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「一人でも大丈夫。でも、仲間がいるって素晴らしい」
氷の騎士セリナ(沙織)が初めて一人で参加した着ぐるみイベント。
そこで待っていたのは、新たな出会いと意外な再会。
男性演者への戸惑い、コミュニティの温かさ、そして美穂との運命的な再会──。
この日の経験が、沙織の世界を大きく広げていく。
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目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
時計を見ると、午前5時半。
設定していたアラームよりも1時間も早い。
今日は着ぐるみイベントに初めて一人で参加する日。
緊張と期待で、自然と早く目が覚めてしまったようだ。
(緊張してるな、私...)
ベッドから起き上がる。
カーテンを開けると、外はまだ薄暗いが、空が少しずつ明るくなり始めている。
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせようとする。
昨夜、何度も確認した持ち物リストをもう一度見る。
セリナの衣装一式、マスク、全身タイツ、アクセサリー類、補修用の道具、水分補給用のペットボトル、冷却グッズ、タオル、名刺、スマートフォン用の三脚、予備のバッテリー。
すべて大きなボストンバッグに詰め込んである。
洗面所で顔を洗いながら、鏡に映る自分の顔を見つめる。
少し緊張した表情だが、同時に期待に満ちた表情でもある。
(一人で参加するの、初めてだもんね)
軽い朝食を取りながら、スマートフォンでイベント情報を最終確認。
SNSでは、すでに何人かの参加者が
「今日楽しみ!」といった投稿をしている。
その中に、いつも交流している@LovelyDoll_Mikuのアカウントも見つける。
(ミクさんも参加するんだ。
会えるといいな)
昨夜、美穂にLINEで
「明日イベント行ってきます」と送っていた。
返信を確認すると、
「楽しんできてくださいね!私は友達の用事があるので」という言葉が返ってきていた。
(美穂は忙しそうだ。
でも、一人でも大丈夫。
そう自分に言い聞かせる)
出発の時間が近づいてくる。
着替えを済ませ、大きなボストンバッグを肩にかける。
その重さが、今日の特別さを実感させる。
「行ってきます」
誰もいない部屋に向かって挨拶をして、玄関のドアを開ける。
秋の爽やかな朝の空気が頬を撫でる。
一歩を踏み出すと、緊張と期待が入り混じった気持ちが胸の中で膨らんでいく。
◆ ◆ ◆
電車の中、大きなボストンバッグを膝の上に抱えながら、沙織は窓の外を眺めている。
休日の朝の電車は、平日ほど混雑していない。
向かいの座席には、同じように大きな荷物を持った若者が座っている。
(コスプレイヤーだろうか。
それとも、自分と同じ着ぐるみの演者だろうか)
(みんな、何かに向かってるんだな)
スマートフォンでイベント会場の最終確認をする。
会場は都内の小さなイベントスペース。
着ぐるみ専門のイベントとしては小規模だが、アットホームな雰囲気が特徴だと説明に書いてある。
「初心者でも参加しやすい」というレビューを何度も読み返す。それでも、一人で参加することへの不安は完全には消えない。
最寄り駅に到着し、案内に従って会場へ向かう。
住宅街の中にある小さなビルが、今日の会場らしい。
入口付近には、すでに何人かの参加者が集まっている。
大きな荷物を持った人たちが、談笑しながら受付の開始を待っている。
(ここだ...)
深呼吸をして、その列に加わる。
周りを見渡すと、年齢層は様々。
20代から30代くらいの人が多いが、中には40代以上と思われる人もいる。
男性の姿が圧倒的に多い。
(やっぱり、男性の方が多いんだ)
知識としては知っていたが、実際に目にすると改めて実感する。
でも、女性の参加者もちらほらと見える。
それが少し安心材料になる。
受付の時間になり、列が動き始める。
順番が来て、スタッフに参加票を見せる。
「野田沙織様ですね。本日はよろしくお願いいたします」
女性スタッフが笑顔で対応してくれる。
参加証のリストバンドを受け取り、会場内への案内を受ける。
「更衣室は2階になります。男子更衣室と女子更衣室がございますので、ご確認ください」
スタッフの説明を聞きながら、階段を上がる。
大きなボストンバッグが肩に食い込むが、期待の方が大きくて気にならない。
◆ ◆ ◆
2階に上がると、廊下の突き当たりに
「男子更衣室」と
「女子更衣室」の表示が見える。
男子更衣室の入口は大きく、ドアも二重になっている。
対照的に、女子更衣室の入口は小さめで、シンプルな作りだ。
(男子更衣室の方が、圧倒的に大きいんだ...)
その事実が、改めて男性演者の多さを物語っている。
美少女着ぐるみをやっているのは男性が多いということは知っていた。
SNSで見るキャラクターたちも、その多くが男性演者だということも理解していた。
でも、実際に会場でその現実を目の当たりにすると、少し複雑な気持ちになる。
更衣室の前には、ルールについての掲示が貼られている。
沙織はそれを読み始める。
「着ぐるみを着用したまま更衣室に入る場合は、入口でマスクを外して性別確認を受けてください。未着用の方はそのまま入室できます」
(なるほど...まだ着替えてない人はそのまま入れるんだ)
このルールの必要性を理解し、同時に安心感も覚える。
性別確認のシステムがあることで、女子更衣室の安全性が保たれている。
男子更衣室から、次々と可愛らしいキャラクターが出てくる様子が見える。
ふわふわとしたピンク色の衣装を着た妖精のようなキャラクター。
凛々しい戦士風の美少女キャラクター。
魔法少女風の華やかなキャラクター。
どのキャラクターも、完璧に作り込まれていて美しい。
(あの可愛いキャラクターの中の人も...男性なんだ)
着ぐるみになってしまうと、中身の性別が全く分からない。
マスクの下には誰がいるのか、想像することもできない。
その事実に、何となく怖さを感じてしまう自分がいる。
(嫌悪感とかじゃないんだけど...なんだろう、この感覚)
出てきたキャラクターたちの動きを観察する。
ある魔法少女風のキャラクターは、スカートの裾を軽く持ち上げて優雅にお辞儀をする。
その仕草は、自分よりもずっと女の子らしい。
別の妖精風のキャラクターは、ふわふわと軽やかに歩きながら、手を振る動作が完璧に可愛らしい。
その優雅な手の動き、歩き方。
どれも自分には真似できないような、完成された女性らしさがある。
(すごい...私より女の子らしい...)
