早朝の静けさが残る町並みを、神崎菜摘は自転車を漕いで駆け抜けていた。
肩まで伸びた栗色の髪を後ろで一つに束ね、白いTシャツにデニムのジーンズというシンプルな格好。
高校3年生らしい清楚で親しみやすい雰囲気の女の子だ。
小柄な体型で、どちらかと言えば大人しそうに見えるが、今日は表情が普段より明るく輝いて見える。
いつもより早い出勤時間だが、彼女の表情は晴れやかだった。
今日は特別な日。
子どもの頃から大好きだったプリティアのキャラクターたちが、自分の働くホビーショップにやってくるのだ。
「トイボックス」の看板が見えてくると、菜摘は思わず笑みがこぼれた。
店の前には既に小さなステージとテントが設営されており、午前8時という早い時間にも関わらず、準備が着々と進んでいる様子が窺えた。
菜摘の胸は期待でドキドキと高鳴っていた。
本物のプリティアに会える。
それも、ただお客さんとして見るのではなく、スタッフとして間近で見ることができる。
こんな幸運な日があるだろうか。
自転車を店の裏手に停め、従業員用の入口から店内に入ると、既に店長の田中誠が準備を進めていた。
四十代の温和な男性で、いつも従業員を大切にしてくれる優しい店長だ。
「おはよう、菜摘ちゃん。今日は早いね」
「おはようございます、店長。今日はよろしくお願いします!」
菜摘の弾んだ声に、田中は苦笑した。
普段の菜摘は礼儀正しいが、どこか控えめな印象がある。
しかし今日の彼女は、まるで小学生のように目を輝かせている。
「相変わらず元気だね。今日のイベント、そんなに楽しみだった?」
田中の何気ない一言に、菜摘は慌てて顔を赤らめた。
「え、い、いえ! そういうわけじゃ...」
菜摘は慌てて否定しようとした。
高校3年生にもなってプリティアが好きだなんて、恥ずかしくて言えない。
店長には子どもたちのサポートをしっかりやりたいだけだと思われたい。
でも、実際のところは違う。
心の中では、憧れのキャラクターたちに会えることで胸がいっぱいになっている。
「ただ、子どもたちが喜ぶ姿を見るのが楽しみというか...その、サポートスタッフとしてしっかりやりたいなって...」
しどろもどろになる菜摘を見て、後ろから声が聞こえた。
「はいはい、菜摘は真面目だからね。でも、プリティアが来るイベントって聞いた時、目をキラキラさせてたけど?」
振り向くと、親友の本田知恵が優しく微笑みながら立っていた。
知恵は菜摘と同じ高校3年生で、同じくこのホビーショップでアルバイトをしている。
菜摘とは対照的に、黒髪のショートヘアをさらりと整え、紺色のポロシャツにベージュのチノパンツという、きちんとした印象の服装。
菜摘より少し背が高く、しっかり者の雰囲気を漂わせている。
いつも冷静で、菜摘の良き理解者として支えてくれる存在だ。
「ち、知恵!」
菜摘が慌てて止めようとするが、知恵は続ける。
「別に隠すようなことじゃないでしょ?プリティアは可愛いし、私も好きだよ。子どもだけのものじゃないんだから」
知恵のフォローに、菜摘は頬を赤らめた。
知恵は、いつもこうやって自分を守ってくれる。
菜摘がプリティア好きを恥ずかしがっていることを知りながら、それを否定せず、むしろ肯定してくれる。
こんな友達がいてくれることを、菜摘は心から感謝していた。
二人のやり取りの後、店長から今日の流れが説明された。
午前8時に演者到着、10時から1回目の本番、お昼休憩を挟んで14時から2回目の本番。
菜摘と知恵は主に握手会の列整理を担当することになった。
「握手会では子どもたちが興奮して列が乱れがちだから、しっかりお願いしますね」
田中店長の説明に、菜摘は真剣に頷いた。
子どもたちが安全に、そして楽しくプリティアと触れ合えるよう、しっかりとサポートしなければ。
ちょうどその時、店の前に車が止まる音が聞こえた。
車から降りてきたのは、三人の若い女性。
二人は大きなスポーツバッグを肩に掛けた演者、もう一人は手に台本のようなものを持った司会者だった。
皆、動きやすいTシャツとジャージという格好で、メイクもしていない素朴な姿だった。
菜摘の心臓が急にドキドキと激しく鳴り始めた。
ついに、プリティアの演者の方々がいらっしゃった。
あの人たちが、これからティア・キッスとティア・ズキューンに変身するのだ。
「おはようございます。本日お世話になります、地元ショーチームの相田です」
明るい雰囲気の女性が笑顔で挨拶した。
大学3回生の相田由佳、21歳。
今日ティア・ズキューンを演じる演者だ。
肩より少し長い茶髪をポニーテールにまとめ、水色のTシャツに黒のジャージという動きやすい格好。
スタイルが良く、明るくて活発な印象を与える。
演者としての経験が豊富なのか、堂々とした雰囲気も感じられる。
「同じく、松井です。よろしくお願いします」
もう一人の女性も丁寧に頭を下げた。
大学1回生の松井恵美、19歳。
ティア・キッスを演じる演者だ。
黒髪をうなじで低めにまとめ、白いTシャツにグレーのジャージを着用。
由佳より小柄で、少し控えめな印象だが、真面目で責任感の強そうな雰囲気が伝わってくる。
まだ大学1年生ということもあり、どことなく初々しさも残っている。
菜摘は二人を見つめながら、感動で胸がいっぱいになった。
この人たちが、憧れのティア・キッスとティア・ズキューンになるのだ。
普通の大学生のような素朴な姿から、どうやってあの美しいキャラクターに変身するのだろう。
その過程を見ることができるなんて、なんて幸運なのだろう。
「司会を担当します、小林です。今日はよろしくお願いします」
三人目の女性が明るく挨拶した。
ショーチーム所属の専属司会者、小林麻衣、28歳。
経験豊富なプロフェッショナルだ。
肩下まで伸びた黒髪をサイドで分け、ピンクのポロシャツに白のパンツという、司会者らしい華やかで清潔感のある服装。
年上らしい落ち着きと、司会者としての自信に満ちた雰囲気を纏っている。
笑顔が自然で、人を惹きつける魅力がある。
挨拶を交わした後、全員でテントに向かった。
テント内部には既にサーキュレーターが稼働しており、壁際には折りたたみ式のテーブルと椅子、その奥にはカーテンで仕切られた更衣スペースが設けられていた。
菜摘はテントの中に入ると、その整然とした準備に感心した。
プロフェッショナルの現場なのだということを、肌で感じることができる。
二人は慣れた様子で、大きな段ボール箱を車から運び入れ始めた。
菜摘と知恵も手伝い、全ての荷物をテント内に運び込んだ。
段ボール箱は思っていたより重く、中に何が入っているのか菜摘は想像を膨らませていた。
段ボール箱を開けると、中から鮮やかな衣装が現れた。
ティア・キッスの黒地にピンクのチェック柄が入った可愛らしいコスチューム。
ティア・ズキューンの白とエメラルドグリーンが混ざった爽やかなコスチューム。
菜摘は息を呑んだ。
憧れのキャラクターの衣装が、目の前にある。
テレビや写真でしか見たことのなかった、本物の衣装。
エナメル素材が照明の光を受けてキラキラと輝き、まるで宝石のように美しい。
「わぁ...本物だ...」
菜摘の小さな呟きに、由佳がクスッと笑った。
「プリティア好きなの?」
「え、あ、その...!」
菜摘は慌てて顔を赤らめた。
高校3年生にもなってプリティアが好きだなんて、恥ずかしい。
演者の人たちは大学生だから、もっと大人びているに違いない。
こんな子どもっぽい趣味を笑われてしまうのではないだろうか。
「いえ、その...子どもの頃は見てて...でももう...」
しどろもどろに言い訳する菜摘を見て、知恵が助け舟を出した。
「菜摘、素直じゃないなぁ。実は菜摘、子どもの頃からずっと大好きなんですよ」
「ち、知恵!」
菜摘が慌てて止めようとするが、知恵は続ける。
「別に恥ずかしがることないでしょ。プリティアは大人が見ても可愛いし、私も好きだよ」
知恵の言葉に、由佳は優しく微笑んだ。
「そうだよ、全然恥ずかしいことじゃないよ。私だってプリティアが好きだから、こうやって演じてるんだし」
由佳の温かい言葉に、菜摘は少しだけ緊張がほぐれた。
演者の方も、プリティアが好きでこの仕事をしているのだ。
同じ気持ちを持った人がいることが、とても嬉しかった。
「ありがとうございます...」
「うん。じゃあ、今日は楽しんでね」
由佳が優しく言うと、菜摘は嬉しそうに小さく頷いた。
でも、やっぱり少し恥ずかしくて、視線を逸らしてしまう。
◆ ◆ ◆
衣装の準備が整うと、次はマスクだ。
段ボール箱から慎重に取り出されたそれは、菜摘が想像していた以上に精巧な作りだった。
ティア・キッスの黒い髪とピンクのリボン、大きな瞳。
ティア・ズキューンの白い髪とエメラルドグリーンのアクセント。
どちらも本物そのものだった。
マスクを間近で見た菜摘は、その精巧さに言葉を失った。
テレビで見るプリティアの顔が、そのまま目の前にある。
まるで魔法のように、リアルで美しい。
髪の毛一本一本まで丁寧に作られており、瞳の奥には深みがある。
こんな素晴らしいものを作る技術があることに、菜摘は感動していた。
「すごい...」
菜摘が感嘆の声を漏らすと、知恵も興味深そうに眺めていた。
「結構重そうだね」
「うん、マスクだけで1キロ以上あるんだ。髪の毛の量によって重さは変わるけどね」
由佳が説明しながら、マスクを専用のスタンドに置いた。
マスクを支えるスタンドさえ、プロ仕様の特別な道具なのだということがわかる。
準備が整うと打ち合わせが始まった。
由佳、恵美、小林の三人がステージ前に集まり、手に持った台本を確認しながら真剣に話し合っている。
「今日の流れを確認しますね。まず登場は手を繋いで、ステージ中央でポーズ。その後ダンス3分、振付レクチャー20分、握手会30分の構成です」
小林が台本を見ながら説明する。
「子どもたちの人数は大体どのくらいですか?」
恵美が確認すると、店長の田中が答えた。
「午前は40組程度の予定です。年齢層は4歳から8歳が中心ですね」
「分かりました。じゃあ、握手会では一人一人丁寧に時間を取りましょう。小さい子は特に緊張すると思うので」
由佳の提案に、恵美と小林が頷く。
「安全面の確認もしておきますね」
小林が続ける。
「ステージの端は転落防止のため近づかない。握手会では子どもたちとの距離は適切に保つ。それから、マスクのトラブルや体調不良時のサインも確認しておきましょう」
菜摘は少し離れた場所からその様子を見守りながら、プロフェッショナルの世界の厳格さに驚いていた。
楽しいイベントの裏側で、これほど細かい配慮がなされているとは思わなかった。
「緊急時のサインは右手でOKマークを逆さまにして振ること。スタッフの皆さんも覚えておいてくださいね」
由佳が菜摘と知恵に向かって説明した。
「はい、分かりました」
菜摘と知恵が同時に返事をする。
「それでは、実際にリハーサルをしてみましょう」
小林の合図で、音響スタッフが機材の準備を始めた。
まずは動線の確認。
「登場はテント奥から手を繋いで。恵美が右、私が左ね」
「はい」
二人は手を繋いでテントの奥から歩き始めた。
ステージまでの距離、走るスピード、観客への手の振り方。
一つ一つを丁寧に確認していく。
「ステージ中央で止まって、決めポーズ。恵美はキッスのポーズ、私はズキューンのポーズ」
実際にポーズを取る二人。
角度、手の位置、顔の向きまで、細かくチェックしている。
菜摘は感心しながら見つめていた。
テレビで見るプリティアの完璧な動きは、こうして作り上げられているのだ。
「次はダンスの立ち位置確認。音楽をお願いします」
音響スタッフが音楽を流すと、二人は振付を確認しながら踊り始めた。
まだ着ぐるみを着ていないので動きやすそうだが、それでも互いの位置関係、観客からの見え方を何度もチェックしている。
「ここでターンする時、少し間隔を開けましょう。ぶつからないように」
「そうですね。あとジャンプの時も同じタイミングで着地したいので、カウントを合わせましょう」
細かい調整を重ねる二人。
プロの技術の高さを間近で見ることができて、菜摘は興奮していた。
「振付レクチャーの時は、ステージ前に降りて子どもたちと同じ目線で教えます」
小林が台本を確認しながら説明する。
「子どもたちが真似しやすいように、動きはゆっくり大きく。分からない子がいたら個別にフォローもしましょう」
「はい」
恵美が真剣に頷く。
菜摘は、演者の方々が子どもたちのことを第一に考えていることに深く感動していた。
ただショーを成功させるだけでなく、一人一人の子どもが楽しめるよう配慮している。
「握手会の配置も確認しましょう」
由佳がステージから降りて、握手会のポジションに移動した。
「子どもたちはこちらから順番に来ます。私たちはここに立って、一人ずつ丁寧に対応。写真撮影の時は、子どもの高さに合わせてしゃがみます」
実際にしゃがんで高さを確認する由佳。
着ぐるみでしゃがむのは大変そうだが、子どもたちのためなら惜しまない。
「緊張している子には無理をさせず、距離を保って手を振るだけでも大丈夫です」
恵美が補足する。
「そうですね。子どもたちのペースに合わせることが一番大切です」
小林も同意する。
菜摘は、プロとしての心構えの高さに胸を打たれていた。
技術だけでなく、子どもたちへの深い愛情があるからこそ、素晴らしいショーができるのだ。
「それでは、最終確認」
ステージ上でゆっくり歩きながら周囲を確認している。
「マスク被ると多分足元はほぼ見えませんが、ステージの端はこのあたりですね」
由佳も同様に、安全確認を怠らない。
「観客席の子どもたちも見えますか?」
小林が尋ねると、二人は顔を観客席に向けて確認した。
「はい、正面の子どもたちはよく見えると思います」
「左右はちょっと注意深く動く必要がありますね」
菜摘は、ショーを行うということの大変さを改めて実感した。
着ぐるみを着て、これだけのパフォーマンスをするのは本当に大変なことなのだろう。
