動は芸術に傾倒しているものでありたいと、そう願っています。


ではなぜ「努力」が加わることにより芸術として説得力が増すのでしょうか?こちらもさらに深堀りしていくと、私は大きく分けて3つの理由があると思っております。「無駄の美しさ」「歪の美しさ」「愛の共鳴」です。本来は一つずつ詳しくお話していきたいのですが、そうするとあまりにも長くなってしまうので、私の最も主張したい「愛の共鳴」以外はなるべく簡略化してお伝えいたします。


「無駄と歪みの持つ美しさ」

まず、「無駄の美しさ」についてです。人とは日常では効率化を重視し、無駄を省き、便利にすることを第一に生きています。日常の中における小さな無駄を人は嫌い、徹底的にそれを排除します。しかし、人とは不思議なものでそれと同時に「全く理解できない次元の無駄」を目の前にしたときに尊敬や畏怖の念を抱きます。例えば有名な映画「フォレスト・ガンプ/一期一会」では、主人公がただ無心に走りたくなったという理由だけでアメリカを何度何度も己の脚で走って横断します。現代では車でも横断しようだなんて考える人の少ないアメリカを、己の脚のみで横断する。そんな狂気的な行為。そこには何の意味もなく、生産性もなく、「無駄」そのものです。しかし作中で人々はそんな彼の無駄な行為に意味を見出そうとします。「世界平和のため?環境保護のため?性差別撤廃のため?」。何かの大義名分のために走っているのではないか...ありもしない様々な崇高な理由を人々は彼の「無駄」な走りの裏に見出そうとするのです。少し大げさですが、まるでそれは人が人生という無駄な時間の中に意味を見出そうとしている様と同じように思えるのは私だけでしょうか。人生とは、無駄そのものです。死んでしまえば何もかも無くなります。なんとか意味を見出して苦しんでまで生きる意味など何処にもないのです。しかし、それでも人類は無駄な世界で醜く足掻いて、生きる意味という藁に縋って生きようとしてきたのです。そうして人類が無駄に足掻いてきたからこそ、今の私たちがここに存在しているのです。芸術もまた、無駄です。生成AIによって一瞬で見栄えのいいものを創りだせる時代に、下書きも、構図も、色塗りも、中割りも、そのすべてを手作りで行うなど無駄の極致です。手作りの芸術は「無駄」な努力を重ね、「無駄」な時間をかけ、「無駄」なものを生み出します。しかしその「無駄」も時には「限られた人生でこんなに無駄なことに命を懸けてる馬鹿が世界にはいる」という励ましとなって、「無駄」な今日を生きる誰かの小さな救いになるのかもしれないと、私は思うのです。


二つ目は「歪みの美しさ」についてです。人の描く絵というものは往々にして歪んでいます。人間が生物である以上、それは仕方のないことです。しかし100年後、200年後、生成AIはいずれまったく歪みのない、誰が見ても無難に美しいと感じられるような絵をボタンひとつで描くことができるようになるでしょう。では、歪であることは醜いことでしょうか?整っていることが美しいことなのでしょうか?人は、時に歪んだものに惹かれることがあります。むしろ完璧に整ったものに強く惹かれることはあまりなく、反対に無機質すぎるとそれを不気味に感じるように人の心はできています。そこには様々な理由があると思いますが、私が最も強く主張したい理由としては「歪みながらも美しく在ろうとすることが人間の本質のひとつであるから」です。無論、ただ歪んでいることは美しくもなんともありません。そこに「努力」が加わることによって人はそれを美しいと感じることがあります。我々一人ひとりの心は、完璧とは程遠く、歪んでいます。自分自身のすべてを完璧に理解し、肯定できる人など世界には一人も存在しないでしょう。しかしだからこそ、歪んでいると認められるからこそ、私たちは昨日の自分よりも少しでも美しく在ろうと「努力」できるのです。その営みもまた、芸術における努力と重なります。まっすぐ引こうとしても歪んでしまう線、綺麗に描こうとしても左右対称にならない顔。そういったものに人は「歪みつつも美しく在ろうとする姿」を無意識に感じ取り、どこかでそれを自分と重ね合わせてしまうのではないでしょうか。それに加えてもし私たち人間、そしてこの世界そのものが「完璧」であると仮定すれば、もうそこには何の変化も必要としない、究極的な静の世界が広がるのみでしょう。生きる意味が定められていて、何が愛で、何が美しいか。そのすべてが定められて、その通りにある世界。あるいは生成AIによって「平均化され、定められた美」のみが存在する世界もまた、そうであると言えるかもしれません。そんな世界、生きるにはあまりにも窮屈で味気がないと私は思ってしまうのです。だからこそ、歪んでいて完璧ではないこの世界を、歪んでいて完璧ではない私たち人間が、何かを変えるべく必死に足掻いていこうじゃないかと、私は思ってしまうのです。


