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氷の騎士と素顔の私:第6章 氷の騎士の憂鬱~セリナ引退!?~

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氷の騎士と素顔の私:第6章 氷の騎士の憂鬱~セリナ引退!?~
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「私、もうあなたを演じることができなくなっちゃった...」


心の闇に囚われた氷の騎士セリナ(沙織)は、ついに「引退」の二文字を口にする。

マスクへの拒否反応と自己嫌悪が彼女の存在を揺るがす中、親友の沙耶香は士エレノアを演じる大先輩の美穂へ相談することにした。

エレノアが仕掛ける、セリナを救うための「光」の作戦。 氷の騎士の運命は、今、友の手に委ねられる──。

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11月中旬の夜、沙織の心には言いようのない不安が漂っていた。

何となくクローゼットを開けた。

そこにはいつものように、セリナのマスクと肌タイツが整然と並んでいる。


「今日は何となく着てみようかな」


明確な理由があったわけではない。

沙織は私服を脱いで、肌色の全身タイツを手に取った。

足先から丁寧に引き上げていく。

ふくらはぎ、太もも、腰、胸部へと順番に生地が肌に密着していく。

タイツが体の曲線に沿って張り付き、第二の皮膚のような感覚に包まれる。

頭部まで覆うタイツは、顔の部分だけが丸くくり抜かれており、首元まで装着すると不思議な一体感を感じる。

髪をゴムで束ねて首の後ろに集め、フードを被って首から頭頂部にかけてのファスナーを閉める。


でも今夜は何かが違っていた。


次に、お気に入りのグレーのノースリーブニットと黒のサイドプリーツの入ったロング巻きスカートを取り出した。

このコーディネートは沙織の一番のお気に入りだった。

肌タイツの上から衣服を重ねていくと、普段とは異なる着心地。

生地と生地の間に挟まれたような、包まれたような安心感。

ゴールドのネックレスとブレスレットを装着する。

アクセサリーが肌タイツの上で奇妙に輝いて見える。


心臓が小さく跳ねた。


そしてセリナのマスクを手に取る。


一呼吸置いてから、セリナのマスクの金具を慎重に外していき、前面パーツと後頭部パーツに分かれたマスクを、ゆっくりと自分の頭頂部まで持っていく。

まるで儀式のような動作だった。


前面パーツを顔に当てがう。

冷たいプラスチックの感触が頬、額、顎に触れるいつもの感覚がある。

後頭部パーツを合わせ、マスクが頭部全体を包み込んでいった瞬間、視界が一瞬遮られる。


マスク内のスポンジが徐々に沙織の顔に密着し始め、額、頬、顎の輪郭に沿って、じわじわと圧迫していく。

顔の形にマスクが馴染み、隙間が一つずつ埋められていく。


沙織の意識は微妙に揺らぎ始める。


両耳上側の金具を一つずつ固定していく。

カチリ、カチリという小さな音が静寂の中に響き、最後の金具が留まった瞬間、マスクが完全に沙織の頭部と一体化する。


沙織は今外界との接触が完全に遮断された。


狭い視界の中で、世界が一変する。

マスクの目の部分に開けられた小さなスリットからしか外が見えす、視野は通常の3分の1程度に制限され、周囲の把握が困難になる。


次に呼吸を確認する。


口元のスリットから空気を取り込むが、マスク内部は密閉された空間。

自分の吐いた息がマスク内に留まり、温度と湿度が急激に上昇し始める。

ハァ、ハァという呼吸音が、密閉された空間で増幅されて響く。

自分の息遣いだけが聞こえる世界。

外の音は遠く、こもって聞こえる。


マスクの中で反響する呼吸音が、まるで洞窟の中にいるような錯覚を与える。

いつもの圧迫感が沙織を包み込むが、今夜は何故か心地よささえ感じられた。

体全体が肌タイツに包まれ、頭部がマスクに覆われ、外界から完全に隔離された状態。


沙織は今、野田沙織ではなくセリナ・グレイヴフロストとして存在している。


鏡の前に立つと、そこには沙織のお気に入りのコーディネートを纏ったセリナが立っていた。

セリナの髪を後ろで丁寧に束ね、ハーフアップにしてからバレッタで留める。

騎士から都会のお姉さんになったような雰囲気。


「うん、いいじゃん!」


そう呟いた瞬間から、沙織の意識に変化が起こり始める。

部屋の中を散策しているうちに、自分が自分でなくなっていく感覚。


境界線が溶けていく。


しばらく経ったかと思うと、気がつくとそこは家の外だった。


「あれ?」


どうして外にいるのか分からない。

でも足は確実に何かを目指して動いている。

狭い視界の中に映る光景は、いつもの通勤路。

マスクの中では相変わらず呼吸音が響いている。


ハァ、ハァ、ハァ。


少し苦しいが、それも含めてセリナの感覚として受け入れている自分がいる。

すれ違う人々は、着ぐるみ姿の自分を見ても特に気にした様子がない。


この光景は現実なのだろうか。


両手で自分の顔にそっと触れて確認すると、確かにマスクの硬い感触がある。


しばらく歩いていると繁華街に出た。

人通りも多いが、相変わらずすれ違う人は自分に見向きもしない。

視界の端に映る人影たちは、まるで存在しないかのようだった。

周りを確認していると、そこはいつも通勤で通る駅の前だった。


ここを真っ直ぐ行けば、自分の職場である市役所がある。

そして気がつくと、いつもの職場のデスクに座っていた。


「あれ?」


なぜここにいるのか。

辺りを見回すが、いつもの慌ただしさはなく、職員たちの姿もぼんやりとしか見えない。

視界が狭いせいか、それとも別の理由があるのか。


自分がセリナの姿で職場にいる。

この状況の異常さに気づいた瞬間、沙織の中でパニックが始まる。


「大変!見られてしまう」


マスクを外そうと両手で金具に手をやる。

しかし、何度やっても金具が動かない。

指先に力を込めても、びくともしない。


「なんで?どうして外れないの?」


必死に外そうとするが、まるで顔と一体化してしまったかのようだった。

金具をつまんで引っ張る。

左右に揺さぶる。

上下に動かそうとする。


しかし、マスクは微動だにしない。


呼吸が荒くな理、マスクの中で自分の息遣いが大きく響く。


ハァ、ハァ、ハァ、ハァ。


恐怖と焦燥で心拍数が上がり、呼吸がさらに激しくなる。

動作を止め、少し落ち着こうとして目を開けると、再び自分の部屋にいる。


「え?なんで?どうして」


しかし、マスクを外したい気持ちは変わらない。


「今はとにかくマスクを外さないと息が苦しすぎて耐えられない!」


再び金具に手をやるが、やはり外れない。

両手でマスクの縁を掴み、力いっぱい引っ張る。

頭を前後に振り、左右に揺さぶる。

口で大きく息を吸おうとするたびに、マスクが顔に張り付き十分な空気が入ってこない。

いつの間にか、マスクが顔にピッタリとフィットして、隙間がない。

完全に密閉されている。


「苦しい!マスクを外したい!どうして外れないの?」


両手でマスクを掴み、必死に引っ張り続ける。

指先が白くなるほど力を込めて、何度も何度も試す。

頭を激しく左右に振り、上下に揺さぶる。

呼吸はどんどん荒くなる。


ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ


マスク内の酸素が不足し、二酸化炭素が充満していく。


「苦しい!息ができない!助けて!」


涙が頬を伝うが、マスクの中で蒸発していく。

鼻水も出るが、拭うこともできない。

両手でマスクの金具を掴み、体全体を使って外そうとする。

椅子から立ち上がり、壁に背中をつけて反動をつけて引っ張る。


「外れて!お願い!外れてよ!」


絶叫しながら、全身の力を振り絞ってマスクと格闘する。

しかし、マスクは沙織の顔に張り付いたまま、まったく動かない。

呼吸がさらに困難になる。

空気が入ってこない。

意識が朦朧としてくる。


「苦しい、このままじゃ窒息しちゃう!」


気がつくと床に両手をついている。

四つん這いになって、フローリングの冷たさを感じている。

荒い呼吸を繰り返しながら、床に唾液を垂らしている。


少し落ち着きを取り戻し、ゆっくりと立ち上がると、そのままふらつきながら鏡に向かう。