驚愕と、少し複雑な気持ちが混ざり合う。
でも、すぐに気持ちを切り替える。
(でも、みんなキャラクターを大切に演じてるんだよね)
そう考えると、少しずつ心が落ち着いてくる。
性別は関係ない。
大切なのは、キャラクターへの愛と、それを表現する情熱なんだ。
女子更衣室の前に到着する。
まだ着ぐるみを着ていないので、そのまま入ることができる。
深呼吸をして、ドアノブに手をかける。
ドアを開けて中に入ると、予想していたよりも明るく清潔な空間が広がっていた。
そして、何人かの女性が着替えの準備をしているのが見える。
(あ...女性がいる)
ほっとする気持ちが胸に広がる。
一人じゃない。
同じように着ぐるみを愛する女性たちが、ここにいる。
その事実だけで、緊張が大きく和らいでいく。
更衣室の中は、思ったよりも広くて清潔だ。
壁一面に大きな鏡が設置されていて、着替えやすい環境が整っている。
荷物を置くための長椅子が壁際に並び、ロッカーも設置されている。
照明も明るく、化粧直し用のスペースまで用意されている。
男子更衣室に比べれば小さいが、女性演者への配慮が感じられる作りだ。
室内を見渡すと、5、6人の女性がそれぞれの準備を進めている。
20代から30代くらいの年齢層が中心のようだ。
壁際の長椅子では、ショートカットの女性が全身タイツを履いている最中だった。
足先から丁寧に引き上げていく動作が、とても手慣れている。
その隣では、ボストンバッグから青い衣装を取り出している女性の姿。
水色のドレスのようで、人魚姫のようなキャラクターだろうか。
奥の方では、すでに全身タイツを着用した女性が、ピンク色の可愛らしい衣装を広げている。
猫耳のついたフードが見える。
魔法使い風のキャラクターのようだ。
その女性は、衣装を確認しながら小さく微笑んでいる。
これから始まるイベントへの期待が、その表情から伝わってくる。
鏡の前では、長い髪を丁寧に束ねている女性がいる。
30代くらいに見えるその女性は、髪をまとめながら、隣の女性と楽しそうに会話している。
「今日は久しぶりの参加だから、ちょっと緊張してます」
「大丈夫ですよ。みんな優しいから」
そんな会話が聞こえてくる。
更衣室の雰囲気は、予想以上に温かい。
みんな、お互いを気遣いながら準備を進めている。
ちょうどその時、入口の方で声が聞こえた。
「失礼します」
振り返ると、着ぐるみを着た状態の女性演者が、入口で立ち止まっている。
妖精のような衣装を着たキャラクターで、白と淡いピンクの色合いが美しい。
羽根のような装飾が背中についていて、とても可愛らしい。
女性スタッフが、丁寧に対応する。
「お疲れ様です。マスクを外していただけますか?」
キャラクターは頷いて、マスクの金具に手をかける。
前面と後頭部のパーツを分離させ、慎重にマスクを持ち上げる。
マスクの下から現れたのは、20代半ばくらいの女性の顔。
汗で少し赤くなった顔には、充実した表情が浮かんでいる。
スタッフは顔を確認し、笑顔で言う。
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
妖精のキャラクターを演じていた女性は、少し疲れた様子でお礼を言い、更衣室の中に入ってくる。
(ああ、あのルールってこういうことか)
実際のシステムを見て、より理解が深まる。
着ぐるみを着たままでも、マスクを外して性別確認を受ければ入室できる。
このルールがあるからこそ、女性演者も安心して活動できる。
妖精のキャラクターの女性は、空いているスペースを見つけて、大きく息を吐く。
「はぁ〜、暑かった」
近くにいた別の女性が、気遣うように声をかける。
「大丈夫ですか?水、飲みます?」
「ありがとうございます。持ってきてるので大丈夫です」
妖精の女性は、自分のバッグからペットボトルを取り出して、一気に飲む。
その姿を見て、沙織は改めて着ぐるみ活動の体力的な厳しさを実感する。
更衣室の中では、こうした気遣いが自然に行われている。
初めて会った者同士でも、助け合う文化がある。
ファスナーを閉めるのを手伝ったり、マスクの装着を手伝ったり。
みんな、この活動の大変さを理解しているからこそ、お互いを支え合っている。
沙織は、更衣室の隅に空いているスペースを見つける。
長椅子の端に大きなボストンバッグを置くと、隣で着替えている女性が軽く会釈をしてくる。
30代前半くらいの、落ち着いた雰囲気の女性だ。
「こんにちは」
「こんにちは」
軽い挨拶を交わす。
その女性は、紫色の綺麗な衣装を準備している。
魔女のようなキャラクターだろうか。
黒と紫のコントラストが美しい。
「初めての参加ですか?」
女性が優しく声をかけてくる。
「はい、一人での参加は初めてなんです」
「そうなんですね。私も何度か参加してますけど、みんな優しいから大丈夫ですよ」
その言葉に、沙織は安心する。
「ありがとうございます」
「お互い頑張りましょうね」
女性は微笑みながら、自分の準備に戻る。
更衣室の雰囲気に、少しずつ慣れてくる。
最初は緊張していたが、ここにいる女性たちは、みんな同じように着ぐるみを愛している。
そして、お互いを尊重し合っている。
鏡の前では、先ほどの長い髪の女性が、全身タイツの上から華やかなドレスを着始めている。
金色の装飾が施された、プリンセス風の衣装。
隣の女性が、背中のファスナーを上げるのを手伝っている。
「ありがとうございます」
「いえいえ。素敵な衣装ですね」
「ありがとうございます。今回、新調したんです」
そんな会話が聞こえてくる。
新しい衣装への期待、これから始まるイベントへの高揚感。
更衣室の中には、そうした前向きな空気が満ちている。
また、入口の方で声が聞こえた。
今度は、青いドレスを着たキャラクターが、マスクを外して性別確認を受けている。
人魚姫のような美しいキャラクターの中から現れたのは、20代後半くらいの女性。
笑顔でスタッフにお礼を言い、更衣室に入ってくる。
「いやぁ、久しぶりだから緊張しちゃった」
その女性は、少し照れたように言う。
先ほどの妖精の女性が、笑顔で応じる。
「お疲れ様です。私もさっき出てきたばかりです」
「ありがとうございます。水、もらっていいですか?」
「どうぞどうぞ」
こうした自然な交流が、更衣室の中で繰り広げられている。
性別確認のシステムがあることで、女性演者たちは安心してマスクを外し、休憩を取ることができる。
そして、お互いに助け合いながら、活動を楽しんでいる。
沙織は、この温かい雰囲気に包まれながら、自分の準備を始める決意を固める。
(ここなら、安心して楽しめそう)
ボストンバッグを開け始める。
一人での参加への不安は、もうほとんど消えている。
ここには、同じ趣味を持つ女性たちがいる。
そして、みんなが温かく迎え入れてくれる空気がある。
◆ ◆ ◆
ボストンバッグのファスナーを開けると、中から深いブルーの光沢が覗く。
セリナのエナメルドレスだ。
慎重に取り出して、長椅子の上に広げる。
その瞬間、何となく周りの視線を感じた。
顔を上げると、近くで準備をしていた何人かの女性が、こちらをちらっと見ている。
視線は一瞬だが、明らかに興味を持っているようだ。
(あれ...?)
少し戸惑いながらも、次にマスクを取り出す。
セリナの超小顔設計のマスク。
氷の騎士の凛とした表情が、マスクに刻まれている。
漆黒に近いネイビーブルーの髪に、白銀のメッシュ。
マスクを長椅子に置いた時、さらに視線が増えたのを感じる。
今度は、もう少しはっきりと。
隣で準備をしていた紫の魔女風衣装の女性が、小さく息を呑む音が聞こえた。
その女性は、セリナの衣装とマスクを見つめてから、沙織の顔を見る。
「もしかして...」
女性が小さな声でつぶやく。
続いて、黒鉄のチョーカーと氷の宝石のアクセサリーを取り出す。
そして、氷の結晶を模したヘアアクセサリー。
セリナの特徴的な装飾品が、次々と長椅子の上に並んでいく。
鏡の前で髪を束ねていた女性が、鏡越しにこちらを見ているのが分かる。
そして、隣の女性と目を合わせて、何か小声で話している。
「ねえ、あれセリナさんじゃない?」
「え、本当?あの衣装...」
そんなヒソヒソ話が聞こえてくる。
奥の方で猫耳の衣装を準備していた女性が、立ち上がって少しこちらに近づいてくる。
そして、セリナの衣装を見つめてから、目を輝かせる。
「あの...もしかして、セリナさん...ですか?」
その女性が、遠慮がちに声をかけてくる。
沙織は少し驚いて顔を上げる。
「え...はい、そうですけど...」
その言葉を聞いた瞬間、更衣室の空気が変わった。
「やっぱり!セリナさんだ!」
猫耳の女性が嬉しそうに言う。
その声に、周りの女性たちが次々と反応し始める。
「本物のセリナさん...?」
鏡の前にいた女性が、小さな声で興奮している。
紫の魔女風衣装の女性が、こちらに近づいてくる。
「あの、私、SNSでいつも見てます!特に先月の氷の騎士の動画、すごく良かったです!」
「え、ありがとうございます...」
沙織が答える間もなく、別の女性が。
「私も見ました!あの剣を構えるポーズ、本当にかっこよくて。何度も練習したんですよ」
金色のプリンセス風衣装の女性が、遠くから声をかけてくる。
沙織は、予想外の反応に戸惑いながらも、嬉しさが込み上げてくる。
「ありがとうございます...」
「あの、良かったら名刺交換してもらえますか?」
猫耳の女性がバッグから名刺を取り出す。
「あ、はい」
沙織は慌ててバッグからセリナの名刺を取り出す。
名刺交換をしている間に、また別の女性が近づいてくる。
「セリナさん、衣装の素材って、どこで手に入れたんですか?あのエナメルの質感、すごく綺麗で」
技術的な質問が飛んでくる。
「え、あの...ネットの専門店で...」
答えている間にも、さらに別の女性が。
「後で、写真一緒に撮ってもらえますか?」
「あ、はい、もちろん」
次々と話しかけられ、沙織は全身タイツ姿のまま、立ち話が続いている。
(あ...早く衣装着ないと...)
