この国には語り継がれてきた昔話がある。
勇者と聖獣のお話だ。
彼らの冒険は多数の困難に阻まれていたけれど、それらを知恵と勇気で乗り越え、力を合わせて魔王を滅ぼした。そんなありふれたおとぎ話。
だけど誰もがそれが嘘ではないと知っていた。この国は長い間聖獣に守られ、安寧を保ってきたのだから。生き証人でもある彼らの口から紡がれるお話は時を超えてなお、人々の間で親しまれている。
その勇者の名はアレンダート。今日では光という意味を与えられた、希望の象徴である。
****
「我の部屋に来てくれないか」
意味の分からない提案をもらって数秒。オレは意味を噛み砕くのに必死で、体を硬直させていた。
目の前では赤い龍がオレの手を取って真剣な眼差しを注ぎ、答えを待っていた。
身にまとう威厳を具現化させたような金のたてがみに豊満な髭は、その膨らんだ上背もあって遠くからでも人目を引く特別な存在感を放っている。身にまとう神聖なローブはいくつもの布を重ねた荘厳な造りになっていて、神獣の紋章が描かれたストールを背中から回して腕に引っかけていた。
明らかに位の高さを匂わせる出で立ちであり、オレなんかが言葉を交わすことすら許されない、雲の上の人と形容していい。
何を隠そうこの龍こそ神殿の主、聖獣イーラガッタである。
大昔に平和をもたらした張本人であり、生きる伝説として今なお莫大な影響力を持つ男。
もはや人なのかそうでないのか、本人にしかわからないが、途方もなく強いということだけは共通認識だ。畏敬を込めて聖獣と称えられる、神殿の最高権力者として君臨している。
そしてそんな龍に言い寄られる熊のオレ。
傭兵生活で毛皮はぼさぼさだし、戦闘が主なためたくましさには自信があるものの、乱れた食生活のせいで腹が飛び出している。彫刻のように整った肉体を持つ龍の前ではことさら情けなく感じるな……。
つまり今は脂肪が乗った筋肉を持つ大男を鋼の肉体を持つ大男が口説いているってわけだ。
……なんだこの構図。
「いきなりのことで戸惑うのも無理はない。だが、我の話を聞けばきっとわかるはずだ」
と言われても、正直困るという感想しかない。しかし相手は天上人、オレにできることは愛想笑いを浮かべて言葉を濁すだけだった。何か気に障ることを言って投獄されるなんてことがあれば、人生おじゃんだ。
聖獣に先導されて神殿を歩けば、足音だけが響いていく。
こんなに人がいないなんてことあるのか? 最近悪魔召喚が頻発してるって話だし、神官も出払ってるのかもしれない。
ただのしがない傭兵であるオレが神殿に呼ばれた時は身構えたものだが、まさかこんな目に合うとは思わなかった。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。
オレは自分のことをでかい熊だと認識しているが、聖獣様はその上をいっている。まるで山そのものが動いているかのように錯覚するほど、イーラガッタは大きかった。
魔王を倒したというだけあり、肉体は筋肉の塊としか言いようがない。大昔に前線を退いているというのに、発せられる覇気を鑑みても勝てる気がしなかった。
「……何かの冗談でしょうか。オレぁ別に聖獣様に気に入られる要素なんてないと思うんですが……」
「ふふふ、確かに我が性急すぎたな。そなた、名は確か……」
「ジギタリス、姓はないのでこれだけで覚えてくだされば」
「そうだった、ジギタリス。さあ、着いた。我の話を聞かせてあげよう」
神殿の最奥にある聖獣の個室は幻想的だ。イーラガッタに合わせて作られた天井は高く、壁からいくつもの水が流れ込んで池を作っている。部屋の床は飛び石のように池から浮かぶ形になっていて、丸い足場の中心にソファやテーブルが並べられていた。