マスクの中では相変わらず自分の呼吸だけが大きく響いて、外の音は聞こえない。

鏡に映るのはセリナだった。


でも、何かおかしい。

セリナが瞬きをしている。


「え?」


自分が瞬きするタイミングで、鏡の中のセリナも瞬きをする。

こんなことあり得ない、マスクが動くはずがない。


「もしかして、私の顔、セリナになっちゃった?」

「え?私このまま生きていくの?」


その瞬間、マスクがさらに顔を圧迫し始める。

顔を乗っ取られる感覚。


「息ができない、嫌だ!私はセリナじゃない!沙織なんだ!」


最後の力を振り絞り、両手でマスクを掴んで引き裂こうとする。

絶叫しながら、暴れるように動き回る。

机に体をぶつけ、壁に背中をぶつけながら、マスクと必死に格闘する。


「助けて!誰かお願い、助けて!息ができない!死んじゃう!」


泣き叫びながら、マスクを外そうと狂ったように暴れ続ける。

しかし呼吸はどんどん苦しくなり、視界が暗くなっていく。

意識が薄れていく中で、最後まで金具を引っ張り続け、ついに...



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ハッと目を覚ます沙織。

デジタル時計が4:50を表示している。


「え、夢?」


体中が汗でびっしょりと濡れて、寝室は暗く静寂に包まれている。


「何今の変な夢...」


ベッドから出ようとした時、足にエナメルの感触が触れた。

足元に目をやると、それはセリナの衣装のようだった。


「そっか、私撮影の準備しようとして、途中でやめて寝ちゃったんだった」


沙織はベッド動作確認から立ち上がり、寝室の照明をつけるとベッドの横の三脚にかけられたセリナのマスクが目に入る。

まるで沙織を見つめているかのよう。


「セリナ...」


小さく呟いて俯く沙織。

撮影の準備を続けなければならないが、なんとなく気が重い。

あの悪夢が、現実の何かを暗示しているような気がしてならなかった。



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金曜の夜、22時。


沙織の1DKマンションのリビングに、いつもとは違う静寂が流れていた。

スマートフォンの画面には193件の通知が表示されている。

いつもなら飛び跳ねるように嬉しくなる数字なのに、今夜の沙織は画面を見つめるのが辛かった。


「やっぱり疲れてるのかな...」


自分でも理由が分からない倦怠感に包まれながら、沙織は力なくスマートフォンを置いた。

いつもなら30分は熱心に返信やいいねをするのに、今夜は5分で画面を閉じてしまう。

クローゼットに目をやると、セリナの衣装が見える。

明日は撮影の予定だった。


「明日の準備、やらなきゃ...でも、朝で間に合うか...」


珍しく先延ばしする自分に、沙織は小さな違和感を覚えた。


「今日は仕事が忙しかったから」

「朝でも十分間に合うし」

「そんなに神経質にならなくても」


頭の中で言い訳を並べてみるが、なぜそう言い聞かせる必要があるのか自分でも分からない。

土曜日の撮影を思い浮かべても、なぜかワクワクしない。


「まぁ、週末になれば気分も変わるでしょう」


何度も「大丈夫」「問題ない」と心の中で繰り返すが、なぜそう言い聞かせる必要があるのか。

あれ?いつもなら楽しみで準備してるのに...今日は何だか...



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翌日土曜日の朝7時。


通常なら撮影日の朝は自然と早く目覚めるのに、今朝はアラームが鳴っても起きるのが辛い。


「なんだか体がだるい...風邪かな?」


洗顔後、鏡に映る自分を見て感じる説明できない違和感。

いつもと変わらないのに、何かが違う気がする。

キッチンに向かうと、いつもの朝食が喉を通らない。

撮影日の朝はいつも軽めの朝食を取るが、今朝は食べ物を見ただけで気分が悪くなる。


「お腹が空いてないのかな...まあ、そんな日もあるよね」


いつものコーヒーが、なぜか苦く感じられた。

7時45分、セリナの準備を始めようとクローゼットに向かう。

いつもなら迷わずクローゼットを開けるのに、今朝は扉の前で5分近く立ち尽くしている。


「...なんで躊躇してるんだろう」


自分の行動に疑問を抱きながら、ようやくクローゼットを開ける。

エナメルドレスに触れた瞬間、説明できない嫌悪感が一瞬よぎった。


「え?今、嫌だって思った?」


自分の感情に困惑しながら、なんとか衣装を取り出す。

次にセリナのマスクを手に取る番だった。

いつもは自然に手が伸びるマスクに、今日は手が向かわない。

マスクを手に取る動作が、まるで重い荷物を持ち上げるように鈍化している。

どうして手が重いんだろう...体調が悪いのかな。

マスクを持ったまま、動作に移れない自分。


「時間がないのに...なんで動けないの?」


説明のつかない違和感を、すべて「体調不良」で片付けようとする沙織。


「きっと疲れが溜まってるんだ。撮影が終わったらゆっくり休もう」


深刻な変化の兆候を、一時的な不調として処理しようとする防御機制が働いていた。



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レンタル撮影スタジオ。



午後1時、沙織は西野沙耶香と合流した。

沙耶香が息を弾ませながら手を振る。


「お疲れ様!忙しくてなかなか撮影できなくてごめん。やっと落ち着いたから今日はいっぱい撮影しよう!今日も張り切っていきましょう!」


沙耶香の明るい声と前向きなエネルギーがスタジオ内に響く。

いつものように楽しそうに撮影機材を調整しながら、期待に満ちた表情を見せている。


一方の沙織は、そんな沙耶香の明るさとは対照的に、どこか元気がない。

表情も硬く、沙耶香のテンションに合わせようと無理に笑顔を作ろうとするが、その笑顔は不自然で作り物めいている。


「お疲れ様!そうだね、今日はいっぱい撮ろう!」


沙織は明らかに空元気を出して答えたが、その声には普段の活気が感じられない。

沙耶香のテンションに合わせようと頑張っているのは分かるが、無理をしているのが痛いほど伝わってくる。

長い付き合いの沙耶香が感じる、説明できない違和感。

普段なら沙耶香の「いっぱい撮影しよう!」という言葉に目を輝かせて反応するはずの沙織が、今日は明らかに反応が鈍い。

なんとなく、いつもと違う...でも何が違うのかは分からない。

沙耶香の心に小さな不安が芽生え始めていた。


スタジオ内の更衣室での準備時間。

通常15分で完了する準備に、今日は25分を要している。


「沙織ちゃん、体調大丈夫? 開けるよ?」


沙耶香が心配そうに更衣室の外から声をかけた。


「うん、ごめん。ちょっと寝不足気味で...でも大丈夫。」


強引に笑顔を作る沙織だったが、衣装を手に取る際の躊躇が隠せない。

エナメルドレスを持つ手が微かに震え、着替えの動作が明らかにいつもより遅い。

何度も深呼吸を繰り返している。

そして決定的な瞬間がやってきた。

セリナのマスクを手に取った瞬間、沙織の顔が青ざめる。


「あ...」


マスクを持つ手が明らかに震えている。

急激な吐き気、手足の震え、冷汗、過呼吸気味の呼吸。

拒否反応の身体症状が一気に現れた。


「沙耶香ちゃん、ごめん...今日は...」


沙織はマスクを置いて椅子に座り込んでしまった。


「沙織ちゃん、どうしたの?」


沙耶香が慌てて駆け寄る。


「分からないの...急に、なんだかセリナになりたくなくなって...」


泣きそうな声で沙織が呟く。

沙耶香は冷静に判断した。


「無理しないで。今日は撮影中止にしよう」

「沙耶香ちゃん、みんなが楽しみにしてくれてるのに...私、何やってるんだろう」


沙織の自己嫌悪が深まっていく。


「そんなこと言わないで。体調が悪い時は休むのが一番よ」


沙耶香がサポートの言葉をかけた。

スタジオからの帰路、沙耶香が心配そうに尋ねる。


「最近、何か悩んでることない?」

「特に...ただ、疲れてるのかも」


沙織の曖昧な返答に、沙耶香の心配は深まるばかりだった。

友人として、そしてパートナーとして、沙織の異変が単なる体調不良ではないことを直感的に理解していた。



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その日の夕方、沙耶香は自宅で一人撮影データを振り返っていた。