「音響さん、最後に音量確認をお願いします」
小林がマイクで確認すると、適切な音量に調整された。
「音楽のタイミングは外さないようにしっかり聞いておいてね」
「音楽が始まったら、最初の4カウントで準備、5カウント目からダンス開始」
実際に音楽を流して、タイミングを確認する二人。
菜摘は、見た目以上に高度な技術と経験が必要な仕事だということを理解した。
子どもたちには簡単で楽しそうに見えるように演じているが、その裏には並々ならぬ努力がある。
リハーサルが終わると、由佳と恵美はステージから降りてほっと一息ついた。
「お疲れ様でした」
小林も満足そうに頷く。
「準備は万全ですね。あとは本番を楽しみましょう」
そのプロフェッショナルな仕事ぶりに、菜摘は深く感心した。
ただ可愛いキャラクターを演じるだけでなく、安全面や観客への配慮、技術的な完成度まで、様々なことを考えながら準備している。
一人一人の子どもが安全に楽しめるよう、細部まで気を配っている。
キャラクターショーとは、こんなにも奥が深いものなのだ。
そして同時に、演者の方々の子どもたちへの愛情の深さに、菜摘は心を打たれていた。
この人たちは、本当に子どもたちのことを考えて、この仕事をしているのだ。
◆ ◆ ◆
リハーサルが終わると、時刻は9時を回っていた。
本番開始まであと1時間弱。
ステージから降りてきた由佳と恵美。
由佳は普段通りの明るい表情だったが、恵美は少し顔色が優れないように見えた。
額に薄っすらと汗が浮かんでいる。
菜摘は恵美の様子を見て、少し心配になった。
まだ何も始まっていないのに、もう疲れているのだろうか。
それとも緊張のせいだろうか。
「恵美、大丈夫?」
由佳が心配そうに尋ねると、恵美は笑顔で答えた。
「はい、大丈夫です。ちょっと緊張してるだけかも」
恵美の声は、いつもより少し弱々しく聞こえる。
しかし、責任感の強い彼女は、弱音を吐くようなことはしない。
「そう... まぁ今日がプリティアデビューだもんね」
「でも無理しないでね。本番前にちゃんと水分取っておいてね」
「はい、ありがとうございます」
その様子を少し離れた場所から見ていた菜摘と知恵も、恵美の様子に気づいていた。
「ねぇ、恵美さん、ちょっと顔色悪くない?」
菜摘が小声で知恵に言うと、知恵も頷いた。
「うん、ちょっと疲れてるのかもね。でも、プロの演者さんだから大丈夫でしょ。きっと本番前の緊張とかもあるんじゃない?」
「そうだよね」
菜摘も納得した。
確かに、これだけ多くの子どもたちの前で演じるのだから、緊張もするだろう。
プロの演者なら、体調管理もきちんとしているはずだ。
きっと本番が始まれば、いつものように完璧に演じてくれるに違いない。
「それじゃあ、私たちはテントでの準備に入りますね」
由佳が明るく言って、恵美と一緒に関係者に挨拶を始めた。
「音響さん、よろしくお願いします」
「はい、お任せください」
音響スタッフの男性が笑顔で応えた。
「麻衣さんも、今日はよろしくね」
「うん、一緒に頑張ろう」
司会の小林麻衣が由佳の肩を軽く叩いた。
二人は何度も一緒にショーをやってきた仲間なのだろう。
息の合った様子が伝わってくる。
プロフェッショナル同士の信頼関係を目の当たりにして、菜摘は感動していた。
それから、由佳と恵美は菜摘と知恵の前に来た。
「菜摘ちゃん、知恵ちゃん、サポートよろしくね」
「はい!頑張ります!」
菜摘が元気に返事をすると、由佳は優しく微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい!」
知恵も笑顔で見送った。
由佳と恵美が、それぞれスポーツバッグを持ってテントに向かって歩いていく。
テントの入口には、白くて厚い布が目隠しとしてかけられている。
二人がその布をめくって中に入ると、布がふわりと揺れて、また静かに垂れ下がった。
◆ ◆ ◆
菜摘は、そのテントをじっと見つめていた。
今あの中で、由佳さんと恵美さんが、ティア・ズキューンとティア・キッスに変身している。
私服から全身タイツを着て、衣装を着て、そしてあのマスクを被る。
由佳さんと恵美さんが、キャラクターになる瞬間。
その過程の一部を、自分は知ってしまった。
少し複雑な気持ちだった。
子どもの頃は、プリティアが本物のキャラクターだと信じていた。
中に人が入っているなんて、考えたこともなかった。
プリティアたちは、魔法の国からやってきた本物の魔法少女だと思っていた。
でも、今は違う。
あの可愛らしい姿の裏側に、汗をかきながら必死に演じている人がいることを知っている。
それは、少し寂しいことのようでもあり、でも同時に、もっと深い感動を感じることでもあった。
誰かが頑張って、子どもたちに夢を届けている。
その事実が、菜摘の胸を熱くさせた。
魔法が消えたわけじゃない。
むしろ、もっと素晴らしい魔法を知ったのだ。
人の心が、誰かを幸せにしようという気持ちが、本当の魔法なのだ。
テントの白い布が、また大きく揺れた。
中で人が動いている気配がする。
きっと今、衣装を着ているんだろうな。
それとも、もうマスクを被っているのかな。
菜摘は想像して、ドキドキした。
知恵が横から声を掛けてきた。
「菜摘、じっと見すぎ。変な人だと思われるよ」
「え、あ、ごめん」
菜摘は慌てて視線を逸らした。
確かに、テントをじっと見つめているのは、少し怪しいかもしれない。
「でも、気持ちは分かるよ」
知恵が優しく微笑んだ。
「菜摘、ずっとプリティアが好きだったもんね。その裏側を見られるなんて、特別な経験だよね」
「うん...」
菜摘は小さく頷いた。
「でも、なんだか不思議な気持ちなの。嬉しいような、ちょっと寂しいような...」
「分かる。魔法が解けちゃったみたいな感じ?」
「そう、それ」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
テントの布が、また大きく揺れる。
でも、菜摘は思った。
魔法が解けたわけじゃない。
むしろ、もっと素晴らしい魔法を知ったんだ。
人間が、誰かを笑顔にするために、一生懸命努力する。
その姿こそが、本当の魔法なんだ。
だから、待ち遠しい。
早く、ティア・キッスとティア・ズキューンに会いたい。
いや、由佳さんと恵美さんが演じる、ティア・キッスとティア・ズキューンを早く見てみたい。
その想いが、胸の中で大きく膨らんでいく。
「さて、私たちも準備しようか」
知恵が言って、会場の最終確認を始めた。
菜摘も気持ちを切り替えて、サポートスタッフとしての仕事に集中する。
◆ ◆ ◆
会場には徐々に親子連れの姿が増えてきた。
小さな女の子たちが、プリティアのグッズを手に嬉しそうにはしゃいでいる。
「ママ、早くキッス見たい!」
「もうすぐよ。もう少し待っててね」
母親が優しく諭す声が聞こえる。
女の子の手には、ティア・キッスのぬいぐるみが握られていた。
その子にとって、これから会うティア・キッスは、憧れのヒーロー。
本物の、魔法の存在。
菜摘の胸が熱くなった。
あの子の夢を、守らなきゃ。
テントの中で準備している由佳さんと恵美さんも、きっと同じ想いなんだろう。
子どもたちに、夢を届けるために。
9時30分を過ぎた頃、会場は親子連れでいっぱいになっていた。
ステージ前には、既に子どもたちが座って待っている。
みんな期待に満ちた表情で、ステージを見つめている。
中には、お気に入りのプリティアグッズを持参している子もいる。
手作りの応援ボードを持っている子もいて、その熱意が菜摘の胸を打った。
保護者たちも、子どもたちの後ろで温かく見守っている。
中には、スマートフォンやカメラを準備している人も多い。
子どもとプリティアの記念写真を撮りたいのだろう。
家族の大切な思い出になるのだ。
会場全体が、ワクワクした空気に包まれている。
菜摘は、その空気を感じながら、深く息を吸った。
もうすぐ、始まる。
この子どもたちの期待に、由佳さんと恵美さんは応えてくれるのだろう。
9時45分。
店長の田中が会場に出てきた。
「みなさん、おはようございます。本日はティア・キッスとティア・ズキューンのショーにお越しいただき、ありがとうございます」
店長の挨拶に、子どもたちが「おはよう!」と元気に返事をする。
「もうすぐショーが始まります。みんな、楽しみにしていてくださいね」
「はーい!」
子どもたちの大きな声が響いた。
その声を聞いて、菜摘はまたテントの方を見た。
白い布が、また少し揺れた気がした。
中にいる由佳さんと恵美さんにも、この声が聞こえているだろうか。
子どもたちの期待の声。
それが、演者の力になるんだろうな。
9時55分。
司会の小林麻衣がステージに上がってきた。
ヘッドセットマイクを装着し、明るい笑顔で子どもたちを見渡す。
プロの司会者としての堂々とした姿勢に、菜摘は感心した。
菜摘は自分の持ち場である列の先頭付近に移動した。
知恵は後方で待機している。
それぞれが担当する場所について、子どもたちの安全を第一に考えながら、最高のイベントになるよう準備を整えた。
テントの布が、また大きく揺れた。
もう、準備ができたんだ。
あの中に今、ティア・キッスとティア・ズキューンがいる。
菜摘の心臓が、激しく鳴り始めた。
いよいよだ。
◆ ◆ ◆
10時ちょうど。
音響スタッフが音楽の準備をしているのが見える。
小林麻衣が、深く息を吸って、マイクに向かった。
「みんな、おはようございます!今日はティア・キッスとティア・ズキューンに会いに来てくれてありがとう!」
会場から大きな歓声が上がった。
子どもたちの興奮は最高潮に達している。
「さぁ、みんなの大好きなティア・キッスとティア・ズキューンを呼ぼう!せーの!」
「ティア・キッス! ティア・ズキューン!」
子どもたちの大きな声が響き渡った。
その声は、まるで魔法の呪文のように、会場全体を包み込んだ。
そして勢いよくテントの入口が開いた。
まず最初に現れたのは、ティア・ズキューンだった。
白とエメラルドグリーンの衣装が朝日に輝き、長い白い髪が風に揺れる。
大きな瞳が会場を見渡すと、子どもたちの歓声がさらに大きくなった。
「きゃー!ズキューン!」
「かわいい!」
続いて現れたのは、ティア・キッス。
黒地にピンクのチェック柄の衣装が華やかで、黒い髪とピンクのリボンが可愛らしい。
二人が手を繋いでステージに上がると、会場のボルテージは最高潮に達した。
「わー!キッス!」
子どもたちの純粋な歓声に混じって、菜摘も思わず「キャー!」と声を上げてしまった。
ハッとして、菜摘は慌てて口を手で覆った。
やってしまった。
高校生なのに、子どもたちと一緒に叫んでしまった。
恥ずかしい。
でも、それほどまでに感動していたのだ。
隣で見ていた保護者の女性がクスッと微笑ましそうに笑い、反対側で列整理をしていた知恵は優しく苦笑いを浮かべている。
菜摘は顔を真っ赤にしながらも、でも目は釘付けだった。
本物のティア・キッスとティア・ズキューン。
画面越しではない、生の姿。
その存在感に圧倒される。
まるで本当に魔法の世界からやってきたかのように、美しく、神々しい。
知恵が小さく手を振って、「大丈夫だよ」と口の形で伝えてくれた。
菜摘は少しだけ安心して、小さく頷き返した。
二人はステージの中央で可愛らしくポーズを決めた。
片手を頬に当てて首を傾げるキッス、両手を胸の前で合わせてウインクするズキューン。
完璧なキャラクター性に、菜摘は感動で胸がいっぱいになった。
テレビで見るプリティアそのままの動きだ。
いや、それ以上に愛らしく、美しい。
司会の小林が明るく進行する。
「さぁ、みんな!ティア・キッスとティア・ズキューンが、かっこいいダンスを見せてくれるよ!」
音楽が流れ始めた。
アップテンポなリズムに乗せて、二人が踊り始める。
キッスとズキューンの動きはシンクロしていた。
腕を大きく振り、ターンをして、ジャンプする。
エナメル素材の衣装がきらきらと光を反射し、髪の毛が大きく揺れる。
マスクを被っているとは思えないほど、動きは軽快で正確だった。
まるで本当のキャラクターが踊っているかのような、完璧なパフォーマンス。
約3分間のダンスが終わると、会場は大きな拍手に包まれた。
「さぁ、次はみんなも一緒に踊ろう!ティア・キッスとティア・ズキューンが、振付を教えてくれるよ!」
司会の声に、子どもたちが「やったー!」と喜びの声を上げた。
◆ ◆ ◆
キッスとズキューンが、司会の小林と一緒に子どもたちに向かって振付のレクチャーを始めた。
小林がマイクで説明し、二人がゆっくりと動きを見せる。
「まずは右手を上げて、左手も上げて、くるっと回るよ!」
小林の明るい声に合わせて、キッスとズキューンがゆっくりと動きを見せる。
子どもたちが真似をする。
みんな一生懸命に手を動かして、必死についていこうとしている。
菜摘も持ち場で、体が自然と動きそうになる。
当然、全ての振付を完璧に覚えている。
家で何度も練習したから。
プリティアの楽曲は全て暗記しているし、ダンスも完璧にマスターしている。
でも、人前で踊るのは恥ずかしい。
高校生がプリティアのダンスを踊っているなんて、変に思われないだろうか。
周りの保護者の方々に笑われてしまうのではないだろうか。
それでも、体は自然と小さく動いてしまう。
足のステップだけ、手の動きだけ、できるだけ目立たないように。
好きなものは好き。
それを隠すのは、やはり難しい。
知恵がその様子を見て、呆れたように首を振っているのが視界の端に映った。
でも、その目は優しかった。
菜摘の気持ちを理解してくれている。
菜摘は少し恥ずかしくなったが、それでも体は自然と動いてしまう。
音楽に合わせて、心の中でキッスとズキューンと一緒に踊っている。
約20分間のレクチャーが終わると、最後にみんなで曲に合わせて踊ることになった。
キッスとズキューンも一緒に踊っている。
