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エリス:着ぐるみの中の地味な私の役目 【前編】

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エリス:着ぐるみの中の地味な私の役目 【前編】
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プロローグ


私、新井由理恵は、人前に出るのが苦手な、ごく普通の女子専門学校生。いつも帽子を深く被って、顔を隠すようにして歩く。

授業でも、できるだけ目立たないように後ろの席に座る。人と話すのも緊張するから、声は小さくなってしまう。


「地味」「大人しい」「目立たない」


そんな言葉が、いつも私についてまわっていた。

でも、私にも夢はあった。仲間と一緒に作ったゲーム「スカイエンジェル」。

その主人公、エリス・スカイウィングを、多くの人に知ってもらいたい。


エリスは、私とは正反対。クールで、カッコ良くて、美しい。堂々としていて、誰からも愛される存在。


そんなエリスを、私が演じることになるなんて。


美少女着ぐるみという、特殊なコスプレ。マスクを被れば、誰も私だとはわからない。でも、その中は想像以上に過酷だった。

息苦しさ。暑さ。視界の狭さ。


それでも、私は演者として頑張りたかった。

エリスとして、子どもたちに笑顔を届けたかった。


これは、地味な女子専門学校生が、美しい着ぐるみの中で、必死に、一生懸命に、エリスを演じた物語。

私の、小さな挑戦の記録。

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第1章 夢への挑戦

完成への道


専門学校の実習室は、金曜日の放課後、オレンジ色の夕陽に包まれていた。窓から差し込む春の陽光が、4台のノートパソコンの画面を照らし、そこに映るゲーム「スカイエンジェル」の映像をより美しく輝かせている。コンピューター系専門学校2年生の4人は、1年間かけて制作したこのゲームのβ版完成に向けて、最後の追い込みを続けていた。机の上には空になったペットボトルや、食べかけのお菓子の袋が散乱している。

「よっしゃー!バグ修正完了!」


真紀が両手を上げて勢いよく声を上げた。その勢いでキーボードを叩く音が実習室に響く。

「真紀ー、ちょっと待って」


希美が素早くマウスを操作しながら、真紀のコードをチェックし始めた。黒髪ロングを後ろで一つに結んだ希美は、眉をひそめて画面を凝視している。

「ん?何何?」


真紀が軽い調子で希美の画面を覗き込んだ。

「また変数名、適当につけてない?『temp01』『temp02』って...後で見たら絶対わかんなくなるやつじゃん」


希美のやや呆れた声に、真紀は頭を掻いた。

「え〜、でも動いてるし〜」

「動けばいいってもんじゃないでしょ。バグ出た時に追えなくなるよ」


希美の冷静な指摘に、真紀は肩をすくめた。

「はいはい、女王様の仰せのままに〜」

「女王様って...」


希美が苦笑しながらも、真紀の肩を軽く叩いた。こんなやり取りは、もう何百回も繰り返してきた。


その様子を見ながら、蒼は茶髪のセミロングを耳にかけて微笑んだ。

「相変わらずだね、あんたたち」

「蒼こそ、デザイン作業ばっかりで、たまにはコード書いてよ〜」


真紀が不満そうに言うと、蒼は軽く肩をすくめた。

「私の仕事はビジュアル担当。コードは希美と真紀が天才だから任せてるの」

「天才なのは希美だけで、私は凡人だから」


真紀が自虐的に笑った。

「そんなことないよ。真紀の発想力は、私には真似できない」


希美が珍しく素直に褒めると、真紀は照れくさそうに頬を掻いた。


隣の席では、由理恵が静かにUIの最終調整を行っていた。眼鏡の奥の瞳が真剣に画面を見つめ、マウスを数ミリ単位で動かしながら、ボタンの配置や操作感を丁寧にチェックしている。普段は帽子を深く被って顔を隠しがちな彼女だが、この4人と一緒にいる実習室では、帽子を脱いで集中した表情を見せていた。

「由理ちゃん、そのメニュー画面、めっちゃ使いやすくなったね」


蒼が椅子をコロコロと転がして由理恵の隣に移動しながら声をかけた。

「あ、ありがとう」


由理恵が小さな声で答えた。4人といる時は、少しだけ「ありがとうございます」じゃなく「ありがとう」と言えるようになっていた。

「マジで由理ちゃんのUI、神だよね。直感的に操作できるもん」


真紀が自分のタブレットでゲームを操作しながら言った。

「本当...?」

「本当本当。由理恵のセンス、業界でも通用するレベルだと思う」


希美が真面目な顔で評価した。


由理恵の頬が少し赤くなった。人前で話すのが苦手な彼女にとって、この4人と一緒にいる時間が一番安心できる時間だった。みんなは由理恵のペースに合わせてくれるし、無理に話させようともしない。

「ねえねえ、エリスちゃんの動き見て!」


真紀が画面を指差した。蒼がデザインしたエリス・スカイウィングが、画面の中で優雅に舞っている。ダークシルバーの髪が光に反射してエレクトリックブルーに輝き、凛とした表情で敵を倒していく。

「エリスちゃん、マジで美人だよね〜」


真紀が感嘆の声を上げた。

「蒼のデザインだもん。当たり前じゃん」


希美が当然のように言った。

「でも、動きをプログラムしたのは希美と真紀だよ。二人のおかげで、エリスが生き生きしてる」


蒼が二人を見て笑顔を見せた。

「由理ちゃんの操作性があるから、プレイヤーがエリスを自由に動かせるんだよね」


希美が付け加えた。

「みんなで作ったから...だよね」


由理恵が小さな声で言った。

「そうだね。1年かけて、やっとここまで来たんだもんね」


蒼が感慨深げにつぶやいた。


蒼、希美、真紀の3人は高校時代からの友達だった。いつも一緒に騒いで、勉強もサボって、それでも互いに支え合ってきた仲間。専門学校に入学して、最初の授業で出会ったのが由理恵だった。一人でポツンと座っていた彼女に、蒼が「一緒にやらない?」と声をかけたのがきっかけ。最初は緊張していた由理恵も、今では4人で一つのチームとして自然に機能している。

「卒業制作としては、まあまあのクオリティになったんじゃない?」


蒼が全体を見渡して評価した。

「まあまあって...これ、超力作なんですけど!」


真紀が大げさに抗議した。

「わかってるよ。謙遜してみただけ」


蒼がニヤリと笑った。


しかし、希美の表情が少し真剣になった。

「ねえ...せっかくここまで作ったんだから、もっと多くの人に遊んでもらいたくない?」

「え、どういうこと?」


真紀が首を傾げた。

「身内とか、学校の発表会だけじゃなくて、一般の人にも体験してもらいたいなって」


希美の言葉に、蒼の目が輝いた。

「あ〜、わかる!エリスちゃんをもっと多くの人に見てもらいたい」

「そうそう。私たちのゲーム、絶対面白いもん」


真紀が勢いよく同意した。

「でも...」


由理恵が少し不安そうに口を開いた。

「どうやって...?」

「それなんだよね」


蒼が真剣な表情になった。

「何かイベントとかに出展できればいいんだけど...」


希美が考え込んだ。


4人は、しばらく沈黙した。どこでどう発表すれば、多くの人に見てもらえるのか。その答えは、まだ見つかっていなかった。


◆ ◆ ◆


イベント探し


それから1週間後の月曜日。昼休みの教室は、学生たちの賑やかな声で満ちていた。窓際の席で、4人はお弁当を囲みながら、今後の展開について話し合っていた。

「やっぱり、どこかのイベントで発表したいよね」


真紀が唐揚げを頬張りながら言った。

「でも、ゲームイベントって、出展料とか結構高いんだよね...」


希美が現実的な問題を指摘した。

「学生の私たちには、厳しいかも」


蒼も同意した。


周囲の学生たちの楽しそうな会話が、妙に遠くに聞こえる。

「あの...」


由理恵が小さな声で口を開いた。しかし、誰も気づかなかった。


(また...)


由理恵の心の中で、少し焦りが募る。声が小さすぎた。もう少し大きな声で。

「あの...ちょっといいかな」


今度は少し大きめの声で言ってみたが、やはり3人は各自の画面に集中している。由理恵は、少し勇気を出して、テーブルを軽く叩いた。


コンッ。


小さな音だったが、3人が顔を上げた。

「由理ちゃん?」


蒼が優しく尋ねた。

「あの...地域のイベントとか、探してみたらどうかな」


由理恵が言葉を続けた。

「地域のイベント?」


真紀が興味を示した。

「企業とか自治体が主催してる、地域密着型のイベントなら...出展料が安いか、無料のところもあるかもしれないって」


由理恵の言葉に、蒼の目が輝いた。

「それいいね!調べてみよう!」


4人はすぐにスマホやタブレットで検索を始めた。由理恵も、自分のタブレットで地域のイベント情報を探していく。


(みんなの役に立ちたい...)


由理恵は集中して検索を続けた。そして、10分後。

「あ...」


由理恵が小さく声を上げた。

「これ、見つけた。どうかな」


由理恵がタブレットの画面をテーブルの中央に置いた。そこには、「第15回 桜ヶ丘市 地域産業フェスティバル」の告知が表示されていた。

「へぇ...」


蒼が身を乗り出して画面を見た。

「6月第1週の土日開催。地域の企業、学校、団体が出展できる...」


希美が詳細を読み上げた。

「出展料...学生団体は無料!」


真紀が興奮した声を上げた。

「これいいじゃん!由理ちゃん、すごい!」


真紀が由理恵の肩を抱いた。由理恵の顔が、少し赤くなった。

「でも...」


由理恵が少し不安そうに続けた。

「これ、産業フェスティバルって書いてある。私たちみたいな学生のゲームでも、大丈夫かな...」


蒼が画面をスクロールして、出展条件を確認した。

「地域の産業・技術・文化の発展に貢献する展示...学生の作品も歓迎...」

「いけるんじゃない?」


希美が前向きに言った。

「私たちのゲーム、専門学校で学んだ技術の集大成だし」

「そうだね。応募してみよう!」


蒼が決断した。


由理恵は、3人の嬉しそうな顔を見て、心が温かくなった。


(良かった...みんなの役に立てた)


小さな達成感が、由理恵の心を満たしていた。


◆ ◆ ◆


着ぐるみ企画


それから3日後の金曜日、放課後。いつもの実習室に4人が集まっていたが、今日はいつもと様子が違った。蒼が妙にソワソワしていて、何度もノートパソコンの画面を確認しては、3人の顔を見ている。

「蒼、さっきからどうしたの?」


希美が不思議そうに尋ねた。

「え、あ、うん...」


蒼が言葉を濁した。珍しく、はっきりしない態度だ。

「なんか隠してるでしょ〜?」


真紀が椅子をコロコロと転がして蒼に近づいた。

「怪しい怪しい!絶対何かあるって!」

「ちょ、ちょっと待って」


蒼が真紀を手で制した。

「実は...産業フェスティバルのこと、まだ諦めきれなくて」

「え?」


3人が驚いた顔で蒼を見た。

「だって、由理ちゃんが一生懸命探してくれたイベントだし...無料で出展できる貴重な機会だし」


蒼の言葉に、由理恵がハッとした表情を見せた。

「それで、色々考えてたんだけど...」


蒼がノートパソコンの画面を3人に向けた。そこには、様々な着ぐるみイベントの事例が表示されている。企業のマスコットキャラクター、ご当地キャラ、アニメキャラクターの着ぐるみが、子どもたちと触れ合っている写真がたくさん並んでいた。

「...着ぐるみ?」


希美が画面を見つめた。

「そう!エリスちゃんの着ぐるみを作るの!」


蒼が興奮気味に説明し始めた。

「年齢層が高いイベントでも、着ぐるみがいれば子どもたちが集まるでしょ?」

「あ〜...」


真紀が理解し始めた表情を見せた。

「子どもが来れば、その親も来る。若い世代を呼び込めるってこと?」

「そうそう!」


蒼が勢いよく頷いた。

「それに、事前にSNSで告知すれば、エリスちゃんのファンも来てくれるかもしれない」

「確かに...話題性は作れるかも」


希美が冷静に分析し始めた。

「エリスちゃんが実際に会場に現れたら、絶対注目されるよね」

「でしょ!?」


蒼が嬉しそうに笑った。


しかし、真紀が現実的な問題を指摘した。

「でも、着ぐるみって...高くない?」

「そ、それなんだけど...」


蒼が少し言いづらそうに資料を見せた。

「一応、いくつかの工房に見積もり依頼してみたの」

「おお、蒼、本気だ」


真紀が感心した。

「で、一番安いところで...」


蒼が見積書を指差した。

「...これくらい」


見積書に書かれた金額を見て、真紀の声が裏返った。

「え...!?結構するね...」


由理恵も驚いて目を丸くしている。


希美だけは冷静に電卓アプリを開いて計算し始めた。

「4人で割ると、一人これくらいか...」


希美が計算結果を見せた。

「う〜ん...」


真紀が自分の財布の中身を思い浮かべているのか、難しい顔をしている。

「高いよね...ごめん、勝手に見積もりまで取っちゃって」


蒼が申し訳なさそうに言った。

「でも、高品質なマスクとウィッグ、衣装一式が揃うなら...」


希美が資料を詳しく見ながら言った。

「むしろ安い方かもしれない」

「え、そうなの?」


真紀が驚いた。

「業務用の着ぐるみって、普通30万円とか50万円とかするらしいよ」


希美の説明に、真紀が目を丸くした。

「マジで!?じゃあこれって、むしろお得...?」

「学生向けの簡易版だから、この金額なんだと思う」


蒼が補足した。


沈黙が流れた。決して安くはない金額。4人の学生にとって、簡単に出せる額ではない。

「私は...出せると思う」


希美が最初に口を開いた。

「バイト代、貯めてあるし」

「私も...なんとかなるかな」


真紀が続いた。

「実家に相談すれば、なんとか...」


3人の視線が、由理恵に集まった。

「由理ちゃんは...どう?」


蒼が優しく尋ねた。


由理恵は少し考え込んだ。バイトをしていない彼女にとって、決して簡単に出せる金額ではない。でも。


(みんなが頑張ってるのに...)