過去2週間の沙織の写真と動画を見返すと、変化の兆候が次々と見つかった。


ポーズに以前の自然さがない。

表現が単調で生き生きとした動きが感じられない。

写真全体に生命力がなく、まるで人形のように硬い。


これは単純な疲労じゃない...もっと深刻な問題かもしれない。

沙耶香は少し考えた後、美穂への連絡を決断した。

まだ交換していないLINEの代わりに、TwitterのDMを選択する。

慎重に練った文面を作成した。


「美穂さん、突然のご連絡失礼します。沙耶香です。実は沙織ちゃんのことで、少し心配なことがあってご相談があります。もしお時間があるときに、お話しできればと思うのですが...同じ美少女着ぐるみをされている先輩として、アドバイスをいただけないでしょうか。」


美穂からの返信は迅速だった。


「沙耶香さん、お疲れ様です。沙織さんのことでしたら、すぐにでもお話を伺いたいです。明日の夜、もしよろしければお時間作れますか?」


月曜夜19時、横浜駅近郊のカフェで面談することが決まった。



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日曜の夜20時。


その頃、沙織は自宅で孤独な週末を過ごしていた。


セリナの衣装が入っているクローゼットを見るだけで気分が悪くなる。

スマートフォンのTwitterアイコンを見るだけで胸が苦しくなる。

どうして急にこんなふうになっちゃったんだろう...


しかし、そんな自分への嫌悪感がさらに沙織を追い詰めていく。

セリナになりたくないと思う自分を否定しなければ、と強迫的な思考が頭を支配する。


「これじゃダメだ。私がセリナを嫌がるなんて...そんなはずない」


沙織は無理やりクローゼットを開け、セリナの衣装を引っ張り出した。

いつものようにインナーを着替えることも忘れ、普段着の下着のまま、素早く肌タイツを足から引き上げていく。


急いで衣装を纏い、慣れた手つきでマスクの金具を固定する。

しかし、マスクを被った瞬間、いつもより呼吸が荒くなった。

自分の息がマスクにぶつかり返してきて、顔中に熱い息がかかって気持ち悪い。

胸が締め付けられるような感覚で、すぐに脱ぎたい衝動に駆られる。

セリナになった状態では何もする気が起きない。


いつものようにポーズを取ろうとしても体が重く、手足が思うように動かない。

鏡に向かって立ってみるが、そこに映るセリナの姿が段々見苦しく感じられてくる。

美しいはずの氷の騎士が、まるで魂の抜けた人形のように見え、エナメルの騎士ドレスの重みが肩にのしかかり、全身を包む肌タイツが皮膚に張り付いて気持ち悪い。


「私、良い歳して一体何やってるんだろう...」


その言葉は、マスクの中でこもって聞こえる。

自分の声なのに、まるで他人が話しているかのような違和感。

なんでこんなことやってるんだろう。29歳にもなって、着ぐるみ着て写真撮って...みんなに見せて...

セリナの姿のまま、沙織は椅子にもたれかかって項垂れた。


美しく整えられたはずの髪が視界の端で揺れるが、それすらも重荷に感じられる。

マスクの中で涙がにじむが、拭うこともできない。

塩っぱい涙が頬を伝い、マスクの内側で蒸発していく。

その湿気がさらにマスク内を不快にし、呼吸をより困難にしていく。

セリナとしての自分を愛していたはずなのに、今はその存在が重荷でしかない。


ファンの期待、撮影への責任、完璧でなければならないというプレッシャー。

全てが一気に押し寄せて、セリナの美しい外見とは裏腹に、沙織の心は醜く歪んでいく。

こんな姿、誰にも見せられない。こんな気持ちで撮った写真なんて、きっと誰の心も動かせない。


鏡の中のセリナは、ただ座って俯いているだけの情けない姿になっていた。

ようやく沙織は、ゆっくりとセリナのマスクに手をかけた。

耳の上の金具を一つずつ外していく。

カチリ、カチリという小さな音が、静まり返った部屋に響く。

マスクが外れると、湿った熱気が一気に放出され、沙織は大きく息を吸い込んだ。


汗で濡れた前髪が額に張り付き、マスクの跡が頬に赤く残っている。

外したセリナのマスクを両手で持ち、じっと見つめる。

美しい氷の騎士の顔が、沙織を見返している。

灰青色の瞳は変わらず神秘的で、漆黒の髪は白銀のメッシュが美しく輝いている。


「ごめんね...セリナ...」


小さく震える声で、沙織は呟いた。


「私、もうあなたを演じることができなくなっちゃった...」


マスクを膝の上に置き、沙織は涙を流し始めた。


「あなたは何も悪くないのに。私が勝手に疲れて、勝手に嫌になって...本当にごめんなさい」


セリナのマスクは、何も答えてくれない。

ただ静かに、沙織の涙を見つめているだけだった。


「あなたには、もっとセリナを愛してくれる人に演じてもらった方が、いいのかもしれないね...」


自分自身でも信じられない言葉が口から出てしまう。

セリナを手放すことを、ついに認めてしまった瞬間だった。

涙でぼやける視界の中で、セリナのマスクがまるで悲しんでいるように見えた。

日記を開いて、思いを綴ってみた。


「最近の私、何かがおかしい。セリナになることが、こんなに辛いなんて。前は楽しくて仕方なかったのに。みんなの期待が重すぎるのかな?それとも、私自身が変わってしまったのかな?」


スマートフォン内の写真を整理しながら、初期の撮影写真と最近の写真を比較してみる。

初期の写真には生き生きとした躍動感がある。

最近の写真は技術的には向上しているが、どこか硬く、人形のような冷たさを感じる。


私、いつから『楽しむ』ことを忘れてしまったんだろう。


21時30分、リビングの姿見の前に座り込む沙織。

首から下はセリナの衣装のままで、鏡に映る自分の姿をしばらく見つめる。

素顔の沙織とセリナの衣装という、ちぐはぐな組み合わせが鏡に映っている。

今までのことを思い出していた。


あの日のことをよく覚えてる。

半年前、注文していたセリナが届いて、初めて変身した時。

箱を開けた瞬間の興奮、一つ一つのパーツを手に取った時の感動。

初めてマスクを被って鏡を見た時、本当にセリナになれたんだって実感した瞬間の高揚感。

あの時は心臓がバクバクして、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。


それから沙耶香との再会。

まさか高校時代の友人がカメラマンをやってるなんて思いもしなくて。

あの偶然があったから、セリナの撮影が始まったんだよね。

二人でいろんな所に出かけて撮影して、セリナの世界をどんどん広げていった。

公園、神社、廃墟、商店街...色々な場所でセリナを表現できて楽しかった。

特に忘れられないのは、初めて本格的な海でのロケーション撮影。

波打ち際で剣を構えるセリナの姿を沙耶香が撮ってくれて。

あの時の写真を見た時、自分でも息を呑んだ。

本当に美しくて、セリナがそこに生きているみたいだった。


それからエレノアさんとの出会い。

あの人のセリナとの合同撮影は衝撃的だった。

圧倒的な実力差を見せ付けられて、自分の未熟さを痛感したけど。

でも、中の演者である美穂さんとはお互いに尊敬し合える良い先輩で、本当に良い友達になれた。

美穂さんがいてくれるから、もっと頑張ろうって思えたんだ。

職場でも、さくらちゃんや愛美ちゃんが応援してくれて。

秘密を知ってくれてる仲間たちがいるって、本当に心強かった。


みんながセリナのファンになってくれて、更新を楽しみにしてくれて。

全部、大切な思い出だった。

全部、セリナがいたから生まれた宝物だった。

セリナがいなかったら、こんなに素敵な人たちとの出会いもなかった。


でも...