ステージの上で、子どもたちと同じ目線に立って、楽しそうに動いている。
その姿に、菜摘は改めて感動した。
ただキャラクターを演じるだけじゃない。
子どもたちと一緒に楽しむ。
その姿勢が、本当のプロフェッショナルなんだ。
演者の方々の子どもたちへの愛情が、ひしひしと伝わってくる。
曲が終わると、会場は再び大きな拍手に包まれた。
「さぁ、次は握手会だよ!ティア・キッスとティア・ズキューンと握手をしよう!」
小林の声に、子どもたちが「やったー!」と歓声を上げた。
菜摘と知恵が動き、子どもたちを列に並ばせ始める。
みんな興奮して落ち着きがないが、保護者の協力もあって、なんとか列ができた。
菜摘は子どもたちの安全を第一に考えながら、丁寧に誘導していく。
時刻は10時30分を過ぎ、外の気温はどんどん上がっていく。
Tシャツ姿の菜摘でさえ、じんわりと汗をかき始めていた。
あの暑そうな着ぐるみを着ている演者の方々は、どれほど暑いことだろう。
「それじゃあ、順番に握手しようね!」
菜摘の声に、列の先頭にいた小さな女の子が緊張した顔でゆっくりと前に進んだ。
4歳くらいだろうか。
ティア・キッスの大きなグッズを抱きしめている。
その子にとって、これから会うキッスは、憧れのヒーロー。
夢の存在。
女の子がキッスの前まで来ると、キッスは優しく手を差し出した。
女の子は恥ずかしそうに、でも嬉しそうに手を伸ばす。
小さな手が震えているのが、菜摘にも見て取れる。
二人の手が触れ合った瞬間、女の子の顔がパッと輝いた。
「キッス...!」
小さな声で名前を呼ぶと、キッスは優しく頷いて、両手で女の子の手を包み込んだ。
そして、もう片方の手で女の子の頭を優しく撫でる。
まるで本当のお姉さんのような、温かい愛情を感じる仕草だった。
女の子は笑顔を浮かべていた。
その様子を見ていた母親も、嬉しそう。
家族にとって、この瞬間は一生の宝物になるだろう。
菜摘も胸が熱くなった。
これが、キャラクターショーの魔法なんだ。
子どもたちに夢を与える、特別な瞬間。
演者の方々の愛情と努力が、一人の子どもの心に深く刻まれる。
しかし、握手会が進むにつれて、菜摘はキッスの様子に違和感を覚え始めた。
子どもたちを誘導していると、目の前のキッスの動きが少しおかしいことに気づいた。
肩が大きく上下し、胸元やお腹の部分が激しく膨らんだり縮んだりを繰り返している。
明らかに呼吸が乱れているようで、とても苦しそうに見えた。
『やっぱり着ぐるみの中は大変なんだ...』
菜摘は少し心配そうにキッスを見つめた。
外にいる自分でさえ暑さを感じているのだから、あの重い衣装とマスクを被ったキッスはどれほど辛いだろう。
密閉された空間で、激しい運動をした後なのだ。
相当な体力を消耗しているに違いない。
それでも、キッスは子どもたちには相変わらず元気で可愛い素振りを見せながら対応している。
手を振ったり、ポーズを取ったり、頭を撫でたり。
子どもたちには、その苦労を一切見せない。
プロフェッショナルとしての責任感に、菜摘は深く感動した。
しかし、菜摘の目には明らかに辛そうに映った。
時折、キッスが手で額のあたりを押さえるような仕草を見せることもある。
恐らく、マスクの中で大量の汗をかいているのだろう。
横にいるズキューンも、時折キッスの方を気にして見ている。
少しキッスに近づいて、耳元で何かを話しかけているような素振りを見せると、キッスは小さく何度か頷きながら、ズキューンに右手で小さくOKサインを出している。
「大丈夫」という意味なのだろう。
菜摘は、着ぐるみを演じるということは本当に大変なことなんだと改めて実感しながら、丁寧に子どもたちの誘導を続けた。
演者の方々の努力と苦労を目の当たりにして、より一層尊敬の気持ちが湧いてきた。
その後も、次々と子どもたちが列を進んでいく。
みんな緊張と興奮で顔を紅潮させながら、憧れのキャラクターと触れ合っている。
中には、緊張で固まってしまう子もいるが、キッスとズキューンは優しく接して、その子が笑顔になるまで待ってくれる。
時間をかけても、一人一人を大切にする姿勢に、菜摘は感動していた。
握手会は約30分続いた。
最後の子どもが握手を終えると、キッスとズキューンは会場に向かって大きく手を振った。
「またね!」
「バイバイ!」
子どもたちも手を振り返す。
名残惜しそうな表情。
でも、みんな満足そうな笑顔だった。
心の中に、素晴らしい思い出を刻むことができたのだ。
二人は手を繋いで、テントに向かって歩き始めた。
その時、菜摘は少し違和感を覚えた。
キッスの歩き方が、少しふらついている?
ズキューンがキッスの手をしっかりと握り、まるで支えているような感じがする。
でも、すぐに気のせいかと思い直した。
きっと疲れているだけだろう。
あれだけのパフォーマンスをした後なのだから、疲労は当然だ。
キッスとズキューンが会場を出る直前、ズキューンが菜摘の方を向いた。
そして、可愛らしく手を振ってくれた。
菜摘は思わず笑顔で手を振り返した。
まさか、自分に気づいてくれるなんて。
演者の方から、スタッフの自分に挨拶してくれるなんて。
胸がドキドキした。
まるで夢のような時間。
本当に来てよかった。
この経験は、一生忘れることはないだろう。
◆ ◆ ◆
最後の子どもたちに手を振り、ステージから降りた二人。
キッスとズキューンは手を繋いだまま、テントへの長い道のりを歩き始めた。
観客席の子どもたちからは、まだ「バイバーイ!」「また来てね!」という元気な声が飛んでくる。保護者たちも笑顔で手を振り、カメラを向けている。
キッスを演じる恵美は、必死に平静を装っていた。
右手を大きく振りながら、左手でズキューンの手を握っている。でも、その手に力を込めるたびに、腕が震える。足が、思うように前に出ない。
マスクの中で、呼吸が乱れている。
「ハァッ...ハァッ...」
荒い息が、マスクの内側にこもる。自分の吐き出す熱い息が、すぐにマスクの壁に跳ね返り、顔中に熱気となってまとわりつく。
まるで、サウナの中で呼吸をしているような感覚。
額から流れる汗が、眉を伝い、目に入った。
「っ...!」
恵美は、必死に瞬きを繰り返す。何度も、何度も。
でも、瞬きをするたびに、汗が目全体に広がって、視界が滲んでいく。
ぼやける世界、揺れる景色。
もともと狭い視界が、さらに悪くなっていく。正面の子どもたちの姿が、ぼんやりとしか見えない。足元なんて、全く見えない。
めまいがする。
視界が回っているような感覚。いや、自分の体が揺れているのかもしれない。
気持ち悪い。
マスクの中に籠もる自分の息。
熱くて、湿っていて、生ぬるい。
その息を吸って、また吐いて、また吸って。
同じ空気を何度も何度も循環させているような錯覚に陥る。
息苦しい。
口を大きく開けて呼吸をしているのに、まるで酸素が足りないような感覚。
喉がカラカラに乾いて、舌が口の中に張り付いている。
唇も乾燥して、ひび割れているような痛みがある。
頭がぼーっとする。
思考が鈍く、意識が遠のいていくような感覚。
でも!
でも今は絶対に倒れられない。
子どもたちが、まだ見ている。
あの子たちの純粋な瞳が、キッスとズキューンを見つめている。
「キッス、可愛かったね!」
「また来てね!」
子どもたちの声が、遠くから聞こえてくる。
マスクを通して聞こえる声は、くぐもって小さい。でも、確かに聞こえる。
あの子たちは、今の自分を本物のキッスだと信じている。
元気で、明るくて、強くて、優しいキッス。
そのイメージを、壊すわけにはいかない。
どんなに辛くても、苦しくても、最後の最後まで、完璧に演じきらなければ。
それが、プリティアを演じる者の責任。
恵美は、震える腕を必死に動かして、子どもたちに向かって手を振った。
大きく、大きく。
キッスらしく、可愛らしく、上品に。
マスクの中で、恵美の顔は歪んでいた。
苦痛で、眉間に深い皺が刻まれている。歯を食いしばり、なんとか意識を保っている。
でも、外からは見えない。
子どもたちには、元気なキッスが手を振っているようにしか見えない。
「...あと少し...」
恵美は、心の中で自分に言い聞かせた。
テントまで、あと何メートル?
視界がぼやけて、距離感がつかめない。
でも、歩き続けなければ。
一歩、また一歩。
恵美は、もう片方の手でズキューンの手を強く握りしめた。
その瞬間、ズキューンを演じる由佳は、恵美の異変に気づいた。
握り返す力が、普通じゃない。
いつもなら、優しく手を繋ぐ程度の力なのに、今は爪が食い込むほど強く握っている。
まるで、溺れる人が藁にすがるような、必死の力。
由佳は、恵美の方に顔を向けた。
マスクの瞳の奥に開けられた小さなスリットから、恵美の表情を感じ取る。
キッスのマスクの中で、恵美がどんな顔をしているかは見えない。
でも、わかる。
歩き方が、少しおかしい。いつもより足取りが重い。
肩が上下していて、呼吸が乱れているのが外からでも分かる。
これは、まずい。
恵美は限界に近づいている。
「恵美大丈夫!?」
由佳は、マスクの中から小さく声をかけた。
周りに聞こえないよう、できるだけ小さな声で。
でも、恵美は何も答えなかった。
いや、答える余裕がなかったのだろう。
返事の代わりに、恵美の手がさらに強く由佳の手を握った。
それが、恵美の精一杯の返事だった。
『助けて』
その無言のメッセージを受け取った由佳は、すぐに行動に移った。
テントまで、あと少し。
あと少しだけ、持ちこたえて。
由佳は恵美の手をしっかりと握り返し、さりげなく恵美の体を支えるように、自分の体を少し恵美側に寄せた。
そして、歩く速度を少しだけ落とした。
急に遅くなると、子どもたちが不自然に思う。
だから、ほんの少しだけ。キャラクターらしく可愛らしく、スキップするような仕草を入れながら、自然に速度を調整する。
子どもたちには、二人が仲良く手を繋いで、名残惜しそうにゆっくりと帰っていく微笑ましい光景に見えているだろう。
保護者たちも、笑顔でその光景を写真に収めている。
「可愛いわね」
「仲良しだね」
そんな声が聞こえてくる。
でも、実際には、由佳が恵美を支えながら、なんとかテントまで連れて行こうと必死だった。
恵美の手から伝わってくる震え。
時折、恵美の足がもつれそうになるのを、由佳は自分の体で支える。
外から見れば、ただ寄り添って歩いているだけ。
でも、二人の間には、言葉にできない緊迫感が流れていた。
「もうすぐ、もうすぐだからね!」
由佳は、マスクの中で小さく呟いた。
恵美に聞こえるかどうかは分からない。
でも、言わずにはいられなかった。
一歩、また一歩。
二人は、ゆっくりと、でも確実に、テントへと近づいていく。
恵美のマスクの口元のスリットから、かすかに荒い呼吸音が漏れている。
「ハァッ...ハァッ...」
近くにいる由佳には、それが聞こえた。
子どもたちには聞こえていないだろう。
でも、由佳には分かる。
恵美が、本当に限界に近づいている。
「頑張って、恵美...」
由佳は、心の中で恵美を励まし続けた。
そして、ついにテントの入口が、目の前に迫ってきた。
白い布が、風に揺れている。
あと数歩。
「キッス、ズキューン、バイバーイ!」
最後に、子どもたちが大きく手を振ってくれた。
由佳と恵美は、振り返って、もう一度大きく手を振った。
恵美の手が、小刻みに震えている。でも、最後の力を振り絞って、大きく、大きく手を振った。
完璧に。
最後の瞬間まで、完璧に。
そして、二人は白い布をくぐった。
テント内部に入った瞬間。
恵美の体から、全ての力が抜けた。
膝が折れる。
「恵美!!」
由佳が慌てて恵美の体を支えた。
恵美の体は、由佳の腕の中で、糸が切れた人形のように崩れ落ちようとしていた。
「恵美、大丈夫!?」
由佳が慌てて恵美を支える。
恵美はその場にうずくまり、両手でマスクを支えながら、激しく呼吸を繰り返し始めた。
「ハァッ...ハァッ...ハァッ...!」
マスクの口元のスリットから、荒い呼吸音が漏れる。肩が大きく上下し、衣装の胸元が激しく膨らんだり縮んだりを繰り返している。
「恵美、待ってね! 今マスク外してあげるから!」
由佳は急いで自分のマスクの後頭部の紐に手をかけ、素早く解いた。ズキューンのマスクを床に置くと、汗で濡れた顔を露わにした由佳は、恵美の元に駆け寄った。
恵美はマスクが床に落ちないよう、両手で必死に支えている。その手は小刻みに震えていた。
「ハァッ...ハァッ...ハァッ...!」
マスクの中から聞こえる、必死の呼吸音。
由佳は恵美の背後に回り込み、キッスの長い黒髪とピンクのリボンが揺れるマスクの後頭部に手を伸ばした。
黒い髪を掻き分け、固定用の紐に触れた瞬間。
「熱っ!」
由佳の手に、ものすごい熱気と湿気がかかった。
マスクの内部がどれだけ過酷な環境になっているか、一瞬で理解できた。これは尋常じゃない。恵美は相当無理をしていたのだ。
「ごめんね、もうすぐ楽になるからね!」
由佳は素早く紐を解き始めた。しかし、大量の汗を吸った紐が膨らんで、結び目がきつく締まっている。
「くっ...!」
由佳は必死に紐をほどこうとするが、なかなか解けない。
汗で濡れた紐は滑りやすく、指先に力が入らない。
「ハァッ...ハァッ...」
恵美の呼吸がさらに荒くなる。
「もう少し、もう少しだから」
ようやく結び目が緩んだ。
由佳は一気に紐を引き、マスクの固定を解除した。
そして、恵美の両手からマスクをそっと受け取り、慎重に持ち上げた。
キッスのマスクが外れた。
中から現れたのは、白く青ざめて苦しそうな表情の恵美の顔だった。
額、頬、顎、首筋。全てが汗でびっしょりと濡れている。
フードで覆われた頭部も、汗で完全に濡れていた。
薄茶色のフードが、汗を吸って濃い茶色に変色している。
低い位置で束ねていたヘアゴムの色まで、フード越しに透けて見えるほどだった。
「ハァッ...ハァッ...ハァッ...!」
恵美は、マスクが外れた後も、まだ激しく呼吸を続けていた。