「私も...大丈夫」


由理恵が答えた。

「本当に大丈夫?無理しないでね」


蒼が心配そうに尋ねた。

「大丈夫。私も、バイト代貯めてあるから」


由理恵が頷いた。実際には、全財産に近い金額だったが、それは言わなかった。

「よし、じゃあ決定だね」


蒼が笑顔を見せた。

「エリスちゃんの着ぐるみ、作ろう!」


4人の手が、テーブルの中央で重なった。


◆ ◆ ◆


演者問題


着ぐるみの発注を決めた翌週の月曜日、昼休み。

4人はいつもの窓際の席で、お弁当を食べながら話し合っていた。

「で、結局...誰が着るの?」


真紀が唐揚げを口に入れながら、ストレートに切り出した。

一瞬、箸を動かす音だけが聞こえた。

「それなんだよね」


蒼がお茶を一口飲んで、困った表情を見せた。

「みんな、どう思う?」


沈黙が流れた。

誰もが、自分が演者になることを想像し、そして少し躊躇していた。

「私は...無理かな」


真紀が最初に口を開いた。

「身長155センチしかないし、エリスって165センチの設定でしょ?バランス悪くなっちゃう」


蒼が頷いた。

「確かに...着ぐるみは体型とのバランスが大事だもんね」


次に、蒼が自分を指差した。

「私は157センチだから、これも微妙かな。それに、当日は全体の指揮とか、ブースのデザインとか、やることが多いから...」


真紀が頷いた。

「蒼がいないと、現場回らないもんね」


そして、3人の視線が、希美と由理恵に向いた。


希美は162センチ、由理恵は165センチで、どちらもエリスの設定に近い身長。

「希美か...由理恵か...」


真紀が小声で呟いた。


由理恵は、視線を感じて少し体を縮めた。


「私は...無理...絶対無理...」


人前に出るのが苦手な由理恵にとって、着ぐるみを着るとはいえ、多くの人の前に立つのは想像しただけで恐ろしかった。


希美は、冷静に考えていた。

「...身長だけで言えば、由理恵の方がエリスの設定に近いよね」


希美の言葉に、由理恵がハッとした。

「え...」

「165センチって、まさにエリスの設定そのままだし」


真紀も頷いた。

「確かに!由理ちゃん、身長はぴったりだよね」


でも、蒼が優しく首を横に振った。

「でも、由理恵は人前が苦手だから...着ぐるみとはいえ、大勢の人の前に立つのは負担が大きいと思う」


蒼の言葉に、由理恵は少しホッとした。

「それに」


希美が続けた。

「私は運動神経に自信があるから、着ぐるみの動きも対応できると思う」

「視界が狭いとか、バランスが悪いとか、そういうのも克服できるはず」


真紀が目を輝かせた。

「希美、やる気!?」


希美が少し微笑んだ。

「うん。せっかくみんなで作ったゲームだし」

「エリスを、多くの人に見てもらいたいから」


蒼が嬉しそうに言った。

「希美...ありがとう」


真紀も同意した。

「希美なら完璧だよ!スレンダーだし、運動神経も抜群だし」

「エリスのクールな感じ、絶対出せるって!」


由理恵も小さく頷いた。

「の、希美...すごく似合いそう」


3人の賛同を受けて、希美は決意を固めた。

「じゃあ、私がエリスを演じる」

「みんな、よろしくね」

「こちらこそ、よろしく!」


真紀が嬉しそうに言った。

「ありがとう、希美!」


蒼が感謝の気持ちを伝えた。


こうして、4人で話し合った結果、エリスの演者は希美に決まった。


◆ ◆ ◆


着ぐるみ発注


数日後、4人は蒼のアパートで工房との電話会議を行っていた。

スピーカーフォンから、工房の担当者の声が聞こえてくる。

「ご予算内で、できるだけ高品質なものをお願いしたいと」


蒼が確認した。

「承知いたしました。デザイン画を拝見しましたが、とても美しいキャラクターですね」


担当者の声に、蒼が嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうございます」


細かい仕様を決めていく中で、演者の体型データも伝える必要があった。

「演者のサイズなんですが...」


蒼が言った。

「身長は162センチから165センチの間で着用する予定です」

「体重は50キロから52キロくらいで」

「了解しました。そのサイズ範囲に対応できるよう調整いたします」


担当者が確認した。

「スレンダー体型の方でしたら、問題なくフィットすると思います」

「お願いします」


発注の詳細を詰め、納期は2週間後と決まった。

「それでは、2週間後の金曜日に配送いたします」

「ありがとうございます」


蒼が答えた。


電話が切れると、4人は顔を見合わせた。

「いよいよだね」


真紀が興奮気味に言った。

「楽しみ...」


由理恵も微笑んだ。


◆ ◆ ◆


着ぐるみ到着


それから2週間後。

予定通り金曜日の夕方、待ちに待った着ぐるみが蒼のアパートに届いた。


玄関のチャイムが鳴り、配達員から大きな段ボール箱を受け取った蒼は、興奮を抑えきれなかった。

「来た...!」


蒼は、すぐにスマホを取り出して、グループメッセージを送った。

『予定通り、エリスの着ぐるみが届いたよ!先に開けて中身を確認していい?』


すぐに返信が来た。


希美『確認お願いします!』

真紀『うん!見て見て!』

由理恵『お願いします...』


蒼は、部屋の中央に段ボール箱を置いた。大きな箱が二つ。


(どっちから開けようかな)


蒼は、まず一つ目の箱を慎重に開けた。


箱の中には、丁寧に梱包されたエリスの衣装一式が入っていた。

濃いネイビーのエナメル製ベストに左右非対称のスカート。

黒のニーハイソックス。黒いエナメル製の長手袋。

シルバーのベルト。シルバーのブーツ。


そして、ベージュ色の肌色全身タイツ。

「すごい...」


蒼は、一つ一つを手に取って確認した。

エナメルの光沢、縫製の丁寧さ、全てが想像以上のクオリティだった。


次に、二つ目の箱を開けた。


箱の中には、薄い布で覆われた塊のようなものが入っていた。


(これが...マスク...)


蒼は、丁寧に布の口を広げて、中身を取り出した。

その瞬間、蒼は息を呑んだ。

そこには、美しいエリス・スカイウィングの顔をしたマスクがあった。


ダークシルバーとエレクトリックブルーの美しい髪。澄んだアイスブルーの瞳。クールな切長の目。凛々しい表情。


蒼がデザインした通りの、完璧なエリス。

「...すごい」


蒼は、マスクを両手で持ち、じっと見つめた。

自分がデザインしたキャラクターが、今、現実になっている。

ゲームの中の2Dイラストだったエリスが、立体的な、実在する存在になっている。


(私が...作ったんだ...)


大きな感動が、蒼の心を満たした。

蒼は、床に全ての衣装とマスクを広げて並べた。

エリスの衣装一式。

マスク、全身タイツ、手袋、ブーツが全てが揃っている。


(これを着たら...本物のエリスになれる)


蒼は、しばらくの間、床に広げられた衣装やマスクを見つめ続けた。


(本番は...絶対に盛り上がる)


蒼は確信した。


そして、スマホを取り出して、グループメッセージを送った。

『中身を確認したよ。全部完璧!想像以上のクオリティ。明日の試着、楽しみだね!』


すぐに返信が来た。


希美『良かった!明日、楽しみ!』

真紀『やったー!明日朝一で行くね!』

由理恵『ありがとうございます...』


蒼は、スマホを置いて、再び床に広げられた衣装を見つめる。

そして、エリスの着ぐるみ一式を片付けようと手を伸ばした時。


蒼の手が、止まった。


(エリスは...私の理想の女性像なんだよね...)


蒼は小さく呟いた。


エリス・スカイウィング。クールで、強くて、凛々しくて、でもどこか優しい。蒼がデザインしたこのキャラクターには、蒼自身の「こうありたい」という願いが込められていた。


(私も...一度、エリスに変身してみたい...)


その願望が、蒼の心の中で湧き上がってきた。


蒼は、しばらく考え込んだ。


(明日、みんなで試着する前に...)

(試着の前に構造を理解しておくのも、大事なことだし...)


でも、本音は違う。


(私も一度、エリスになってみたい)


蒼は、覚悟を決めた。

「よし」


蒼は、箱の中から着用手順書を取り出して読み始めた。


手順書には、詳しい着用方法が書かれていた。

『着用手順:肌タイツ → 衣装 → 装飾品 → マスク』

『※一人で着用する場合は、マスクを被ってから最後にグローブなどを手の周りに装着すると、着用がスムーズです』


蒼は、手順書を何度も読み返した。


(一応、一人でも着られるんだ...)


蒼は、立ち上がって、ドアに鍵をかけた。そして、深呼吸をした。

「やろう」


蒼は、自分の私服を脱ぎ始めた。

トップスを脱ぎ、スカートを脱ぎ、下着姿になった。

鏡を見ると、157センチの自分の体が映っている。


(エリスは165センチ...私より8センチも高い設定...でも、構造を理解するには十分)


蒼は、ベージュ色の全身タイツを手に取り、手順書を再確認しながら着用を始めた。


タイツに足を通し、腰まで引き上げる。腕を通す。思ったよりも伸縮性があり、体にフィットする。


頭部のフード。髪を一つにまとめ、フードを被る。首から頭頂部へのファスナーを背中に手を回して引き上げる。

一人だと少し大変だが、なんとか上まで上げられた。


鏡を見ると、顔だけが露出した姿。


(これが土台か...)


蒼は、デザイナーとして冷静に観察していた。


次に、衣装。蒼は手順を確認しながら、効率的に着ていく。


まずニーハイソックス、次にスカート。

エナメルベストは思ったより重いが、羽織るようにして着用。

最後にベルト、ブーツ。


手順書に従って、手袋はまだ着けない。

全ての衣装を着終わった蒼は、鏡を見た。


(サイズは...やや大きいけど、希美ならピッタリ合うはず)


蒼は、デザイナーとして衣装のフィット感を確認していた。


残りは、マスク。


蒼は、エリスのマスクを手に取り、改めて内側を観察した。


(前面パーツと後頭部パーツ...金具はここ...スポンジの配置は額、頬、顎...)


構造を理解する目的もあったが、それ以上に、この瞬間を楽しみにしていた。


(私が作ったエリスに...なれる...)


蒼は、マスクの金具を外し、前後に分離させた。

手順書には「後頭部から当てて、前面を下ろす」とある。


蒼は、後頭部パーツを自分の後頭部に当てた。

次に、前面パーツを、ゆっくりと下ろしていく。

顔にマスクが当たった瞬間、蒼は予想外の感覚に驚いた。


(思った以上に...圧迫感がある...)


スポンジが顔全体を包み込み、密着してくる。特に鼻の部分が強く押される。


(これは...口で呼吸しかできないかも...)


蒼は、冷静に状況を分析しながら、金具に手を伸ばした。

一人で装着するため、視界が制限された状態で金具を探すのは思ったより難しい。

何度か手探りで探し、ようやく右側の金具を見つけた。


カチッ。


次に左側。これも少し時間がかかったが、なんとか留めた。


カチッ。


マスクが完全に固定された。

マスクの中でゆっくりと目を開ける。


(視界...狭い...!)


エリスの瞳の部分にある小さなスリットからしか見えない。

左右は完全に死角で足元も見えない。

そして、自分の呼吸音がマスクの中で大きく響く。


ハァ...ハァ...


(これが...演者が体験する世界...)


蒼は、デザイナーとして、この体験を記憶しようとした。


(希美に、由理恵に...これを説明しないと...)


でも、それ以上に。


(私、エリスになったんだ...)


その事実が、蒼の心を震わせた。


(本当にほとんど見えない...こんなに見えないの...?)


正面はかろうじて見える。

でも、左右は全く見えず足元も見えない。


そして、呼吸。


自分の吐いた息がマスクの内側に跳ね返り、顔全体に熱い吐息がかかる。

マスクの中で、自分の呼吸音が大きく響く。


ハァ...ハァ...


(これが...着ぐるみ...)


蒼は、この不思議な感覚に圧倒されていた。


(でも...まだグローブが残ってる...)


蒼は、視界の狭い中、床に置いてある黒いエナメル製の長手袋を探した。

なんとか見つけ、拾い上げ右手、左手へと順番に装着していく。

慎重に指先まで丁寧に入れ込む。


そして全ての装着が完了した。


(今、私...エリスに変身してるんだ...)


蒼は、ゆっくりとその事実を自覚していった。

マスクの中には相変わらず自分の呼吸音が響いている。


ハァ...ハァ...


自分の呼吸音だけが、マスクの中で大きく反響している。

まるで、世界から隔絶されたような感覚。


でも、同時に。


(あれ...?)


マスクの瞳の部分にある小さなスリット。

外から見た時は「こんな小さな穴で本当に見えるの?」と思ったが。


(意外と...見える...かも...慣れかな)


暗順応により、思ったよりも視界が確保されている。

もちろん狭いことには変わりないが、見た目の印象よりは見えていた。


(でも...やっぱり狭い...)


蒼は自分の顔を触ろうとするが、その手はマスクに遮られる。

ひんやりとしたプラスチックの感触。


(あ...)


当たり前だけど、自分の顔に触れない。

いつもなら、手を顔に当てれば、自分の肌の温かさを感じられるのに、今はマスクに遮られて、自分の顔に直接触れることができない。


(私の顔...どこ...?)


不思議な感覚だった。

自分がこの中にいるのに、自分ではなくなっていく。


蒼は、エリスのマスクの表面を手で撫でた。

顔の輪郭。頬のライン。顎の形。


(これが...エリスの顔...)


滑らかなプラスチックの表面。冷たく、硬い。


(私の顔じゃない...エリスの顔...)


蒼の心に、不思議な感覚が広がっていった。

自分が消えて、エリスになっていく。


ハァ...ハァ...


(苦しい...)