このままセリナを今までのように楽しく続けられるのか分からない。

最近はセリナになるのが辛くて、撮影も全然楽しくない。


思い切って活動を休止して、彼氏でも作って普通の女性としての幸せを掴みに行った方が良いのかな。

29歳なんだし、そろそろ結婚とか考えないといけない年齢だよね。


セリナを続けたいが、今の自分がよく分からない。

彼氏なんてもう数年居ないし、恋愛なんて今はあんまり想像できない。

セリナ以外の自分って、一体どんな人間なんだろう。


「私は沙織なのか、セリナなのか...もうどっちが本当の自分なのか分からない...」


セリナでいる時間の方が長くて、みんなもセリナの私を好きになる。

じゃあ、沙織の私って何?存在する意味があるの?


「もう、セリナはやめた方がいいのかな...でも、セリナをやめたら、私には何が残るんだろう」


ついに口に出してしまった言葉が、部屋に重く響いた。

どうしたらいいのか分からない。

答えの見つからない問いが、沙織の心を更に深い闇へと引きずり込んでいく。



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月曜夜19時



横浜駅近郊のカフェ「ルミエール」。

沙耶香と美穂が向かい合って座っていた。

沙耶香が日曜日の撮影中止の詳細を報告する。


沙織の身体的・精神的症状の観察記録。

過去2週間での変化の分析。

美穂が深くうなずきながら答えた。


「典型的なバーンアウト症状ですね...私も似た経験があります」

「実は私も1年前、同じような状態になったことがあるんです」


美穂が自分の体験を語り始めた。

急激なフォロワー増加への対応と、完璧主義による自己プレッシャー。

アイデンティティの混乱体験。


「その時は由香さんが支えてくれて、なんとか乗り越えました」


美穂が専門的観点からアドバイスした。


「中学生の指導経験から言うと、この状況はまず初心に戻ることと、自分自身が自分の為に楽しんでいるという自覚が必要です」


具体的な介入方法の計画を練る。

まず美穂が直接沙織と会い、教師としての経験を活かした心理的なアプローチ。

そこから、同じ美少女着ぐるみ経験者としての共感とアドバイスをする。

ある程度話したところで、美穂が沙耶香に提案した。


「沙耶香さん、私からお願いがあります」

「何でしょうか?」

「エレノアのスタジオ撮影を依頼したいんです」


沙耶香が困惑する。


「もちろんお受けしますが...どうして急に?」


美穂の戦略が明かされる。


「沙織さんにとって、恐らくこれが一番効果的だと思われる手法を取ってみたいと思います」

「撮影当日、沙織さんをスタジオまで呼び出してください。ただし、エレノアの撮影だということは黙っておいてください」

「なるほど...分かりました。いつ頃がよろしいですか?」

「できれば今週末に。沙織さんの状態を考えると、早い方がいいと思います」


作戦が決まった。



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火曜日の昼休み、市役所の休憩室。



同僚の愛美が息を弾ませながら駆け込んできた。


「沙織さん、最近元気ないですね」


後輩のさくらも心配そうに同調する。


「そういえば、セリナちゃんの更新も止まってますし」


セリナ=沙織だと知っているからこその心配と気づき。


「何か困ったことがあったら、いつでも相談してくださいね」


愛美が優しく声をかけた。


「ありがとう。大丈夫だから、何かあったら相談するね。」


沙織の表面的な返答に、理解者がすぐ近くにいるのに、なぜか素直に相談できない孤独感が漂った。



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土曜午後14時。



沙耶香からの呼び出しによって、沙織がいつものスタジオにやってくる。

セリナの衣装を入れたキャリーケースを引きながら、沙織の足取りは明らかに重い。

何度もここにやってきた記憶が蘇り、なんとなく中に入りたくない気持ちが込み上げてくる。


どうして今日は、こんなに嫌な気持ちになるんだろう...いつもなら楽しみで仕方ないはずなのに。

自分が今どうなっているのかも分からず、コスプレという単語を意識するだけでも嫌悪感がある状態。

スタジオのドアの前で立ち止まり、深呼吸を3回繰り返す。


そういえば、もう長い間セリナを着ていない...前はこんなに長く空けることなんてなかったのに。

「引退」の2文字が日を追うごとに、鮮明に沙織の頭をよぎる。

もう、やめてしまった方が楽になるのかも...