少し恥ずかしさが込み上げてくる。
全身タイツ姿で、こんなに長く人前にいるとは思わなかった。
「そういえば、初めての一人参加って投稿してましたよね。勇気ありますね!」
「私もずっと一人で参加したくて、今日セリナさんがいるって知って心強いです」
会話は途切れることなく続く。
沙織は、嬉しさと同時に、ふと自分の姿に気づく。
全身タイツ姿のまま。
体のラインが全て露わになっている状態で、こうして多くの人と話している。
でも、話しかけてくれる人たちの目は、好意的で温かい。
「セリナさんの世界観、本当に素敵です。あの氷の騎士の設定、どうやって考えたんですか?」
また新しい質問が。
「え、あの...自分の好きなイメージを...」
沙織が答えると、周りの女性たちが真剣な表情で聞いている。
「なるほど...参考になります」
遠くから見ている女性たちもいる。
話しかけたいけど、遠慮している様子。
でも、その視線は明らかに興味を持っている。
(美穂さんほどじゃないけど...自分も少し有名になってきたのかな)
認められることの嬉しさと誇らしさ。
でも同時に、全身タイツ姿で注目されることの恥ずかしさ。
さらに別の女性が、遠慮がちに近づいてくる。
「あの...衣装、近くで見てもいいですか?すごく綺麗で...」
「はい、どうぞ」
女性は、長椅子に並べられたエナメルドレスを、感嘆のため息と共に見つめている。
「このエナメルの光沢...本当に美しい...」
その様子を見て、また別の女性も近づいてくる。
沙織は、嬉しさを感じながらも、心の中で焦りが増してくる。
(早く衣装着たい...)
でも、みんなの反応が嬉しくて、断ることもできない。
「セリナさん、本当にスタイル良いですね」
紫の魔女風衣装の女性が、少し照れたように言う。
「え...?」
「全身タイツ姿を見て分かりました。だからセリナがあんなに美しいんですね」
その言葉に、沙織の恥ずかしさが一気に増す。
「そんな...普通ですよ...」
「いえいえ、女性から見ても羨ましいです」
周りの女性たちも、同意するように頷いている。
沙織は、恥ずかしさと誇らしさが入り混じった複雑な気持ちになる。
「あの、すみません、そろそろ準備を...」
やんわりと準備に戻りたいことを伝える。
「あ、ごめんなさい!お邪魔しちゃって」
「いえいえ、話しかけてくれて嬉しかったです」
女性たちは、笑顔で自分たちの準備に戻っていく。
でも、時々こちらを見て、微笑みかけてくれる。
沙織は、ほっとしながらも嬉しさを噛み締める。
(みんな、セリナのこと知ってくれてるんだ)
誇らしい気持ちが胸に広がる。
でも同時に、全身タイツ姿でこんなに長くいたことに、改めて恥ずかしさを感じる。
◆ ◆ ◆
女性たちが自分たちの準備に戻っていき、ようやく落ち着いた空気になる。
沙織は、深呼吸をして、自分の準備に集中する。
(さあ、着替えよう)
まず、私服を脱ぐ。
ズボンと上着を脱いで、バッグの中にしまう。
自宅から既に着用してきたスポーツブラとショーツ姿になる。
(汗対策のインナー、ちゃんと着てきて良かった)
吸汗性の高いスポーツブラとショーツは、着ぐるみ活動には必須。
イベントでは長時間着用することになるから、自宅を出る前に念入りに準備してきた。
普通の下着では、汗で不快になってしまう。
(今日は長丁場だから、しっかり対策しないと)
インナー姿になった状態で、少し周りを気にする。
でも、ここは女性専用更衣室。
みんな同じように着替えている。
特に気にする様子もなく、それぞれが自分の準備に集中している。
次に、ベージュ色の全身タイツを手に取る。
この瞬間から、セリナへの変身が本当に始まる。
足先から丁寧に履いていき、膝、太もも、腰と順番に引き上げていく。
タイツの生地が肌に密着していく感触に、いつものようにセリナになる実感が湧いてくる。
(やっぱりこの瞬間はいつでもドキドキする)
生地が肌を包み込むように密着し、自分の体のラインが全身タイツに映し出される。
足首から首まで、一枚の生地で完全に覆われていく感覚。
日常から非日常への扉が、少しずつ開いていく。
両腕を袖に通し、背中のファスナーを首元まで上げる。
ファスナーが上がるたびに、密着度が増していく。
頭部のフード部分は、まだ被らずに胸元に垂れ下げたままにしておく。
顔以外が全てタイツに覆われた状態で、鏡を見つめる。
(まだセリナじゃないけど、もう私じゃない感じ)
この中間的な状態も、変身の過程として愛おしく感じられる。
◆ ◆ ◆
ふと、少し離れた場所から声が聞こえてくる。
「えー、でもこの衣装...ちょっと恥ずかしいかも...」
「大丈夫だって!みんなこうやって準備してるんだから」
視線を向けると、4人組の女性グループが準備をしている。
そのうちの2人は、全身タイツの上から華やかな衣装を着用したばかりで、明らかに慣れていない様子。
もう2人は、既にマスクまで装着していて、初心者の2人をサポートしているようだ。
「でも、この格好...ちょっと露出が多いというか...」
20代前半くらいの女性が、ピンク色のフリフリした衣装を着て、鏡で自分の姿を見ながら、顔を赤くしている。
魔法少女風の可愛らしい衣装だが、スカート丈が短めで、確かに少し恥ずかしいデザインだ。
沙織も初めて衣装を着た時は同じように感じていた。
「ほら、マスクを被っちゃえば大丈夫だから」
既にマスクを装着している経験者が、優しく声をかけている。
青い髪の人魚姫風のキャラクターだ。
「そうそう。マスク被ったら、もう自分じゃなくてキャラクターだから」
もう一人の経験者、紫の魔女風キャラクターも励ます。
「じゃあ、マスク被ってみる?」
「うん...」
初心者の女性が、マスクを手に取る。
ピンク色の可愛らしいキャラクターのマスクだ。
「その前に、髪ちゃんとまとめた?」
経験者の一人が確認する。
「あ、まだです...」
「じゃあ、まず髪をゴムでしっかりまとめて。そうしたらフード被って」
初心者女性は、言われた通りに髪をゴムで束ね、全身タイツのフードを頭に被る。
首のファスナーを閉めると、顔だけが露出した状態になる。
「これでいいですか?」
「うん、完璧。じゃあマスク被ってみよう」
初心者の女性が、慎重にマスクを頭に被せていく。
しかし、マスクが完全に装着された瞬間。
「あ、あれ...息が...視界が...」
女性の声が、明らかに動揺している。
「大丈夫?落ち着いて、ゆっくり呼吸して」
経験者の女性が、すぐに背中をさすってサポートする。
「視界は狭いから、最初は戸惑うけど、すぐに慣れるよ」
「で、でも...息苦しい...」
「口でゆっくり呼吸。焦らないで」
その様子を見て、沙織は初めての時の自分を思い出す。
あの視界の狭さ、息苦しさ。
最初は誰もがパニックになりそうになる。
もう一人の初心者女性も、マスクを被ろうとして躊躇している。
こちらは黄色い衣装を着ている。
妖精のような軽やかな雰囲気のデザインだ。
「私も...怖いかも...」
「大丈夫だから。私も最初はそうだったよ」
グループのサポート役の女性たちが、優しく励ましている。
その光景を、沙織は微笑ましく見つめていた。
(みんな、最初は同じなんだな)
ちょうどその時、既にマスクを装着している経験者の一人──青い髪の人魚姫風キャラクター──が、沙織の方を見た。
そして、長椅子に並べられたセリナの衣装とマスクに気づく。
マスクを外して、素顔を見せる。
30代くらいの、落ち着いた雰囲気の女性だ。
「あの...もしかして」
女性が近づいてくる。
「セリナさんですよね?」
「はい、そうです」
沙織は少し照れながら答える。
「やっぱり!SNSでいつも拝見してます」
女性の目が輝く。
「ちょっと待って、みんなに伝えたい!」
女性は、グループの仲間たちに手招きする。
「ねえねえ、この方、セリナさんだよ!」
「え!?本物のセリナさん!?」
マスクを被って動揺していた初心者女性も、その言葉に反応する。
マスクを外して、こちらを見る。
「本当だ...セリナさん...」
4人全員が、こちらに注目する。
最初に話しかけてきた女性が、自己紹介をしてくる。
「私、@Crystal_Roseでアカウントやってる、佐々木と言います」
「野田です。よろしくお願いします」
沙織も名乗る。
「こちらの2人が、今日初めて着ぐるみデビューする子たちなんです」
佐々木が、初心者の2人を紹介する。
「こんにちは...緊張してます...」
「よろしくお願いします...」
2人とも、明らかに緊張している。
「あの、もし良かったら...」
佐々木が、少し遠慮がちに言う。
「この2人に、何かアドバイスをいただけませんか?」
「セリナさんのような先輩からアドバイスをもらえたら、きっと励みになると思うんです」
突然のお願いに、沙織は少し戸惑う。
(え...私なんかで良ければ...)