口を大きく開けて、必死に空気を求めている。
唇は乾ききって、白くなっている。
「まずい、熱中症かもしれない...」
由佳は急いで恵美を横に寝かせた。
床に敷いてあったレジャーシートの上に、そっと恵美を横たえる。
「すいません...由佳さん...ありがとうございます...」
恵美が息絶え絶えに、か細い声で言った。
「何言ってんの! すぐにサイン出しなさいって言ったでしょ! 何やってんのよもう!」
由佳は怒りながらも、恵美の体を起こして衣装のファスナーに手をかけた。
背中のファスナーを一気に下ろす。
ジジジジッという音とともに、エナメルの衣装が開いていく。
「ほら腕、抜いて」
「はい...」
恵美は弱々しくも、自分で腕を動かして衣装から抜いた。
由佳は衣装を恵美の体から脱がせていく。
黒地にピンクのチェック柄が可愛らしいキッスの衣装が、床に置かれた。
次は全身タイツ。
首から頭頂部に続くファスナーを下ろし、恵美の首元を解放する。
「ちょっと待ってて、今脱がすから」
由佳は恵美の体を支えながら、背中のファスナーも下ろした。
全身を覆っていたベージュ色の肌タイツが、恵美の体から離れていく。
タイツの内側は、大量の汗を吸って濃く変色していた。
外側にまで汗が滲み出ている部分もある。
タイツを完全に脱がせると、中から現れた恵美の姿は、黒いスポーツ用のインナーと黒いスポーツ用ショーツ姿。
スポーツ用の下着も汗でびっしょり濡れて、肌に張り付いている。
「はぁ...はぁ...」
恵美の呼吸は、まだ荒い。
でも、少しずつ落ち着いてきているようだった。
「服、自分で着られる?」
由佳が心配そうに尋ねると、恵美は弱々しい声で答えた。
「...大丈夫です...」
「本当に?」
「はい...」
恵美は震える手で、傍らに置いてあった自分のスポーツバッグから着替えを取り出した。
白いTシャツとグレーのジャージ。
ゆっくりと、ゆっくりと。
恵美は自分で着替え始めた。
まだ手が震えているが、なんとか一人で着ることができる。
由佳も急いで自分の着替えに取り掛かった。
ズキューンの衣装を脱ぎ、全身タイツを脱ぐ。
由佳のタイツも、恵美ほどではないが、汗でかなり濡れていた。
水色のTシャツに腕を通しながら、由佳は恵美に尋ねた。
「ねぇ、恵美。昨日、何時に寝たの?」
恵美の手が、一瞬止まった。
白いTシャツを頭から被りながら、恵美は小さな声で答えた。
「...11時頃には...」
「正直に言いなさい!!」
由佳の声が、急に厳しくなった。
恵美は、びくっと肩を震わせた。
由佳は、黒のジャージを履きながら、真っ直ぐに恵美を見つめている。
その瞳は、優しさの中に、厳格さも宿していた。
「...3時です」
恵美は、観念したように、本当のことを答えた。
由佳は、大きなため息をついた。
「はぁ...またダンスの練習してたんでしょ」
恵美は何も答えられず、俯いた。
「そんなんじゃ、演者失格よ」
由佳の言葉は、厳しかった。でも、その声には、恵美を心配する気持ちが滲んでいた。
「体調管理も、プロの仕事のうちなの。どんなに練習しても、本番で倒れたら意味がない。それどころか、イベント全体に迷惑をかけることになるのよ」
「...すいません」
恵美は、申し訳なさそうに、さらに深く俯いた。
由佳の言う通りだった。今日、もし自分が本当に倒れていたら。
もし、テントに戻る前に倒れていたらイベントは中止になり、楽しみにしていた子どもたちをがっかりさせることになっていた。
自分の行動が、どれだけ無責任だったか。
恵美は、自分の未熟さを痛感した。
由佳は、グレーのジャージを着終えると、恵美の様子を確認した。
恵美も、なんとか私服に着替え終えていた。
でも、まだ顔色が悪い。肩を落として、深く俯いている。
「ねぇ、ちょっと横になってて。何か横になれるマットと、熱中症の応急処置のもの聞いてくるから」
「すいません...」
「もう謝らなくていいから。そこで安静にしてなさい!」
由佳はそう言って、テントの出口に向かって歩き始めた。
白い布に手をかけた時、由佳は振り返った。
そして、俯いている恵美に向かって、笑顔で言った。
「恵美のダンス、良かったよ。可愛かった」
恵美が顔を上げると、由佳は優しい笑顔を浮かべていた。
「恵美、上手くなったね」
その言葉に、恵美の目から、涙がこぼれそうになった。
厳しく叱られた直後に、こうして褒めてくれる。
由佳さんは、いつもそうだった。
厳しくても、それは恵美のことを思ってのこと。
そして、必ず良いところも見つけて、褒めてくれる。
「ありがとうございます...!」
恵美が震える声で答えると、由佳はニッと笑って、テントの外に出ていった。
◆ ◆ ◆
テント内に一人残された恵美は、レジャーシートの上に横になった。
天井のテント地がゆらゆらと揺れている。いや、揺れているのは自分の視界なのかもしれない。
「はぁ...はぁ...」
まだ呼吸が整わない。でも、さっきよりはずっと楽になった。
恵美は、手のひらを見つめた。
まだ、子どもたちの小さな手の感触が残っている。
あの子たちの笑顔。キラキラした瞳。「キッス、大好き!」と言ってくれた声。
初めて、プリティアを演じた。
初めて、プリティアとしてステージに立った。
初めて、子どもたちの笑顔を間近で見た。
嬉しかった。
そして本当に、楽しかった。
恵美は今年入ったばかりの新人だった。
それまでは敵役や脇役で、ずっとプリティアを演じる日を夢見てきた。
プリティアとしてステージに立つことを目標に練習を重ね、努力を続けてきた。
「いつか、プリティアを演じたい」
その夢が、今日叶った。
でも...
恵美の目から、涙がこぼれた。
昨夜遅くまで、ずっとダンスの練習をしていた。
初めての舞台で失敗したくなくて、家で何度も何度も振付を確認した。
寝たのは午前3時。
起きたのは午前5時半。
朝から体調が優れなかった。
それでも、言えなかった。
今日は絶対に、キッスを演じたかったし、何より由佳さんと一緒にステージに立ちたかった。
だから、無理をした。
体調の悪さを隠して、本番に臨んだ。
そして、なんとか演じきることができた。
最後まで、キッスとして完璧に。
でも、限界だった。
テントに戻った瞬間、もう一歩も動けなかった。
「ごめんなさい...由佳さん...」
恵美は小さく呟いた。
心配をかけてしまった。迷惑をかけてしまった。
自分が情けない。
今日、プリティアを演じられたことは本当に良かった。
子どもたちの笑顔を見られて、本当に幸せだった。
恵美は、手のひらに残る子どもたちの温もりを感じながら、静かに涙を流し続けた。
喜びの涙と達成感の涙。
そして、悔しさの涙。
もっと体調を整えて臨めば、もっと完璧に演じられたかもしれない。
由佳さんに心配をかけずに済んだかもしれない。
「次は...もっと、ちゃんとします...」
恵美は自分に誓った。
次こそは、万全の状態で、最高のパフォーマンスを見せる。
由佳さんの足を引っ張らないように。
子どもたちに、もっと素晴らしい夢を届けられるように。
そう決意しながら、恵美は静かに目を閉じた。
体は疲れ果てていたが、心は満たされていた。
テントの天井が、ゆっくりと揺れている。
外からは、まだ子どもたちの楽しそうな声が聞こえてくる。
恵美は、その声を聞きながら、深く、深く息をした。
これが、プリティアを演じるということ。
子どもたちに夢を届けるということ。
その重さと、喜びを、恵美は今日初めて知った。
そして、もう一度、この舞台に立ちたいと心から思った。
次こそは、完璧に。
次こそは、由佳さんと肩を並べて。
その日を夢見て、恵美は静かに涙を流し続けた。
◆ ◆ ◆
午前の本番が終わり、会場からお客さんが徐々に減っていった。
子どもたちの興奮した声や保護者たちの会話が遠ざかっていき、静けさが戻り始めている。
片付けを手伝う音響スタッフの男性が、ケーブルを丁寧に巻き取っている音だけが聞こえていた。
菜摘と知恵はテントの外に設置された折りたたみベンチに座り、午後の公演に向けて待機していた。
時刻は11時15分。
次の公演開始まで約2時間45分ある。
「お疲れさまでした」
二人は会場から帰っていく親子連れに挨拶を続けていた。
子どもたちは満足そうな笑顔を浮かべ、手にはプリティアのグッズを大切そうに抱えている。
中には、握手してもらった手を大事そうに見つめている子もいる。
「今度はいつ来るの?」
小さな女の子が母親に尋ねている。
「また今度ね」
母親の優しい返事を聞きながら、菜摘は改めて今日のイベントの意味を実感していた。
子どもたちにとって、これは単なるイベントではない。
一生の思い出になるかもしれない特別な体験なのだ。
その特別な体験を作り出すために、演者の方々がどれほど努力しているか。
間近で見ることができて、本当に良かった。
「菜摘、お疲れさま」
知恵が隣で小さく声をかけた。
「午前中、すごく良いイベントだったね。子どもたち、みんな喜んでた」
「うん。キッスもズキューンも、すごく可愛かったし」
菜摘は振り返る。
でも、握手会の時に見たキッスの様子が頭から離れなかった。
あの激しい呼吸、苦しそうな姿。
「でも、着ぐるみって本当に大変そうだった」
「うん、特にキッスの恵美さん、途中ですごく辛そうだったよね」
知恵も同じことを感じていたようだった。
「肩で息してたもんね。見てて心配になった」
「あの暑さの中であの重い衣装...想像しただけで大変」
二人は顔を見合わせた。
確かに外にいる自分たちでさえ、この時間になると汗ばんでくるほどの暑さだ。
密閉された着ぐるみの中はどれほど過酷だろう。
それでも、子どもたちの前では一切弱音を吐かず、完璧に演じ続ける。
その精神力と体力に、改めて敬意を感じた。
その時、テントの入口が勢いよく開いた。
「はぁ...はぁ...」
出てきたのは、ズキューン役の由佳だった。
しかし、もうあの美しい白とエメラルドグリーンの衣装姿ではない。
朝着ていた水色のTシャツと黒のジャージ姿に戻っている。
菜摘は息を呑んだ。
由佳の様子が尋常ではなかった。
顔は真っ赤に紅潮し、額だけでなく首筋まで大粒の汗が流れている。
髪の毛は完全に汗で濡れ、束ねていたゴムが緩んでばらけそうになっていた。
Tシャツの胸元と背中にも汗が滲んで、濃い色に変色している。
まるで真夏の炎天下で長時間スポーツをした後のような状態だった。
いや、それ以上に消耗しているように見える。
『ああ、あの着ぐるみの中は、きっとものすごく暑いんだ...』
菜摘は言葉を失った。
テレビや写真で見る華やかなキャラクターショーの裏側で、演者たちはこんなにも過酷な状況に耐えていたのか。
キッスの人も、きっと同じような状態なのだろう。
それを思うと、胸が痛んだ。
「あ、あの...」
由佳は手にタオルを握りしめ、顔の汗を拭いながら深く息をしていた。
マスクを外したばかりで、顔にはマスクの跡がくっきりと残っている。
頭の形に沿って、汗で髪がペタンと張り付いている。
「お疲れ様でした!」
菜摘が慌てて立ち上がって声を掛けると、由佳は息を整えながら、それでも笑顔を作ろうと努力していた。
「お疲れ様...ありがとうね、二人とも...すごく助かったよ...」
声が少しかすれている。
喉も渇いているのだろう。
汗で失った水分の量は相当なものだと思われた。
「大丈夫ですか?」
知恵が心配そうに尋ねると、由佳は首を横に振った。
「大丈夫、大丈夫。慣れてるから」
そう言いながらも、由佳の表情には疲労が色濃く現れていた。
それでも、プロとしての責任感からか、気丈に振る舞おうとしている。
その姿に、菜摘は深い敬意を感じた。
「ちょっと...お店でお借りしたいものがあって...」
そう言うと、由佳は足早に、しかし少しふらつきながら店の方に向かって歩き始めた。
恐らく、水分補給や涼しい場所で休憩したいのだろう。
その後ろ姿を見て、菜摘は胸が痛んだ。
「大変な仕事だね...」
知恵がつぶやいた。
「うん...」
菜摘も頷いた。
キャラクターショーの華やかさの裏には、こんな現実があったのか。
でも、それを知ることで、演者の方々への尊敬の気持ちがより一層深くなった。
二人は再びベンチに座り、由佳を心配しながら待機していた。
時折、テントの中から声が聞こえてくる。
司会の小林さんと、もう一人の演者恵美さんの声のようだった。
少し心配になる内容の会話が聞こえてくる気がするが、詳しくは分からない。
店の方には田中店長の姿も見える。
何かの話し合いをしているようだが、内容までは聞こえない。
でも、普通の談笑とは違う、少し緊迫した雰囲気を感じる。
約10分が経過した時、菜摘は由佳の足音を聞いた。
急ぎ足で、しかも重い足取り。
嫌な予感がした。
案の定、戻ってきた由佳の表情は先ほどとは全く違っていた。
先ほどの疲労と充実感が混じった表情は消え失せ、代わりに深刻な焦りと不安が顔全体に現れている。
眉間にシワが寄り、唇を固く結んでいる。
手には何かの書類のようなものを握りしめていた。
「菜摘ちゃん、知恵ちゃん...」
由佳の声は震えていた。
今朝の明るい調子は完全になく、重く、真剣な口調だった。
「ちょっと...お時間もらっていい?」
二人は立ち上がった。
由佳の様子があまりにも深刻で、心臓の鼓動が早くなる。
何か大変なことが起きたのだろうか。
「テントの中に、入ってもらえる?」
「え?でも...」
菜摘は戸惑った。
テントの中は演者の控え室。
午前中から見ていて、関係者以外立入禁止の神聖な場所だと理解していた。
衣装やマスク、そして演者たちの秘密が詰まった特別な空間。
アルバイトの自分たちが入って良いのだろうか。
「大丈夫。ちょっと...相談したいことがあるの」
由佳の真剣な表情に、ただならぬ事態が起きていることを感じ取った。
知恵と顔を見合わせ、緊張しながら頷いた。
テントの入口に向かう足取りが重い。
何が起きているのだろう。
午後の公演に何か問題でも...?