気が進まない中、意を決して指定されたスタジオの重いドアを開ける。


ドアを開いた瞬間、見覚えのあるキャラクターが沙耶香の声に動きを合わせながらポーズを撮って撮影を行っている。

白い騎士衣装、腰まで届く白銀の髪、聖なる剣を携えた優雅な姿。


「エ、エレノア...さん?なんで?」


声が震える沙織。

エレノア(美穂)はポーズを取りながら、マスクの限られた視界の中からでも沙織の到着にすぐに気付く。

一瞬動きが止まるが、プロとしてポーズを維持する。


「沙織ちゃん、お疲れ様。ちょうど良いタイミングで着いたね」


沙耶香が配慮ある声をかけた。

沙織はドアをすぐに閉めると、その場で呆然と立ち尽くしている。

肩を落とし、下を向くように立ち、姿勢は悪く表情も暗い。

まるで生気を失った人形のように、エレノアの撮影には目も向けず、黙って壁にもたれかかって下を見ている。


普段の沙織なら、スタジオに入るなりエレノアの撮影に興味深く見入り、時には小さく拍手をしたり、撮影の合間に感想を述べたりするものだった。

でも今日の沙織は、まるでそこにいることすら苦痛であるかのように、ただひたすら俯いている。


「いつもの沙織さんらしい活気が全くない。」


あの時のことを思い出す。合同撮影で一緒に戦った時の沙織さんは、セリナとして本当に輝いていた。

あの時の沙織さんの目には情熱が宿っていて、一つ一つの動作に魂が込められていて、見ているこちらも刺激を受けるほどだった。


「沙織さん...どうやら重症みたいね。まるで別人みたい。」


あんなに生き生きしていた沙織さんが、どうしてこんなことになってしまったんだろう。

実は私にも分かる、沙織さんの今の気持ちが。

私自身も過去に同じ経験があるから。


あの時の私も、きっとこんな風に見えていたんだろう。

エレノアを演じることが苦痛になって、マスクを被ることすら嫌になった時期があった。

自分が何をしているのか分からなくなって、すべてを投げ出したくなった日々。


あの頃は本当に辛かった。


いや、もしかしたら私よりも深刻な状況かもしれない。

今は撮影を続けなければならないのに、心は沙織さんのことでいっぱいになってしまう。

同じ着ぐるみ仲間として、私が憧れたあのセリナを演じる素敵な女性であり、大切な友人の沙織さんの今の姿は、見ているのが辛すぎる。


「とても放っておけない!」

「あの沙織さんが、こんな風になってしまうなんて...」

「こんな沙織さんは、私の知っている沙織さんじゃない。」

「私の知っている沙織さんは、セリナへの愛に満ち溢れて、撮影への情熱を隠しきれない、本当に輝いている女性だった。」


美穂は強く誓う。


「絶対にいつもの沙織さんを連れ戻してみせる!」


沙耶香さんのシャッター音が響く中、美穂の決意はますます固くなっていく。

表面上はエレノアとして撮影を続けながら、心の中では既に沙織を救うための作戦を練り始めていた。


「沙織ちゃん、そこに椅子があるから座ってゆっくりしてて。」


沙耶香は沙織に軽く声をかけて座ってくつろぐように言った。

沙織は小さく頷くと、スタジオ内の小さな椅子に座って撮影の様子を見ているが、その視線には以前のような輝きがない。


沙織は顔をあげ、エレノアの撮影の様子を黙って見ている。

「エレノアさん、相変わらずキレイ...すごい。私にはあんな風に堂々と、美しく立つことなんてできない。」

「ポーズも顔の角度も、武器の持ち方なんかも完璧。きっと、物凄く努力されてきたんだろうな。それに比べて私は...」


改めてこうやって見ると自分とのレベルの違いに気付かされる。私なんて、ただの素人だったと気付かされる。


「沙耶香ちゃんも撮影楽しそう。そりゃ、あんなにキレイで完璧なポーズ取ってくれる人だったら当然よね...私みたいな下手くそより...」

「私は今、何をしているんだろう。何がしたいんだろう...もう、分からない。」


沙織が到着してからも、撮影は1時間ほど続いた。

何度もポーズを変え、修正し、最高の1枚を撮る為に沙耶香がエレノアの魅力を引き出し、エレノアは全身で応えている。

美穂の演じるエレノアの撮影を見続ける沙織の心は、どんどん沈んでいく。


「私がセリナを着ても、技術も表現力も全てが違う。」

「私は何を勘違いしていたんだろう。自分にもできるって、セリナを美しく表現できるって...」


沙織は再び俯きながらため息を繰り返している。


「はい、お疲れ様でした!今日も素晴らしい撮影でした!」


沙耶香がお疲れ様でしたと言いながらエレノアにOKサインを送る。

エレノアも、深くお辞儀をして、ゆっくりとスタジオ撮影パネルの前から移動し、そのまま沙織の方まで歩いてやってきた。

エレノアのマスクからは少しだけ荒い呼吸音が聞こえ、沙耶香は撮影写真のチェックと機材を少しずつ片付けている。


沙織の目にエレノアの白いブーツが目に入り、重い顔をなんとか上げて目の前のエレノアに声をかける。


「お疲れ様でした。相変わらずおキレイで、とても勉強になりました」


力ない声で沙織が挨拶する。

エレノアは沙織に喜ぶような素振りと、ありがとうという気持ちを込めた騎士らしいお辞儀をして、そのまま沙織の隣の椅子に座る。

椅子に座るとエレノアはすぐにマスクを外し、タイツのフードも外して胸元に垂れ下げた。

沙織も撮影後にやっている、全く同じ一連の動作だった。


マスクを外した美穂は、エレノアのマスクを太もものところに置き、小さなタオルで顔と髪の汗を拭いている。

マスクで火照った顔、汗で湿った前髪、それでも満足そうな表情をしている。


「ふぅ...今日も良い撮影ができました」


小さく息を吐きながら美穂が言う。

沙織は俯き、黙って下を見つめている。

美穂は沙織の様子を見ながら、静かに話しかける。


「沙織さん...着ぐるみを着ての撮影って、ほんと大変ですよね」


沙織は顔を上げずに、小さく頷く。


「肌タイツは身体に密着するし、汗をかくから気持ち悪いし、衣装は重いし暑いし、マスクなんて被ったら呼吸もまともにできないし」

「特にマスクの中って、自分の息でどんどん温度が上がって、湿度も高くなって。汗が目に入っても拭けないし、喉が渇いても水を飲めない」


沙織は俯いたまま「わかります...わたしも、同じこと毎回思ってます」とだけ返す。


美穂が語る苦労話の一つ一つに、深い共感を覚えていた。

沙織の表情が少しずつ和らいでいく。


「着ぐるみを脱いだ後は帰ってメンテナンスしなきゃいけないし...本当に、体力的にも精神的にも大変な趣味ですよね」

「...はい」


ようやく小さな声で返事をする沙織。


「でも」


美穂の声のトーンが変わった。

先ほどまでの苦労話とは打って変わって、温かく、優しく、そして確信に満ちた声色になる。


「全身を使って自分の大事なキャラクターに命を吹き込んで、それを見たみんなが感動してくれたり、憧れてくれたりする瞬間って...何にも代えがたいものがありますよね」


沙織が少しだけ顔を上げる。


「マスクを被った瞬間、鏡に映る自分を見た時の感動。普段の自分とは全く違う存在になれた時の高揚感。写真を撮ってもらって、後で見返した時に『本当にキャラクターがそこにいる』って思える瞬間」


美穂の言葉に、沙織の目に少しずつ光が戻ってくる。


「SNSにアップした写真を見て、ファンの方が『美しい』『感動した』『元気をもらった』ってコメントをくれた時の嬉しさ。あの瞬間のために、どんな苦労でも乗り越えられる」

「日常の自分を解き放って、聖騎士エレノアになっている自分が、私にとってはかけがえのない時間です。私だけの、誰にも邪魔されたくない大切な世界」


沙織はハッとし、顔をあげて美穂の方を見つめる。

美穂の言葉には、美少女着ぐるみに対する純粋な愛と情熱が溢れている。


「現実では絶対になれない、美しくて強くて神秘的な存在になれる。その世界では、普段の悩みも疲れも全部忘れて、ただそのキャラクターとして生きていられる」

「沙織さんのセリナも、きっと同じでしょう?氷の騎士として立った時の誇らしさ、剣を手にした時の高揚感、撮影で素晴らしいポーズが決まった時の達成感」


沙織の瞳に、薄っすらと涙が浮かんでいる。

それは悲しみの涙ではなく、大切な何かを思い出した時の、懐かしさと愛おしさの涙だった。


「この前のセッション撮影、楽しかったですね」


沙織の目に、少しだけ光が戻る。


「ずっと、いつかご一緒にと思っていたセリナさんとの撮影は、他のどんな撮影よりも特別で新鮮でした」

「私も、あの時はエレノアさんについていくのが精一杯でしたが、途中で我を失ってて...あの時は、本当にセリナになっていたような気がします」

「私も同じですよ。多分あの時の私達は、本当に氷の騎士セリナと聖騎士エレノアになっていたのかもしれませんね」

「...そう、ですね」


少し微笑みながら沙織が答える。


「あの時の沙織さんが演じていたセリナさん、本当に美しかったです。セリナさんの表現力、私は本当に感動しました」

「そんな...私なんて」

「いえ、本当です。私、あの時思ったんです。この人は本当にセリナを愛してるんだなって」


沙織の目に涙が浮かぶ。

美穂はゆっくりと沙織の手を握る。

よく知っている肌タイツの感触と、美穂の手の温もりが沙織の手を包みこむ。

美穂の手は小さく、でも確かな優しさを持って沙織の震える手を支えている。


「沙織さんの手、震えてますね」


美穂の声には責めるような響きは一切なく、ただ心配と愛情だけが込められている。


「すみません...最近、セリナのことを考えると」

「無理しないでください。でも、覚えていてください。あなたのセリナは、確実に私の心を動かしました」


美穂の言葉は静かだが、その一つ一つに深い真実が込められている。

沙織という人間への敬意と、セリナというキャラクターへの愛が、美穂の声の奥底から滲み出ている。


「私がエレノアを始めた頃、こんなに素晴らしいセリナさんに出会えるなんて思ってもいませんでした。そのセリナさんを演じる沙織さんと出会えて、私は本当に幸せです」

「またいつか、ご一緒させてくださいね。それまで私、待ってますから」


美穂の言葉には、友人としての変わらない信頼と、同じ世界を愛する者としての深い絆が表れている。


「でも......私...もうセリナを」

「やめるんですか?」


美穂が沙織の言葉を遮るように、少し強めに問いかける。

沙織の気持ちは尊重したいが、どうしても沙織の口から「やめる」という言葉を聞きたくなかった。

言って欲しくなかったし、何より言わせたくなかった。

美穂の声には、いつもの優しさの中に、わずかな焦りと必死さが混じっている。


教師として多くの生徒を見てきた美穂だからこそ分かる。

今ここで沙織に諦めの言葉を口にさせてしまったら、本当に取り返しのつかないことになってしまう。


「分からないんです...自分が何をしたいのか」


美穂は沙織の手を強く握り、沙織の目を見つめながら優しく語りかける。


「ゆっくりでいいんです。沙織さんはセリナさんである前に、野田沙織さんなんですよ?これは変わらない事実です」


沙織は美穂の言葉にハッとする。

え、やっぱり今の私に気付かれてる?もしかして、沙耶香ちゃんが...?