自分も、まだまだ経験が浅い。
でも、確かに初心者の2人から見れば、先輩にあたる。
「あの、マスクの息苦しさなんですけど...」
一人の初心者女性が、不安そうに聞いてくる。
「最初は誰でも息苦しく感じます」
沙織は、自分の経験を思い出しながら答える。
「でも、焦らずに口でゆっくり呼吸すること。それが一番大切です」
「口呼吸...ですか?」
「はい。鼻だと苦しい場合が多いので、口で深く、ゆっくりと」
「視界が狭いのも、最初は怖いんですけど...」
もう一人が聞いてくる。
「それも、慣れるしかないんです」
沙織は優しく答える。
「でも、無理に動き回ろうとせず、最初は立っているだけでも大丈夫」
「周りのスタッフさんや仲間が必ずサポートしてくれますから」
「そうなんですね...」
2人の表情が、少し和らぐ。
「あと、全身タイツ姿が恥ずかしいって気持ちも、すごく分かります」
沙織は、自分も最初そうだったことを伝える。
「でも、マスクを被ってキャラクターになれば、もう恥ずかしさは消えます」
「なぜなら、そこにいるのは自分じゃなくて、キャラクターだから」
その言葉に、初心者の2人が目を輝かせる。
「そっか...キャラクターになれば...」
「ありがとうございます!頑張ります!」
佐々木も、嬉しそうに笑顔を見せる。
「セリナさん、本当にありがとうございます」
「いえ、私も大したアドバイスじゃないですけど...」
「すごく参考になりました」
もう一人の経験者女性も、感謝の言葉を述べる。
「あの、良かったら名刺交換しませんか?」
佐々木が提案する。
「はい、ぜひ」
沙織は、バッグからセリナの名刺を取り出す。
4人も、それぞれの名刺を取り出してくる。
名刺交換が終わると、佐々木が少し照れたように言う。
「セリナさん、本当にスタイル良いですね...」
「え...?」
「全身タイツ姿を見て分かりました。だからセリナがあんなに美しいんですね」
佐々木の視線が、沙織の体のラインを見ている。
全身タイツによって露わになったプロポーション。
Eカップの胸、くびれたウエスト、綺麗な脚のライン。
「女性から見ても羨ましいです...」
佐々木が、心から感嘆した様子で言う。
もう一人の経験者女性も、同意するように頷く。
「私も思いました。本当に美しい...」
沙織は、少し照れながら答える。
「そんな...普通ですよ...」
「いえいえ、本当に素敵です」
初心者の2人も、憧れの目で見ている。
「私も、セリナさんみたいになりたいです」
「頑張ります!」
2人の初心者女性は、沙織のアドバイスと励ましで、明らかに前向きになっている。
「それじゃあ、お互い頑張りましょう」
佐々木が笑顔で言う。
「はい、頑張りましょう」
沙織も笑顔で応える。
グループの4人は、自分たちの準備に戻っていく。
初心者の2人は、先ほどよりも自信を持った表情で、再びマスクを手に取っている。
(良いアドバイスができたかな)
沙織は、少しホッとしながら、自分の準備に戻る。
先輩として、少しでも役に立てたことが嬉しい。
ちょうどその時、更衣室の入口近くから明るい声が聞こえてきた。
「あの!もしかしてセリナさんですか!?」
振り返ると、そこには全身タイツを着用した女性が立っている。
手には可愛らしい猫耳のついた衣装を持っている。
これから本格的に着替えるところのようだ。
その女性の顔には、嬉しそうな笑顔が浮かんでいる。
(え...?)
一瞬、誰だか分からず戸惑う。
でも、その声に聞き覚えがある。
「ミクさん!?」
「そうです!やっぱりセリナさんだ!」
@LovelyDoll_Mikuとして、SNSで何度も交流していた相手。
初めて実際に会うことができた。
緊張していた気持ちが、一気にほぐれていく。
「ミクさん、今日参加されるんですね!」
「はい!まさかセリナさんにお会いできるなんて!」
ミクの興奮が伝わってくる。
彼女も沙織と同じくらい、20代後半くらいに見える。
明るくて人懐っこい雰囲気を持っている。
「一緒に写真撮りましょうね!」
「ぜひ!楽しみにしてます」
共通の話題を持つ相手がいることで、一人参加の不安が大きく和らいでいく。
自分のセリナが、こんなにも認識されていたなんて。
SNSでの交流は画面越しだったが、実際に会場で認められるというのは、また違った喜びがある。
更衣室の温かい空気に包まれながら、沙織は本格的にセリナへの変身を続けていく。
◆ ◆ ◆
エナメルドレスを手に取る。
深いブルーの光沢が美しく輝くドレスを見つめながら、今日への期待が高まる。
(今日は、たくさんの人と交流できるかな)
ドレスを頭から被り、腕を袖に通していく。
エナメル生地が全身タイツの上を滑るように降りてくる感覚が心地良い。
しかし、胸元を通そうとした時に、いつもの違和感を覚える。
(やっぱりちょっときついな...)
ドレスを引っ張りながら胴体部分を通す。
以前よりも抵抗があるのは、やはり体重が少し増えたせいだろう。
何とか着用できたが、全体的に締め付け感が強い。
(運動、ちゃんとしないとダメだな)
自分に言い聞かせる。
ミクが背後に回って、ファスナーを上げてくれる。
「じゃあ、閉めますね」
「お願いします」
ファスナーが上がっていく音と共に、ドレスが体に密着していく。
ウエスト部分のベルトを締めようとするが、やはり少しきつい。
一段階緩めて調整する。
「大丈夫ですか?」
ミクが心配そうに声をかけてくる。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
次に、アクセサリーを装着していく。
黒鉄のチョーカーを首に巻く。
氷の宝石が胸元で美しく輝く。
手首にはシルバーのブレスレット、髪には氷の結晶を模したヘアアクセサリーを装着。
一つ一つのアクセサリーが装着されるたびに、沙織からセリナへの変身が進んでいく。
最後に、ニーハイブーツを履いて足元も完成。
(あとはマスクだけ)
最も重要なマスクを手に取る。
超小顔設計の美しいマスクは、セリナの顔そのもの。
氷の騎士の凛とした表情が、マスクに刻まれている。
(今日もよろしくお願いします)
マスクに向かって小さく挨拶する。
この儀式的な挨拶も、変身の大切な過程。
まず、髪をゴムでしっかりと束ね、首元に集める。
全身タイツのフードを頭に被り、顔だけが露出した状態にする。
首から頭頂部に続くファスナーを閉める。
この状態でも、すでに変身の途中という特別な感覚がある。
隣では、ミクも同じように自分のマスクを手に取っている。
二人とも、慣れた手つきでマスクの準備をしている。
マスクを両手で持ち、深く息を吸い込んでから、慎重に頭に被せていく。
冷たいプラスチックの感触が額に触れた瞬間、いつものドキドキ感が胸に広がる。
この瞬間から、本当の変身が始まる。
マスクを下ろしていくと、額のスポンジが最初に密着する。
柔らかい圧迫感が頭部を包み込み、外界から遮断されていく感覚。
続いて頬骨の部分、そして鼻筋にもスポンジが当たり、顔全体が徐々にマスクに包まれていく。
鼻の部分では、いつものように軽い圧迫感を感じる。
マスクの超小顔設計により、鼻が少し潰される感覚。
一瞬、息苦しさを覚える。
でも、この圧迫感こそが、セリナになっている証拠。
口元はまだ自由だが、鼻呼吸が制限されることで、自然と口呼吸に切り替わる。
顎の部分まで下ろすと、マスクの顎のラインが沙織の顎のラインに重なっていく。
最初は少し浮いていた部分も、徐々にフィットして隙間が埋まっていく。
まるで自分の顔がマスクと融合していくような、不思議な一体感。
マスクが完全に被さると、内部は急に静寂に包まれる。
外の音が遠くなり、代わりに自分の呼吸音がマスク内に響き始める。
(ハァ...ハァ...)
いつもより大きく聞こえる自分の息遣い。
この音こそが、セリナの内側にいる証拠。
慣れた手つきで、耳の上の小さな金具に手を伸ばす。
右耳の上、左耳の上、順番に金具を留めていく。
パチン、パチンという小さな音と共に、マスクが完全に固定される。
この音が、完全なる変身の完了を告げる合図。
固定が完了した瞬間、マスクと顔の境界がさらに曖昧になる。
もう簡単には取り外すことはできない。
完全にセリナとして固定された状態。
隣を見ると、ミクも同じようにマスクの装着を完了させている。
猫耳のキャラクターの可愛らしい顔が、そこにある。
ミクの手つきも、とても慣れている。
きっと何度もこうして変身を繰り返してきたのだろう。
二人は、マスク越しに視線を交わす。
もう、声は出せない。
会場に出たら、身振りだけでコミュニケーションを取る世界が始まる。
沙織という存在が封印され、セリナという存在が解放される瞬間。
視界を確認するため、顔の角度を調整する。
マスクの目の部分にある小さなスリットから、更衣室の風景を見渡す。
狭い視界の中に、鏡と周りで着替える演者たちの姿が見える。
鏡の前に立つ。
そこには、完璧なセリナ・グレイヴフロストの姿があった。
氷の騎士として凛々しく立つ姿は、いつ見ても特別な感動がある。
深いブルーのエナメルドレスは美しく光り、黒鉄のチョーカーと氷の宝石が胸元で輝いている。
(よし、完成)
でも、セリナとして鏡に映る自分の姿を見ながら、マスクの中では別の現実が広がっている。
(ハァ...ハァ...)