でも、この感覚は...嫌いじゃない。

蒼は、ゆっくりと立ち上がった。

そして、慎重に歩いて、寝室の姿見の前まで向かった。


一歩、一歩。


視界が狭いため、足元が見えず、慎重に歩かなければならない。


(足元...見辛い...)


顔を下に向けても、マスクの視界が狭いため、自分の足元はほとんど見えない。

蒼は、記憶を頼りに、慎重に進んだ。


そして、ようやく姿見の前に辿り着き鏡の中を見た。


その瞬間、蒼は息を呑んだ。


そこには、完璧なエリス・スカイウィングの姿があった。


ダークシルバーとエレクトリックブルーの美しい髪。

澄んだアイスブルーの瞳にクールな切長の目。

凛々しく美しい表情。

そして、157センチの自分の体に完璧にフィットした衣装。


(これが...今の私なんだ...)


蒼は、マスクの狭い視界から、鏡の中のエリスを見つめた。

自分がデザインしたキャラクターは自分の理想の女性像。

それが、今、自分の姿として鏡に映っている。


(私...エリスになれた...)


大きな感動が、蒼の心を満たした。

でも、同時にマスクの中では、20歳の女子専門学校生・蒼の顔がある。


息苦しさ、視界の狭さ、圧迫感。

鼻は潰され、口でしか呼吸ができない。

「はぁ...はぁ...」


呼吸が荒くなってくる。


(苦しい...でも...)


蒼は、もう少しだけ、この姿を見ていたかった。

鏡の中のエリスは、ゆっくりと腕を動かしてみた。

片手を腰に当て、もう片方の手を下ろす。


(可愛い...)


自分で自分を見て、蒼は思わず感動してしまった。


(これが...私が作ったキャラクター...)


エリスは、少し首を傾げてみた。

鏡の中のエリスも、同じように首を傾げる。


(なんだか、萌える...)


自分の姿なのに、まるで別人のよう。

自分がデザインした理想の美少女が、目の前にいる。


(きれい...)


蒼は、マスクの中で小さく笑った。

そして、鏡の前で色んなポーズを取ってみた。


片手を上げて、手を振ってみる。

両手を広げて、歓迎のポーズ。

腕を組んで、クールな仕草。


(これ、楽しい...)


蒼は、エリスとして部屋の中を動き回ってみた。


リビングを一周。

キッチンの前まで。

窓の近くまで。

一歩一歩、慎重に。


視界が狭いため、常に注意を払わなければならない。

でも、それもまた、新鮮な感覚だった。


(エリスとして...動いてる...)


5分が経過。


マスクの中が、少しずつ変化してきた。

自分の吐息がマスクの中にこもる。

湿っぽい、温かい空気。


(気持ち悪い...)


顔全体に、自分の熱い息がかかる。

そして、汗が出始めた。

額から、頬から、顎から。

じわりと汗が滲み出てきて、マスクの内側のスポンジが汗を吸収していく。


(顔が濡れてきた...)


マスクの中が、どんどん湿ってくる。

自分の呼吸で、自分の顔が濡れていく。


(拭きたい...)


でも、拭けない。

マスクを被っている限り、顔を直接拭くことはできない。


10分が経過。


(はぁ...はぁ...)


呼吸が、さらに荒くなってきた。

マスクの中は、自分の吐息と汗で、どんどん気持ち悪くなっていく。


(苦しい...)


鼻が潰されているため、口呼吸しかできない。

でも、口呼吸をすればするほど、マスクの中が湿ってくる。


(限界...かも...)


蒼は、鏡の前に戻った。

もう一度、エリスの姿を見つめる。


(綺麗...でも...)

(苦しい...)

(これが...着ぐるみ...)


しばらくの間、蒼はエリスとして鏡の前に立ち続けた。

でも、やがて呼吸が苦しくなり、蒼は自分でマスクを外すことにした。


(もう...限界...)


息苦しさが、どんどん強くなっていく。

金具を外そうとするが、視界が狭く、なかなか外せない。

「っ...」


何度か試みて、ようやく金具を外した。


マスクが外れた瞬間、涼しい空気が蒼の顔を包んだ。

「はぁ...はぁ...はぁ...」


大きく、何度も息を吸い込む。


(空気...涼しい...)


顔は汗で濡れている。

マスクのスポンジの跡が、額、頬、顎に赤く残っていた。

「苦しかった...」


蒼は、スマホで時間を確認した。


(え...?)


マスクを被っていた時間は、15分程度。


でも。


(1時間くらい...着てた気分...)


たった15分なのに、もっと長く感じた。

それほど、マスクの中は過酷だった。

息苦しさ、視界の狭さ、圧迫感、汗、湿気。

全てが、蒼の体力と精神力を奪っていった。


(これを...由理恵が...何十分も...)


蒼の心に、演者への尊敬の念が芽生えた。

蒼は、着ぐるみを全て脱いで、衣装を丁寧に片付けた。

そして、シャワーを浴びて、普段の服に着替えた。


(明日、みんなで試着する...)


蒼は、明日が楽しみで仕方なかった。


◆ ◆ ◆


翌日の試着


翌日の土曜日、朝9時。

希美、真紀、由理恵の3人が、蒼のアパートにやってきた。

「おはよう!」


真紀が元気よく挨拶した。

「おはようございます」


由理恵が少し緊張した様子で言った。

「おはよう。さあ、エリス見せてあげる」


蒼が笑顔で迎えた。


部屋の中央には、大きな段ボール箱が二つ置かれている。

「わぁ、これがエリス!?」


真紀が興奮した声を上げた。


蒼が箱を開けると、そこには美しいエリスの着ぐるみ一式が入っていた。

「すごい...」


3人が感嘆の声を上げた。


希美が、マスクを手に取った。想像以上の重さに、少し驚く。

「結構、重いんだね...」

「髪の毛の部分が特に重いみたい」


蒼が説明書を確認しながら言った。

「希美、試着してみようよ」


真紀が促した。

「...うん」


希美は、着替え部屋に向かった。


◆ ◆ ◆


希美の試着


着替え部屋で、希美はテキパキと準備を始めた。


(いよいよ。さっさと着て、みんなに見せなきゃ)


希美は普段着を脱ぎ、下着姿になると、すぐに全身タイツを手に取った。


運動神経の良い希美は、タイツの着用も素早い。足を通し、腰まで一気に引き上げ、腕を通す。


フードを被り、ファスナーを首元まで上げる。慣れた手つきだ。


鏡を見て、軽く確認。


(よし、次)


希美は、衣装を手早く着ていく。


ニーハイソックスを履き、スカートを着け、エナメルベストに腕を通す。


(エナメル、ちょっと重いけど...まあ大丈夫)


手袋を装着し、ベルトを締め、ブーツを履く。

全ての動作が効率的で無駄がない。

衣装を着終わった希美は、鏡の前で軽く体を動かしてみた。

腕を上げる。屈伸。軽くジャンプ。


(動きやすさは...まあまあかな。ちょっときついけど、慣れればいける)


希美は自信に満ちていた。

運動神経には自信があるしこれくらい、すぐに対応できる。


(あとはマスク。これを着ければ完成)

「希美、準備できた?」


外から蒼の声が聞こえた。

「うん、マスクつけるの手伝って」


希美が答えると、蒼が部屋に入ってきた。

「すごい...完璧だよ、希美」


蒼が感動した。

「ありがとう。じゃあ、マスクお願い」


希美が言った。表情には自信が見える。


(マスクも大丈夫。すぐに慣れる)

「うん。じゃあ、準備いい?」


蒼がマスクの前面パーツを持ち、希美の顔に近づけた。

「いつでもどうぞ」


希美は余裕の表情で答えた。

蒼が前面パーツを希美の顔に当てた。

その瞬間。


(え...!?)


希美の余裕が、一瞬で消えた。

スポンジが顔に密着する感覚。予想以上の圧迫感。


(思ってたのと全然違う...!)


鼻が押し潰される。呼吸が...できない...?

いや、口なら...口呼吸...!


希美は必死に口で息を吸った。

「きつい...」


思わず声が出た。

「少し我慢してね」


蒼が後頭部パーツを当て、金具を留めていく。


カチッ、カチッ。


マスクが固定された瞬間、希美は衝撃を受けた。


(視界が...こんなに狭いの...!?)


正面しか見えない。左右は完全に見えない。足元も見えない。


(これで...動けって...?)


希美の自信が、大きく揺らいだ。

でも。


(いや、大丈夫...慣れる...私なら絶対慣れる...!)


希美は、自分に言い聞かせた。運動神経には自信がある。

これくらい、克服してみせる。


その瞬間、希美の世界が一変した。


(え...)


視界が急激に狭くなる。エリスの瞳の部分にある小さなスリットからしか、外が見えない。


(見えない...こんなに見えないの...?)


正面はかろうじて見える。

でも、左右は全く見えず足元も見えない。

そして、呼吸。

自分の吐いた息がマスクの内側に跳ね返り、顔全体に熱い吐息がかかる。


(気持ち悪い...)


マスクの中で、自分の呼吸音が大きく響く。


ハァ...ハァ...


自分の息の音がこんなにも大きく聞こえるなんて。

(これ...本当に大丈夫...?)


希美の心の中に、初めて不安が芽生えた。

(想像以上に...きつい)


顔全体がスポンジに押さえつけられている。

鼻が圧迫されて、口でしか呼吸ができない。

視界は驚くほど狭い。


自分の吐いた息がマスクの内側に跳ね返り、顔全体に熱い吐息がかかる。

その不快感。


(でも...私なら大丈夫)


希美は自分に言い聞かせた。運動神経には自信がある。これくらい、すぐに慣れる。

「大丈夫、希美?」


蒼の声が、マスクを通してこもって聞こえる。

「...うん、大丈夫」


希美は強がって答えた。実際には、かなり苦しい。でも、ここで弱音を吐くわけにはいかない。


(私がエリスを演じるんだ。頑張らないと)

「鏡、見てみて」


蒼に促され、希美は鏡の方を向いた。

視界が狭いため、顔を動かして鏡を探す。そして、そこに映った姿を見た瞬間。


(...!)


希美の心臓が高鳴った。

そこには、完璧なエリス・スカイウィングの姿があった。


ダークシルバーとエレクトリックブルーの美しい髪が、光に反射して輝いている。

澄んだアイスブルーの瞳に凛々しく美しい表情。

スレンダーで完璧なプロポーション。

「...綺麗」


希美は思わず呟いた。


(これが...エリス...)


鏡の中のエリスは、ゲームの中で見たキャラクターそのもの。

いや、それ以上に美しくリアルで、存在感がある。


(私、本当にエリスになれたんだ)


感動が、希美の心を満たした。

マスクの中では、20歳の女子専門学校生・希美の顔がある。

汗で濡れ始めた顔と圧迫される鼻。

口だけで必死に呼吸している自分。


着ぐるみの外側と内側。


美しいキャラクターと、それを演じる生身の人間。

その二つの存在が、今、一つになっている。


(苦しいけど...でも、これが演者なんだ)


希美は決意を新たにした。

「希美、動いてみて」


蒼が促した。


希美は慎重に一歩を踏み出した。

視界が狭いため、足元が見えない。

でも、運動神経の良さで、距離感をつかんでいく。


一歩、二歩、三歩。


(これなら...いける)


希美は少しずつ自信を取り戻していった。

視界は狭いが、慣れれば対応できる。

呼吸は苦しいが、耐えられないほどではない。

「すごい...希美、もう慣れてる」


蒼が感心した。


(やっぱり、私なら大丈夫)


希美は心の中で微笑んだ。


数分後、蒼が部屋の外にいる真紀と由理恵を呼んだ。

「二人とも、見て」


真紀と由理恵が部屋に入ってきた。


そして、エリスの姿の希美を見た瞬間、二人は完全に固まった。


部屋の中央に、エリス・スカイウィングが立っていた。


ダークシルバーとエレクトリックブルーの美しい髪。澄んだアイスブルーの瞳。凛々しく美しい表情。162センチのスレンダーで完璧なプロポーション。


ゲームの中のキャラクターが、現実に存在している。

「...すごい」


真紀が呆然とつぶやいた。声が震えている。

「の、希美...完璧」


由理恵も驚きを隠せない。目を丸くして、エリスを見つめている。


希美の体型、雰囲気、全てがエリスにぴったりだった。いや、それ以上だ。まるで、エリスが希美のために生まれてきたかのように、完璧にマッチしている。


エリスは、真紀と由理恵の反応に気づいたのか、ゆっくりと視線を下に向けた。

視界が狭いため、顔全体を下に傾ける。

自分の体を見下ろす。


濃いネイビーのエナメルベストに左右非対称のスカート。


エリスは、ゆっくりと右腕を持ち上げてみた。

黒いエナメルの手袋に包まれた腕。

指を曲げたり、伸ばしたり。


次に、左腕も同じように動かしてみる。

マスクの中で、希美は自分の姿を確認していた。


そして、エリスは鏡の方へと顔を向けた。


視界が狭いため、鏡を探すように顔を左右に動かす。

鏡が視界に入った。


そこには、完璧なエリスの姿。

エリスは、鏡の前で少し立ち止まり、じっと自分の姿を見つめている。


そして、ゆっくりと首を右に傾げてみた。

鏡の中のエリスも、同じように首を傾げる。


(可愛い...)


次に、左に傾げてみた。

鏡の中のエリスも、左に傾げる。

エリスは、髪を触ろうとして、手を上げた。

でも、マスクの髪は自分の髪ではない。


(あ...触れない...)