「愛の共鳴」

「愛の共鳴」これは私が考える創作における「努力」の持つ価値の中でも最も強いものです。理由は他でもありません。それは私が成人向け絵描きだからです。


当り前ながら成人向け、あるいは「エロ」はキャラクターや人物を抜きにしては成立し得ません。キャラクター、それは創り出された架空の人物。触れられず、体温もしない、匂いもしない、虚構の存在。では改めて、キャラクターとはなんでしょうか。ただの空虚な記号の集合体でしょうか。女性の人間で、髪は水色で短く、瞳の色は赤色で、肌は白く身体は細身、そして苗字は綾波...そのような記号的情報を羅列したものでしょうか?無論、そんなはずはありません。キャラクターの一人ひとりは性格を持ち、歴史を持ち、感情を持ち、心を持ちます。彼たち、彼女たちもはじめはただの記号的な要素の羅列、ただの画像データの集合体に過ぎなかったかもしれません。しかしそういったものに作者が己の命を削り「努力」という名の愛を注ぎ込み、その熱が筆先から彼らへと流れ込み、やがてそこに体温が宿るのです。そうして生まれるキャラクターというものは、例えそれが現実の人間と違って肉体を持たずとも、愛という力によって私たちの心の中に確かに「一人の人間」として実在しているのです。


皆様一人ひとりにもきっと大切なキャラクター、あるいは「一人の人間」が居ることでしょう。では皆様が彼女たちを愛するとき、皆様は何をするでしょうか?お金を注ぎ込んでグッズを集める。遠路はるばるイベントまで赴く。彼女の関わるコンテンツの全てを制覇する。彼女を確と瞼の裏に思い浮かべる。人を愛する方法は多岐に渡るでしょう。そして、それらは決して簡単なことではないはずです。金銭的なのか、肉体的なのか、精神的なのか、その種類や程度の違いこそあれど、私たちが愛する者に捧げるものはきっと軽いものではないはずです。そこにはきっと皆様の愛が満ち溢れており、そしてそれがまた彼女たちの存在をより強固なものにしているのです。


そのように皆様、あるいは原作者様が愛し、「努力」という心血を注いだ大切な人を「借りる」ことが二次創作にあたります。そんな大切な大切な借り物を、「努力」や「愛」なくして扱っていいのでしょうか。いえ、良い訳がありません。彼女たちは道具でも記号でもなく、確かに皆の心に息づく人間であるのです。私たち二次創作者が、資料と睨めっこをして、彼女たちの髪の一本一本まで描き出し、彼女たちの心の内を想像し、彼女たちの生きる世界を知り、そして己の積み上げてきた技術で正面から向き合う。それこそが我々二次創作者が「借り物」を借りる際の最低限持つべき礼節であり、敬意であるのです。あまつさえそれで金銭を頂いている分際ともあろう私にはそうした「努力をする義務」があるのです。