この大きな龍が毎回飛び石を跳ねて部屋の出入りをしているのかと思うと少し意外だが……おそらく歩幅に合わせて作られているのだろう。イーラガッタの身長を考えれば、子どもが飛ぶくらいの距離は一歩で済ませられそうだ。
「こちらへ、ジギタリス」
それで手招きされるのが向かいのソファではなく隣なあたり、好意を持たれているのは間違いない……。何が何だか分からないが、下手打って機嫌を損ねては大損だ。オレはおとなしく、巨体の横に腰かけた。
オレの賃金何年分もわからないソファに座れば、緊張に口が引き締まる。万が一汚して修繕費を請求されれば、オレは一生神殿の奴隷になってしまう。
「緊張しなくていい。なにも取って食おうとしているわけじゃないのだから」
「ああ、そうっすか……」
「でも確かに、何が何だか分からないだろうね。簡単に説明させてもらうよ」
龍が手を振りかざせば部屋の明かりは絞られ、薄暗がりの帳が落ちる。だが床を満たす水面からほのかな光の玉が浮かび、淡い雰囲気が満ちていく。そっと肩を抱き寄せられれば、不動を思わせる筋肉がオレを受け止めた。
……この男、雰囲気作りしてやがる。完全にオレのこと雌扱いかよ。
これでもオレは傭兵として、いくつもの戦いを制してきた自負がある。いつ死ぬかわからない仕事柄、女を買うことだって多々あった。山のような肉体、なんて表現は、本来ならオレが傭兵仲間から評されたものだってのに。
そんなオレをまるで女のように扱いやがる。そもそもオレのどこを見たら女に見えるってんだよ。
しかしこの場の支配者はこいつだ。権力的にも実力的にも。傭兵の間では名の知られたオレだが、イーラガッタの前じゃ赤子同然だろう。
「驚かないで聞いてほしいのだが、君は……アレンダートの生まれ変わりなのだ」
「……は?! アレンダートって、あの? 勇者アレンダートのことか?!」
「そうとも。何度転生しても、我の目はごまかせない。そなたは間違いなく、勇者の素質を持っている」
手甲を装備したみたいな指でオレの顎を持ち上げて、龍は真正面からこっちを射抜いた。柔らかい表情のくせに圧が半端ない。幾度の死線を経験したさしものオレでさえ、蛇に睨まれたカエルの気持ちを考えずにはいられなかった。
わずかな明かりを受けてなびく金のたてがみや髭は、年月を感じさせない艶を波打たせている。鱗も綺麗なもので、そこらの宝石すらこいつの前じゃかすむだろう。そも、あの聖獣の鱗となれば、宝石以上の価値がある。
イーラガッタの名を聞かなければ、こいつの実年齢を当てるのは不可能だ。オレとタメのようでいて、瞳を輝かせる知性は長命種特有の深みがある。そのちぐはぐさがミステリアスとも言える魅力を醸し出していた。
「……冗談だよな?」
「我が嘘をつく理由があるまい? なぜ嘘をつく必要がある」
正論だ。イーラガッタと言えば救国の聖獣。魔王を倒した後も悪魔から国を守るために神殿にわざわざ鎮座している聖人だ。他の聖獣が何処かへ去った後も、長い間守護の任を自ら勤めることで、神殿のシンボルとしてこの国にとどまらない影響力を持つ。
そんな奴がたかが傭兵一人を求めるならば、手段などいくらでもある。オレはただの平民で、権威の前には無力だ。人権をはく奪されなかっただけでも僥倖と言うべきなのかもしれない。
赤い龍は温和な顔しているが、オレの顎に添えた手は強い。決して逃がさないと態度が語っている。
「ようやく会えたのだ。逸る我の気持ちを許してほしい。こうしてお前を……ああ、もう一度触ることができるとは……」
「見間違いなんじゃねえですか……オレはそんな大層な奴だとは思えないんだが……」