自分の呼吸音が、マスク内に大きく響く。
まるで密閉された小部屋の中にいるような、独特の音響。
吐いた息がマスクの内側に跳ね返り、顔全体に熱い空気がかかる。
(この感覚...何度経験しても慣れない)
額のスポンジが、じんわりと圧迫してくる。
鼻も、マスクの超小顔設計によって軽く押し潰されている。
鼻呼吸は制限され、自然と口呼吸に切り替わる。
口を開けて、ゆっくりと息を吸う。
マスクの口元にある小さなスリットから、かろうじて外気が入ってくる。
でも、その空気もすぐにマスク内部の熱気と混ざり合い、生暖かくなる。
視界は、マスクの目の部分にある小さなスリットからしか得られない。
正面はまだ見える。
鏡に映るセリナの姿が、狭い視界の中央に捉えられている。
でも、左右は完全に見えない。
顔を動かさなければ、横の様子は全く分からない。
(右側に...誰かいた気がする)
顔を少し右に向ける。
マスクの重さが、首に負担をかける。
髪の毛の重さも加わって、1.8キログラムの重量が首を圧迫する。
視界がずれて、右側の更衣室の様子が見えてくる。
ミクが準備をしている姿が、ぼんやりと視界に入る。
足元は、ほとんど見えない。
下を向くと、自分の胸元と、その先に床が少しだけ見える程度。
(階段とか...段差とか...気をつけないと)
マスクの内部では、早くも少し汗が滲み始めている。
額のスポンジが、わずかに湿気を帯びてきた。
(まだ何もしてないのに...もう暑い)
でも、この感覚こそが、セリナになっている証拠。
この困難を乗り越えて、キャラクターとして立つ。
それが、自分の選んだ道。
鏡の中のセリナは、完璧に凛々しく立っている。
でも、その内側では、一人の女性が暑さと息苦しさに耐えながら、必死に呼吸を整えている。
(頑張ろう、私)
マスクの中で、小さく自分を励ます。
◆ ◆ ◆
ちょうどその時、沙織の視界の端に、一人の女性演者の姿が映った。
更衣室の奥で、静かに準備をしていたその女性は、今まで全くこちらに注意を向けていなかった。
小柄で、髪を短くまとめた地味な印象の女性。
年齢は20代後半くらいだろうか。
黙々と私服から全身タイツに着替え、次に衣装を着用していく。
その女性が着ているのは、明るいパステルピンクの可愛らしい衣装。
フリルがたっぷりついたドレス風で、ファンタジー世界のお姫様のようなデザイン。
衣装を着終わると、女性はマスクを手に取る。
マスクも、衣装と同じパステルピンクで統一されていて、とても可愛らしい。
少女のような愛らしい顔立ちのマスクだ。
女性は、慣れた手つきでマスクを頭に被せ、金具を留めていく。
その一連の動作は、とても淡々としていて、まるで日常の作業をこなすかのよう。
そして──
マスクが完全に装着された瞬間、その女性の雰囲気が一変した。
さっきまで地味で目立たない存在だったその女性が、マスクを被った途端、まるで別人のように動き始めた。
鏡の前で、スカートの裾を両手で軽く持ち上げ、くるりと優雅に回転する。
その動きは、本物のお姫様のように軽やかで可愛らしい。
次に、小さくジャンプして、着地の時にスカートをふわりと広げる。
まるでバレリーナのような、計算された美しい動き。
そして、鏡に向かって両手を頬に添えて、首を少し傾げる。
その仕草は、まるでアニメのキャラクターがそのまま現実に現れたかのような、完璧な可愛らしさ。
(え...)
沙織は、その変化に思わず息を呑む。
さっきまで地味で大人しそうだった女性が、マスクを被った瞬間、完全にキャラクターになりきっている。
私服姿の時とは全く違う、別人格が現れたかのよう。
その女性──いや、今はもう
「お姫様キャラクター」は、鏡の前で次々とポーズを取り続ける。
手を組んで上を向いたり、スカートを押さえてしゃがんだり。
どの動きも、自然で可愛らしい。
(すごい...完全に別人...)
沙織は、そのギャップに驚きを隠せない。
(マスクを被ることで、ここまで人は変わるんだ...)
自分も、セリナを演じる時はいつもと違う自分になる。
でも、あそこまで完全に別人格になれるだろうか。
あの女性は、まるで本当に
「お姫様」そのものだ。
お姫様キャラクターは、満足そうに鏡の前でポーズを決めると、ゆっくりと更衣室の出口へ向かっていく。
その歩き方も、スカートを軽く揺らしながら、優雅に一歩一歩進んでいく。
まるで本当に城の廊下を歩いているかのよう。
沙織は、その後ろ姿を見送りながら、改めて思う。
(マスクって...本当に不思議だな)
普段の自分を完全に封印して、全く別の存在になれる。
それが、着ぐるみの魅力であり、恐ろしさでもある。
(あの女性も、きっと普段は地味で目立たない生活をしているのかもしれない。
でも、マスクを被った瞬間、誰よりも可愛らしいお姫様になれる)
(私も...セリナを演じる時、あんなふうに完全に別人になれてるのかな)
自分を振り返りながら、そんなことを考える。
ミクも隣で、自分の準備を終えている。
猫耳のついた可愛らしい衣装を着て、マスクを装着し始めている。
彼女のキャラクターは、明るいピンク色を基調とした猫の魔法使い風。
とても可愛らしい。
お互いの準備が完了し、鏡の前で並んで立つ。
氷の騎士と猫の魔法使い。
対照的なキャラクターだが、どちらも美しい。
「セリナさん、素敵です!」
ミクが興奮した様子で、マスクの中から声を出す。
「ミクさんも可愛い!」
お互いのキャラクターを確認し合い、これから始まるイベントへの期待が高まる。
(会場に出たら、声は出さないようにしないと)
キャラクターとして会場に出る以上、声を出すことは禁止。
身振り手振りだけで、コミュニケーションを取らなければならない。
更衣室を出る前に、深呼吸をする。
マスクの中の温度が少し上がり、自分の息遣いが顔を包む。
(さあ、行こう)
ミクと一緒に、更衣室のドアを開ける。
廊下に出ると、すでに何体ものキャラクターたちが会場へ向かっている。
その光景に、胸が高鳴る。
マスクの狭い視界の中、前方の景色だけが切り取られて見える。
まるで、小さな窓から外を覗いているような感覚。
廊下の先に、メインホールへ続くドアが見える。
でも、周辺視野は完全に遮られていて、まるでトンネルの中を歩いているよう。
(ハァ...ハァ...)
歩くだけで、呼吸が少し荒くなる。
マスクの中は、すでにかなりの湿度になっている。
自分の吐く息で、内部の空気が生暖かくなり、湿気がこもる。
額から、少し汗が流れ落ちてくる。
でも、マスクを被っているから、拭くことができない。
汗は額のスポンジに吸収され、そのスポンジが顔に密着する。
(気持ち悪い...でも、我慢)
目の周りのスポンジも、じわりと汗を吸い始めている。
視界が、ほんの少しだけ曇ったように感じる。
頬のスポンジも、顔に密着してきた。
マスクと顔の境界が、どんどん曖昧になっていく。
(もう、完全にセリナだ)
ドアに近づく。
でも、足元がよく見えないから、慎重に歩く必要がある。
一歩一歩、確実に足を運ぶ。
ドアの前で立ち止まる。
ドアノブに手を伸ばす。
でも、マスクを被っていると、距離感が掴みにくい。
一度、空振りする。
(あれ...)
もう一度、慎重に手を伸ばす。
今度は、しっかりとドアノブを掴むことができた。
ドアを開ける。
◆ ◆ ◆
会場のメインホールに足を踏み入れた瞬間、視界の中に圧倒的な光景が広がった。
狭い視界の中に、たくさんのキャラクターたちが見える。
ピンク、青、紫、緑...色とりどりの衣装。
可愛らしい、凛々しい、妖艶な...様々なキャラクターたちが、そこにいる。
でも、全体を一度に見ることはできない。
顔を動かして、左、右、と視界を移動させながら、会場の様子を把握していく。
(すごい...こんなにたくさん...)
マスクの中で、小さく感動の声が漏れる。
でも、その声は外には聞こえない。
マスクに遮られて、自分の耳にだけ響く。
会場の空気は、廊下よりも少し涼しい。
でも、マスクの中は相変わらず蒸し暑い。
外気との温度差が、よりはっきりと感じられる。
(外は涼しいのに...中は暑い...)