エリスは、少し困ったように手を下ろした。


その様子を見ていた真紀が、クスクスと笑い始めた。

「ねえ、希美、自萌えしてる?」


真紀の声が、部屋に響いた。

マスクの中の希美は、真紀の言葉にハッとした。


エリスは、慌てたように真紀の方を向いた。


視界が狭いため、体ごと向きを変えると少し足がもつれそうになる。

「わっ...」


蒼が慌てて支えようとするが、エリスはなんとかバランスを保った。


そして、真紀の方を向いたエリスは、両手を前に出して、ぶんぶんと左右に振った。

まるで「違う違う!」と言っているかのように。

首も激しく横に振る。


マスクの重さで、髪が大きく揺れる。


でも、その動きが、明らかに慌てている。


必死に否定している。

「あはは、見て見て!すっごい慌ててる!」


真紀が笑いながら言った。

「普段の希美と全然違う!」


エリスは、さらに激しく首を横に振った。


両手を前に出して、手のひらを真紀に向けて、バタバタと振る。

「違います」という意味なのだろう。


でも、マスクで声は出せない。身振りだけで伝えようとしている。


その必死な様子が、逆に可愛らしい。

「クールなエリスが、こんなに慌ててるの、めっちゃ可愛い!」


真紀が興奮して言った。


エリスは、諦めたように、両手を下ろした。そして、少し肩を落とす。


まるで「もういいよ...」と言っているかのように。


その仕草に、3人は笑顔になった。

「はぁ...はぁ...」


エリスの中から、くぐもった呼吸音が聞こえる。

慌てて動いたため、呼吸が荒くなっていた。


蒼が心配そうに近づいた。

「希美、大丈夫?」


エリスは、ゆっくりと頷いた。


そして、親指を立てて「大丈夫」のサインを作った。

「良かった」


蒼が安心した表情を見せた。


由理恵は、そんなエリスの様子を見て、微笑んでいた。


(希美ちゃん...楽しそう...)


マスクの中では苦しいはずなのに、希美は楽しんでいる。


その姿が、由理恵には眩しく見えた。


真紀が興奮して、エリスに近づいていく。

「写真撮っていい?」

「はぁ...いいよ...」


エリスの中から、くぐもった希美の声が聞こえた。


真紀がスマホを取り出して、エリスの写真を撮り始める。正面、横、後ろ姿。

「すごい、本当にエリスだ!」


真紀が興奮している。

「ねえねえ、希美!いろんなポーズ取ってよ!」


真紀がエリスに近づいて、カメラを構えた。

「は、はぁ...え...ポーズ...?」


エリスの中から、困惑した希美の声が聞こえる。

「イベント当日は、子どもたちからポーズを要求されるかもしれないじゃん!」

「その練習だよ、練習!」


真紀が楽しそうに言った。

「は、はぁ...そうだけど...」


エリスが少し困ったように体を揺らした。

「じゃあ、まずは片手を腰に当てて、もう片方の手はピースサイン!」


真紀が指示した。

「はぁ...こ、こう...?」


エリスが恐る恐る、右手を腰に当てて、左手でピースサインを作った。でも、手袋越しでは指の感覚がよくわからない。

「はぁ...これで...合ってる...?」

「うん、いい感じ!」


真紀がパシャパシャと連写する。

「次は、両手を頭の上で合わせて!」

「はぁ...こんな...感じ...?」


エリスが両腕を上げて、頭の上で手を合わせた。マスクの重さと視界の狭さで、バランスを取るのが難しい。

「そうそう!可愛い!」


真紀が喜んで撮影を続ける。


その様子を見ていた蒼も面白くなってきたのか、近づいてきた。

「真紀、私も撮っていい?」

「いいよいいよ!」


蒼もスマホを取り出した。

「じゃあ、次は...右足を少し前に出して、両手を広げてみて」


蒼が指示した。

「はぁ...はぁ...わかった...」


エリスが慎重に右足を前に出す。視界が狭いため、足元が見えない。でも、運動神経の良さで、なんとかバランスを取る。

「そうそう、両手をもっと大きく広げて!」


蒼が促した。

「はぁ...こう...?」


エリスが両腕を大きく広げた。まるで、空を飛ぶかのようなポーズ。

「完璧!」


蒼がパシャパシャと撮影する。


エリスは、だんだんとポーズを取ることに慣れてきた。

「はぁ...はぁ...なんだか...慣れてきたかも...」


エリスの中から、少し自信のある希美の声が聞こえた。

「エリスになったら...どんなポーズでも...できそう...」

「おお!その調子!」


真紀が目を輝かせた。

「じゃあ、次は...」


真紀と蒼は、顔を見合わせてニヤリと笑った。

「片足を少し上げて、手を顎に当てて、上目遣い!」


真紀が要求するポーズが、少しエスカレートしてきた。

「はぁ...え...上目遣い...?」

「マスクだから顔は見えないけど、雰囲気で!」


真紀が楽しそうに言った。

「はぁ...わかった...」


エリスが右足を少し上げて、片手を顎に当てた。そして、マスクの目を少し上に向けるように、顔を少し下に傾けた。

「おおー!セクシー!」


真紀が興奮して連写する。

「次は、両手を後ろで組んで、体を少し前に傾けて!」


蒼も調子に乗ってきた。

「はぁ...はぁ...こう...?」


エリスが両手を後ろで組んで、体を前に傾ける。胸元が強調されるポーズ。

「いいね!エリスちゃん、セクシー!」


真紀が喜んで撮影を続ける。


希美も、調子に乗ってきた。

「はぁ...はぁ...じゃあ...こうだったら...?」


エリスが、自分から少し腰を落として、片手を頬に当てた。さらにセクシーなポーズ。

「おおおー!希美、すごい!」


真紀が大興奮している。

「もっともっと!」


蒼も楽しくなってきた。


そして、真紀が少し考えてから、ニヤリと笑った。

「じゃあ、次は...スカートの裾を少し持ち上げて、ウインクするみたいに顔を傾けて!」


真紀の要求が、明らかにエッチな方向に向かってきた。

「はぁ...え...スカート...?」


エリスが、スカートの裾に手をかけた。そして、少し持ち上げようとした。


その瞬間。


エリスの動きが止まった。

「はぁ...はぁ...ちょっと待って」


エリスの中から、冷静になった希美の声が聞こえた。

「はぁ...何やってんの、私...」

「え?」


真紀が不思議そうに聞いた。

「真紀、蒼...調子に乗るな!」


エリスの中から、怒った希美の声が響いた。

「え、えー?せっかく楽しくなってきたのに」


真紀が少し残念そうに言った。

「はぁ...はぁ...これは練習だから...」

「子どもたちの前で...エッチなポーズなんて...するわけないでしょ...」


エリスが両手を腰に当てて、怒っているポーズを取った。

「あはは、ごめんごめん」


蒼が笑いながら謝った。

「調子に乗りすぎたね」

「はぁ...はぁ...全く...」


エリスが少し呆れたように首を横に振った。


でも、その様子を見て、3人は笑顔になった。


楽しい時間だった。


蒼も近づいてきて、衣装の細部を確認し始めた。

「エナメルの質感、完璧だね」


蒼がエリスの肩や腕を触って確認する。

「スカートのバランスも良い」


蒼がエリスのスカートの裾を持ち上げて確認した。


その時、真紀がエリスの胸元をじっと見ていた。


視線は、エナメルベストの下に見える黒いタンクトップに向けられている。

「あれ...ちょっと待って」


真紀が顔を近づけて、エリスの胸元をさらに凝視する。


角度を変えて、何度も見る。

「希美...これ...」


真紀の声のトーンが変わった。真剣な表情。

「何?」


蒼が不思議そうに尋ねた。

「胸元...よく見て」


真紀がエリスの胸元を指差した。


蒼も近づいて、エリスの胸元を確認する。


エナメルのベストの下には、黒いタンクトップが見えている。そして、その下には肌タイツ。


蒼は、目を細めて、丁寧に観察した。


エナメルベストと黒いタンクトップの境界。


黒いタンクトップと肌タイツの境界。


その境界の部分に、何か細かい凹凸がある。

「あ...」


蒼の目が、それを捉えた。

「本当だ...」


かすかに、ブラジャーのレース柄の凹凸が浮いている。


特に、黒いタンクトップと肌タイツの境界の部分。タンクトップの胸元は大きく開いて胸元を強調するデザインになっているため、その開いた部分から、肌タイツの下のブラジャーのラインが外に響いてしまっている。


よく見ないとわからないレベルだが、確かに、レースの模様が薄っすらと浮き出ている。

「はぁ...はぁ...え...?」


エリスの中の希美が、慌てた様子で自分の胸元を見ようとする。


エリスは、顔を下に向けた。視界が狭いため、顔を大きく下に傾ける。


でも、自分の胸元は見えない。


マスクの構造上、真下は死角になってしまう。

「はぁ...はぁ...見えない...」


希美の声が焦っている。


エリスは、両手で自分の胸元を触ろうとした。


黒いエナメルの手袋が、自分の胸元に触れる。


でも、手袋越しでは、何も感じない。

「ま、マジで...?どうなってるの...?」


希美の声が動揺している。


エリスは、首を傾げたり、体を少し捻ったりして、なんとか自分の胸元を見ようとするが、やはり見えない。


その様子が、焦っているのがよくわかる。

「大丈夫、すごく薄っすらとだから、普通に見てる分には全然わからないレベル」


蒼が冷静に説明した。

「でも、角度によっては、少し見える」


真紀が補足した。

「特に、こうやって近くで、斜めから見ると...」


真紀が、エリスの胸元を斜めから覗き込むようにして見る。

「やっぱり、レースの模様が少し浮き出てる」

「はぁ...はぁ...恥ずかしい...」


エリスの中から、希美のくぐもった声が聞こえた。


エリスは、両手で自分の胸元を隠すようにして、少し体を縮めた。

「子どもが近くで見たら、もしかすると気づくかも」


真紀の指摘に、エリスはさらに体を縮めた。

「タンクトップの胸元が大きく開いてるデザインだから、ブラジャーのラインが外に響いちゃうんだね」


蒼が分析した。

「これは、着ぐるみあるあるだと思う」

「次回からは、スポーツ用のインナーを着た方がいいね」


蒼が提案した。

「スポーツ用なら、レースもないし、ラインも響きにくい」

「動きやすさや汗対策にもなるし、見た目の問題もクリアできる」

「はぁ...はぁ...わかった...次は絶対スポーツインナー着る...」


エリスの中から、希美のくぐもった声が聞こえた。

「今回は試着だから大丈夫。本番までに準備しよう」


蒼が優しく言った。

「うん...はぁ...はぁ...でも恥ずかしい...」


エリスは、まだ両手で胸元を隠したまま、少し肩を落としている。


その様子に、真紀がクスクスと笑った。

「大丈夫だよ、希美。気づいたのは私たちだけだから」

「それに、希美のエリス、本当に完璧だよ」


真紀の言葉に、エリスは少し顔を上げた。


そして、小さく頷いた。


一方、由理恵は少し離れた場所から、微笑ましそうにその様子を見ていた。


(希美ちゃん、恥ずかしがってる...でも、みんな優しい...)


由理恵は、3人のやり取りを見て、ほっこりとした気持ちになった。

「希美ちゃん、本当に素敵...」


由理恵が小さな声で言いながら、スマホで写真を撮っている。エリスの凛々しい姿、でも中では恥ずかしがっている希美。そのギャップが、由理恵には新鮮だった。


真紀と蒼は、さらにエリスの衣装を細かくチェックし始めた。

「ここのベルトの締め具合は?」

「スカートの動きやすさは?」


二人がエリスの腰やスカートを触って確認する。真紀は腰のベルトの締め具合を確認し、蒼はスカートの裾を持って動きを見ている。

「ねえ、エリスちゃん、このベルトきつくない?」


真紀がベルトを軽く引っ張る。

「スカートの重さはどう?動きづらくない?」


蒼がスカートの左右を持ち上げて確認する。


エリスは、二人の質問に答えようとするが、呼吸が苦しくて言葉がうまく出てこない。

「はぁ...はぁ...ちょっと...」


マスクの中から、息苦しそうな希美の声が聞こえた。

「これ...はぁ...見た目以上に...暑いし苦しいんだから...」


二人は聞いているのか聞いていないのか、さらに衣装の細部を触って確認を続けている。

「揶揄わないでよ...はぁ...こっちも真剣にやってるんだから...」


少し怒ったような口調。でも、マスクを通してこもっているため、全く迫力がない。むしろ、可愛らしく聞こえてしまう。

「あはは、怒ってるエリスちゃん、めっちゃエリスっぽい!」


真紀が余計に面白がって笑った。

「クールなキャラが怒ってる感じ、最高じゃん!」


蒼も笑いながら言った。

「この声、こもってて可愛いし!」


真紀がさらに畳み掛ける。

「はぁ...はぁ...もう...二人とも...」


エリスは、そんな二人をほっといて、少し離れた場所で静かに見守っている由理恵の方に顔を向けた。


視界が狭いため、部屋の中を探すように顔を動かす。そして、由理恵を見つけた。


(由理恵なら...ちゃんと聞いてくれる)


エリスは、ゆっくりと、慎重に由理恵に向かって歩き始めた。一歩、一歩。足元が見えないため、慎重に。


由理恵は、エリスがこちらに向かってくるのに気づいた。


(希美ちゃん...こっちに来る...)