「記憶がないのもしょうがないことだ。だが、この我がそなたの魂を見間違えることなど、絶対にあり得ないことなんだ」
「って言われてもな……」
おいおいおい……手を離すどころか近づけてきてるぜ。こいつ初対面の雄相手にキスするつもりかよ。感極まった目はオレを見ているようで見ていない。こいつはオレの中にアレンダートを見ている。いるかどうかも分からない幻影を、だ。
自覚がないまま勇者の生まれ変わりだと言われ、唇を奪われようとしている。正直現状がさっぱり理解できないというのに、逆らうことが許されないことだけはわかるんだ。
「聞けば、お前は傭兵をやっているようだな。腕もいいと聞くが、そんな危ないことはもうしなくていいんだ……そなたが怪我をするかもしれないと考えるだけで、我は……」
「はんっ。ならお前が養ってくれるのかよ」
もうこうなったら腹をくくるしかない。平民らしくしおれていても、食われるだけなんだからな。
よくよく考えれば、こいつが求めているのは愛人関係だ。傭兵仲間の間でも物好きに買われる話は枚挙にいとまがないし、それと似たようなものだろう。
オレだって変態のおっさんに体を売ったことくらいある。鍛えたでかいガタイを好む奴は多いんだ。聖獣様だって雄なんだから、股を開けばいい金になるかもしれないな。
「そなたがそれを望むなら」
だけど、乗ってきたオレにイーラガッタが見せた表情は憂いだった。
何が気に食わねえんだよ、と思考を回すが、確かに今のは勇者が言いそうにないセリフだったと後悔した。が、そんなの知らねえ。勝手に幻想を抱いたのはそっちなんだ。
「オレはアレンダートじゃねえ。だから、そんな顔するなよ」
「わかっている……これは我々の罪なのだから……」
「何言って……」
大昔に勇者と別れた聖獣はオレに何を期待しているのか。何にもわからねえ。
だけどオレに添えられた手があまりに優しいから、勘違いしてしまいそうになる。こいつが好意を寄せているのはオレではなく、前世だという勇者なのだ。
こういう時にかけるべき言葉をオレは知らない。傭兵相手ではなく高貴な聖獣を慰めるには、生活基準が違いすぎた。
赤い手はそっと回されて、このまま抱きしめられちまうのかな。まあ、拒める権利もねえし、いいんだけどさ。
そして龍を満たす憂いが悲痛へと変わり始めた時、温度のない空気に響く声があった。
「失礼いたします。イーラガッタ様はこちらでしょうか」
「……入れ」
龍はオレから手を離した時には毅然とした顔に戻っていた。凛とした声音で入室を許可すれば、鮮やかな金の毛皮が規則正しい足取りで飛び石の前まで歩き出る。
それはまるで城壁を思わせる肉体を持った金の犬だった。柔らかそうな毛皮や垂れた耳のイメージにはまるで似合わない剛毅な筋肉で騎士服を押し上げ、立っているだけなのに目が離せない存在感を放っている。青い目は鋭すぎて温和という言葉とは程遠く、オレはいつの間にか緊張で拳を握っていた。
オレでもこいつの名前は知っている。この国最高の騎士にして、鉄壁で潔癖の騎士。
ユランデータ=オリーブだ。
「何の用だ? 悪魔召喚の件なら、協力することで決まったはずだ」
「そのことについて、いくつか確認したいことがあってまいりました」
オレとの逢瀬を邪魔されたからか、イーラガッタの声音には少しの拒否感があった。オレならそそくさと短い尻尾を巻いて逃げてしまいそうだが、向こうは最高の騎士、聖獣の不機嫌など知るかと言わんばかりの態度だ。
話には聞いていたが、肝のすわり方が化け物だな。噂では少し前にあった悪魔事件に何やら巻き込まれたみたいだが……。
「ほう、騎士団長であるそなたが直々に来るとは、よほど大事な用なのだろう」
「というよりかは、俺でなければ話が進まないと思いまして」