この矛盾した感覚が、着ぐるみならではのもの。
様々なキャラクターたちが、すでに会場内を自由に動き回っている。
ファンタジー世界の騎士、魔法使い、妖精、アイドル風の衣装を着たキャラクター。
どれも完成度が高く、まるで別世界に迷い込んだような感覚になる。
(すごい...)
ミクも隣で同じように、会場の雰囲気に圧倒されているようだ。
会場の広さは、体育館の半分くらい。
決して広くはないが、それがかえってアットホームな雰囲気を作り出している。
壁際には撮影用の背景パネルがいくつか設置されていて、すでに何組かが撮影を楽しんでいる。
会場の中央には自由に交流できるスペースがあり、キャラクター同士が身振り手振りでコミュニケーションを取っている。
一般参加者の姿も見える。
カメラを持った人たちが、丁寧に許可を取ってからキャラクターを撮影している。
そして、会場の一角には──
(あれは...業者さんのブース?)
壁際の一角に、いくつかのブースが設置されているのが見える。
「マスク工房 ドリームフェイス」「コスプレ衣装制作 アトリエ・ファンタジア」「美少女着ぐるみ専門店 ビューティ・マスク」
それぞれのブースには、色とりどりのマスクや衣装が展示されている。
マスク工房のブースには、様々なキャラクターのマスクがマネキンに装着されて並んでいる。
その完成度の高さに、思わず見入ってしまう。
(すごい...どのマスクも、本当に美しい...)
ブースの前には、何人かの参加者が立ち止まって、展示品を眺めている。
中には、スタッフと熱心に話し込んでいる人もいる。
特に目を引くのは、
「マスク体験コーナー」の看板が出ているブース。
そこでは、一般の参加者が実際にマスクを装着している様子が見える。
20代くらいの男性が、初めてマスクを被った様子で、鏡の前で自分の姿を確認している。
「うわぁ...本当に別人みたい...」
男性の驚きの声が聞こえてくる。
スタッフが、丁寧にマスクの装着方法を説明している。
「金具はここで留めます。最初は少し窮屈に感じるかもしれませんが、すぐに慣れますよ」
その隣では、別の一般参加者──こちらは30代くらいの男性──がマスクを外したばかりで、興奮した様子で友人と話している。
「視界が狭いのは想像以上だったけど、でもすごい体験だった!」
「俺も試してみたい!」
マスク体験コーナーは、かなりの賑わいを見せている。
さらに奥には、
「女性限定 着ぐるみ体験コーナー」という看板も見える。
そのブースでは、全身タイツから衣装、マスクまで一式を借りて、実際に変身できるようになっているらしい。
専用の撮影ブースも用意されていて、プロのカメラマンが撮影してくれるようだ。
ブースの前には、何人かの女性が順番待ちをしている。
その中には、明らかに初心者と分かる人もいて、緊張した表情と期待に満ちた表情が入り混じっている。
(女性限定の体験コーナーまであるんだ...)
(着ぐるみの世界が、こんなに広がっているなんて...)
沙織は、その光景を見て、嬉しい気持ちになる。
(この界隈が、こうして賑わっているのが...なんだか嬉しい)
マスク工房のブースでは、スタッフと思われる人物が売り子として立っている。
でも、そのスタッフは──
(え...マスクを被ったまま...?)
ピンク色の可愛らしいマスクを装着したまま、接客をしているのだ。
その売り子が、お客さんに丁寧に説明している様子が見える。
マスクの中から、女性のくぐもった声が聞こえてくる。
「こちらのマスクは、超小顔設計で、フィット感が抜群です」
「内側のスポンジも改良されていて、長時間の装着でも疲れにくくなっています」
(マスク姿で接客してるんだ...)
その姿は、とても印象的だ。
マスクの美しさを、自ら体現しながら販売している。
別のブースでは、青い髪のマスクを被ったスタッフが、呼び込みのように手を振っている。
「新作マスク、展示中です!ぜひご覧ください!」
その声も、マスクの中から響いてくる女性のくぐもった声。
でも、明るく元気な声色で、親しみやすい雰囲気を作り出している。
沙織とミクが、ブースの前を通りかかると──
ピンク色のマスクを被った売り子の一人が、セリナの姿に気づく。
そのスタッフは、明らかに嬉しそうな様子で、セリナに向かって軽く手を振ってくる。
マスクの中から、声が聞こえる。
「セリナさん!」
沙織は、少し驚く。
(え...私のこと、知ってるの...?)
でも、その嬉しそうな雰囲気に、自然と反応してしまう。
セリナとして、手を振り返す。
ピンク色のマスクの売り子は、さらに嬉しそうに、両手を振ってくる。
(マスクを被ってても、嬉しそうなのが伝わってくる...)
沙織は、マスクの中で笑顔になる。
ミクも、その様子を見て、嬉しそうにしている。
セリナは、もう一度手を振ってから、ゆっくりとその場を離れる。
でも、心の中では──
(自分も...少しは有名になったんだな...)
実感が湧いてくる。
業者のスタッフにまで認識されている。
SNSだけじゃない、リアルな場でも、セリナとして認められている。
(美穂さんみたいに、6200人のフォロワーがいるわけじゃない。
920人は、まだまだ少ない方だ)
(でも...それでも、こうして認めてくれる人がいる)
(だったら、他の演者に負けないよう...セリナとして、堂々と振る舞わないと)
沙織の心に、新たな決意が芽生える。
背筋を伸ばし、セリナとしての立ち居振る舞いを意識する。
優雅に歩く。
丁寧にお辞儀をする。
氷の騎士としての威厳を保つ。
(私は、セリナ・グレイヴフロスト。
死を司る氷の騎士)
(ここにいる間は、完璧にセリナでいよう)
そんなことを考えながら、会場をさらに見て回る。
(ここにいる全員が、普段の自分とは違う存在になって、自分の愛しているキャラクターを演じている。
そして、この非現実的な空間を作り出している)
(まるでゲームの世界にでも飛び込んだみたい...)
不思議な感覚と、嬉しい気分になる。
男子更衣室から出てきたキャラクターたちも、たくさん会場にいる。
でも、更衣室で感じた戸惑いは、もうほとんど感じない。
ここにいるのは、性別ではなく
「キャラクター」。
みんな、自分のキャラクターを精一杯演じている。
その姿勢が、何よりも尊く感じられる。
会場を見渡すと、午前中の早い時間だからか、キャラクターの着ぐるみを着ている人と、私服姿でサポート役として動いている人が混在している。
(おそらく、午前中はキャラクターを演じて、午後からはサポートに回ったり、交代で楽しんでいるグループもいるのだろう)
そう思いながら見ていると、休憩スペースの方で、あるグループが交代している様子が見えた。
3人組のグループで、2人がキャラクターの着ぐるみを着ていて、1人が私服姿でサポート役。
その私服の女性が、キャラクターの一人に何か声をかけている。
すると、そのキャラクターは頷いて、マスクを外し始めた。
中から現れたのは、汗だくの若い女性。
彼女は、ペットボトルを受け取って一気に飲み干す。
そして、私服の女性と何か話をしている。
おそらく
「次は交代ね」という話をしているのだろう。
私服の女性は、大きなバッグからもう一つの着ぐるみセットを取り出し、準備を始めた。
(なるほど...グループで交代しながら楽しんでるんだ)
そうすれば、長時間のイベントでも無理なく楽しめる。
そして、全員がキャラクターを演じる機会を持てる。
また別のグループも見える。
こちらは4人組で、2人がキャラクター、2人がサポート役。
サポート役の2人は、カメラを持ってキャラクターたちを撮影している。
そして、時々キャラクターに指示を出している様子。
(みんな、工夫しながら楽しんでるんだな)
そんなことを考えながら、会場をさらに見渡すと、明らかに
「有名」と分かるキャラクターたちも何人か見える。
会場の中央あたりで、多くのカメラマンに囲まれているキャラクターがいる。
純白のドレスを着た、天使のような美しいキャラクター。
その周りには、10人以上のカメラマンが集まっていて、撮影の順番待ちをしている。
(あのキャラクター...もしかして...)
沙織の記憶の中で、SNSで見たことがある姿だ。
フォロワー数が1万人以上いる、かなり有名なキャラクター。
エレノア──つまり美穂さんと同じくらい、あるいはそれ以上に有名なのかもしれない。
別の場所では、黒を基調としたゴシックロリータ風のキャラクターが、優雅にポーズを取っている。
そのキャラクターの周りにも、多くの人が集まっている。
カメラマンだけでなく、他のキャラクターたちも、そのキャラクターを見て手を振ったり、一緒に写真を撮ろうとしている。
(有名な着ぐるみさんたちが、こんなにいるんだ...)