白い布をめくってテント内に足を踏み入れる瞬間、菜摘の心臓は激しく鳴っていた。
◆ ◆ ◆
テントの中に入ると、そこには恵美がパイプ椅子に座っていた。
しかし、その様子は明らかに異常だった。
顔は土気色で、額には大粒の汗が浮かんでいる。
呼吸も荒く、まるで熱でもあるかのように体を小さく震わせている。
先ほどまでの由佳と同じように、いや、それ以上に消耗しているように見える。
「恵美さん!」
菜摘が驚いて駆け寄った。
「だ、大丈夫...です...」
恵美は弱々しく笑おうとしたが、その顔色は明らかに異常だった。
声も震えており、とても大丈夫とは思えない状態だ。
「全然大丈夫じゃないよ。午前の本番、無理しすぎたんじゃない?」
由佳が心配そうに恵美の肩を支えた。
司会の小林も深刻な表情でテント内に立っている。
「体調どう?少しは良くなった?」
「はい...でも、まだ少し...」
恵美は立ち上がろうとしたが、その瞬間、ふらりとよろめいた。
由佳が慌てて支える。
「駄目よ、無理しちゃ」
小林が恵美を再び椅子に座らせた。
菜摘は状況を理解した。
恵美さんが体調不良を起こしている。
そして、午後の公演まであと2時間位しかない。
「午後の公演、どうしよう...」
由佳が困った表情で呟いた。
菜摘と知恵は、ただ事ではない状況に息を呑んでいた。
恵美の体調は明らかに悪く、とても午後の公演を務められる状態ではない。
でも、代わりはいるのだろうか。
「代役...」
小林がぽつりと言った。
「でも、急に代役なんて...」
由佳が困った顔をする。
演者が二人きりの現場で、恵美が倒れれば代わりはいない。
午後の公演を楽しみにしている子どもたちをがっかりさせることになってしまう。
その時、由佳の視線が菜摘に向いた。
「菜摘ちゃん...」
「え?」
由佳の真剣な視線に、菜摘の心臓が早鐘を打った。
まさか、と思ったが、その予感は的中した。
「お願いがあるの」
由佳の真剣な表情に、菜摘の心臓が激しく鳴り始めた。
「午後の公演で...ティア・キッスを演じてもらえないかな?」
「え...え?」
菜摘は耳を疑った。
自分がティア・キッス?
そんなこと、できるわけがない。
「恵美の代役をお願いしたいの」
「で、でも...私、そんな...」
菜摘は慌てて首を横に振った。
とんでもない。
自分にそんなことができるわけがない。
ただのアルバイトの高校生が、プロの演者の代役なんて。
「お客さんが待ってるの。子どもたち、楽しみにして午後も来てくれるの」
由佳の言葉に、菜摘の胸が締め付けられた。
確かに、午前の公演で「午後もまた来るね!」と言って帰っていった子どもたちがいた。
あの子たちの期待に応えられないなんて。
でも、自分にできることなのだろうか。
「でも、私には無理です...」
菜摘がもう一度首を振ると、知恵が横から口を開いた。
「菜摘、できるよ。菜摘ならできる」
「知恵...」
「菜摘、振付も全部完璧に覚えてるし、プリティアのことなら誰より詳しいでしょ?」
知恵の言葉に、菜摘は戸惑った。
確かに振付は覚えている。
プリティアのことも詳しい。
でも、実際に着ぐるみを着て演じるなんて...
その時、恵美が弱々しい声で言った。
「菜摘さん...お願いします...私が...私が情けないばかりに...」
恵美の涙ながらの頼みに、菜摘の心が揺れた。
「少し、お時間をください」
由佳が答える。
「もちろんです。でも、あまり時間がないので出来れば...」
菜摘は深く息を吸った。
悩んでいる時間はない。
この短い時間で、これからの学生生活が変わるかもしれない決断をしなければならない。
◆ ◆ ◆
テントの外に出た菜摘と知恵は、ベンチに並んで座った。
菜摘の頭の中は混乱でいっぱいだった。
「私に、ティア・キッスなんて...無理だよ」
菜摘が小さくつぶやくと、知恵は静かに答えた。
「なんで無理だと思うの?」
「だって...着ぐるみなんて着たことないし、子どもたちの前でなんて...」
菜摘の声は震えていた。
恐怖と不安でいっぱいだった。
失敗したらどうしよう。
子どもたちをがっかりさせてしまったらどうしよう。
「でも、菜摘はプリティアが大好きでしょ?」
知恵の言葉に、菜摘は胸の奥がざわめくのを感じた。
「子どもの頃から憧れてた。でも、憧れるのと実際にやるのは違うよ」
「本当にそうかな?」
知恵が菜摘の方を向いた。
「菜摘、さっき午前の公演を見てた時、すごく嬉しそうだったよ。子どもたちの笑顔を見て、自分も一緒に踊りそうになってたじゃない」
「それは...」
「菜摘が一番知ってるでしょ?プリティアがどれだけ子どもたちにとって特別な存在か」
知恵の言葉が胸に響いた。
確かに、午前の公演を見ていて感じた。
子どもたちの純粋な喜び、キラキラした笑顔。
その全てが、プリティアという存在によって生まれている。
「でも、失敗したら...」
「失敗してもいいじゃない」
知恵がきっぱりと言った。
「完璧じゃなくても、菜摘が一生懸命やれば、きっと子どもたちには伝わるよ」
「それに、こんな経験二度と出来ないかもよ?」
知恵の言葉に、菜摘は少し勇気をもらった。
でも、まだ不安の方が大きい。
菜摘は空を見上げた。
青い空に白い雲がゆっくりと流れている。
平和な午後の風景。
でも、自分の心の中は嵐のように荒れ狂っている。
もし、やったら。
もし、本当にティア・キッスになれたら。
子どもたちの前に立って、笑顔を届けられたら。
心の奥で、小さな火種がぽっと灯った。
「やって、みようかな...」
小さくつぶやいた自分の声に、菜摘は驚いた。
今、自分は何と言ったのだろう。
「え?」
知恵も驚いている。
「いや、やってみたい! 私、ティア・キッスになってみたい!!」
声に出すと、その想いがどんどん大きくなっていく。
子どもの頃からの憧れ。
ずっと心の奥に秘めていた夢。
「菜摘...」
知恵が優しく微笑んだ。
「私、子どもの頃からずっと憧れてた。プリティアになりたいって、本当は思ってた」
菜摘の目から、涙がぽろりとこぼれた。
ずっと隠してきた本当の気持ち。
高校生になっても、プリティアが好きで、いつかなってみたいと思っていた。
「でも、高校生なのにプリティア好きなんて恥ずかしくて...誰にも本当の気持ちを言えなくて...」
「言わなくても分かってるよ」
知恵が菜摘の肩を抱いた。
「菜摘の気持ち、私はずっと見てたから。プリティアの話をしてる時の菜摘、すごく嬉しそうなの。その気持ちを、今度は子どもたちに届けてあげて」
知恵の言葉に、菜摘の心が決まった。
菜摘は涙を拭いて、立ち上がった。
「知恵!私やる!!」
「菜摘...」
「やってみる!ティア・キッスやってみる!」
菜摘の声に、強い決意が込められていた。
恐怖と不安はまだある。
でも、それを上回る想いがあった。
子どもたちの笑顔が見たい。
憧れのプリティアになって、夢を届けたい。
二人はテントに向かって歩き始めた。
菜摘の足取りは、もう迷いがなかった。
テントの中に入ると、由佳たちが心配そうに待っていた。
「菜摘ちゃん、どうかな?」
由佳が遠慮がちに尋ねる。
「私、やります! やらせてください!」
菜摘がはっきりと答えると、テントの中に安堵の空気が流れた。
「本当に!? ありがとう!」
由佳が菜摘の手を握った。
その手は温かくて、力強かった。
「でも、私、着ぐるみなんて着たことないですし...」
「大丈夫。私が教えるから」
由佳が力強く言った。
「恵美も、大丈夫?」
恵美は椅子に座ったまま、弱々しく笑った。
「すみません...私が情けなくて...」
「謝らないで。 大丈夫よ、菜摘ちゃんがいてくれて良かったね!」
由佳が優しく言った。
「菜摘さんが引き受けてくれて、本当に良かった」
恵美が菜摘を見上げた。
「ありがとうございます...お願いします...」
「はい。頑張ります」
菜摘が深くお辞儀をした。
司会の小林も安心した表情を浮かべた。
「じゃあ、準備を始めましょう。時間はあまりないから」
時刻は12時10分。
午後の公演開始まで、1時間50分しかない。
急いで着ぐるみに慣れ、本番の立ち回りを覚えなければならない。
◆ ◆ ◆
「まず、着ぐるみの構造を説明するね」
由佳が優しく説明を始めた。
恵美は体調を考慮して、テント内の椅子で休んでいる。
「最初に全身タイツを着るの。これが一番大事な下地になる」
由佳が菜摘に見せたのは、肌色のタイツだった。
頭部まで覆われていて、顔の部分だけが大きく丸くくり抜かれている。
「最初はちょっと恥ずかしいかもしれないけど、これを着ないと肌が出ちゃうから」
「分かりました」
菜摘は頷いた。
確かに、少し恥ずかしい格好だ。
でも、これも仕事のうち。
プロの演者になるための第一歩なのだ。
菜摘は更衣スペースに入り、カーテンを閉めた。
着ていたTシャツとジーンズを脱いでいく。
「菜摘ちゃん、タイツ渡すね」
カーテンの向こうから由佳の声がして、手が差し込まれた。
そこには丁寧に畳まれたベージュ色の全身タイツが握られていた。
菜摘はタイツを受け取り、広げてみた。
思っていたより密度の高い生地で、伸縮性がありそうだった。
顔の部分だけが丸くくり抜かれている。
「菜摘さん、汗いっぱいかいちゃっててごめんね」
恵美の申し訳なさそうな声がカーテンの向こうから聞こえた。
「大丈夫です、お借りします」
菜摘は丁寧に返事をしながら、全身タイツに足を通し始めた。
密着性の高いタイツは、思っていたより動きを制限する。
でも、これがプリティアの肌になる。
「タイツ、着れた?」
由佳の声が聞こえる。
「はい」
菜摘がカーテンから出ると、由佳が続きを説明した。
「次は衣装。ティア・キッスは背中にファスナーがあるから、私が手伝うね」
ティア・キッスの衣装は、想像以上に重かった。
エナメル素材で、しっかりとした作り。
黒地にピンクのチェック柄が入った、まさに憧れのコスチューム。
「腕を通して...はい、上手」
由佳に手伝ってもらいながら衣装を着ると、菜摘は自分がティア・キッスに近づいていくのを実感した。
衣装の重量感、エナメル素材の独特の感触。
全てが新鮮で、感動的だった。
「すごい...」
菜摘は自分の姿を鏡で見て、息を呑んだ。
まだマスクは被っていないが、体はもうティア・キッスそのものだ。
憧れのキャラクターの姿に、一歩近づいた。
「似合ってる!」
由佳が褒めてくれた。
「ありがとうございます」
菜摘は嬉しくて、思わず笑顔になった。
「最後にマスク。これが一番重要」
由佳が慎重にティア・キッスのマスクを持ってきた。
「一度、手に取って見てみる?」
「いいんですか?」
菜摘は恐る恐るマスクを受け取った。
黒い髪とピンクのリボン、大きな瞳。
間近で見ると、その精巧さに改めて驚く。
「すごい...本当に精巧ですね。キッスだ...」
菜摘は感激しながらマスクを見つめた。
目の当たりを見ると、細いスリットが数箇所あり、その内側には黒い布が貼ってあるのが分かる。
「すごい、こんな風になってるんだ。これがあるから、中の人の顔や目は見えないようになってるんですね」
菜摘は納得したように頷いた。
マスクの裏側を見ると、頬や額、目の周りや顎の部分に黒くて薄いスポンジのようなものが取り付けられているのがわかった。
「これで自分の顔とマスクを密着させて固定するんですね」
しかし、マスクの裏側は外側の可愛らしさとは違い、少し怖いと思った。
まるで仮面のような不気味さがある。
でも、これも魔法を作り出すための道具なのだ。
「マスクは、最初は一人では被れないと思うから手伝うね」
「お願いします」
菜摘は深く息を吸った。
いよいよだ。
「髪をまとめて、フードを被って」
由佳の指示に従って、菜摘は髪をゴムで束ね、全身タイツのフード部分を頭に被った。
顔だけがタイツから出ている状態。
ちょっと恥ずかしい。
「じゃあ、マスクを被るよ。最初はちょっとパニックになるかもしれないけど、大丈夫だから。深く息をして、リラックスしてね」
「はい」
菜摘は目を閉じた。
由佳が慎重にマスクを菜摘の頭に被せ始める。
マスクが頭に被せられる瞬間、菜摘は体験したことのない世界を体感する。
まず、視界が一気に狭くなった。
目の前の世界が、突然小さな窓から覗いているような感覚になる。
薄暗いテントの中が、視界用のスリットに貼られた黒い布のせいで余計に薄暗く見える。
まるで小さな監獄の窓から外を見ているような閉塞感。
そして、重い。
マスクだけで1キロ以上あるため、首と頭に重圧がかかる。
頭を支えるために、無意識に首の筋肉に力が入る。
しかし、最も衝撃的だったのは、マスクの密着感だった。
ティア・キッスのマスクは超小顔設計で、菜摘の顔にピッタリと張り付くように密着する。
額、頬、顎、鼻の周り、すべてにマスク内側のスポンジが密着して、まるで顔全体がマスクに包み込まれているような感覚。
「うっ...」
菜摘は思わず小さく声を上げてしまった。
圧迫感が凄まじい。
特に鼻の周りが強く圧迫されて、呼吸がしづらくなる。
頬やこめかみも、スポンジに押し付けられて痛いほどだ。
マスクの中で息をすると、口元に開いたわずかなスリットから空気が入ってくる気がするが、スリットが狭いせいで十分に空気を吸えない。
目の当たりに開いたスリットからも少しだけ空気が入ってくるようにも感じて、目が痒くなる。
息を吐くと、マスクに遮られて自分の息が顔に跳ね返ってくる。
温かく湿った自分の呼気が、マスクの中に充満して顔に纏わりつく感覚。
とても気持ち悪い。
さらに恐ろしいことに、自分の呼吸音がマスクの中で大きく響いている。
「ハー、ハー」という息の音が、密閉されたマスクの中で増幅されて、まるで洞窟の中で呼吸しているような奇妙な感覚。
心臓の音も、なぜかいつもより大きく聞こえる。
ドクン、ドクンという音が、マスクの中に響いている。
「大丈夫? 菜摘ちゃん?」
由佳の心配そうな声が聞こえる。
でも、その声もマスクに遮られて、何だかこもって聞こえる。
『こんな状態で...こんな状態であんなに動いてダンスして子どもたちと触れ合って...私は本当に大丈夫なのか...』
密閉された狭い空間に顔が閉じ込められている感覚。
まるで、自分の顔だけが別次元の空間に押し込められているような錯覚。
呼吸が速くなる。
でも、マスクの制限で十分に空気が吸えない。
余計に不安になって、呼吸がさらに浅く速くなる。
『落ち着いて、落ち着いて...』
菜摘は心の中で自分に言い聞かせた。
でも、この圧迫感、この息苦しさ、この閉塞感。
由佳さんも、恵美さんも、みんなこんな状態でパフォーマンスをしているのか。
改めて、演者の凄さを実感した。
そして同時に、自分にできるのだろうかという不安がこみ上げてくる。
菜摘は急に不安になった。