そこでオレは広い肉体の後ろに、黒い虎がいることに気が付いた。そいつはユランほどではないが立派な体をしていて、整った黒スーツを膨らませている。
だがオレの目を引いたのはそいつの頭にある立派な角と、虎とは思えないくらい細い尻尾。悪魔の象徴を持つ虎はユランの背中から顔をのぞかせて、小さく頭を下げた。
「アスモ」ユランが固い声で叱責する。「いつまで俺の後ろに隠れているつもりだ」
「だって……どう見ても向こう怒ってない? 濡れ場の途中で踏み込んだ感あるよ?」
「知らん。こんな白昼堂々淫行に耽る聖獣様なんているわけないんだ。堂々としていろ」
ものすごい言い方だ。神をも恐れぬ物言いは側にいるオレの方がビビる。
これでも傭兵として危機管理は徹底してきた方だが、こいつの場合自分を貫くことを優先するタイプとみた。噂通りの鉄壁で潔癖な騎士様だな。
案の定イーラガッタはゆらりを尻尾を振って、威圧的に笑う。この程度で怒る聖獣ではないが、締めるところは締めるつもりだろうな。舐められたら権威が下がる。
「悪魔か……我が神殿に何用だ?」
「えっとぉ……ここらを騒がせている悪魔召喚に使われた魔法陣を解析させてほしくてぇ……おれはそういうのが得意だから、そこから犯人が割り出せるんじゃないかってユランが……」
確かに最近、悪魔召喚の知識が国中に広まっている。
そのせいで悪魔による事件が頻発し、様々な人が魂を抜かれているとか。もはや毎日のように事件が起こっていて、騎士たちが王都中を駆け巡る光景も日常茶飯事だ。
オレも知り合いが召喚手順の話を持ちかけられたらしいが、犯人を捕まえられなかったと言っていたな。どうやら騎士団でもまだ犯人の特定には至っていないらしい。
「確かに悪魔に関する証拠品を管理しているのは神殿だ。だが……悪魔を信用しろと?」
「アスモは契約によって裏切りません。例外的に協力者にすると、王太子スウェンガル様からの通達があったかと思いますが」
「確かに聞いているが、それに従う義理はあるまい? 我ら神殿は独立勢力。協力体制こそ作ったが、あくまで各々の裁量によって定められている」
「……はあ」あからさまに苛立ったため息だ。「だから俺もそこまでへりくだる必要がない、そうだろう? おとなしく案内しろ。貴様の意地や権力抗争に付き合う気など、俺にはさらさらないんだ」
うわ、聖獣相手に真っ向から喧嘩売るやつがこの世界に存在してんだ……。こいつは絶対に傭兵だったら早死にしてた。騎士でよかったな。
逆にあっちの悪魔らしい方がユランの服を引っ張ってやめさせようとしているんだが……悪魔ってあんな常識人らしい対応するもんか?
「ねえ、だからなんで君はすぐ喧嘩売るのっ! 相手聖獣だよ! 聖獣! 魔界でも逆らっちゃいけないって有名なんだよっ!」
「だが、殺せば死ぬだろ」
「巻き込まないでって言ってるの! しかも勝つ気でいるのなんでっ! こんなことならタラタネラも連れてくればよかった……」
聖獣と騎士のにらみ合いを前に、アスモと呼ばれた虎の悪魔はおろおろしながら助けを求めて視線をさまよわせている。
そんで、それは当然オレの方へと向く。だが悪いが、オレはただの平民。正直こん中のヒエラルキーは一番下だ。
「あれ……」アスモは目を瞬かせて。「君の魂……それ……」
まただ。イーラガッタといい、オレの魂はそんなに特別なのか。勇者の生まれ変わりってのは、そんな分かりやすい魂なんだろうか。
「……わかった、そちらの要求を呑もう」
辟易としたオレの感情を打ち消すように、龍が厳かな声で折れた。見ようによってはアスモの話を打ち切ったようにも見えるが、やはりオレの魂が勇者の生まれ変わりだというのが悪魔にばれるのはよくないんだろうな。