少し圧倒される気持ちと同時に、憧れの気持ちも湧いてくる。
(いつか、自分も...あんなふうに多くの人に認められるようになれたら...)
(でも、今の自分はまだまだ。
フォロワー数920人。
美穂さんの6200人には遠く及ばないし、あの有名なキャラクターたちには到底及ばない)
(でも、いつかは...)
そんなことを考えていると、ミクが手を振っている。
撮影スポットを指差して、一緒に向かおうと誘っているようだ。
セリナは頷いて、ミクについていく。
でも、マスクの視界は想像以上に狭い。
正面はよく見えるが、左右と足元が見えにくい。
周りには、たくさんのキャラクターたちが動き回っている。
ぶつからないように、一歩一歩確認しながら歩く必要がある。
(すみません...)
他のキャラクターの撮影の邪魔にならないよう、気を配る。
でも、マスクの狭い視界から瞬時に周囲を把握するのは、想像以上に難しい。
(いつも沙耶香ちゃんがついてくれてたから...)
初めて、沙耶香の存在の大きさに気づく。
いつも隣にいて、周りの状況を教えてくれていた。
他のキャラクターの位置を教えてくれたり、撮影のタイミングを教えてくれたり。
コミュニケーションも、沙耶香が間に入ってくれていた。
一人でイベントに参加することで、改めてそのありがたさを実感する。
(これ、普通のイベントより何倍も疲れる...)
マスクの狭い視界で、周りを確認しながら歩くだけで、精神的な疲労が溜まっていく。
体力的にも、集中力的にも、想像以上に消耗する。
◆ ◆ ◆
ミクの後ろをついていくと、青い背景パネルの前に到着した。
何人かのキャラクターが順番待ちをしている。
順番を待っている間、隣にいた戦士風のキャラクターが、軽く会釈してくる。
セリナも丁寧にお辞儀を返す。
でも、その戦士が何か身振りで話しかけてきた時、沙織は困惑する。
手を動かして、何かを伝えようとしているのは分かる。
でも、その意味が理解できない。
(え...何を...?)
戸惑っていると、戦士は別のキャラクターに話しかけに行ってしまった。
何を伝えたかったのか、最後まで分からなかった。
(沙耶香ちゃんがいたら、すぐに教えてくれたのに...)
申し訳ない気持ちになる。
◆ ◆ ◆
撮影の順番が来た。
ミクと一緒に背景パネルの前に立つ。
ミクがスマートフォンを手に、何か身振りで指示を出している。
でも、その身振りの意味が、沙織には理解できない。
(え...どこに...?)
ミクは左の方を指差している。
そっちに移動すればいいのか。
それとも、そっちを向けばいいのか。
沙織が戸惑っていると、ミクは再び身振りで説明しようとする。
でも、やはり理解が及ばない。
ミクは今度は、両手を広げて、何かを示そうとしている。
その場に立てということなのか。
それとも、もっと広がれということなのか。
(分からない...)
優しく接してくれるミクに、申し訳ない気持ちが募る。
自分がもっと慣れていれば、こんなに困らせることもないのに。
ミクは、少し困ったように首を傾げている。
そして、再び別の身振りを試みる。
今度は、自分の立っている位置を指差して、次に沙織の方を指差す。
(ここに来いってこと...?)
沙織は恐る恐る、ミクの方へ一歩近づく。
ミクは首を横に振る。
違うらしい。
(やっぱり違った...)
沙織は、その場で立ち止まる。
どうしたらいいのか分からない。
(ごめんなさい...)
たまらず、セリナはミクの耳元に近づき、小さく声を出す。
「ごめんなさい...私、まだイベント慣れてなくて...身振りだけだと、よく分からなくて...」
小声で、申し訳なさそうに打ち明ける。
ミクは一瞬動きを止める。
そして、セリナの目の前で、マスク越しに嬉しそうに笑っているような仕草をした。
肩が小刻みに揺れている。
笑っているのだ。
次の瞬間、ミクがセリナの耳元に近づいてくる。
そして、小さく声を発する。
「セリナさんみたいな有名人が、不慣れで困ってるとか、めっちゃ可愛い!」
その言葉に、沙織はマスクの中で顔を赤らめる。
(そんな...)
からかわれているのか、それとも本気で言っているのか。
でも、その声のトーンは、明らかに優しい。
怒っているわけでも、呆れているわけでもない。
むしろ、微笑ましく思ってくれているようだ。
沙織は、困っている様子をそのまま表してみる。
両手を少し広げて、
「しょうがないじゃないですか」という雰囲気の仕草。
するとミクは、またマスク越しに笑っているような仕草を見せた後、優しくセリナの手を取った。
そして、ゆっくりと誘導してくれる。
背景パネルの少し左側、ちょうど良い撮影位置まで連れて行ってくれる。
次に、セリナの肩に手を置いて、向きを調整してくれる。
体を少し右に向けて、背景パネルがちょうど良く映り込む角度に調整。
(ああ、こういうことだったんだ)
ようやく理解できた。
ミクは、撮影の位置と角度を調整しようとしていたのだ。
位置が決まると、ミクは笑顔でサムズアップのジェスチャーをする。
OKの合図だ。
それから、ミクは自分の立ち位置に戻り、ポーズを取る。
片手を頬に添えて、猫のような可愛らしいポーズ。
沙織も、ミクの雰囲気に合わせて、セリナとしてのポーズを取ろうとする。
でも、その間も、マスクの中では別の戦いが続いている。
(暑い...)
マスク内部の温度が、さらに上がってきた。
額、頬、顎...全てのスポンジが汗を吸って、顔に張り付いている。
呼吸のたびに、マスクの内側が曇る。
視界が、少しずつぼやけてくる。
(大丈夫...まだ大丈夫...)
自分に言い聞かせる。
ミクのポーズが、狭い視界の中に見える。
でも、細部がよく見えない。
顔を動かして、視界を調整する。
マスクの重さで、首が疲れてきた。
(1.8キログラム...意外と重い...)
髪の毛の重さが、特に首の負担になる。
長時間この状態を維持するのは、想像以上に大変だ。
汗が目に入りそうになる。
でも、手で拭くことができない。
マスクがあるから。
何度も瞬きをして、汗を目から遠ざける。
でも、瞬きするたびに、視界がさらに狭くなる。
(見えにくい...)
焦点を合わせようとするが、マスクの目の位置と自分の目の位置が完全には一致していないから、難しい。
(でも...頑張らないと...)
口を開けて、大きく息を吸う。
マスクの口元のスリットから、外気が入ってくる。
その空気が、少しだけ涼しく感じられて、救いになる。
でも、すぐにその空気もマスク内部の熱気に染まる。
(ハァ...ハァ...ハァ...)
呼吸音が、さらに大きくなる。
マスクの中で、自分の息遣いだけが響いている。
外では、セリナとして立っている。
凛々しく、美しく。
でも、中では、一人の女性が必死に呼吸を整え、視界を確保し、暑さに耐えている。
剣を構える仕草で、ポーズを取る。
でも、腕を上げるのも、意外と大変。
衣装の重さ、マスクの重さ、全てが体に負担をかける。
(もう少し...もう少しだけ...)
撮影が終わるまで、あと少し。
それまで、セリナとして完璧に立っていなければならない。
凛々しく立つ。
ミクが三脚にセットされたスマートフォンのタイマーを操作する。
ピッという音と共に、カウントダウンが始まる。
3、2、1──
シャッター音が連続して鳴り、数枚の写真が撮影される。
(やった...終わった...)
マスクの中で、小さく安堵のため息をつく。
でも、まだ気を抜くわけにはいかない。
これから、まだ長いイベントが続く。
マスクの中で、また大きく息を吸う。
口腔内が、カラカラに乾いている。
(水...早く飲みたい...)
でも、今はまだセリナ。
マスクを外すことはできない。
もう少し、もう少しだけ。
頑張ろう。
撮影が終わると、ミクは嬉しそうにスマートフォンの画面を見せてくれる。
画面には、氷の騎士セリナと猫の魔法使いミクが並んで写っている。
とても良い写真だ。
セリナは、嬉しさを込めて、ミクにハートマークを作って見せる。
ミクも、同じようにハートマークを返してくれる。
そして、ミクは再びセリナの耳元に近づいてくる。
「初めての一人参加なのに、すごく頑張ってますね。偉いです!」
その優しい言葉に、沙織は心が温かくなる。
(ミクさん、本当に優しい...)
ミクは、セリナの頭を優しく撫でてくれる。
その仕草が、まるで妹を励ます姉のようで、とても温かい。
(言葉がなくても、気持ちは伝わる)
でも、声を出してコミュニケーションが取れると、やっぱりもっと伝わりやすい。
でも同時に、沙織は改めて思う。
(やっぱり、一人だと大変だな...)