「最初は誰でもそうなのよ。私も最初の時は、マスクを被った瞬間に外してもらったくらいだから」
由佳の優しい声が聞こえた。
「今、紐で固定するから、もう少し我慢してね」
「紐を結ぶから、動かないでね」
由佳が菜摘の頭の後ろで、マスクを固定する紐を結んでいる。
紐が締まっていくにつれて、マスクがさらに菜摘の顔に張り付いてくる。
額、頬、顎にかかる圧迫感がさらに増していく。
「うぅ...」
菜摘は思わず小さく呻いてしまった。
マスクと顔の隙間がほとんど無くなり、顔全体がマスクに包み込まれているような感覚になる。
息苦しさも倍増して、まるで顔に密着したタオルで窒息させられているような錯覚に陥る。
しかし、視界のスリットが目のすぐ前に来ることで、少しだけ視界が広がった気がした。
今まで見えていた範囲より、若干クリアに前方を見ることができるようになった。
口元のスリットも自分の口元に近づいたことで、少し楽に息が吸えるような気もした。
でも、苦しいことには変わりない。
視界も正面しか見えない状態は同じだった。
その代わり、しっかりとマスクが頭部に固定されたことにより、頭を大きく振ってもマスクがずれるような心配はなさそうだ。
これなら、多少激しい動きをしても大丈夫かもしれない。
ただし、新たな問題が発生していた。
ティア・キッスの後ろ髪は腰のあたりまでの長さがあり、その重量がかなりのものだった。
黒くて長い髪が背中にかかって、追加の重みを感じる。
さらに、髪が背中を覆うことで蒸し暑さも感じ始めた。
まるで厚いブランケットを背中に背負っているような感覚。
衣装の上から更に髪による断熱効果で、背中の温度がじわじわと上がってくる。
マスクが固定されると、重さがより首にかかってくる。
頭を支えるのが大変だ。
首の筋肉に常に力を入れていないと、重いマスクの重量に耐えられない。
「完成!」
由佳の声に、菜摘はゆっくりと動いてみた。
視界は正面のみ。
左右を見るには、顔全体を動かす必要がある。
足元は全く見えないため、歩くのも一苦労だ。
「鏡を見てみて」
由佳の言葉に、菜摘は慎重に鏡の方を向いた。
そこには、ティア・キッスがいた。
本物の、憧れのティア・キッス。
黒い髪とピンクのリボン、大きな瞳、可愛らしい表情。
それが、自分の姿だった。
「うわぁ...」
マスクの中で、菜摘は感動のあまり涙ぐんだ。
夢にまで見た、ティア・キッス。
自分が、ティア・キッスになっている。
不思議な感覚だった。
マスクを被ると、本当にキャラクターになったような気がする。
菜摘という人間ではなく、ティア・キッスという存在になったような。
「どうかな?キャラクターになった気分は?」
由佳が尋ねた。
「すごく...不思議です...本当にティア・キッスになったような...」
菜摘の答えに、由佳は頷いた。
「着ぐるみの魔法みたいなものかな。本当にそのキャラクターになったような気分になるでしょ?」
マスクの中で、菜摘は小さく笑った。
魔法。
本当に、魔法みたい。
私、ティア・キッスになった。
そう実感すると、不思議と可愛く動きたくなる。
これが、由佳が言っていた「キャラクターになりきれる」ということなのかもしれない。
「じゃあ、ちょっとダンスの動きも試してみよっか」
由佳がスマホで音楽を流した。
今日披露した曲だ。
菜摘の体が自然と反応した。
腕を上げて、回って、ジャンプ。
家で何度も練習して覚えた振付。
体が覚えている。
まさかこんな形で役に立つとは想像もしていなかった。
しかし、マスクを被っているからか、バランスを取るのが難しい。
視界も狭いから、位置感覚が掴みにくい。
それでも、何とか踊れている。
曲が終わると、由佳が感動したように言った。
「すごい!菜摘ちゃん、本当にプリティアが好きなんだね!完璧だよ!初めてとは思えない!」
マスクの中で、菜摘は笑顔になった。
嬉しい。
褒められて嬉しい。
「ありがとうございます...」
くぐもった声でそう答えると、由佳は横になっている恵美の方を見た。
「恵美、見た? 菜摘ちゃん、すごいよ。これならダンスも大丈夫そうじゃない?」
恵美は体を起こして、キッスの姿になった菜摘を見つめた。
そして、笑顔で言った。
「完璧ですね。むしろ私よりも全然上手いと思います」
恵美は重い体をなんとか起こして立ち上がり、キッスの中に入っている菜摘に向かって歩み寄った。
「菜摘さん、私の代わりに子供達を喜ばせてあげてください」
恵美の真剣な眼差しと激励の言葉に、キッスは大きく頷きながら、マスクの中からくぐもった声で答えた。
「任せてください...!」
その力強い返事に、恵美は安心したように微笑み、再びテント内で横になった。
「じゃあ、午後の公演も予定通りダンスありで大丈夫そうね」
由佳が嬉しそうに言った。
でも同時に、マスクの中はもう暑い。
数分しか被っていないのに、額に汗が滲んでいるのが分かる。
自分の吐く息で、マスク内が蒸し暑い。
「あの...由佳さん...」
マスクの中から菜摘の声が聞こえた。
「どうしたの?」
「さっきからマスクの中...すごく暑くて息苦しいんです...想像以上に...」
マスクの中から聞こえる菜摘の声は、少し苦しそうだった。
「うん、そうなの。最初はみんなそうなるから。これはもう慣れるしかないんだけど... でも、無理しないでね」
「いえ...大丈夫です...しばらくこのままマスクを被ったまま過ごして、早く慣れるようにします...」
マスクの中からの決意に満ちた声に、由佳は感心した。
「分かった。でも、本当に辛くなったらすぐに言ってね」
「はい...」
キッスは小さく頷いた。
マスクの中で、菜摘は必死に呼吸を整えていた。
息苦しい。
でも、これを乗り越えなければ。
子どもたちのために。
◆ ◆ ◆
「菜摘ちゃん、ここで少し休んでてね」
「はい...」
菜摘はキッスの着ぐるみに慣れるため、マスクを被ったままテント内のパイプ椅子にそっと腰掛けた。
椅子に座る動作でさえ、視界が制限されているため慎重に行わなければならない。
足元が見えないので、手探りで椅子の位置を確認してからゆっくりと座った。
マスクの中で、菜摘は深く息を吸った。
吐いた。
また吸った。
少しずつ、呼吸のリズムが掴めてきた気がする。
座った状態でゆっくりと顔を下に向けると、マスクの狭い視界の中に、自分がよく知っているアニメで見るキッスと同じ衣装を着た自分の胸元が映った。
黒地にピンクのチェック柄のエナメル素材が光を反射して輝いている。
顔を左右に動かしながら、自分の腕や足、お腹周りを確認していく。
まさにティア・キッスそのものの姿だった。
『すごい...私、今キッスになってるんだ...』
マスクの中で、菜摘は改めて実感した。
自分は今、本当にプリティアになっている。
子どもの頃から憧れ続けた、プリティアに。
この衣装、この姿、このマスク。
すべてが本物。
そして今、それを身に着けているのは自分なんだ。
ゆっくりと顔を上げてテント内を見回そうとすると、改めて視界の狭さを実感した。
正面はある程度見えるが、左右を見るには首全体を動かさなければならない。
上下の視界はほとんどない。
まるで狭い窓から覗いているような感覚。
これで本当に舞台に立てるのだろうか。
でも、午前中の由佳さんと恵美さんはこの状態で完璧にショーをこなしていた。
慎重に首を動かしてテント内を見渡していると、横になっている恵美さんが目を開けて、こちらを見つめているのがわかった。
菜摘は少し驚いて、どうしていいかわからなくなった。
マスクを被った自分の姿を見られているのが恥ずかしい。
声をかけるべきか、それとも静かにしているべきか。
その時、恵美さんが優しい笑顔を浮かべて言った。
「菜摘さん、とっても可愛いですよ。本物のティアキッスです」
その一言で、菜摘の緊張がふわっと和らいだ。
「あ、ありがとうございます...」
マスクの中からくぐもった声で返事をすると、恵美さんは安心したように微笑んだ。
「本当に完璧。きっと子どもたちも喜んでくれます」
恵美さんの優しい言葉に、菜摘は嬉しくなった。
マスクの中で小さく頷く。
「頑張ります...」
「菜摘さんならきっと大丈夫です。私より全然上手ですから」
「そ、そんなことないです!」
菜摘の反応は謙遜ではなく、本心だった。
それでも恵美さんの励ましに、菜摘は胸が熱くなった。
体調不良で辛いはずなのに、自分を気遣ってくれている。
マスクの中は相変わらず暑くて息苦しい。
でも、これが本物のキャラクターショーの世界なんだ。
「じゃあ、私は司会の麻衣さんに、午後もダンスありで行うことを伝えてくるね。菜摘ちゃん、ここで少し休んでてね」
「はい...」
「恵美、申し訳ないけど菜摘ちゃんのことよろしくね」
「はい、大丈夫です。」
由佳がテントを出ると、テント内にはキッスの姿になった菜摘と、横になっている恵美だけが残された。
キッスは椅子に座り、マスクの中で深く息を吸った。
吐いた。
また吸った。
少しずつ、呼吸のリズムが掴めてきた気がする。
マスクの中は暑くて息苦しい。
でも、これが本物のキャラクターショーの世界なんだ。
菜摘は決意を新たにした。
絶対に、子どもたちを笑顔にする。
◆ ◆ ◆
しばらくすると、テントの入口が開いて由佳が戻ってきた。
そして、その後ろには知恵の姿があった。
「菜摘〜! 様子見にきたよ〜!」
知恵が声をかけると、そこにはティア・キッスが椅子に座っていた。
キッスは知恵に気づき、思わず椅子から立ち上がった。
知恵の目の前でキッスは少し照れたような素振りをしながら、くぐもった声で言った。
「えへへ、知恵どう? 私、ティア・キッスになっちゃった!」
そう言いながら、キッスは軽くポーズを取って見せた。
片手を頬に当て、首を少し傾ける、まさにティア・キッスの決めポーズ。
でも、その仕草がどこか初々しくて、まるで小学生が「見て見て!」とアピールしているような可愛らしさがあった。
「すごーーい!可愛い! 本当に菜摘が入ってるなんて思えないよ!」
知恵は手を叩きながら拍手して、感動している。
「完璧だよ菜摘! 本物だよ!」
知恵の言葉に、キッスはさらに嬉しそうになった。
マスクの中で菜摘がにっこりと笑っているのが、なんとなく伝わってくる。
「本当? 本当に可愛い?」
キッスがくぐもった声で聞き返すと、知恵は大きく頷いた。
「うん、可愛い! 夢が叶ったね菜摘。ずっと憧れてたプリティアになれて」
知恵の優しい言葉に、キッスは嬉しさを抑えきれなくなった。
マスクの中で菜摘の心が弾んでいるのがよく分かる。
「知恵〜、ありがとう!」
キッスは知恵に向かって小さく跳び跳ねた。
まるで子犬のような純粋な喜びの表現。
そして、調子に乗ったキッスは、知恵の前でくるくると回ってみせた。
「どう?この髪の毛、すっごく長いんだよ! 重いけど、すごく綺麗でしょ?」
後ろ髪をふわりと揺らしながら、キッスは得意げに見せびらかす。
「それに、この衣装! すごくキラキラしてて素敵なの!」
キッスは自分のスカート部分を両手でつまんで見せた。
知恵は菜摘の無邪気な喜びっぷりを見て、思わず吹き出してしまった。
「あはは、菜摘らしいなぁ。そんなに嬉しいんだ」
「うん!すっごく嬉しい!子どもの頃の夢が本当に叶っちゃった!」
キッスは知恵の手を取って、一緒に小さく跳び跳ねた。
その時、由佳が苦笑いしながら言った。
「あのー、菜摘ちゃん?」
「はい!」
キッスが振り向くと、由佳は困ったような表情をしていた。
「ティア・キッスって... 一応ね、もうちょっとクールで凛々しいキャラなんだけど...」
「あ...」
「今の菜摘ちゃんはめちゃくちゃ可愛いんだけど、完全に素の菜摘ちゃんが出ちゃってるから。本番ではキッスになりきってね」
由佳の指摘に、キッスは慌てた。
「す、すいません!」
急にキッスは背筋を伸ばして、クールな雰囲気を作ろうとした。
でも、さっきまでの無邪気さが抜けきらず、どこかぎこちない。
「あはは、菜摘頑張って!」
知恵が温かく見守っている。
その様子を見ていた恵美も、マットの上で小さく笑っていた。
「でも、そんな菜摘さんの素直さがとても良いと思う。きっと子どもたちにも伝わりますよ」
恵美の優しい言葉に、キッスは安心したように小さく頷いた。
そんなやり取りを見ていると、改めて現実が浮き彫りになってくる。
目の前にいるのは、つい先ほどまで普通の女子高生だった菜摘。
それが今は、本物のティア・キッスの姿になっている。
17歳の少女が、子どもの頃からの憧れだったキャラクターの着ぐるみを身に纏い、これから大勢の子どもたちの前に立とうとしている。
知恵もその現実に改めて驚いていた。
いつも一緒にいる親友が、まさか本当にプリティアになるなんて。
「菜摘、本当にすごいよ。ちゃんとティア・キッスになってる」
知恵の言葉に、キッスは嬉しそうに頷いた。
「知恵がいてくれるから頑張れる。見ててね」
「うん、絶対見てる。応援してるから」
二人の友情を見ていると、由佳も温かい気持ちになった。
「菜摘ちゃん、素敵な友達がいるのね」
「はい!知恵は私の大切な親友です」
キッスがくぐもった声で答えると、知恵も嬉しそうに笑った。
そのやり取りを見ていた由佳と恵美も微笑ましくなり、自然と笑顔になった。
「菜摘ちゃん本当に似合ってるよ!可愛い!」
由佳も褒めてくれる。
キッスは少し照れ臭くなってしまい、恥ずかしそうな素振りを見せた。
マスクの中で菜摘が照れているのが、なんとなく伝わってくる可愛らしさがあった。
でも、その無邪気さこそが、菜摘らしさなのかもしれない。
プロの演者ではない、等身大の女子高生だからこその純粋さ。
それが、きっと子どもたちにも届くのだろう。
キッスは少し照れ臭くなってしまい、恥ずかしそうな素振りを見せた。
マスクの中で菜摘が照れているのが、なんとなく伝わってくる可愛らしさがあった。
「菜摘ちゃん、もう大丈夫そうかな?」
由佳が改めて菜摘に声をかけた。
「はい...少し慣れてきました...」
マスクの中からくぐもった声で菜摘が答えた。
「あ、さっき麻衣さんにも伝えたよ。午後も予定通りダンスありで行くって。すごく驚いてたけど、喜んでくれてた」
「よかったです...頑張ります」
由佳は時計を見た。
本番開始まで、あと30分。
「それじゃ、私も準備するね」
由佳はティア・ズキューンの衣装を手に取り、更衣スペースに向かった。
カーテンの向こうで、由佳が慣れた手つきで着替えている音が聞こえてくる。
全身タイツを着る窸窸という音、エナメル衣装のファスナーを上げる音。
着替えながら、由佳はカーテンの隙間から、キッスの姿になった菜摘を見ていた。
椅子に座って、まだ慣れないマスクの重さに首をゆっくりと動かしている菜摘。
知恵と楽しそうに話している様子を見ていると、由佳の心は温かくなった。
(菜摘ちゃん、本当に頑張ってくれてる...)