「沙織さんという素晴らしい人がいて、その人がセリナを愛しているからこそ、あんなに美しいセリナが生まれるんです」


美穂は沙織の手をより強く握りしめる。


「私たちは、キャラクターを演じているけれど、その根底にあるのは自分自身です。セリナを愛する沙織さんの気持ちは、嘘じゃないでしょう?」

「...はい」


涙声で沙織が答え、美穂は沙織の手を離すと微笑みながら静かに立ち上がり、エレノアのマスクを沙織に渡した。


「え?あの、これは」

「さて、そろそろ着替えてきます。私が戻るまで、エそのレノアのマスクは持っておいてもらえますか?」

「いえそんな、これは美穂さんにとって大切な...」

「はい、それは私の大切なもう一つの顔です。だから沙織さん、大事に持っておいてくださいね」


美穂の声には、自分の最も大切なものを託すことへの一片の迷いもない。

それは沙織への絶対的な信頼の表れだった。


「こんな大切なものを、どうして私に...」

「信頼できる仲間だからです。同じ世界を愛する者同士として」


美穂はそう言うと、沙織の肩に手を置く。


「でも、それだけじゃありません。沙織さんは、私にとって本当に大切な友人なんです。初めて出会った時から、この人とならきっと素晴らしい時間を過ごせると思っていました」


美穂の言葉には、職業的な付き合いを超えた、人と人としての深い愛情が込められている。


「沙織さんの優しさや真面目さ、セリナへの愛情...全てが私には眩しくて。沙織さんのような友人を持てて、私は本当に幸せです」

「だから、今のこの辛い時も、一人で抱え込まないでください。私たちがいるんですから」


美穂はそのまま振り返ると奥の更衣スペースの方に歩いていく。

その後ろ姿には、沙織への深い友情と、必ず彼女を支えるという静かな決意が表れていた。


「沙耶香さん、エレノアの衣装、1人で脱ぐのはちょっと大変なんです。できれば手伝ってくださると助かります」

「はい、もちろん大丈夫ですよ!お手伝いしますね!」


美穂と沙耶香は一緒に更衣スペースの中に入った。



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スタジオ内にはエレノアのマスクを大事そうに両手で持った沙織の姿だけだった。

更衣室の方では美穂がエレノアの衣装を脱いでいく音と、その横で沙耶香が衣装を脱がせていきながら二人で話している声がかすかに聞こえてくる。


エレノアのマスクを見つめると、所々小さな傷があり、何度も丁寧に修復した跡があった。

綺麗なエメラルドグリーンの瞳には、何度も取り替えられた形跡もある。


この小さな傷...きっと長い間、大切に使われてきたんだ。


美穂さんがエレノア・サンクティスと一緒に歩んできた証が、全部刻み込まれてる。

マスクの内側を覗くと、汗の跡や、スポンジの減り具合で、どれだけ愛用されてきたかが分かる。


私のセリナのマスクも、同じように傷だらけで...でも、それが私とセリナが一緒に過ごした時間の証なんだ。

沙織は小さく微笑みながら涙を流した。


今日のこの撮影は、きっと沙耶香ちゃんが仕組んだ事なんだろう。

自分の異変にいち早く気づいて、どうにか助けてあげたいと思って、美穂さんに連絡をとって...

大先輩である美穂さんも、自分の為にエレノアになってまで駆け付けてくれて...


そして、美穂さんは自分の命とも言えるこのエレノアのマスクを私に預けて行った。

少なくとも、私だったらよっぽど信頼出来る仲間じゃないとそんな事出来ない。


美穂さんは「同じ世界を愛する者同士として」って言ってくれた。

私も、本当はセリナを愛してる。それは変わらない。


沙織にとっては、2人の今日の行為そのものがまず嬉しかった。


早く家に帰って、セリナに会いたい。ごめんねって、謝りたい。

沙織はエレノアのマスクを見ながら、久しぶりに前向きな気持ちを感じていた。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


撮影が終わり、スタジオの前で3人が集まる。

美穂はエレノアの衣装一式が入ったキャリーケースを足元に置いている。

夕方の日差しが3人を柔らかく照らし、スタジオから出てきたばかりの充実感が3人を包んでいる。


「今日はありがとうございました。久しぶりのスタジオ撮影、とても充実した時間でした」


美穂の表情には満足感が浮かんでいる。

マスクを外したばかりで少し髪が湿っているが、その疲労感すら心地よさそうに見える。


「こちらこそ、わざわざお時間を作っていただいて。美穂さんの撮影は本当に勉強になりました。エレノアの表現力、圧倒的でした」


沙耶香が返礼する。


「特に後半の祈りのポーズ、あの神聖さは私のカメラ歴の中でも最高レベルの作品になると思います!」

「そんな、私もまだまだ勉強中ですから」

「いえいえ、本当に素敵でしたよ!」

「ありがとうございます。それではこれ、今日の撮影料です」


美穂は沙耶香に丁寧に折られた白い封筒を差し出す。

封筒には「撮影料 西野沙耶香様」と美しい字で書かれている。


「そんな!いただけません!今日は私の方こそ、特別な撮影をさせていただいて...」


沙耶香が慌てて両手を振る。


「だめですよ!プロなんだから、ちゃんと報酬は受け取るべきです」


美穂の声には、教師らしい優しくも毅然とした響きがある。


「私も学校で生徒たちに教えているんです。『自分の技術と努力には責任と誇りを持ちなさい。それを軽んじることは、自分自身を軽んじることと同じです』って」

「美穂さん...」

「今日の沙耶香さんの撮影技術は、間違いなくプロのものでした。それに対する正当な対価です。受け取ってください」

「ありがとうございます...」


沙耶香は美穂の言葉に深く感動し、両手で丁寧に封筒を受け取った。

その封筒の重みは、美穂の職業観と人格の重みでもあった。

この間、沙織はずっと2人の会話を見守っていた。

その表情は明らかに最初とは変わっている。

目に光が戻り、背筋も伸び、顔色も良くなっている。

まるで長い病気から回復したかのような変化だった。


「美穂さん、今日は本当にありがとうございました。おかげで、私...」


沙織の声には、確実な回復の兆しと深い感謝の念が込められている。


「え?なんのことでしょうか。私、何か特別なことをしましたか?」


美穂がきょとんとした表情で首をかしげる。


「え?あの、その...今日のエレノアの撮影のこと」

「ああ、撮影ですか。でも今日私は、沙耶香さんにスタジオ撮影を依頼しただけですよ?特別なことは何も」

「美穂さん?」


沙耶香が困惑した表情で美穂を見つめる。

沙織と沙耶香は呆気に取られる。

美穂の自然すぎる演技に、本当に何も計画していなかったのかと思い始める。


「最近忙しくて、エレノアとしての撮影ができていなかったんです。それで沙耶香さんにお声がけして」

「沙織さんも偶然いらしたから、エレノアを見ていただけて光栄でした」

「実は、もしかするとセリナさんともまたご一緒できるかもしれないと密かに期待したんですが...」


美穂はちらっと沙織を見る。

その視線には期待と温かさが込められている。


「それはまた次回ということになりそうですね。でも今日は、久しぶりにエレノアとして撮影できて本当に楽しかったです」


美穂は時計を確認し、少し慌てたような表情を見せる。


「あ、もうこんな時間。明日の吹奏楽部の練習で使う楽譜をまだ準備していないんです」

「お忙しいところ、ありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ。生徒たちには『準備を怠ると良い演奏はできない』って言っている手前、自分も準備をしっかりしないと」