キャラクターは、彼女たちは、確かに私たちの心の中に実在しています。そしてそれは一人より二人、二人より三人、三人より十人。彼女たちを愛する私たち一人ひとりの心が多ければ多いほど、愛する気持ちが強ければ強いほど、より彼女たちは私たちの心で確かな熱を帯びていくのです。原作者様が多大なる「努力」を以てして彼女たちに命を与え、皆様が様々な形で「努力」をして彼女たちに愛情を注ぐように、私も「努力」をして己の筆で彼女たちを描き出す。そんな汗臭い「努力」の結晶を世界のみんなが作品に込め、感じ取る。そうして、彼女たちの実在を愛を以て心の内で確と抱きしめる。それこそが二次創作を含めた創作の持つ素晴らしさ、美しさなのではないでしょうか。


よく「人が他者と心から解り合うことなど不可能である」などと言います。それもそのはず、日々移ろう自分の心すらよくわかっていない人間が、他人の心など理解できるはずがありません。私たちがこうして繋がっている電子の海の中では、私たちはお互いの顔は愚か本当の名前すら知りません。しかしどうしてか、そんな見ず知らずの赤の他人である通りすがりが、作品を介している間は「作品への愛」、「キャラクターへの愛」という名目で共鳴し合えるのです。「努力」という名の愛が込められた創作の中には、時としてそのような美しさを見出せるのです。そしてそれこそが、私が創作において「努力」をしたいと思える最大の理由なのです。


まとめ

創作とは、芸術とは、魂の対話です。では、魂とは何でしょうか。


魂を最も純粋に映し出したもの。それは子供の描いた絵であると私は思っています。子供には技術などありません。知識もありません。道具も画用紙にクレヨンが数本もあれば上等でしょう。そんな中でも、彼らはただがむしゃらに「努力」だけで描きたいものを描くのです。本来ならば黄白色に光る太陽を、目が痛いほどに真っ赤に染め上げることもあるでしょう。画用紙に穴が開くほど、空だけを執拗に青く塗りつぶすこともあるでしょう。お父さんやお母さんの似顔絵に、化け物じみた大きさの目を描くこともあるでしょう。


しかしながら、そんな彼らの描く下手くそな絵は何ものにも代えられないものです。太陽が真っ赤なら、それだけ太陽を焦げる程に熱く肌で感じているのです。空を懸命に青で塗りつぶすなら、それだけ高く突き抜けるような青空がその目に映っているのです。目をやたらと大きく描くなら、それだけ日々の中でお父さんやお母さんの瞳を見つめているのです。彼らはただその純粋な気持ちを誰かに伝えたかった。たったそれだけなのです。


彼らの描く歪んでいて、何の生産性もなく無駄で、突拍子もなく下手くそな絵。

それは決して生成AIにも、そして私たちにも描けないものです。


様々な思惑や欺瞞、人の欲が入り乱れる電子の海の中で、結果だけが目に見える世界。多くの障壁が私たちの眼を曇らせ、真実を隠します。けれどもきっと、目に見えない大切なものが下手くそな絵、あるいは創作や芸術の根底には流れているはずです。今一度、私は私に問う時が来ました。なぜ創作という道を選び、創作を愛したのか。


創作とは、芸術とは、魂の対話です。

魂とは、努力が結晶化したものです。

努力とは、理解できるはずのない人の心に触れるためのものです。


大層なことを書き連ねてきましたが、私など一介の二次創作者、一介の成人向け絵描きでしかありません。私の存在などちっぽけで、つまらなくて、取るに足らない存在です。しかしそれでも、誰かの心に温もりを少しでも届けられるのであれば、存在しない彼女たちの温もりを少しでも感じられるのであれば、私は無駄に「努力」を続け、足掻き続けたいと思うのです。


迷いに迷いましたが、私の創作の意義は以前より何等変わることはありません。


「この世界に存在しないような作品を皆様に届ける」


これからもそれを胸に、皆様の期待に応えていきたいと思います。










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POSTEDApr 23, 2026
ARCHIVEDJul 13, 2026