由理恵の心臓が少し高鳴る。

「はぁ...由理恵...」


エリスが由理恵の前に立った。美しいエリスの姿。でも、マスクの中からは荒い呼吸音が聞こえる。

「聞いて...お願い...」


希美の声には、切実さがあった。

「うん」


由理恵が真剣な表情で頷いた。

「はぁ...このマスク...」


エリスが言葉を続ける。

「視界が...はぁ...本当に狭いの...」


希美が、マスクの中から必死に説明し始めた。

「正面しか見えなくて...はぁ...左右は全く見えない...」

「足元も...はぁ...全然見えない...」


由理恵は、希美の言葉を一言一句聞き逃さないように、真剣に耳を傾けた。そして、手元のノートとペンを取り出した。

「視界...狭い...」


由理恵が丁寧にメモを取り始める。

「左右見えない...足元見えない...」


エリスは、由理恵がちゃんとメモを取ってくれているのを見て、安心した。

「はぁ...距離感も...掴みづらくて...」


希美が続ける。

「最初は...はぁ...すごく不安だった...」

「今も...はぁ...正直...怖い...」


由理恵は、希美の素直な気持ちを受け止めながら、メモに書き留めていく。

「距離感...掴みづらい...不安...怖い...」

「はぁ...それから...」


エリスが次の説明に移る。

「呼吸が...はぁ...本当に苦しい...」


マスクの中から、激しい呼吸音が聞こえる。

「口でしか...はぁ...呼吸できないから...」

「すぐに...はぁ...疲れる...」


由理恵は、エリスの肩が上下しているのに気づいた。呼吸の度に、肩が大きく動いている。

「呼吸...苦しい...」


由理恵がメモを取りながら、心配そうにエリスを見上げた。

「口呼吸のみ...すぐ疲れる...」

「はぁ...暑さも...想像以上...」


希美の声が、さらに苦しそうになってきた。

「マスクの中に...はぁ...熱がこもって...」

「顔中が...はぁ...汗だらけになる...」

「自分の息が...はぁ...跳ね返ってきて...気持ち悪い...」


由理恵は、全てをメモに書いていく。

「暑さ...想像以上...」

「熱がこもる...汗だらけ...」

「自分の息が跳ね返る...不快...」


由理恵の真剣な姿勢、丁寧なメモ。その全てが、エリスの中の希美の心を温かくした。

「はぁ...それから...はぁ...」


希美がさらに続けようとした時、由理恵が優しく言った。

「希美ちゃん、無理しないで。休憩した方がいいよ」


由理恵の優しい声に、エリスは少し頷いた。

「はぁ...でも...まだ...伝えたいことが...」


希美の真剣さが伝わってくる。

「わかった。全部聞くから、ゆっくりでいいよ」


由理恵が励ますように言った。

「はぁ...ありがとう...」


エリスが小さく頷いた。

「あと...はぁ...マスクの重さ...」


希美が説明を続ける。

「特に髪の部分が...はぁ...重くて...」

「首が...はぁ...疲れる...」

「長時間は...はぁ...きついかも...」


由理恵がメモを取る。

「マスクの重さ...髪が重い...首が疲れる...長時間きつい...」

「はぁ...聞こえ方も...」


希美が続ける。

「マスクで...はぁ...音がこもって...」

「みんなの声が...はぁ...はっきり聞こえない...」

「呼びかけられても...はぁ...気づかないかも...」


由理恵は、その情報も丁寧にメモに加えた。

「音がこもる...声が聞こえにくい...呼びかけに気づかない可能性...」


そして、由理恵は顔を上げて、エリスを見つめた。

「希美ちゃん、本当に大変なんだね...」


由理恵の声には、心からの労いがあった。

「私、サポートとして、しっかり希美ちゃんを支えるから」


その言葉に、エリスの中の希美は、胸が熱くなった。

「はぁ...由理恵...」


エリスが、ゆっくりと由理恵に近づいた。そして、突然、由理恵を抱きしめた。

「わっ...」


由理恵が驚いて声を上げた。エリスの腕が、優しく由理恵の背中を包む。

「はぁ...由理恵が居てくれて...はぁ...本当に良かった...」


エリスの声が、震えている。マスクの中で、希美は涙ぐんでいるのかもしれない。

「あなたがいないと...はぁ...私、本番で絶対無理だった...」


由理恵は、エリスの腕の中で、少し戸惑いながらも、嬉しそうに微笑んだ。

「希美ちゃん...」


由理恵も、そっとエリスの背中に手を回した。

「私も...希美ちゃんが頑張ってる姿見て...すごいなって思う」

「私も頑張るから。一緒に、エリスを成功させようね」


その様子を見ていた真紀と蒼が、静かに笑顔で見守っている。

「...なんか、感動的なシーンになってる」


真紀が小声で言った。

「希美、由理ちゃんに甘えてる〜」


真紀が少しからかうような口調で言ったが、その声は優しかった。

「良いコンビじゃん」


蒼も嬉しそうに言った。

「二人とも、頑張ってるね」


しばらくの間、エリスと由理恵は抱き合ったまま立っていた。


そして、ゆっくりと離れた。

「はぁ...ありがとう、由理恵」


エリスが、もう一度言った。

「ううん。こちらこそ、ありがとう」


由理恵が微笑んだ。


その時、蒼が時計を見た。

「希美、もう15分経ったよ。そろそろマスク外そうか」


蒼の言葉に、エリスは小さく頷いた。


15分ほど動いた後、エリスはマスクを外してもらった。


蒼と真紀が協力して、金具を外し、マスクを持ち上げる。


マスクが外れた瞬間、希美は大きく息を吸い込んだ。

「はぁ...はぁ...」


顔は汗でびっしょり濡れ、赤い跡が残っていた。髪の毛も汗で濡れて、額に張り付いている。

「お疲れ様、希美」


蒼が優しく声をかけた。

「大変だったでしょ」


真紀も気遣った。

「うん...でも...」


希美が、汗を拭きながら微笑んだ。

「すごく...良い経験だった」


希美の言葉に、3人は安心した。

「じゃあ、本番は希美で決定だね」


真紀が嬉しそうに言った。


しかし、その時、蒼が真剣な表情になった。

「ちょっと待って」


3人が蒼を見た。

「何?」


希美が尋ねた。

「希美がエリスを演じるのは完璧だと思う」


蒼が言った。

「でも、一つ問題があるの」

「問題?」


真紀が首を傾げた。

「希美は、プログラマーとして、当日のバグ対応や技術サポートが必要でしょ?」


蒼の指摘に、希美がハッとした表情を見せた。

「あ...」

「もし、ゲームにトラブルが起きた時、希美がエリスを着てたら、すぐに対応できない」


蒼の言葉に、全員が深刻な顔になった。

「それに、希美には現場監督的な役目もお願いしたいと思ってるの」

「ゲームの操作説明とか、来場者への対応とか」


蒼の説明に、希美は黙って頷いた。確かに、その通りだ。プログラマーとして、自分が現場にいないと困る場面は必ずある。

「でも、じゃあ誰が...」


真紀が困った顔をした。


蒼は、少し考え込んだ後、ふと何かを思い出したかのように、由理恵の方を見た。

「...由理恵」

「え...?」


由理恵が驚いて顔を上げた。

「由理恵、試しにエリスの着ぐるみ、着てみてくれない?」


蒼の提案に、真紀が反対した。

「ちょ、ちょっと待ってよ蒼!由理ちゃんには無理だよ!」


真紀が大きな声で言った。

「性格的にも、人前が苦手だし...」

「わかってる」


蒼が冷静に言った。

「でも、由理恵なら、エリスを完璧に演じられると思うんだ」

「え?」


真紀と希美が不思議そうに蒼を見た。


蒼は、由理恵の方を見た。

「由理恵、ごめん。みんなの前で言ってもいいかな」

「あ...うん」


由理恵が少し戸惑った表情を見せた。顔が少し赤くなる。

「由理恵のこと、みんな知ってると思うけど...」


蒼が言った。

「身長も165センチで、エリスの設定にぴったり」

「希美は162センチだったから、由理恵の方がより設定に近いんだよ」


蒼の言葉に、希美が頷いた。

「確かに...身長は由理恵の方がピッタリだね」

「それに...」


蒼が続けた。

「由理恵、いつもゆったりした服着てるから目立たないけど...」


由理恵の顔が、さらに赤くなった。

「体育の授業で見た時、私たち全員気づいたよね」


蒼が真紀と希美の方を見た。


真紀が少し考えてから、頷いた。

「あ...うん。確かに...」


希美も頷いた。

「由理恵、実はすごくスタイルいいよね」


由理恵の顔が真っ赤になった。

「そ、そんな...」

「抜群のプロポーションだよ」


蒼がはっきりと言った。

「エリスの設定に、身長も体型も完璧にマッチしてる」


由理恵は、恥ずかしくて、下を向いてしまった。

「それに、当日はサポートスタッフとして参加する予定だったから、正直、一番手が空いてるのも由理恵なんだよね」


蒼の説明に、真紀も反論できなくなった。

「でも...」


真紀がまだ心配そうだった。

「由理ちゃん、人前苦手だし...」


由理恵は、3人の視線を感じて、心臓が激しく鼓動していた。

「無理...だと思う。人前とか、絶対無理」


由理恵が少し首を横に振った。

「でもさ、着ぐるみの中なら、顔見えないよ?」


希美が優しく言った。

「それは...そうだけど...」

「由理恵」


蒼が真剣な表情で由理恵を見た。

「お願い。一回だけでいいから、試着してみてくれない?」

「それで、本当に無理だと思ったら、別の方法を考えるから」


蒼の真剣な表情を見て、由理恵は心が揺れた。


(私、もっと役に立ちたい)


その想いが、由理恵の心の中にあった。みんなの役に立てなかった自分。今度こそ、みんなの期待に応えたい。

「...わかった」


由理恵が答えた。

「じゃあ、一回だけ...着てみる」

「本当!?」


蒼が嬉しそうに言った。

「ありがとう、由理恵」


こうして、由理恵は、エリスの着ぐるみを着ることになった。


◆ ◆ ◆


由理恵の挑戦


蒼のアパートの一室を着替え室にして、由理恵は準備を始めた。

心臓が、激しく鼓動していた。


(私が...エリスを...)


手が震えている。希美が着ていたエリスの姿が、頭に浮かぶ。完璧だった。美しくて、カッコ良くて、凛々しくて。


(私には...無理だ...)


でも、蒼が期待してくれている。みんなの役に立ちたい。


(頑張らないと...)


由理恵は深呼吸をして、段ボール箱から着ぐるみ一式を取り出した。まず目に入ったのは、ベージュ色の全身タイツ。


(これを...着るの...)


手が震えている。


由理恵は付属の説明書を手に取り、一文字一文字、丁寧に読み始めた。

『着用手順:全身タイツ → 衣装 → 装飾品 → マスク』


(まずは...全身タイツ...)


由理恵は、ゆっくりと普段着を脱いでいく。トップス、スカート。下着姿になった自分を鏡で見て、顔が赤くなる。


(恥ずかしい...)


でも、誰も見ていない。大丈夫。


由理恵は、全身タイツを手に取った。伸縮性のある生地。思ったより薄い。


(これを着たら...体のラインが全部...)


由理恵は、一度深呼吸をしてから、タイツに足を通した。


ゆっくりと、ゆっくりと引き上げていく。足首、ふくらはぎ、膝、太もも。


一つ一つ確認しながら。


腰まで引き上げると、次は腕を通す。右腕、左腕。丁寧に、丁寧に。


最後に、頭部のフード。


由理恵は、髪をゴムで束ね、首の後ろでまとめた。そして、フードを被る。


首から頭頂部に続くファスナー。手が震えて、なかなか掴めない。


(落ち着いて...)


何度か試みて、ようやくファスナーを掴んだ。ジリジリという音を立てて、ファスナーが閉まっていく。


鏡を見た。


顔だけが露出した姿。

「これで...いいのかな...」


由理恵は不安そうに呟いた。


次に、衣装。


由理恵は、説明書を再度確認しながら、一つずつ取り出していく。


ニーハイソックス。スカート。エナメルベスト。手袋。ベルト。ブーツ。


(順番は...ニーハイソックスから...)


由理恵は、説明書に書かれた順番通りに着ていった。


ニーハイソックスを履く。タイツの上から履くため履きにくいが、焦らず、ゆっくりと。


スカートを着ける。ホックの位置を何度も確認してから、留める。


エナメルベスト。これが重い。

「重い...」


由理恵は少し不安になったが、両腕を通し、前面のファスナーを慎重に上げていく。


ファスナーが途中で引っかかる。

「あ...」


由理恵は慌てず、一度下げてから、もう一度ゆっくりと上げた。


今度は、スムーズに上がった。


手袋を装着する。右手、左手。指先まで丁寧に入れ込む。


ベルトを腰に巻く。少しきつめに...でも、きつすぎないように...


最後に、ブーツ。


由理恵は、ブーツを履いて立ち上がった。3センチのヒール。普段履かないヒール。


少しふらつく。

「わ...」


壁に手をついて、バランスを取った。


(これで...歩けるのかな...)


全ての衣装を着終わった由理恵は、恐る恐る鏡の前に立った。


そこには、エリスの衣装を着た女性が映っていた。

「これが...私...?」


由理恵は信じられない気持ちで、鏡の中の自分を見つめた。


165センチの身長。スレンダーな体型。エリスの衣装が、自分の体に完璧にフィットしている。


(すごい...でも...)


由理恵の視線が、テーブルの上に置かれたマスクに向いた。


美しいダークシルバーとエレクトリックブルーの髪。澄んだアイスブルーの瞳。


(あれを被ったら...)


由理恵の心臓が、激しく鼓動した。


その時、外から蒼の声が聞こえた。

「由理恵、どう?」

「あ、あの...衣装は着ました」


由理恵が小さな声で答えた。

「じゃあ、マスクつけるの手伝うね」


扉が開いて、蒼が部屋に入ってきた。そして、エリスの衣装を着た由理恵の姿を見た瞬間、息を呑んだ。

「すごい...」


蒼の目が、驚きと感動で大きく見開かれた。

「や、やっぱり恥ずかしいです...」


由理恵が顔を赤くして、少し体を縮こめた。

「ううん、すごく似合ってる。マスクをつけたら、もっと完璧だと思う」


蒼が励ますように言いながら、テーブルからマスクを持ってきた。

「マスク...つけるんですね」


由理恵が緊張した表情を見せた。

「大丈夫。私が手伝うから」


蒼はマスクの装着方法を説明した。

「まず、前面の顔パーツを顔に当てて。その後、後頭部パーツを当てて、両耳の上の金具で固定するの」

「はい...」


由理恵が深呼吸をした。


(怖い...)


由理恵の視線が、蒼の手の中のマスクに釘付けになった。


美しいエリスの顔。でも、その裏側は空洞で、内側には薄いスポンジが貼られている。


(これを被ったら...もう後戻りできない...)


由理恵の手が震え始めた。心臓が激しく鼓動する。


(私の顔が...完全に覆われる...)


蒼が慎重にマスクの前面パーツを由理恵の顔に近づける。


由理恵は、マスクが近づいてくるのを見つめていた。そして、マスクが目の前まで来た瞬間。


(怖い...!)