美穂はキャリーケースを持ち上げながら、最後に振り返る。


「沙織さん、また今度、時間があるときにでも、ゆっくりお話ししましょう。美少女着ぐるみについて、もっと語り合いたいです」

「はい、ぜひ」


沙織が明るい声で答える。


「沙耶香さんも、また撮影の機会があれば、よろしくお願いします」

「こちらこそ、いつでもお声がけください」

「それでは、お二人とも今日はありがとうございました。気をつけてお帰りくださいね」


美穂は2人に手を振って駅の方へ歩いて行く。

その後ろ姿は、本当に普通の中学校教師のようで、今日の出来事が全て偶然だったかのように見える。


「本当に...偶然だったのかな」

「さあ、どうでしょうね。でも美穂さんって、本当に素敵な人よね」


沙耶香が意味深な笑みを浮かべる。

沙織の表情を改めて見て、沙耶香は完全に確信する。

最初にスタジオに来た時の暗い表情は跡形もなく消え、以前の活気ある沙織が完全に戻っている。

美穂さん、本当にありがとう。さすが先生だけあって、人の心を動かすのが本当に上手。あの自然な演技も含めて、完璧だった。


「ごめんね、沙耶香ちゃん。最近、変な感じで心配かけちゃって。自分でもよく分からない状態で」

「全然気にしてないよ。誰だって調子が悪い時はあるしね」

「ありがとう。でも、もう大丈夫。なんだか、長い間かかっていた霧が晴れたみたいな気分」

「でも私、沙織ちゃんに何かしたっけ?今日はエレノアさんから突然撮影の依頼があって、それで沙織ちゃんも偶然来て...」


沙耶香がわざとらしく首をかしげる。


「無理無理」


沙織がくすくす笑いながら言う。


「美穂さんの真似しようとしても、沙耶香ちゃんじゃ演技力が足りないよ」

「あはは、やっぱりバレちゃった」


久しぶりに見る沙織の自然な笑顔、屈託のない笑い声に、沙耶香も心から安堵する。


「良かった、本当に良かった。いつもの沙織ちゃんが戻ってきた」

「今日は本当にありがとう。こんなに手の込んだサポート、感謝してもしきれない」

「それより、久しぶりにお疲れ様会でもしない?最近全然飲んでないでしょ?」

「いいね!久しぶりにお酒も飲みたいし、美穂さんの話もゆっくり聞きたい」

「じゃあ、いつもの居酒屋に行こう。個室でゆっくり話せるし」


2人はそのまま、久しぶりにお酒を飲みに向かった。

沙織の足取りは軽やかで、まるで重い荷物を降ろしたかのよう。

彼女の笑顔には、以前の輝きが完全に戻っていた。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

その日の夜、個室のある小さな居酒屋。



2人は久しぶりにビールで乾杯する。


「かんぱい。今日は本当にありがとう」

「こちらこそ。でも、沙織ちゃんが元気になって本当に良かった」

「不思議よね。朝は本当にもうセリナをやめようかと思ってたのに」

「何がそんなに変わったの?」

「美穂さんの言葉かな。『私が私のためにやっている』って。私、いつの間にか他人の期待のためにセリナをやってた気がする」

「確かに最近の沙織ちゃん、ちょっと完璧主義すぎた感じはあったかも」

「そう。完璧でなければいけないって思い込んで、セリナでいることが苦痛になってた」

「でも美穂さんは、エレノアを本当に楽しそうに演じてた。技術的には私より遥かに上なのに、楽しむことを忘れてなかった」

「さすが先生よね。人を導くのが上手」

「あのマスクを託してくれた時の気持ち、忘れられない。あんな大切なものを預けてくれるなんて」

「これからは、もっと自分らしくセリナを表現していきたい。美穂さんみたいに、純粋に楽しみながら」

「それが一番よ。私も、そんな沙織ちゃんを撮影したい」


沙耶香がビールを一口飲んでから、ふと思いついたように口にした。


「そういえば、ちょっと変な質問なんだけど...」

「なに?」

「沙織ちゃんって、美穂さんのエレノアを演じてみたいとか思わない?」

「え?」


沙織が箸を止めて沙耶香を見る。


「ほら、入れ替わってみたら面白そうじゃない?氷の騎士と聖騎士が逆になったらどんな感じかなって」


沙織は少し考えてから、複雑な表情で答えた。


「うーん...演じてみたい気持ちが全くないって言ったら嘘になるかな」

「でしょ?やっぱり興味あるよね」

「でも、美穂さんの大切なエレノアを私なんかが着るわけにはいかないでしょ。そんなこと、とてもじゃないけど言えないよ」


沙織の声には遠慮と敬意が込められている。


「それに」


沙織は少し強い口調になった。


「自分だって、他の人にセリナを演じて欲しいとは思えない。セリナは私で、私がセリナなの。美穂さんも同じでしょ?美穂さんがエレノアで、エレノアが美穂さん」

「ああ、そういうことか」


沙耶香が納得したように頷く。


「なんか、変なこと聞いちゃってごめん。そりゃそうよね」

「ううん、気にしないで」


沙織は笑いながら手を振る。


「でも沙耶香ちゃんになら、セリナ着せてあげてもいいよ?一回体験してみる?」

「えー!」


沙耶香が慌てて両手をバタバタと振る。


「無理無理!沙織ちゃんの大切なセリナを私なんかが着るなんて、絶対無理よ!」

「なんで?」

「だって、セリナは沙織ちゃんのものでしょ?私が着たって、セリナちゃんにはなれないもん」

「そんなことないよ」

「いやいや、私には絶対無理。第一、あんなに重い衣装着て、マスク被って、ポーズ取るなんて...考えただけでも照れちゃうし」


沙耶香が大げさに肩を竦める。


「私はやっぱり裏方が性に合ってるの。これからもしっかり撮影とサポートさせてください」

「ありがと、沙耶香ちゃん」


沙織が温かい笑顔を向ける。


「でも本当に、一回くらい着てみたら?面白いと思うんだけどな〜」

「だめよ〜。私はカメラの向こう側にいるのが一番落ち着くの」

「そうかな?結構似合うと思うよ?」

「もう、しつこいな〜」


沙耶香が笑いながらおつまみを摘む。


「でも、今日美穂さんを見てて思ったけど、やっぱりベテランは違うよね。あの表現力、すごかった」

「うん。私もまだまだだなって思った」

「そんなことないよ。沙織ちゃんのセリナも十分素敵だから」

「ありがと。でも、美穂さんみたいに純粋に楽しめるようになりたいな」

「きっとなれるよ。今日の沙織ちゃん見てたら、そう思う」


2人はそれぞれのビールを手に取り、小さく乾杯した。

温かい友情に包まれた、穏やかな夜が更けていく。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

23時15分、帰宅した沙織。



アルコールの影響もあって気分は上々、久しぶりに心が軽やかだった。


久しぶりにクローゼットを開け、セリナの衣装を見つめる。


「ただいま、セリナ」


以前とは全く違う気持ちで見ることができる。

嫌悪感は完全になくなり、代わりに懐かしさと愛おしさを感じる。


「ごめんね、しばらく会えなくて。でも、もう大丈夫」


完全復活の前のリハビリとして、短時間だけセリナを装着してみることにした。

まずはいつものように、ちゃんと着ぐるみ用のインナーに着替えてから全身タイツを足先から丁寧に引き上げていく。

久しぶりに感じる肌色タイツの包み込まれるような感覚に、心が躍る。

髪をゴムで束ねて首の後ろに集め、フードを被って首から頭頂部にかけてのファスナーを閉める。


「久しぶりだね、セリナ」


そう呟きながら、青と白銀を基調としたエナメルドレスを手に取る。

ずっしりとした重量感も、今日は嬉しく感じられる。

ファスナーを一つずつ上げていくたびに、沙織からセリナへと変わっていく自分を実感する。

黒革の小手と脛当てを装着する時、その冷たい感触が肌に伝わってくる。

以前は当たり前だったこの感覚が、今はとても新鮮で愛おしい。

胸当ての部分についた氷の裂け目を模した装飾が、部屋の照明を受けてキラキラと光る。


「やっぱり美しいな」と思わず見惚れてしまう。


最後に、セリナのマスクを手に取る。

前面パーツと後頭部パーツに分かれたこの超小顔設計のマスクは、沙織の相棒だった。

両耳上の金具を一つずつ丁寧に固定していく。

カチリ、カチリという小さな音が、まるで帰ってきたセリナを歓迎しているかのように聞こえる。

マスクが頭部に密着した瞬間、久しぶりにセリナになれた喜びが胸に広がる。