午前中の過酷なパフォーマンスと、恵美の急な体調不良による不安を抱えていた由佳にとって、菜摘の存在は本当にありがたかった。
(あの子なら、きっと大丈夫。プリティアへの愛情が本物だから)
由佳は衣装を着終えると、髪をゴムで束ねてフードを被った。
そして、ティア・ズキューンのマスクを手に取る。
白とエメラルドグリーンの美しいマスク。
由佳にとっては、もう慣れ親しんだ相棒のような存在だ。
慎重にマスクを被り、慣れた手つきで後ろの紐を結ぶ。
一人でも素早く、確実に。
マスクが固定された瞬間、由佳はティア・ズキューンになった。
視界が制限され、呼吸が少し苦しくなる。
でも、もう慣れている。
これが、プリティアを演じるということ。
約15分後、更衣スペースのカーテンがゆっくりと開いた。
そこから現れたのは、美しいティア・ズキューンだった。
白とエメラルドグリーンの衣装が美しく輝き、長い白い髪がふわりと揺れる。
その立ち姿は、まさに気品に満ちたズキューンそのものだった。
ズキューンは、テント内を見渡し、キッスの姿を見つけた。
そして、ゆっくりとキッスの前に歩み寄ると、優雅に片手を胸に当て、もう片方の手を軽く上げて、挨拶する身振りを見せた後に、片手をキッスの方に差し出した。
「キッス、お待たせ」
声は出さないが、その身振りだけで、ズキューンの上品で優雅な人柄が完璧に表現されていた。
まるで本物のお姫様が挨拶しているような、圧倒的な存在感。
キッスの中にいる菜摘は、その完璧な演技に胸を打たれた。
(すごい...さすが...プロだ...)
由佳さんの身振り一つ一つに、長年の経験と技術が込められている。
ただマスクを被っているだけなのに、これほどまでにキャラクターになりきれるなんて。
菜摘は、負けじとキッスとしてズキューンの手を取って立ち上がった。
そしてズキューンに向かって、深々とお辞儀をするような身振りをした後、両手を胸の前で組み、少し首を傾げながら、まさにキッスらしい可愛らしい挨拶を表現した。
「お姉様、お待ちしておりました」
その身振りは、声を出さずとも、キッスの健気で純粋な心を完璧に表現していた。
まるで、本当にズキューンを慕っている妹のような愛らしさがあった。
ズキューンの中にいる由佳は、その完璧な身振りに驚いた。
(えっ...すご...)
初めて着ぐるみを体験する高校生とは思えない、自然で美しい動き。
まるで、長年キッスを演じてきた演者のような完成度だった。
マットで休んでいた恵美も、その光景を見て目を見開いた。
(菜摘さん...初心者とは思えない...)
恵美自身、キッスを演じるのに苦労していたのに、菜摘のキッスは自然で、キャラクターの心を見事に表現している。
まるで、菜摘が生まれながらにキッスの魂を持っているかのようだった。
知恵も、その光景を見て感心していた。
「すごい...本当に、キッスとズキューンがいる...」
テントの中に、まさに本物のプリティアが二人立っていた。
ズキューンとキッスは、お互いを見つめ合い、軽く頷き合った。
そこには、プロの演者とアマチュアの境界線など存在しなかった。
二人とも、完璧にキャラクターになりきっていた。
「さて、そろそろ本番だね」
由佳の心境を表すように、ズキューンがゆっくりと頷いた。
マスクを被ったズキューンが、キッスに向かって親指を立てた。
「大丈夫」というサイン。
キッスも右手でOKサインを返した。
準備は完璧だった。
今度こそ、子どもたちに最高のショーを届けることができる。
本番開始まで、あと5分。
テントの外からは、既に子どもたちの声が聞こえ始めている。
午後の公演を楽しみに待っている子どもたちの声。
その時、ズキューンがキッスの手を取った。
そして、マスクの中からくぐもった声で言った。
「菜摘さん、本当にありがとう。最後まで一緒に頑張ろうね」
ズキューンがキッスの手を強く両手で握る。
その温もりが伝わってくる。
キッスも大きく頷き、マスクの中からくぐもった声で答えた。
「はい...頑張ります...!」
キッスがズキューンの手を握り返す。
二人のマスクが向き合う。
お互いの顔は見えないけれど、確かに心は通じ合っている。
「さぁ、行こう」
ズキューンが手を引いて、テントの出口に向かって歩き始めた。
キッスも続く。
心臓が激しく鳴っている。
マスクの中で、菜摘の呼吸が早くなる。
でも、大丈夫。
やれる。やってみせる!
外からは、司会の小林の声が聞こえてきた。
「さぁ、みんな!午後もティア・キッスとティア・ズキューンが遊びに来てくれるよ!」
「わー!」
大きな歓声。
「じゃあ、みんなで呼ぼう!せーの!」
「ティア・キッス!ティア・ズキューン!」
子どもたちの声が響く。
テントの入口のカーテンが開かれようとしている。
マスクの中で、菜摘は最後の深呼吸をした。
絶対に、みんなを笑顔にする。
ティア・キッスとして。
◆ ◆ ◆
テントの入口が開いた。
まず最初に現れたのは、ティア・ズキューンだった。
白とエメラルドグリーンの衣装が朝日に輝き、長い白い髪が風に揺れる。
大きな瞳が会場を見渡すと、子どもたちの歓声がさらに大きくなった。
「きゃー!ズキューン!」
「かわいい!」
続いて現れたのは、ティア・キッス。
黒地にピンクのチェック柄の衣装が華やかで、黒い髪とピンクのリボンが可愛らしい。
二人が手を繋いでステージに上がると、会場のボルテージは最高潮に達した。
「わー!キッス!」
子どもたちの純粋な歓声に、菜摘の心は震えた。
その瞬間、菜摘の世界が変わった。
子どもたちの純粋な歓声、キラキラした笑顔、手を叩いて喜ぶ姿。
全てが、自分に向けられている。
いや、ティア・キッスに向けられている。
でも、今の自分がティア・キッスなんだ。
マスクの中で、菜摘は感動で胸がいっぱいになった。
これが、キャラクターショーの舞台。
これが、自分が夢見ていた世界。
「かわいい!」
「キッス、こっち見て!」
子どもたちの声に応えて、菜摘は上品に小さく手を振った。
その瞬間、歓声がさらに大きくなった。
「やれてる、キッスになれてる!」
マスクの中で、菜摘は笑顔になった。
ティア・キッスとして、最高のショーを見せてやる。
ステージに上がった菜摘と由佳は、まず決めポーズを取った。
由佳がティア・ズキューンの決めポーズ、菜摘がティア・キッスの決めポーズ。
菜摘は片手を頬に当てて首を傾げる、あの憧れのポーズを完璧に決めた。
会場からは割れんばかりの拍手と歓声。
「かわいい!」
「本物だ〜!」
子どもたちの純粋な反応に、菜摘は胸が熱くなった。
司会の小林が明るく進行する。
「さぁ、ティア・キッスとティア・ズキューンが、みんなのためにダンスを見せてくれますよ!」
音楽が流れ始めた。
アップテンポなプリティアの楽曲。
菜摘が何百回と聞いた、大好きな曲。
由佳が踊り始めると、菜摘もそれに合わせて動き出した。
マスクを被って踊るのは初めてだったが、体が自然と動く。
何度も家で練習した振付が、体に染み付いている。
視界は制限されているが、由佳の動きを見ながら、菜摘も完璧に踊った。
エナメルの衣装がキラキラと光り、マスクの髪がふわふわと揺れる。
菜摘は、完全にティア・キッスになりきっていた。
約3分間のダンスが終わると、会場は大きな拍手に包まれた。
しかしダンスが終わると同時にマスクの息苦しさと体温の上昇による暑さがすぐに夏海を襲ってくる。
「すごい!」
「上手!」
子どもたちが口々に褒めてくれる。
マスクの中で、菜摘は満面の笑みを浮かべる。
やれた!ちゃんと踊れた。
「さぁ、今度はみんなも一緒に踊ろう!」
司会の小林が元気よく呼びかけると、子どもたちが「やったー!」と歓声を上げた。
振付レクチャーが始まった。
小林がマイクで説明し、由佳と菜摘がゆっくりと動きを見せる。
「右手を上げて、左手も上げて、くるっと回るよ!」
菜摘は子どもたちの目線に合わせて、大げさに、分かりやすく動きを見せた。
マスクを被っているとは思えないほど、自然にキャラクターらしい動きができている。
「上手だね、みんな!」
菜摘は声を出せないので、大きく拍手して子どもたちを褒めた。
子どもたちも嬉しそうに手を叩き返す。
この、言葉を使わないコミュニケーション。
身振り手振りだけで気持ちを伝える。
それが、こんなに楽しいなんて。
最後に、みんなで一緒に曲に合わせて踊った。
ステージの上の菜摘と由佳、そして観客席の子どもたち。
みんなが一体になって踊る瞬間。
菜摘は、生まれて初めての充実感を味わっていた。
これが、プリティアを演じるということ。
子どもたちと一緒に笑い、一緒に踊り、一緒に楽しむということ。
曲が終わると、会場は再び大きな拍手に包まれた。
「さぁ、次は握手会です!ティア・キッスとティア・ズキューンと握手をしましょう!」
小林の声に、子どもたちが列を作り始めた。
菜摘は由佳と一緒にステージから降りて、握手会の準備をした。
子どもたちが列になって並んでいる時、菜摘はキッスのマスクの狭い視界から、列の先頭で子どもたちを誘導してくれている恵美の姿が見えた。
体調を崩していたはずなのに、恵美は笑顔で子どもたちに優しく声をかけている。
恵美もキッスの視線に気づくと、キッスの方を向いて口の動きで「頑張ってね」と言ってくれているように思えた。
そして列の後方では知恵が子どもたちを誘導しながら、キッスに向かって両手で小さくガッツポーズを作って「頑張って」という身振りをしてくれる。
キッスは小さく頷いて定位置に移動した。
すると、隣に立っているズキューンが左肩をポンと叩いた。
ズキューンの方を向くと、キッスの顔を覗き込むようにして、片手を握って「頑張ろうね」と言ってくれているようだった。
みんなが応援してくれている。
由佳さんも、恵美さんも、知恵も。
その実感に、菜摘はキッスのマスクの中で笑顔になった。
一人じゃない、みんなが支えてくれている。
そして最初の子どもがやってきた。
5歳くらいの女の子。
ティア・キッスのグッズを大切そうに抱えている。
「キッス...」
女の子が恥ずかしそうに名前を呼んだ。
菜摘は優しく手を差し出した。
女の子の小さな手と自分の手が触れ合う瞬間、菜摘の胸に温かいものが流れた。
この子にとって、今の自分は本物のティア・キッス。
憧れのプリティア。
その重さと同時に喜びを感じながら、菜摘は女の子の手を包むように握った。
そして、もう片方の手で女の子の頭を優しく撫でた。
その時、菜摘は自分でも驚いた。
普段の自分では絶対にやらないような、優雅で美しい手の動き。
まるで本当のお姉さんのような、大人の女性らしい振る舞い。
この着ぐるみを着ていると、不思議とそんな所作が自然にできてしまう。
女の子の顔がパッと輝いた。
「ありがとう、キッス!」
女の子が嬉しそうに言うと、菜摘は大きく頷いて、ハートの形を手で作った。
女の子も真似して、小さな手でハートを作る。
その瞬間を、女の子の母親がカメラで撮影した。
きっと、この子にとって一生の宝物になる写真。
そして、自分も、この写真に映っている。
ティア・キッスとして。
◆ ◆ ◆
握手会が進みにつれて、目の前には次々と子どもたちがやってくる。
みんな興奮と緊張で顔を紅潮させながら、憧れのキャラクターと触れ合っている。
菜摘は一人一人と丁寧に向き合った。
手を握って、頭を撫でて、時には一緒にポーズを取って。
そして、その度に不思議な感覚を味わっていた。
普段の菜摘では考えられないような、クールで凛とした表情。
上品で優雅な手の動き。
大人の女性のような落ち着いた振る舞い。
まるで、ティア・キッスの魂が自分の中に宿っているかのように、自然とキャラクターらしい動きができてしまう。
(不思議...どうして、こんなにキッスらしく振る舞えるんだろう...)