思わず目を閉じた。


その瞬間。


マスクが顔に当たった。

「っ...!」


ひんやりとした感触。そして、マスクの内側のスポンジが、顔全体に密着してくる。


額、頬、顎、鼻...全ての部分がぴったりと押さえつけられる。


特に鼻が強く圧迫される。


(鼻が...潰される...!)


口でしか呼吸ができなくなった。

「き、きつい...」


由理恵の小さな声に、蒼が優しく声をかけた。

「大丈夫? 少し我慢してね」


後頭部パーツを当てられる感触。そして、両耳の上の金具で固定される。


カチッ。


カチッ。


金具が閉まる音が、マスクの中で響いた。


その瞬間。


由理恵の世界が一変した。


視界が...真っ暗になった。

「え...!?」


何も見えない。完全な暗闇。


(見えない...!何も見えない...!)


パニックになりそうになる。息を吸おうとするが、鼻が圧迫されていて吸えない。口で呼吸しようとするが、うまく吸えない。


(息が...できない...!?)


心臓が激しく鼓動する。恐怖が襲ってくる。


(外せ...外さないと...!)


由理恵の手が、マスクに伸びそうになった。


その時。


蒼の声が聞こえた。でも、すごく遠くに聞こえる。

「由理恵、落ち着いて。ゆっくり呼吸して」


マスクを通しているため、声がこもって聞こえる。


(蒼...さん...)


由理恵は必死に呼吸を整えようとした。


口で...ゆっくり...吸って...吐いて...


自分の吐いた息がマスクの内側に跳ね返り、顔全体に熱い吐息がかかる。


気持ち悪い。息苦しい。


でも。


数秒が経過した。


その時。


少しずつ、視界が戻ってきた。


(...あ)


最初は何も見えなかったが、徐々に...暗闇の中に...光が見えてくる。

エリスの瞳の部分にある小さなスリット。

その隙間から、外の光が入ってくる。


内側には黒い布が貼られているが、暗順応により、だんだんと外が見えるようになってきた。


(見える...)


ぼんやりと、でも確かに、外が見える。


すごく狭い視界。正面のほんの一部しか見えない。でも、見える。


(見えた...!)


安堵が、由理恵の心を満たした。


でも、同時に。


(狭い...こんなに狭いの...)


視界は、正面のほんの一部だけ。左右は見えない。足元も見えない。


顔を動かさないと、何も見えない。


そして、呼吸は苦しいまま。自分の吐息がマスクの中にこもり、顔全体に熱い空気がかかる。


(苦しい...でも...これが...着ぐるみ...)


由理恵は、自分に言い聞かせた。


(大丈夫...慣れる...慣れないと...)

「鏡、見てみて」


蒼に促され、由理恵は鏡の方を向いた。そこには、完璧なエリス・スカイウィングの姿があった。ダークシルバーとエレクトリックブルーの美しい髪。澄んだアイスブルーの瞳。凛々しく美しい表情。スレンダーで完璧なプロポーション。


(これが...私...?)


由理恵は信じられない気持ちで鏡を見つめた。


(普段は帽子を深く被って、顔を隠すようにして歩く私)

(いつも目立たないように、後ろの席に座る私)

(地味で、大人しくて、人前に出るのが怖い私)


(その私が、今)


(こんなにも美しく、凛々しく、カッコ良い姿になっている)


(エリス...)


(クールで、堂々としていて、誰からも愛される存在)

(私とは、正反対の)


(でも、確かに今、私はエリスなんだ)


19歳の女子専門学校生である自分が、今、美少女キャラクターの着ぐるみの中に入っている。誰も、この美しいエリスの中に由理恵がいるとは思わないだろう。


この美しいマスクの裏側では、地味な女の子が必死に呼吸をしている。マスクの中では、由理恵の顔が汗で濡れ始めていた。着ぐるみの内側は密閉されていて、自分の吐息がこもり、どんどん暑くなっていく。

「はぁ...はぁ...」


息苦しい。暑い。視界が狭い。でも、外から見れば完璧なエリス・スカイウィング。


着ぐるみを着た19歳の女性と、キャラクターとしてのエリス。その二つの存在が、今、一つになっている。


(私...エリスになれたんだ...)


由理恵の心に、小さな誇りが芽生えた。

「すごい...由理恵、完璧だよ」


蒼が感動で声を震わせた。


その時、部屋の外から希美と真紀の声が聞こえた。

「蒼、どう?」

「見せて見せて!」

「ちょっと待って」


蒼が扉を開けると、希美と真紀が入ってきた。そして、エリスの姿の由理恵を見た瞬間、二人は完全に固まった。

「...え」


希美の目が大きく見開かれた。真紀は、口を開けたまま、言葉が出なかった。


そこに立っていたのは、希美が着ていた時と同じ、いや、それ以上に完璧なエリス・スカイウィングだった。165センチの身長。スレンダーで美しいプロポーション。エリスの衣装が、まるで由理恵のために作られたかのように完璧にフィットしている。

「嘘...でしょ...」


希美が信じられないという表情で呟いた。

「由理ちゃん...あの由理ちゃんが...?」


真紀も驚愕していた。いつも帽子を深く被って、ゆったりした服を着て、目立たないようにしている由理恵。その由理恵が、今、こんなにも美しく、凛々しく、カッコ良い姿で立っている。

「すご...すごすぎる...」


真紀が呆然とつぶやいた。


希美は、あまりの完成度に驚いて、思わずエリスに駆け寄った。

「本当に...中に由理恵が入ってるの...?」


希美がエリスの前に立って尋ねた。

自分が着ていた時よりも、明らかに完璧な佇まい。


(私より...全然似合ってるかも...)


希美の心の中で、複雑な感情が渦巻いた。

エリスは、突然近づいてきた希美に驚いたように、少しだけ後ずさった。

そして、ゆっくりと希美の方を見つめた。


視界が狭いため、顔を少し動かして、希美の顔を探している。

エリスの瞳が、希美を捉えてじっと見つめる。

そして、エリスは、小さく、遠慮がちに頷いた。


とても控えめな動き。

まるで「はい...私です...」と言っているかのように。


その仕草が、いかにも由理恵らしい。

普段の、人前では控えめで、遠慮がちな由理恵。


その性格が、エリスの動きにも表れている。

希美は、その小さな頷きを見て、確信した。


(本当に、由理恵なんだ)


「はぁ...はぁ...」


マスクの中から、くぐもった呼吸音が聞こえてくる。

エリスは、少し緊張しているのか、体が少し震えている。


「すごいね...本当に由理恵なんだ」


希美が感動した。真紀もエリスに駆け寄り、衣装の細部を確認し始めた。

「由理ちゃん、本当に完璧だよ!」


真紀が興奮しながら、エリスの周りを回って観察する。

そして、胸元に目を凝らした。

「あ...」


真紀の表情が変わった。

「やっぱり...」


真紀が小声で呟いた。

「何?」


蒼が尋ねた。

「由理ちゃんも...希美の時と同じで...」


真紀が指差した。エリスの胸元、エナメルベストの下から、全身タイツを通して、かすかにブラジャーのラインが浮いている。

「あ、本当だ」


蒼が確認した。


その瞬間、エリスの体が硬直した。

「はぁ...はぁ...え...え...?」


エリスの中の由理恵が、明らかに動揺している。

「見えて...る...の...?」


くぐもった声が震えている。

「大丈夫、よく見ないとわからないレベルだよ」


蒼が優しくフォローした。

「でも、やっぱり次回からはスポーツ用のインナーを着た方がいいね」


真紀が言った。


エリスは、自分の胸元を見ようとするが、視界が狭く、マスクの構造上、自分の体は全く見えない。ただ、両手で胸元を隠すような仕草をした。

「はぁ...はぁ...恥ずかしい...」


エリスが小さくなるように、少し体を縮めた。

「あはは、エリスちゃんが恥ずかしがってる!」


真紀が笑いながら言った。

「クールで美しいエリスが、恥ずかしがってるの、めっちゃ萌える!」


真紀の言葉に、エリスはさらに体を縮めた。マスクを被っているため、表情は見えないが、中の由理恵が相当恥ずかしがっているのがわかる。

「はぁ...はぁ...真紀ちゃん...揶揄わないで...」


エリスの中から、恥ずかしそうな由理恵の声が聞こえた。

「ごめんごめん。でも、本当に可愛いよ」


真紀が笑いながら謝った。


希美も微笑みながら、エリスの肩を優しく叩いた。

「由理恵、大丈夫。次からちゃんとスポーツインナー着ようね」


希美の優しい声に、エリスは小さく頷いた。

「ねえねえ、エリスちゃん、外はどこから見てるの?」


真紀がマスクの前面を覗き込みながら尋ねた。エリスは戸惑ったように少し後ろに下がり、それからゆっくりと、おずおずと自分の目...いや、エリスの瞳の上の部分を指差した。手が少し震えている。

「この...はぁ...はぁ...この辺...」


くぐもった声で答える。息が苦しそうだ。

「え、ここ?」


真紀が指差された場所を見ると、エリスの瞳の上の、まぶたの部分に小さなスリットがあるのがわかった。

「こんな小さなスリットから、本当に前が見えてるの?」


真紀が驚いて尋ねた。エリスは小さく頷きながら答えた。

「はぁ...はぁ...すごく狭くて...よく見えない...」

「正面しか...はぁ...見えなくて...」


その時、蒼がエリスの手を取った。

「由理恵、ちょっと歩いてみて」


エリスは不安そうにゆっくりと一歩を踏み出した。しかし、視界の狭さと足元が見えないことで、歩き方がぎこちない。

「あ...」


よろけそうになり、蒼が支える。

「大丈夫。ゆっくりでいいから」


エリスは慎重に、慎重に歩を進めた。一歩一歩、確認するように。3人はその様子を見守っている。


しばらく歩いた後、エリスは部屋の奥にある鏡の前まで辿り着いた。


そして、そこで立ち止まった。


鏡に映る自分の姿を、じっと見つめている。


(これが...私...)


由理恵は、マスクの狭い視界から、鏡の中のエリスを見ていた。


美しいダークシルバーとエレクトリックブルーの髪。澄んだアイスブルーの瞳。凛々しく美しい表情。165センチのスレンダーなプロポーション。


(私...こんなに綺麗なんだ...)


普段は帽子を深く被って、目立たないようにゆったりした服を着ている自分。でも今、鏡の中には、誰もが振り返るような美しいキャラクターが立っている。


エリスは、ゆっくりと腕を動かしてみた。鏡の中のエリスも、同じように腕を動かす。


次に、少し首を傾げてみた。鏡の中のエリスも、可愛らしく首を傾げる。


(これ...全部私なんだ...)


マスクの中で、由理恵の心が高鳴っていた。息は苦しい。視界は狭い。暑くて汗が止まらない。


でも。


(私、エリスになれた...)


その感動が、全ての苦しさを忘れさせていた。


エリスは、鏡の前でしばらく動かず、自分の姿を見つめ続けた。

「...由理恵、鏡見てるね」


蒼が小声で言った。

「自分の姿、気に入ったのかな」


希美も微笑みながら言った。

「せっかくだから、そっとしておこうよ」


真紀が提案した。

「由理ちゃん、すごく嬉しそうだもん」


3人は、エリスの様子を静かに見守ることにした。


その時、真紀がこっそりとスマホを取り出した。

「ちょっと、これ撮らせて」


真紀が小声で言いながら、動画撮影を開始した。


鏡の前で、自分の姿を見つめるエリス。少し体を動かしてみたり、手を上げてみたり。まるで、初めて自分の姿を見た子どものように、無邪気に動いている。

「真紀、何撮ってるの?」


希美が気づいて、小声で尋ねた。

「いや、これ絶対良い思い出になるって」


真紀がニヤニヤしながら答えた。

「ダメだよ、由理ちゃんに許可取ってないでしょ」


希美が小声で注意した。

「後で見せてあげるから。絶対喜ぶって」


真紀は撮影を続けた。


エリスは、鏡の前で少しポーズを取ってみた。片手を腰に当てて、凛々しく立つ。


(かっこいい...)


由理恵は、マスクの中で微笑んでいた。


でも、その時。

「はぁ...はぁ...」


呼吸が、だんだん苦しくなってきた。


マスクの中の熱気が、どんどん高まっている。自分の吐いた息が顔にかかり続け、気持ち悪い。


視界も、汗で曇り始めている。


(苦しい...)


でも、由理恵はまだ鏡の前から動かなかった。


(もう少し...もう少しだけ...)


自分の姿を、もっと見ていたい。この美しいエリスの姿を、心に焼き付けたい。

「はぁ...はぁ...はぁ...」


呼吸音が、だんだん激しくなってくる。


蒼が心配そうにエリスを見た。

「由理恵...大丈夫かな」


希美も気づいた。

「肩が...すごく上下してる」


エリスの肩が、呼吸に合わせて大きく上下していた。

「由理恵!」


蒼が声をかけた。


エリスは、ゆっくりと鏡から顔を離し、蒼たちの方を向いた。

「はぁ...はぁ...はぁ...」


激しい呼吸音がマスクの中から聞こえる。

「由理恵、もう限界じゃない?マスク外そう」


蒼が近づいた。


でも、エリスは小さく首を横に振った。

「はぁ...もう少し...はぁ...頑張る...」


由理恵の声が、マスクの中から聞こえた。

「無理しないで」


希美が心配そうに言った。

「はぁ...大丈夫...はぁ...これくらい...はぁ...耐えないと...」


由理恵は、必死に耐えようとしていた。


(本番では...もっと長く着ないといけない...)

(今、ここで諦めたら...)