狭い視界の中で鏡を見ると、そこには確かにセリナ・グレイヴフロストが立っている。


「おかえり、私」


セリナの姿で鏡に向かってゆっくり手を伸ばす。

鏡の中のセリナも同じように手を伸ばしている。

マスクの中は少し息苦しいが、その感覚すら懐かしく感じられる。

自分の息遣いがマスク内で響く音も、以前は気になっていたのに、今はもう気にならない。


ゆっくりと氷の騎士らしいポーズを取ってみる。

片手を腰に当て、もう片方の手で剣を構える格好。

体が自然に動き、セリナとしての所作が蘇ってくる。


セリナを着ることが楽しくて仕方がない。


こんなに単純なことだったのに、どうして忘れてしまっていたんだろう。

セリナになることの純粋な喜び、変身する時のワクワク感、鏡に映る理想の自分を見る幸福感。


全てが戻ってきた。

やっぱりここが私の居場所。美穂さんの言う通り、これは私が私のためにやっていることなんだ。


マスクの中で深呼吸をする。

以前のような息苦しさや嫌悪感は全くない。

代わりに、懐かしい安心感が全身を包む。


15分ほどセリナとして過ごした後、ゆっくりとマスクを外す。

汗で少し湿った顔に、部屋の空気が心地よく触れる。


「ありがとう、セリナ。やっぱり私、あなたが大好きよ」


衣装を丁寧に脱ぎながら、沙織の心は温かい満足感で満たされていた。

セリナへの愛が、確実に蘇っている。


短時間の装着で感覚を確かめた後、沙織は写真撮影の準備をする。

今日美穂さんに言われた言葉を思い出しながら、丁寧にセリナのマスクを装着し直す。


「今度は、自分の気持ちに正直に撮影しよう」


鏡の前でいくつかポーズを試してみる。

以前のような「完璧でなければ」という強迫観念はない。

代わりに、純粋にセリナを表現する楽しさが戻ってきている。

スマートフォンのセルフタイマーを使って、2枚の写真を撮影する。


1枚目:青い髪飾りをつけ、凛々しい立ち姿のバストアップ写真。

以前のような力強さと、新たに加わった自然な優しさが融合している。


2枚目:胸元に手を当てて少し俯いているセリナの写真。

写真には青い文字で「もう大丈夫です」と書かれている。


これは沙耶香と美穂に向けた、沙織からの感謝のメッセージだった。

沙織は慎重に投稿文を考える。

ファンへの感謝と、自分の気持ちを込めた文章を。


「お久しぶりです。少しの間お休みをいただいていましたが、大切な仲間たちのおかげで戻ってくることができました。改めて気づいたのは、セリナを演じることは誰かのためではなく、私自身のためだということ。これからも、自分らしくセリナとして歩んでいきたいと思います。完璧ではない私ですが、温かく見守っていただけると嬉しいです。#復活 #感謝 #新たなスタート」


深夜0時ちょうどに投稿ボタンを押す。

新しい1日の始まりと共に、セリナの復活を宣言する。

投稿から5分後、まだ起きていた沙耶香が最初にいいねとコメントをつける。


「お帰りなさい、セリナちゃん。ずっと待ってました!」


沙織は沙耶香の迅速な反応に心が温まる。

投稿から30分後、楽譜の準備を終えた美穂がスマートフォンをチェックする。


「素晴らしい復活ですね。また一緒に撮影できる日を楽しみにしています。」


美穂のコメントを見て、沙織は今日の出来事が本当に偶然だったのか、改めて疑問に思う。

投稿から1時間で200を超えるいいねと、50を超えるコメントが寄せられる。


「お帰りなさい!ずっと待ってました」

「セリナちゃんの復活、本当に嬉しいです」

「お疲れ様でした。無理しないでくださいね」

「新しいセリナちゃんも楽しみです」


翌朝6時、目覚めた沙織がスマートフォンを確認すると、500を超えるいいねと100を超えるコメントがついていた。

みんな、私の復活をこんなに喜んでくれてる。美穂さんの言う通り、これは私が私のためにやっていることだけど、結果的にみんなも幸せにしてるんだ。


朝の柔らかな光がカーテン越しに部屋に入ってくる。

沙織は布団の中でスマートフォンを見ながら、深い満足感に包まれている。

今回の危機を乗り越えて、私は確実に強くなった。技術的な向上だけじゃなく、精神的な成長も大きい。

沙耶香ちゃんと美穂さんがいなかったら、きっと本当にセリナをやめていた。こんな素晴らしい友人たちに恵まれて、私は本当に幸せ。

これからは、もっと自分らしく表現していこう。完璧を求めすぎず、でも手を抜かず。楽しみながら、成長していこう。


「美穂さん、沙耶香ちゃん、ありがとう。そして、おかえり、セリナ」


深夜0時から朝6時までの間に、沙織は完全な復活を遂げた。

心安らかに新しい1日を迎える準備ができている。

明日からまた、セリナとしての新しい日々が始まる。

今度は、以前よりもずっと強固な精神的基盤と、信頼できる仲間たちと共に。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

週明けの月曜日。



いつものように出勤した沙織を、さくらと愛美が待ち構えていた。


「沙織先輩!」


さくらが嬉しそうに駆け寄ってくる。


「昨日の夜の投稿、見ました!すごく良かったです!」

「ありがとう、さくらちゃん」


沙織が微笑みながら答えると、愛美も続けて声をかけてきた。


「本当に美しくて、感動しちゃいました。特に1枚目の写真、髪飾りがとても綺麗で」

「そうそう!」


さくらが手を叩いて同調し、その横で愛美が少し声を落として続ける。


「なんだかとても温かい気持ちになりました。久しぶりに見るセリナさんの笑顔みたいで」


沙織は2人の言葉に、心が温まる。

こんなに身近なところで、いつも応援してくれている人たちがいる。


「しばらく更新が止まってたから、心配してたんです」


さくらが素直に心配していたことを打ち明ける。


「でも昨日の投稿を見て、ああ、また元気なセリナさんに会えるんだなって思って、すごく嬉しかったです」

「私も同じです」


愛美が頷く。


「何かあったのかなって気になってましたけど、でも昨日の投稿を見て安心しました」


他の同僚たちも朝の準備で慌ただしく動いている中、愛美がちらりと周りを確認してから、そっと沙織の近くに寄ってきた。

まるで秘密を打ち明けるかのように、愛美は左右を気にしながら沙織の方に身を寄せる。


愛美は沙織に少し身を寄せて、他の同僚たちが聞こえないように沙織の耳元で小さく囁く。


「セリナさん、おかえりなさい」


その優しい声は、沙織の耳にだけ届く特別な言葉だった。

そう言い終わると、愛美は何事もなかったかのように自然に距離を取り、いつもの職場の表情に戻ってその場を立ち去った。

沙織は胸が熱くなった。

愛美の優しさと気遣いに、目頭が熱くなる。


「どうかしました?」


さくらが沙織の表情の変化に気づいて心配そうに尋ねる。


「ううん、何でもない」


沙織は目を拭いながら微笑む。


「ただ、2人がいてくれて本当に良かったなって思って」

「当たり前ですよ」


さくらが明るく答える。


「私たち、ずっとセリナさんのファンですから。沙織先輩のことも大好きですし」

「これからも応援させてくださいね」


いつもすぐ近くで応援してくれているさくらと愛美に、いつかお礼をしないといけないな。

沙織はそう思いながら、新しい一日を迎える準備を整えた。


セリナとしても、沙織としても、これからもっと素敵になっていこう。

そんな前向きな気持ちで、月曜日の朝が始まった。


この経験を通じて、沙織は単なる「着ぐるみを着る人」から「自分の表現を通じて成長し続ける人」へと変化し、次章以降での大きな転換点に向けた土台を固めることになった。


外的成功と内的充実の不一致への気づき。

自己の存在価値の再確認。

他者依存からの脱却と自立心の獲得。

表面的な協力関係から真の支え合いへ。

危機における結束力の発揮。

相互理解の深化。

より強固な精神的基盤の構築。

チームワークの向上。

大きな挑戦に立ち向かう準備の完了。


これら全てが、セリナ・グレイヴフロストとして、そして野田沙織として、新たなスタートラインに立つための重要な成長の証となったのだった。





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POSTEDOct 24, 2025
ARCHIVEDJun 10, 2026