マスクの中で、菜摘は自分でも驚いていた。
でも、それが気持ちいい。
キャラクターになりきることの楽しさを、初めて知った。
言葉は使えないけれど、気持ちは十分に伝わっている。
子どもたちの笑顔が、それを証明してくれていた。
握手会が続いていくうちに、菜摘はマスクの中の暑さに気づいた。
額に汗がにじんでいる。
マスクの中に自分の息が籠もって、少し息苦しい。
でも、不思議と気にならなかった。
暑さも息苦しさも忘れて、目の前の子どもたち一人一人に丁寧に接していく。
まだまだ頑張れる。
子どもたちの笑顔を見ていると、疲れなんて吹き飛んでしまう。
約30分の握手会が終わると、菜摘と由佳は再びステージに上がった。
「それでは、ティア・キッスとティア・ズキューンとお別れの時間です」
司会の小林が少し寂しそうに言った。
「えー!もっと一緒にいたい!」
子どもたちから残念そうな声が上がる。
菜摘も、正直なところ、もっとこの時間が続いてほしかった。
暑さと息苦しさで限界に近いが、それでもまだこの幸せな時間は終わってほしくなかった。
でも、お別れの時間。
菜摘と由佳は、会場の子どもたちに向かって大きく手を振った。
「また会えるよね?」
「絶対また来て!」
子どもたちの声に、菜摘は力いっぱい頷いた。
きっと、また会える。
「プリティアとして、またこの場所に戻ってきたいな。」
最後に、菜摘と由佳は決めポーズを取った。
完璧なフィナーレ。
会場は大きな拍手と歓声に包まれた。
菜摘は、その拍手の中を歩きながら、感動で胸がいっぱいになっていた。
やり遂げた。
ティア・キッスとして、完璧なショーを見せることができた。
子どもたちも、みんな笑顔だった。
最高の一日。
最高の体験。
テントに戻る途中、菜摘は知恵の姿を見つけた。
知恵が笑顔を浮かべながら拍手してくれている。
『ありがとう』
マスクの中で、菜摘は知恵に向かってそう呟いた。
みんなが支えてくれたから、ここまで頑張ることができた。
テントに入ると、菜摘はようやくほっとした。
やり遂げた。
本当に、やり遂げることができた。
◆ ◆ ◆
「お疲れ様!」
恵美が椅子から立ち上がって、菜摘を迎えた。
体調も随分回復したようだった。
「菜摘ちゃん、本当に素晴らしかったよ!」
由佳が興奮気味に言った。
「完璧だった!誰も代役だなんて気づかなかったと思う」
その言葉に、菜摘は安堵の息をついた。
「マスクを外しましょうか」
由佳が優しく声をかけた。
菜摘は小さく頷いた。
もう限界に近づいているのが分かる。
マスクの中は汗と息でむっとした状態になっていて、呼吸も浅くなっていた。
由佳が菜摘の後ろに回り、ティア・キッスのマスクの髪を掻き分けて、固定している紐を探した。
「汗で紐が湿ってる...ちょっと固く結すぎちゃったかも」
紐が汗を吸って膨らんでいるため、なかなか解けない。
由佳が慎重に、でも手早く紐をほどいていく。
「もう少しだからね」
由佳の優しい声に、菜摘は必死に耐えた。
早くこの圧迫感から解放されたい。
でも同時に、ティア・キッスでいる最後の瞬間を惜しむ気持ちもあった。
ようやく紐が解けた。
「じゃあ、ゆっくりと外して」
菜摘はキッスのマスクを慎重に持ち上げ始めた。
菜摘の顔が少しずつマスクから離れていく。
まず額、そして目元、頬、最後に顎。
マスクが完全に外された瞬間、菜摘は大きく息を吸い込んだ。
「はぁ...はぁ...」
まるで水の中から顔を出したような感覚。
久しぶりに感じる外の空気が、こんなにも新鮮だとは思わなかった。
菜摘の顔は、想像以上の状態だった。
顔全体が汗でぐっしょりと濡れている。
額、頬、首筋まで、大粒の汗が絶え間なく流れ続けている。
髪の毛は汗で完全に濡れて、頭皮に張り付いていた。
束ねていたゴムの周りも汗でびしょびしょになっている。
マスクの内側にあったスポンジの跡が、顔のあちこちに赤い痕として残っていた。
額、頬、こめかみ、顎のライン。
まるで枠のように、マスクの形がくっきりと刻まれている。
鼻の両脇には、スポンジで圧迫されていた跡が特に濃く残っていて、少し痛々しく見えた。
でも、その顔は確かに達成感で輝いていた。
汗と圧迫の痕でボロボロになった顔なのに、菜摘の表情は清々しく、目は喜びで潤んでいた。
「わぁ...」
知恵が心配そうに菜摘の顔を見つめた。
「菜摘、大丈夫?すごい汗...」
知恵が急いでタオルを持ってきて、菜摘の顔を優しく拭いてくれた。
タオルはあっという間に汗を吸って重くなった。
「ありがとう...知恵...」
菜摘がようやく声を出した。
のども渇ききっていて、声が少しかすれている。
「水、ちゃんと飲んでね」
由佳がペットボトルの水を差し出してくれた。
「ハァ ハァ ありがとうございます...!」
菜摘は受け取った水を、がぶがぶと飲んだ。
冷たい水が喉を通って体に染み渡っていく感覚が、とても気持ち良い。
失った水分がいかに多かったかを実感した。
「どうだった? 初めてプリティアになった感想は?」
由佳が優しく聞いた。
菜摘は少し息を整えてから答えた。
「すごく...大変でした...でも...」
菜摘の顔に、穏やかな笑顔が浮かんだ。
「とても幸せでしたし、楽しかったです!」
マスクの圧迫の痕がまだ残っている顔で、菜摘は心から微笑んだ。
「本当に、夢みたいでした。ティア・キッスになれて...子どもたちの笑顔を間近で見られて...」
その言葉に、全員が温かい気持ちになった。
恵美も、体調が悪い中、菜摘の頑張りを見ていて感動していた。
「菜摘さん、本当にお疲れ様でした。私の分まで...本当にありがとうございました」
恵美の真心のこもった言葉に、菜摘は改めて深くお辞儀をした。
「こちらこそ、貴重な経験をさせていただいて、ありがとうございました」
菜摘が深くお辞儀をすると、全員が温かい拍手をしてくれた。
テント内に響く拍手の音。
それは、菜摘の人生初の着ぐるみ体験に対する、最高の賛辞だった。
「菜摘ちゃん、ありがとう。本当に助かったよ」
由佳が菜摘の肩を叩いた。
「改めてどうだった?ティア・キッスになった気分は?」
「最高でした」
菜摘が笑顔で答えると、その場にいた全員が笑った。
本当に、最高の一日だった。
その時、由佳と恵美、そして小林麻衣の3人は、菜摘の前に並んだ。
そして、深く、深くお辞儀をした。
「本当にありがとうございました」
三人の声が重なる。
菜摘は慌てて立ち上がろうとしたが、まだ体が重くてよろめいた。
知恵が支えてくれる。
「いえ、私こそ...」
菜摘も、深くお辞儀をした。
「憧れのプリティアになれて...楽しかったです。大変だったけど、子どもたちの笑顔を間近で見られて...本当に幸せでした。貴重な体験をさせてくれて、ありがとうございました」
菜摘の言葉に、全員が温かい笑顔を浮かべた。
「さぁ、着替えないとね」
由佳がそう言って、更衣スペースのカーテンを開けた。
「菜摘ちゃん、一緒に着替えよう」
「はい」
菜摘と由佳は、更衣スペースで着ぐるみを脱ぎ始めた。
まずは衣装のファスナーを下ろす。
重いエナメルの衣装が体から離れると、少し楽になった。
次に全身タイツ。
背中のファスナーを下ろし、ゆっくりと脱いでいく。
タイツは汗を大量に吸っていて、濃く変色していた。
「すごい汗だね」
由佳が苦笑いしながら言った。
「本当ですね...こんなに汗かいたの初めてです...」
菜摘も笑いながら答えた。
タイツを脱ぎ終わると、ようやく解放感を味わえた。
髪の毛を束ねていたゴムを外し、髪を下ろす。
髪も汗で湿っていて、べったりとしている。
「シャワー浴びたい...」
菜摘が呟くと、由佳が笑った。
「ね。でも、これが着ぐるみの仕事なの」
二人は持参していた着替えに着替え始めた。
その時、由佳が口を開いた。
「ねぇ、菜摘ちゃん」
「はい?」
「良かったら、私たちのショーチームに入らない?」
突然の勧誘に、菜摘は驚いて由佳を見た。
「え...私が...ですか...?」
「うん。菜摘ちゃん、すごく才能あるよ。初めてなのにあれだけ完璧に演じられるなんて、本当にすごい」
由佳の真剣な眼差しに、菜摘は戸惑った。
「でも...私なんかで...」
「菜摘ちゃんは、プリティアが大好きでしょ?子どもたちを笑顔にするのが嬉しかったでしょ?」
「はい...」
「だったら、また一緒にやろうよ。またプリティアになって、子供達を喜ばせてあげようよ」
由佳の言葉に、菜摘の心が揺れた。
またプリティアになれる。
また子どもたちを笑顔にできる。
「...やり、たいです」
菜摘は顔を上げて、はっきりと言った。
「また、プリティアになって、子供達を喜ばせてあげたいです!」
その前向きな返事に、由佳は嬉しそうに笑った。
「よかった!じゃあ、決まりだね! 恵美もきっと喜ぶよ!」
そして、由佳は少しイタズラっぽく笑って尋ねた。
「ところで菜摘ちゃん、アクションは得意?」
「え...アクション...ですか...?」
「そう、パンチしたりキックしたり」
菜摘は少し考えて、苦笑いしながら答えた。
「多分...苦手です...」
「でも大丈夫、私もちゃんと教えるから!」
由佳が力強く言った。
「普通のショーでは、ダンスだけじゃなくてアクションシーンもあるからね。敵と戦ったり、かっこいい技を決めたり」
「はい...大変そうです...」
「でも楽しいよ。それに、菜摘ちゃんならすぐに覚えられると思う」
「頑張ります!」
菜摘の目が輝いた。
こうして、菜摘の新しいアルバイトが決まった。
ホビーショップのバイトは継続しながら、ショーチームにも所属して、合間で菜摘は再びプリティアとなって子供達を喜ばせることになる。
着替えを終えて更衣スペースから出ると、知恵が待っていた。
「決まったみたいだね」
知恵が微笑みながら言った。
「うん!知恵、私、ショーチームに入ることになったの!」
菜摘が興奮気味に報告すると、知恵は優しく頷いた。
「良かったね、菜摘。夢が一つ叶ったね」
「うん!」
二人は笑顔を交わした。
恵美も体調が回復してきたようで、椅子に座って笑顔を見せている。
「菜摘さん、これからよろしくね」
「はい!恵美さん、よろしくお願いします!」
小林麻衣も嬉しそうに言った。
「これから一緒にショーをやるのね。楽しみだわ」
「はい、よろしくお願いします!」
店長の田中も、テントに顔を出して祝福してくれた。
「菜摘ちゃん、おめでとう。でも、うちのバイトも続けてくれるんだろう?」
「はい、もちろんです!」
菜摘の元気な返事に、みんなが笑った。
テントの外では、まだ親子連れがショップの中を見て回っている。
今日出会った子どもたちの笑顔。
ティア・キッスとして過ごした、特別な時間。
全てが、菜摘の宝物になった。
そして、これから始まる新しい世界。
菜摘の心は、期待と希望でいっぱいだった。
◆ ◆ ◆
それから一週間後。
菜摘は、ショーチームの練習場に来ていた。
「はい、じゃあもう一回!」
由佳の掛け声に、菜摘は深く息を吸った。
今日は初めてのアクション練習。
敵役との戦闘シーンの振付を教わっている。
「構えて、パンチ、キック、そして決めポーズ!」
菜摘は必死に動きを真似する。
でも、やっぱり難しい。
バランスを崩してよろめいてしまった。
「あはは、大丈夫大丈夫。最初はみんなそうだから」
由佳が優しく笑って、菜摘を支えてくれた。
「すみません...」
「謝らなくていいよ。少しずつ覚えていこう!」
練習場には、恵美もいる。
体調も完全に回復し、今日は見学に来てくれた。
「菜摘さん、いい感じですよ!」
恵美の励ましの言葉に、菜摘は笑顔で頷いた。
「ありがとうございます!」
これから、また子どもたちを笑顔にできるんだ。
まだまだ未熟だけど、一生懸命頑張る。
転んでも、また立ち上がる。
何度も、何度でも。
それがプリティアになるということであり、子どもたちに夢を届けるということ。
菜摘は、その道を歩み始めた。
憧れのプリティアとして。
そして、新人スーツアクターとして。
練習を続けながら、菜摘は決意を新たにした。
いつか、一人前のプリティアになる。
子どもたちに、たくさんの笑顔を届ける。
その日を夢見て、今日も練習に励む。
神崎菜摘の、新しい物語は始まったばかり。
― 完 ―