エリスは、再び鏡の方を向いた。そして、ゆっくりと歩き始めた。


一歩、二歩、三歩。

「はぁ...はぁ...はぁ...」


呼吸が荒い。視界がぼやけてくる。足元がふらつく。


でも、由理恵は歩き続けた。


5分が経過した。


10分が経過した。


15分が経過した。


エリスの動きが、だんだん遅くなってきた。時々、立ち止まって大きく呼吸する。

「由理恵...本当に大丈夫?」


蒼が何度も声をかけた。

「はぁ...はぁ...大丈夫...」


でも、その声は震えていた。


20分が経過した。


エリスが、ついに立ち止まった。

「はぁ...はぁ...はぁ...はぁ...」


激しい呼吸音。肩が激しく上下している。お腹も膨らんだり縮んだりを繰り返している。

「由理恵!もう限界だよ!」


希美が駆け寄った。


エリスは、もう動けなかった。その場に立っているのがやっと。

「マスク、外すね」


蒼と希美が協力して、エリスのマスクに手をかけた。


両耳の上の金具を外す。


カチッ。


カチッ。


後頭部パーツを外し、前面パーツをゆっくりと持ち上げる。


マスクが外れた瞬間。

「はぁああああ...」


由理恵が大きく息を吸い込んだ。まるで、溺れていた人が水面に出たような、必死の呼吸。

「はぁ...はぁ...はぁ...はぁ...」


何度も何度も、大きく息を吸って吐いてを繰り返す。


蒼がマスクの内側を見た。

「...びっしょりだ」


マスクの内側は、由理恵の汗で完全に濡れていた。スポンジが水を含んだように湿っている。


由理恵の顔を見た3人は、言葉を失った。


顔全体が真っ赤に紅潮している。額、頬、顎...全てが汗でびしょびしょ。髪の毛も汗で濡れて、額や頬に張り付いている。


そして、顔には深い赤い跡。マスクのスポンジが当たっていた部分が、くっきりと跡になっている。特に鼻の周りと頬の跡が深い。

「由理恵...」


蒼が心配そうに声をかけた。

「はぁ...はぁ...大丈夫...です...」


由理恵が、まだ荒い呼吸のまま答えた。

「無理しすぎだよ!」


希美が叱るように言った。

「20分も着てたんだよ!初めてなのに!」


真紀も心配そうに由理恵の顔を覗き込んだ。

「由理ちゃん...顔、すごい跡になってる...」


由理恵は、ゆっくりと手を上げて、自分の顔を触った。


(痛い...)


マスクのスポンジが当たっていた部分が、ヒリヒリと痛む。

「ちょっと座ろう」


蒼が由理恵の手を取り、椅子に座らせた。

「水、飲んで」


希美がペットボトルを渡した。


由理恵は、震える手でペットボトルを受け取り、少しずつ水を飲んだ。

「はぁ...はぁ...ありがとう...」


しばらくして、呼吸が少し落ち着いてきた。

「由理恵...無理しちゃダメだよ」


蒼が優しく言った。

「苦しかったら、すぐに言わないと」


希美も心配そうに言った。

「ごめんなさい...」


由理恵が小さな声で謝った。

「でも...」


由理恵が少し微笑んだ。

「エリスになれて...すごく嬉しかった」


その笑顔に、3人は複雑な表情を見せた。

「由理恵...」


蒼が優しく由理恵の頭を撫でた。

「頑張ったね。本当によく頑張ったよ」


希美も由理恵の肩を優しく抱いた。

「でも、次からはもっと短い時間で練習しようね」


真紀が提案した。

「少しずつ慣れていけばいいから」


由理恵は、3人の優しさに、涙が出そうになった。

「はい...」


その時、真紀がこっそりとスマホを操作していた。


(この動画、後で由理ちゃんに送ってあげよう)


真紀は、先ほど撮影した、鏡の前で自分の姿を見つめる由理恵の動画を、自分のスマホに保存した。


(きっと、良い思い出になるはず)


真紀は、誰にも気づかれないように、微笑んだ。

「由理恵、本当に完璧だったよ」


蒼が言った。

「身長も体型も、エリスの設定に完璧にマッチしてる」

「それに...」


希美が続けた。

「私よりも、由理恵の方がエリスらしい雰囲気が出てた」


由理恵の顔が少し赤くなった。

「そ、そんな...」

「本当だよ」


真紀も同意した。

「だから、由理恵にメインで演じてほしいんだ」


蒼が真剣な表情で言った。

「メイン...?」


由理恵が驚いて顔を上げた。

「うん。本番では、由理恵がメイン演者として、ほとんどの時間エリスを演じる」


蒼が説明した。

「希美は技術サポートとして控えて、もし由理恵が疲れたり、何かあった時にサブとして交代する」

「そういう役割分担にしたいんだけど...」


由理恵は、3人の顔を見た。みんな、真剣な表情だ。

「私...本当に...」


由理恵の声が震えた。

「大丈夫だよ」


希美が優しく言った。

「私も練習するから、いつでもサポートできる」

「でも、メインは由理恵。あなたが一番エリスに似合ってるから」

「ありがとう...みんな...」


由理恵が小さく微笑んだ。

「じゃあ、これから練習していこうね」


蒼が前向きに提案した。

「はい!」


由理恵の返事に、4人の秘密のプロジェクトが本格的に始動した。


こうして、由理恵がメイン演者、希美がサブ演者として、エリスの着ぐるみは1着を2人で共有することが決まった。


◆ ◆ ◆


第2章 秘密の準備


練習の日々


それから、由理恵と希美は定期的に蒼のアパートで着ぐるみの練習を重ねていった。

由理恵がメインで練習し、希美もサブとしていつでも対応できるよう、同じように練習した。


放課後の実習室では、由理恵は一人でエリスのキャラクター研究を続けていた。ゲーム内のエリスの動きを何度も見返し、どんな仕草をするか、どう歩くか、細かくノートに記録していく。

「エリスは...凛としてる」

「でも、優しくて、子どもたちには柔らかく接する」


由理恵は自分に言い聞かせるように呟いた。


(私、本当にエリスを演じられるかな...)


不安はあった。でも、みんなが期待してくれている。


(頑張らないと)


◆ ◆ ◆


交代の練習


由理恵の練習2回目の土曜日。

蒼のアパートに4人が集まっていた。

「今日は、ちょっと大事な練習をしたいんだよね」


蒼が真剣な表情で言った。

「大事な練習?」


由理恵が不安そうに尋ねた。

「本番当日、由理恵が疲れたり、体調が悪くなったりした時のために」


蒼が説明を始めた。

「希美と交代する練習をしておきたいの」


希美が頷いた。

「そうだね。スムーズに交代できないと、本番で困るし」

「交代...」


由理恵が少し考え込んだ。

「私が...みんなに迷惑かけちゃうかも...」

「そんなことないよ」


真紀が明るく言った。

「誰だって疲れるし、着ぐるみの中は過酷なんだから」

「サブ演者がいるのは、そのためだよ」


希美が優しく付け加えた。

「だから、安心して交代のサインを出せるように、練習しておこう」


蒼が提案した。


由理恵は、3人の優しさに心が温かくなった。

「...はい」


まず、交代のサインを決めることになった。

「由理恵が疲れた時、どうやって知らせる?」


蒼が尋ねた。

「手を...頭の上で...2回叩くのは...どうですか?」


由理恵が恐る恐る提案した。

「いいね!それなら、遠くからでも見える」


真紀が賛成した。

「じゃあ、実際に練習してみようか」


蒼が言った。


由理恵は着替え室に入り、エリスの着ぐるみを着始めた。全身タイツ、衣装、そしてマスク。蒼に手伝ってもらい、マスクが装着された。


(また、あの暗闇...)


でも、今回は2回目。前回ほどのパニックはなかった。


(慣れてきた...かも)


数秒後、視界が確保される。狭いけど、見える。


エリスとなった由理恵が部屋に出てきた。

「おお、エリス!」


真紀が嬉しそうに迎えた。

「じゃあ、由理恵。交代のサイン、やってみて」


蒼が促した。


エリスは、ゆっくりと両手を頭の上に持っていった。そして、手のひらで頭を2回叩いた。


パン、パン。


音が部屋に響いた。

「おお、見えた見えた!」


真紀が拍手した。

「でも...」


希美が少し考え込んだ。

「イベント会場は騒がしいから、音では気づかないかも」

「確かに」


蒼が頷いた。

「じゃあ、私たちが常にエリスを見ておく必要があるね」


希美が真剣な表情になった。

「特に、由理恵の動きが鈍くなったり、その場に立ち止まったりしたら、要注意だね」

「はぁ...わかりました」


エリスの中から、由理恵の声が聞こえた。

「じゃあ、次は誘導の練習」


蒼が言った。

「由理恵がサインを出したら、私が手を引いて着替え室に誘導する」

「その間に、希美は準備を始める」


希美が付け加えた。

「目標は、10分以内での交代」


実際に練習してみることになった。


エリスが交代のサインを出す。パン、パン。


蒼が素早くエリスに近づき、手を取った。

「エリス、こっちだよ」


エリスの手を引いて、着替え室へと誘導する。視界が狭いエリスは、蒼の手を頼りに慎重に歩く。


その間、希美は素早く自分のインナーを確認し、全身タイツの準備を始めた。


着替え室に到着。蒼がエリスのマスクを外す。金具を外し、慎重にマスクを持ち上げる。


マスクが外れた瞬間。

「はぁ...はぁ...」


由理恵が大きく息を吸い込んだ。顔は汗でびっしょり。頬には赤い跡が残っている。

「お疲れ様、由理恵」


蒼が優しく声をかけた。


由理恵は疲れた表情で頷いた。そして、蒼の手伝いを受けながら、衣装を脱ぎ始める。


一方、外では希美が素早く準備を進めていた。


インナーを着て、全身タイツに足を通す。

慣れた手つきで、素早く引き上げていく。


3分が経過。


着替え室の扉が開き、由理恵が出てきた。

汗だくで疲れた様子だが、頑張ったという満足感が顔に出ている。


入れ替わりに、希美が着替え室に入る。

由理恵が脱いだばかりのエリスの衣装が、そこにあった。

希美は、衣装を手に取った。


(まだ...温かい...)


由理恵の体温が残っている。そして、少し湿っている。


(汗が...)


希美は一瞬躊躇した。


(でも...)

(これが、サブ演者の役割)


希美は覚悟を決めて、衣装を着始めた。

ニーハイソックス、スカート、エナメルベスト。

そして、マスク。


蒼が入ってきて、マスクを持った。

「希美、準備いい?」

「うん」


希美が頷いた。


蒼がマスクを希美の顔に当てる。金具で固定する。


カチッ、カチッ。


希美の世界が、エリスの世界に変わった。


(マスクの中...少し湿ってる...)


由理恵の汗が、マスクの内側に残っている。


(でも、これでいい)

(これが、交代するってこと)


8分が経過。


着替え室の扉が開き、エリスが出てきた。


今度は、希美が入っているエリス。

「おお!」


真紀が拍手した。

「10分切った!」


時計を見ていた真紀が報告した。

「完璧だね」


蒼が満足そうに言った。

由理恵は、タオルで汗を拭きながら、エリスの姿の希美を見つめていた。


(希美ちゃん...私の後を...)


感謝の気持ちが、由理恵の心を満たした。


エリス(希美)は、部屋の中を少し歩いてみた。慣れた動き。さすがに、1回目の試着で着慣れている。

「希美、どう?」


蒼が尋ねた。

「はぁ...大丈夫...でも...」


エリスの中から、希美の声が聞こえた。

「マスクの中...少し湿ってる...」

「あ...ごめんなさい...」


由理恵が申し訳なさそうに言った。

「ううん、大丈夫。 当たり前だから気にしないで」


エリスが首を横に振ると同時に希美の声に、決意が感じられた。

由理恵は、そんな希美に頭が下がる思いだった。


(希美ちゃん...ありがとう...)


蒼が3人を見回した。

「よし、これで交代の流れは完璧だね」

「本番当日も、この流れで行こう」

「はい!」


全員が頷いた。


交代の練習を終えて、4人は達成感に包まれていた。

チームとしての結束が、より強くなった瞬間だった。


◆ ◆ ◆


エリスとして


由理恵が着ぐるみでの練習を重ねて3回目。30分ほど着用を続けた後のことだった。

「由理ちゃん、すごいね。もう30分だよ」


真紀が驚いた。由理恵は、ゆっくりと3人の方を向いた。そして、マスクの中から、こもった声で言った。

「あの...お願いが、あります」

「何?」


蒼が優しく尋ねた。

「少しの間...私を、エリスとして扱ってください」

「え...?」


3人が驚いた表情を見せた。由理恵がマスクの中で、言葉を続けた。

「はぁ...はぁ...私、少し慣れてきて...余裕が出てきました」


マスクの中で、由理恵は自分の変化を感じていた。


(最初は怖かった)

(息苦しくて、暑くて、視界が狭くて)


(でも、今は違う)


(この着ぐるみの中にいると、不思議と勇気が湧いてくる)

(普段の私なら、絶対に言えないようなことが言える)

「マスクを被っていると...別の自分になったような気がして」


(地味で、大人しくて、人前に出るのが怖い由理恵じゃない)

(クールで、堂々としていて、美しいエリス)

「だから...少しの間、エリスとして振る舞ってみたいんです」

「みんなも...私をエリスとして接してください」


この言葉を言うのに、どれだけの勇気が必要だったか。でも、由理恵は言えた。着ぐるみという媒体を通して、別の自分になれる。この感覚が、由理恵に勇気を与えていた。


由理恵の申し出に、3人は呆然とした。普段の由理恵からは、絶対に出てこない言葉だった。

「由理ちゃんが...そんなこと言うなんて...」


真紀が驚きを隠せない。

「でも...」


蒼が少し心配そうに言った。

「エリスは喋らないんだよね?身振り手振りだけで」

「はい...だから、声は出しません」


由理恵が答えた。

「もし、何か伝えたいことがあったら...身振りで伝えます」

「わかった」


蒼が頷いた。

「じゃあ、これからしばらく、由理ちゃんじゃなくて、エリスとして接するね」

「はい...お願いします」


由理恵...いや、エリスが、深々とお辞儀をした。その動作は、普段の由理恵とは明らかに違う、優雅で凛とした所作だった。

「え、エリスちゃん...?」


真紀が恐る恐る呼びかけた。エリスは、ゆっくりと真紀の方を向いた。そして、優しく手を差し出した。

「握手...してくれるの?」


真紀がエリスの手を取った。エリスは、真紀の手を優しく握り返した。

「すごい...本当に、エリスちゃんみたい」


真紀が感動した。


◆ ◆ ◆


第3章 本番前日


本番シミュレーション


翌日、土曜日の夕方。

本番前日、最後の練習と称して4人は蒼のアパートに集まっていた。

「今日は、本番を想定した通しリハーサルをしたいと思います」


蒼が真剣な表情で切り出した。

「通しリハーサル?」


由理恵が不安そうに尋ねた。

「そう。本番と同じ流れで、最初から最後まで通してみる」


蒼が説明を続けた。

「まず、この部屋を『ブース』に見立てます」


蒼が部屋の一角を指差した。

「ここにノートPCを置いて、ゲームのデモ画面を表示」

「由理恵は、エリスとしてここに立つ」

「真紀と私が『子ども役』をやります」


真紀が手を上げた。

「私、子ども役得意だよ!」

「お願いします」


由理恵が少し緊張した表情で頷いた。


準備が始まった。希美がノートPCをセットし、ゲームのデモ画面を起動する。蒼と真紀は、部屋の隅で待機。


そして、由理恵は着替え室に入り、エリスの着ぐるみを着始めた。


全身タイツ、衣装、マスク。


15分後。


エリスが部屋に出てきた。

「よし、じゃあ始めよう」


蒼が声をかけた。


エリスは、ブースの前に立った。ゲームのデモ画面が映るノートPCの横。


まず、真紀が「子ども」として近づいてきた。

「ねえねえ、エリスちゃん!」


真紀が高い声で話しかける。


エリスは、真紀の方を向いた。そして、手を振った。


(マスクの中で、由理恵は必死だった)

(真紀の声が...少しこもって聞こえる...)