「神官を寄こして案内させよう。それで文句はあるまい?」
「……寛大なご配慮感謝します」
「ユランってちゃんと相手を敬うことができたんだ……」
「殺すぞ」
一瞬ものすごい殺気が出たな。オレの傭兵としての勘だが、あれは逆らうと死ぬ。正直戦うどころか対峙するのも御免だ。
聞くところによるとオーラの出力が歴代騎士の中でもトップなんだとか。生半可な剣じゃ傷ひとつ負わないだろうな。流石オーラマスター、オレじゃあ片手で制圧される。
しかも歴代トップに並ぶ騎士がもう一人、近衛にはいる。オーラマスターなんて数十年に一人出ればいい称号なのに、今は二人もいるんだ。悪魔だろうと大体何とかしてくれるだろって、平民からすればありがたいことだと思う。オレだって好んで死線はくぐりたくねえ。
オレも傭兵内でオーラの練度は高い方だが、さすがにマスタークラスには程遠い。ある程度使えるだけでも強いんだが、やはり上には上がいるもんだ。
聖獣にオーラマスターに悪魔と、まさか権力だけじゃなく実力も最下層だとは思わなかった。相手が悪すぎるだけなのは理解できるが、さすがにいたたまれない。これでも経験はあるつもりなんでね。
「それでは失礼いたします。今後情報をつかめばすぐに共有いたします。これからも互いの協力関係を維持できるよう善処するつもりです」
こっちが情報をつかんだら教えるから、お前も絶対教えろよ。なんて言外に圧までかける騎士団長に、後ろの悪魔が辟易とした顔をしている。つっこみもないところから見るに、あれが通常運転なんだろうな。悪魔の方が気苦労多そうなの、意味わかんねえだろ……。
慇懃無礼どころか大体喧嘩腰だったユランは用が済んだと言わんばかりに、あっさり踵を返す。だが、その隣でアスモがオレのことを気にしているのがむずがゆい。さっきの発言から、オレの魂について何か言いたい事でもあるんだろうな。
「ねえ、ユラン……あの……」
「話はあとで聞く。今は仕事が優先だ」
「はーい……」
そうして二人が出て行けば、結局また無言が戻ってくる。
龍は物思いにふけっているようで、オレから目を背けて水面に浮かぶ波紋をじっと眺めている。オレの存在も忘れているのか、その顔は張り詰めたままだ。
こんなところまで呼ばれてはいるが、仲がいいわけじゃない。思考の邪魔をして気分を害されるのも面倒だったから、オレはテーブルに置かれたデザートでも頬張ることにした。金持ちの味に舌鼓を打てば、こっちも気分は落ち着いてきた。
……どうやらあの犬の殺気に当てられて、ずっと緊張してたみたいだ。これでも死線くらいはくぐってきたつもりなんだが……いや、だからこそか。さすがにあれは勝てねえわ。
「ああ」ようやく視線をこちらに向けた龍が。「すまなかった。仕事に巻き込んでしまって申し訳ないね」
「別に構わねえよ。それにしても、あのユランデータが悪魔の契約者だってのはガチの噂だったんだな……」
「市井の間でどう伝わっているのかはわからんが……こちらへの釈明によると第三者が勝手に契約を結んだらしい。本来悪魔との契約は重罪。どうやらそれであやつの失脚を目論んだようだが。見事返り討ちにあったそうだ」
「おかげでいくつかの貴族が大騒ぎしてるもんな。王太子に手を出したこともあって、主犯格はお家取り壊しも視野に入ってるとか……」
王宮なんて思惑のるつぼであの質実剛健な騎士が良く生きていけるよな。どうせ全部拳で解決してるんだろう。あそこまで強いと道理の方が引っ込みそうだ。
「しかし、ジギタリス」
またオレの頬に赤い手が添えられる。物思いから返ってきたイーラガッタは、またも慈愛深い瞳にこげ茶の熊を映していた。
「確かにあのアスモは他の悪魔と違うようだが……悪魔であることに変わりはない。決して近寄らないように」