沙耶香がいてくれたら、こんなに戸惑うこともなかった。
周りの状況も教えてくれるし、他のキャラクターとのコミュニケーションも助けてくれる。
でも、ミクのような優しい人がいてくれて、本当に助かった。
一人でのイベント参加の難しさを実感しながらも、同時に、助け合える仲間の大切さも実感している。
◆ ◆ ◆
撮影を終えて、ミクと一緒に会場の中央スペースへ移動する。
そこには、たくさんのキャラクターたちが集まっていて、自由に交流している。
身振り手振りだけで会話をするキャラクターたち。
時々、笑い声のような音が聞こえるが、基本的にはみんな無言で、ジェスチャーだけでコミュニケーションを取っている。
その光景は、とても不思議で、でも温かい。
ミクは、知り合いらしきキャラクターを見つけて、手を振っている。
ピンク色のアイドル風衣装を着たキャラクターが、こちらに気づいて手を振り返してくる。
ミクは、沙織の手を取って、そのキャラクターの方へ連れて行く。
ピンク色のアイドルキャラクターは、ミクと沙織を見て、嬉しそうに両手を広げる。
そして、ミクとハグをする。
明らかに親しい関係のようだ。
ミクは、沙織の方を指差して、何か身振りで説明している。
おそらく
「これがセリナさんだよ」と紹介しているのだろう。
ピンク色のアイドルキャラクターは、沙織の方を向いて、深々とお辞儀をする。
そして、両手で小さくハートマークを作る。
(ファンだという意味だろうか)
沙織も、嬉しさを込めて、お辞儀を返し、ハートマークを作る。
3人で、しばらく身振りだけの会話を楽しむ。
ピンク色のアイドルキャラクターは、とても表現力が豊かで、ジェスチャーだけで色々なことを伝えてくる。
笑ったり、驚いたり、感動したり。
その一つ一つの動きが、とても可愛らしい。
沙織も、少しずつ身振りでのコミュニケーションに慣れてきた。
最初は戸惑っていたが、相手の動きをよく見て、自分も同じように表現すれば、何となく通じ合える。
(言葉がなくても、気持ちは伝わるんだな)
そう実感しながら、3人での交流を楽しんでいた。
◆ ◆ ◆
ちょうどその時、沙織の視界の端に、一体のキャラクターが映った。
赤と白のメイド風衣装を着た、華やかなキャラクター。
身長は175cmくらいあり、スタイルも抜群。
でも、その体格と肩幅を見ると──
(中身、男性だ...)
沙織は、一瞬で気づいた。
そのメイドキャラクターは、こちらに気づくと、嬉しそうに手を振ってくる。
そして、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
沙織は、少し身構える。
でも、逃げるわけにもいかない。
メイドキャラクターは、沙織の前で立ち止まると、丁寧にお辞儀をする。
その動きは、とても優雅で女性らしい。
そして、メイドキャラクターは、沙織の手を取ろうとする。
(え...)
一瞬、戸惑う。
でも、メイドキャラクターの動きに悪意は全く感じられない。
ただ、親しみを込めて握手をしたいだけのようだ。
沙織は、少し躊躇してから、手を差し出す。
メイドキャラクターは、沙織の手を優しく握る。
そして、嬉しそうに上下に振る。
握手だ。
その手の感触は、確かに男性のものだ。
大きくて、少しゴツゴツしている。
でも、握り方はとても優しい。
メイドキャラクターは、握手をしながら、もう片方の手で胸に手を当てる。
自己紹介のジェスチャーだ。
沙織も、同じように胸に手を当てる。
メイドキャラクターは、満足そうに頷くと、沙織の衣装を指差して、サムズアップのジェスチャーをする。
「素敵な衣装だね」という意味だろう。
沙織も、メイドキャラクターの衣装を指差して、同じようにサムズアップをする。
メイドキャラクターは、とても嬉しそうに、両手でハートマークを作る。
そして、スカートの裾を持って、くるりと回転する。
その動きは、本当に可愛らしい。
沙織は、自然と笑顔になる。
マスクの下で、思わず微笑んでしまう。
(中身が男性でも...キャラクターとしては、本当に可愛い)
嫌悪感は、全く感じない。
むしろ、そのキャラクターへの愛情と、表現への情熱が伝わってくる。
メイドキャラクターは、最後にもう一度丁寧にお辞儀をしてから、別のキャラクターの方へ歩いて行った。
沙織は、その後ろ姿を見送りながら、思う。
(性別じゃないんだな...大切なのは、キャラクターへの愛なんだ)
そう実感する瞬間だった。
隣にいたミクとピンク色のアイドルキャラクターも、沙織の方を見て、サムズアップのジェスチャーをする。
「良かったね」という意味だろう。
沙織も、嬉しさを込めて、サムズアップを返す。
会場の雰囲気に、少しずつ馴染んできた。
最初は戸惑いもあったが、ここにいるのは
「キャラクター」。
性別ではなく、キャラクターとしての表現が大切なんだ。
そう思うと、心が軽くなる。
◆ ◆ ◆
しばらく会場で交流を楽しんでいると、マスクの中の温度がどんどん上がってきた。
自分の息でマスク内が蒸れて、顔全体が汗ばんできている。
(暑い...)
呼吸も、だんだん苦しくなってきた。
ミクも、同じように疲れてきたのか、休憩スペースの方を指差している。
沙織は頷いて、ミクと一緒に休憩スペースへ向かう。
休憩スペースには、いくつかの椅子とテーブルが用意されていて、キャラクターたちが休憩している。
中には、マスクを外して水分補給をしている人もいる。
ミクは、空いている椅子を見つけて、座る。
沙織もその隣に座る。
ミクは、マスクの金具に手をかけ、ゆっくりとマスクを外し始める。
前面と後頭部のパーツを分離させ、慎重にマスクを持ち上げる。
マスクの下から現れたのは、汗だくの顔。
でも、とても満足そうな表情。
「はぁ〜、暑かった!」
ミクが、ほっとした様子で言う。
「セリナさんも、マスク外します?」
「はい...」
沙織も、マスクの金具に手をかける。
でも──
(あれ...)
金具が固い。
汗で濡れているせいか、なかなか外れない。
何度か試してみるが、やはり外れない。
「大丈夫ですか?」
ミクが心配そうに声をかけてくる。
「ちょっと、金具が...」
「手伝いましょうか?」
「お願いします...」
ミクが、沙織のマスクの金具に手を添えて、一緒に外そうとする。
「ここ、ちょっと固くなってますね...」
「汗で濡れてるからかも...」
ミクが、慎重に金具を外してくれる。
ようやく金具が外れて、マスクを持ち上げることができた。
「ありがとうございます...」
「いえいえ」
マスクを外すと、一気に涼しい空気が顔を包む。
外の空気がこんなに心地良いなんて。
「はぁ...」
大きく息を吐く。
マスクの中は、想像以上に暑かった。
ミクが、ペットボトルを取り出して、沙織に差し出す。
「水、飲みますか?」
「ありがとうございます...でも、自分のがあるので...」
沙織も、自分のバッグからペットボトルを取り出して、一気に飲む。
冷たい水が喉を通る感覚が、とても心地良い。
「一人での参加、大変ですよね」
ミクが、優しく声をかけてくる。
「はい...想像以上に大変でした...」
「私も、最初の一人参加の時は、本当に苦労しました」
「でも、慣れれば大丈夫ですよ」
ミクの言葉に、少し安心する。
「マスク外すのも、一人だと大変ですよね」
「はい...さっきも、金具が外れなくて...」
「汗で濡れると、本当に固くなりますからね」
ミクは、自分の経験を話してくれる。
「私も、最初の頃は、一人でマスク外せなくて、スタッフさんに助けてもらったことがあります」
「そうなんですか...」
「でも、慣れれば一人でもできるようになりますよ」
その言葉に、沙織は少し勇気をもらう。
(一人でも、頑張れば...)
そう思いながら、ミクと一緒に休憩を楽しむ。
しばらく休憩していると、少し体力が回復してきた。
マスクの中の蒸れも、マスクを外すことで解消された。
「そろそろ、また会場に戻りますか?」
ミクが提案する。
「はい」
沙織は頷いて、再びマスクを装着する準備をする。
今度は、ミクがマスクの装着を手伝ってくれる。
金具もしっかりと留めて、固定完了。
「ありがとうございます」
マスクの中から、小さく声を出す。
「いえいえ。お互い様ですから」
ミクも、自分のマスクを装着する。
二人で再び、会場へと向かう。
(一人での参加は大変だけど...でも、こうして助け合える仲間がいれば、楽しめる)
そう実感しながら、セリナとして会場に戻っていく。
【後半へ続く】