(でも、何を言っているかは...わかる)


エリスは、ゲームのデモ画面を指差した。そして、大きく身振りで説明しようとする。


しかし。


(あれ...?)

(真紀の表情が...よく見えない...)


視界が狭い。正面はまだいいが、少し下を向くと、真紀の顔がぼやける。


エリスは、少し屈んでみた。


真紀の顔が、視界に入った。

「おお、目線合わせてくれた!」


真紀が嬉しそうに言った。


(そうか...子どもには...屈んで目線を合わせないと...)


由理恵は、マスクの中で学んだ。


次に、真紀が手を差し出してきた。

「握手して!」


エリスは、真紀の手を取った。

しかし。


(あれ...力加減が...わからない...)


手袋越しで、感覚が鈍い。強く握りすぎたら痛いし、弱すぎたら失礼だ。


エリスは、慎重に、優しく握った。

「ありがとう、エリスちゃん!」


真紀が笑顔になった。

(よかった...)


由理恵は、マスクの中でホッとした。


次に、蒼が「子ども」として近づいてきた。

「エリスちゃん、一緒に写真撮って!」


蒼が言うとエリスは頷き、蒼の隣に立つ。


真紀がスマホを構えた。

「はい、チーズ!」


パシャリ。


写真が撮られた。

「エリスちゃん、ポーズして!」


蒼が言った。


エリスは、片手を腰に当て、もう片方の手を下ろした。

マスクの重さで、少しバランスが崩れそうになる。


でも、なんとか持ちこたえた。

「可愛い!」


蒼が嬉しそうに言った。


10分が経過。


エリスは、ずっと立ちっぱなしで、子どもたち(蒼と真紀)の相手をしていた。


(はぁ...はぁ...)


マスクの中で、由理恵の呼吸が荒くなってきた。


(暑い...)


自分の吐息がこもり、顔全体が熱くなっている。


20分が経過。


エリスの動きが、少し鈍くなってきた。


希美が気づいた。

「由理恵、大丈夫?」


エリスは頷いた。

でも、その動きは少しゆっくりだった。


30分が経過。


エリスは、まだ立っていたが明らかに疲れている。


肩が大きく上下し、呼吸が荒い。

「はい、ここまで!」


蒼がリハーサルを止めた。

希美が素早くエリスに駆け寄り、着替え室に誘導した。


着替え室で、マスクが外される。

「はぁ...はぁ...はぁ...」


由理恵が大きく息を吸い込んだ。

顔は汗で濡れ、頬は赤く、髪の毛は汗で濡れている。

「お疲れ様」


希美がタオルを渡した。


由理恵は、タオルで顔を拭きながら、ゆっくりと座り込んだ。

「30分...こんなに...きついなんて...」


由理恵が小さく呟いた。


◆ ◆ ◆


改善策の話し合い


衣装を脱いだ由理恵が、リビングに戻ってきた。

まだ少し疲れた表情だが、達成感も感じられる。


4人でテーブルを囲んで、リハーサルの反省会が始まった。

「まず、良かった点から」


蒼がノートを開いた。

「エリスとしての立ち居振る舞いは完璧だった」

「子どもに対する優しい雰囲気も出てた」


真紀が付け加えた。

「屈んで目線を合わせたのも、すごく良かった」

「ありがとう...」


由理恵が少し照れた表情で答えた。

「でも、いくつか問題点も見つかったね」


希美が真剣な表情で言った。

「まず、声」


蒼が言った。

「マスク越しだと、子どもの声が聞き取りにくかった?」

「うん...少しこもって聞こえた」


由理恵が頷いた。

「これは仕方ないね」


希美が考え込んだ。

「でも、対策はある」


蒼が言った。

「もし、子どもが何か言ってて、聞き取れなかったら...」

「首を傾げて、困った仕草をすればいい」


真紀が提案した。

「そうすれば、子どもの親が『エリスちゃん、よく聞こえなかったみたいよ。もう一回言ってあげて』って助けてくれるはず」

「なるほど...」


由理恵が納得した表情になった。

「次に、視界の問題」


希美が言った。

「マスクの視界が狭いから、小さい子どもが近づいてきても、見えないことがある」

「そうなんです...」


由理恵が心配そうに言った。

「これも対策がある」


蒼が自信を持って言った。

「基本的に、子どもが来たら、まず屈む」

「そうすれば、視界に入る」

「それと、私たちがサポートスタッフとして、常にエリスの周りを見守る」


希美が付け加えた。

「小さい子が近づいてきたら、『エリスちゃん、こっちだよ』って声をかける」

「お願いします」


由理恵がホッとした表情になった。

「そして、一番の問題」


蒼が真剣な表情で言った。

「30分での体力消耗」

「はい...すごく...きつかったです」


由理恵が正直に答えた。

「これは、絶対に無理しないこと」


希美が強い口調で言った。

「30分経ったら、必ず休憩」

「本番では、私が時計を見てる」


真紀が言った。

「30分経ったら、私が『エリス、ちょっと休憩しよう』って声をかける」

「そして、由理恵が『交代のサイン』を出す前に、私たちの方から声をかける」


蒼が付け加えた。

「無理して倒れたら、元も子もないからね」

「ありがとう...みんな...」


由理恵の目に、涙が浮かんだ。


(私、一人じゃない)

(みんなが、支えてくれる)


「それと、もう一つ」


希美が言った。

「握手やハイタッチの時、手袋越しだと感覚が鈍いよね」

「うん...力加減が難しかった」


由理恵が頷いた。

「これは、練習しかないね」


真紀が言った。

「今から、もう一回練習してみる?」

「はい!」


由理恵が力強く答えた。


◆ ◆ ◆


2回目のリハーサル


休憩を30分挟んで、由理恵は再びエリスの着ぐるみを着た。


2回目のリハーサル。


今度は、先ほどの反省を活かして。

子どもが来たら、まず屈んで目線を合わせる。

声が聞き取れなかったら、首を傾げて困った仕草。

握手は、優しく、でもしっかりとする事で1回目よりも、スムーズに動けた。


(ちょっと慣れてきた...かも)


由理恵は、マスクの中で実感した。


(子どもたちの笑顔を想像したら...頑張れる)


エリスは、真紀と蒼(子ども役)の相手をしながら、少しずつ自信をつけていった。


25分が経過。


真紀が時計を見て、声をかけた。

「エリス、そろそろ休憩しよう」


エリスは頷いた。そして、ゆっくりと着替え室に向かった。

希美が手を引いて、誘導する。


着替え室で、マスクが外される。

「はぁ...はぁ...」


今回も、由理恵は汗だくだった。

でも、顔には達成感が浮かんでいた。

「どうだった?」


希美が尋ねた。

「1回目より...ずっと良かった」


由理恵が笑顔で答えた。

「慣れてきた...気がする」

「良かった」


希美も笑顔になった。


リビングに戻ると、蒼と真紀が拍手で迎えた。

「由理恵、すごかったよ!」


真紀が興奮気味に言った。

「1回目よりも、全然スムーズだった」

「子どもへの対応も完璧」


蒼が評価した。

「ありがとう...」


由理恵が照れくさそうに答えた。


(これなら、できるかも)


由理恵の心に、小さな自信が芽生えた瞬間だった。


◆ ◆ ◆


最終準備


リハーサルを終えて、4人は最終準備に取りかかった。

「明日は絶対に失敗できないから、全部チェックしよう」


蒼が提案した。


まず、エリスの衣装チェック。


蒼がマスクを手に取った。

「マスクの金具、確認」


両耳の上の金具を、何度も開閉してみる。

カチッ、カチッ。


スムーズに動く。問題なし。

「OK」


次に、マスクの内側。

スポンジの状態を確認。

剥がれかけている部分はないか。

視界を確保するスリットに、汚れはないか。

蒼が丁寧に、一つ一つチェックしていく。

「マスク、問題なし」


次に、衣装。


希美がエナメルベストを手に取った。

ファスナーを上げ下げしてみる。


スムーズに動く。

「衣装、OK」


スカートのホック、ベルトの金具、全て確認。


全身タイツも、破れがないかチェック。

「全身タイツ、OK」


最後に、ブーツ。


真紀が靴底を確認した。

「滑り止め、大丈夫」

「ヒールも問題なし」


全ての衣装チェックが完了した。

「よし、衣装は完璧だね」


蒼が満足そうに言った。


次に、緊急用品の準備。


希美がリストを読み上げた。

「冷却材」

「はい」


真紀が保冷バッグから取り出した。

「タオル、多めに」

「10枚用意した」


由理恵が報告した。

「替えの全身タイツ」

「2枚ある」


希美が確認した。

「スポーツドリンク」

「2リットル分」


真紀が言った。

「応急処置セット」

「絆創膏、消毒液、冷却スプレー、全部入ってる」


蒼が報告した。

「完璧だね」


希美が嬉しそうに言った。


次に、ゲームデモの動作確認。

希美がノートPCを起動しするとすぐにゲームのデモ画面が表示される。


スムーズに動く。

「動作、問題なし」


バッテリーを確認。


フル充電。

「バッテリー、OK」


予備の電源ケーブルも確認。

「予備電源、OK」


全ての機材チェックが完了した。


最後に、タイムスケジュールの確認。


蒼がホワイトボードに書き出した。

「9時に会場到着」

「9時半からブース設営開始」

「10時に最終確認」

「10時半、イベント開始」


蒼が説明を続けた。

「由理恵がエリスとしてスタート」

「11時に休憩。15分間」

「必要なら希美に交代も検討」

「11時15分に再開」

「11時45分に休憩。15分間」

「12時に再開」

「12時半に休憩。昼食」

「午後1時半から午後の部スタート」

「30分ごとに必ず休憩」

「体調に応じて交代」

「午後4時、イベント終了」

「4時半に撤収完了」

「5時に解散」


蒼がホワイトボードを見せた。

「これで行こう」

「30分ごとの休憩、絶対だからね」


希美が念を押した。

「わかった」


由理恵が頷いた。


全ての準備が完了した。


4人は、達成感に包まれていた。


(これで、明日は大丈夫)

(私たちの準備は完璧だ)


「じゃあ、買い出し行こうか」


真紀が明るく言った。

「前夜祭の準備しないとね」


◆ ◆ ◆


前夜祭


4人は近所のスーパーに買い出しに出かけた。食材を買い込み、蒼の家に戻ってくる。

「じゃあ、料理始めよう」


希美が言った。

「私も手伝う」


由理恵も一緒にキッチンに立った。二人で協力して、簡単な料理を作っていく。野菜炒め、唐揚げ、サラダ、味噌汁。

「由理恵、明日は本当に大丈夫?」


希美が小声で尋ねた。

「うん...緊張するけど...」


由理恵が答えた。

「頑張るから」

「私も全力でサポートするからね」


希美が優しく言った。

「ありがとう、希美」


30分後、料理が完成した。4人でテーブルを囲んで、楽しい前夜祭の夕食が始まった。

「明日は、ついに本番だね」


蒼が嬉しそうに言った。

「うん。1年間かけて作ったゲーム、ちゃんと見てもらえるといいな」


真紀が唐揚げを頬張りながら言った。

「由理ちゃん、緊張してる?」


真紀が由理恵に尋ねた。

「すごく緊張してる...」


由理恵が正直に答えた。

「でも、頑張る」

「由理恵なら大丈夫だよ」


蒼が励ました。

「何かあったら、すぐに私たちに知らせてね」


希美も付け加えた。

「うん...」


由理恵が小さく頷いた。


4人で楽しく食事をして、笑って、話して。明日への不安もあったけど、4人一緒なら大丈夫な気がした。


夕食を終えて、片付けをした後、由理恵は窓の外を見つめた。夜空に、星が輝いている。


明日は、いよいよ本番。

由理恵は、窓の外を見つめた。


明日、自分はエリスとして、多くの人の前に立つ。

息苦しさ。暑さ。視界の狭さ。


その全てに耐えて、演者として頑張る。地味で大人しい由理恵じゃなく、クールで美しいエリスとして。


(私、できるかな...)


不安はあった。でも。


(頑張らないと)


由理恵は、小さく、でもはっきりと心に誓った。


4人の挑戦が、今、始まろうとしていた。そして、地味な女子専門学校生の、小さな大冒険も。



--- 後編へ続く ---

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POSTEDDec 4, 2025
ARCHIVEDJun 10, 2026