「好き好んで悪魔とつるみたいとは思ってねえよ。そもそもオレごときが騎士団長のユランデータと謁見することすら不可能なんだ、杞憂だよ」
「だといいが……我は悪魔を好かん。あやつらは表面を取り繕うことが得意な害獣でしかなく、いつ寝首をかかれるか分かったものではない」
魔王と名乗る悪魔と戦い、今でも悪魔から国を守る聖獣だ。そりゃ悪魔に馴染めなんて無理に決まっている。神殿が対悪魔に特化しているのも、イーラガッタがいるからなのだ。
「決して悪魔を信じてはならない。わかったね?」
「元からそのつもりだよ。仲良くなんて絶対無理だね」
「ああ、その心を忘れてはいけないよ」
子どもをあやすような口調で諭し、頭を撫でてくる。長き時を生きる聖獣様からしたらオレなんて赤子だろうけどさ。これでも成人してるんだわ。
「おっと、失礼したね」への字の口に気づいた龍が。「そなたと話していると昔の事を思い出してしまってね……アレンダートもそなたみたいに意志の強い人だった」
「そうかよ」
何が正解なのかわからなくて、それだけをつぶやいた。
ただ媚びればいいってわけじゃなさそうだし、こいつがオレに何を求めているのかわからない。むずがゆい空気に毛皮をかきむしりたい気分だ。股を開いて終わりならそっちの方が楽だとすら思う。
「それで……養うことについては心配しなくていい。この神殿では息苦しいだろうし、別宅を用意させる。そこで悠々と過ごすと良い。
「は? まじかよ……あれは煽りみたいなもんで……本気にしなくていいんだぜ」
「いいんだ。そなたがこれ以上危ない目に合うことを考えれば、はした金など惜しむ必要などありはしない」
「傭兵をやめろってか……」
「そなたはもう十分戦った。魔王を倒した後には、本来ならすべてが手に入るはずだったのだから、そなたが今世で快適な生活を送るくらい権利としてあるべきだろう」
そうだ、確かおとぎ話では勇者は魔王との戦いで死んだと書かれていた。もしそれが真実だとすれば、こいつが傭兵をやめろと言うのも理解できる。
が、急にそんなことを言われて首を縦に振れるわけがねえ。金持ちの愛人なんて、飽きられたら終わりなんだ。特にこいつが好きなのは前世であって、オレじゃねえ。その好意がいつまで続くかわからねえのに、胡坐なんてかけるかよ。
これでもオレは堅実な傭兵だと自負している。うまい話に躍らされて死にかけた話なんて、酒の肴くらいありふれてるんだ。
でも、金の匂いを前にすぐさま尻尾を見せるのも癪だ。楽して稼げるならそれに越したことはねえけど、オレにだってプライドがある。
聖獣様に体重を預けて、丸太みてえな太ももに手を乗せた。オレを買った金持ち共はこうすりゃ喜んでくれたから、少しでも稼ごうという思惑が高級な布の上を滑る。
「まあ、ちょっと長い休暇だと思えば悪くねえか。オレも、イーラガッタ様には興味があるんでね」
こんなごつい男にすり寄られて何が嬉しいのかわからねえが、こいつの目的が体ならこうすりゃいいんだろう。なんて安易な考えで実践した安っぽい色仕掛けだったが、イーラガッタはそんな浅はかさを握って止めた。
「……ジギタリス、自分を安売りすべきではないよ」
言葉には慈愛が詰まっているのに、腕はピクリとも動かない。りょ力の違いを見せつけられてしまえば、即座に引くしか道はなかった。
「なんだ、そうなのかよ。悪いな、オレのことを囲いたいって言うもんだから、てっきりこっち目当てなんだと思ってた」
「勘違いさせたなら謝ろう。だが、そうではない……そうではないのだよ。確かに我はアレンダートを好いているが、その感情をそなたに押し付けるつもりはない。我はただ魂を含めてそなたを守りたいのだ……」
「守る、ねえ……まあ確かに、仕事柄命の保証なんてねえことが多いけど……」
聖獣様はそう言っているが、オレを見る目には確かな愛があった。勇者の魂を愛していながらも、理性はジギタリスとアレンダートをイコールで結んでいないってことか。
……なんか、難儀だな。オレがいいって言ってんだから、んなの気にせず抱けばいいのに。オレは金がもらえていい暮らしができてハッピーだし、イーラガッタは好きな雄を抱けてハッピーだ。
まあ、こいつが抱く気がないって言うのなら別にいいさ。オレだって好き好んで尻を振る趣味があるわけじゃねえ。
「言っとくが、オレは高いぜ。これでもそこそこ名は通ってるんでな」
「ふふ、好きな額を言ってくれて構わないとも。私はこれでも倹約家でね、長い間お金の使い道もなく貯めるだけだったのだよ」
ってことはこの聖獣様、道楽とは無縁の生活をしてるってことか。さすが救国の聖獣様だ。オレならそんな人生ごめんだけどな。酒と、たまに女とする人生が一番いい。
長年神殿の最高権力者をしてるんだ、いったいどれだけ持ってるのか平民には想像もつかねえ。少なくとも確実に言えるのは、オレ一人養う程度なら楽勝ってことだろうな。
「だから……考えてはくれないか、ジギタリス。これが我がままだと言うことは理解している。だがどうか、今度こそ、我の手が届くところにいてくれ……」
龍の体が傾ぎ、オレをソファに押し倒してのぞき込む。荘厳に整えられた衣服の上から、泣きそうな目がこちらを見つめていた。
その瞳はまるで悲哀の海だ。普段は毅然と人々の前で振舞っていた龍が、痛苦にあえいでいる。崩れる一歩手前のような不安定な表情は聖獣という肩書には似合わない。
「そうだなアレンダート……ああ、ああ……そうだ……私のすべきことは……」
イーラガッタのたてがみとは違う、乱れたオレの毛皮に手が入り込む。その手つきは性欲にくすぶるというよりかは、形をなぞっているかのようだ。こいつの求めた幻影がここにいるのだと、確認せずにはいられない。そんな焦りが現れていた。
いや、焦りというよりかは錯乱に近い。いつの間にか、こいつの目に映っているのはオレじゃなくなっている。一体何が見えてるってんだ。
「……おい、どうしたんだよ」
「いや……夢を見ていたよ」
打って変わって、恐ろしいほど感情のない声だった。
まるで目の前で仮面をつけられたような違和感が、オレの背筋を震え上がらせる。傭兵としての経験と勘が叫ぶ。こいつは危ないと。
「なんだ急に……?」
「そなたが我の家で暮らす夢だ。そなたを蝕む危機はすべて消失し、何不自由なく暮らす夢だ」
今のイーラガッタはさっきまでの感情豊かな顔をしておらず、幽鬼のように虚ろだ。優しく微笑む温かさも、過去を憂う悲哀も、そこには何も……何もない。
この龍は何の感情も籠っていない手で、オレをただひたすらに撫でていた。
「そんなことが起こるはずないのだ。なぜならアレンダートはあの時……」
「な、なあちょっと待ってくれよ! やっぱ抱きたいとかなら全然いいけどよ、せめて慣らすとかしてくれ……! あんたが望めば応えるから!」
「ああ、だが夢を見るのだ。私があの時選択を間違えなければ……アレンダートは生きていてくれたんじゃないかと」
「おい! 聖獣! 放せ……放せぇ!」
様子のおかしいイーラガッタから逃れようと、オレは必至に抗った。オーラを使って身体能力を上げ、赤い巨体にりょ力をぶつける。
だが、龍はびくともしない。本当に山みたいだ。オレ程度の力なんて、そよ風みたいにしか感じてねえ。
どうなってるんだ! さっきまでこいつのヒモになるって話じゃなかったのか!
もしかしてこいつ、長い時を生きてきたせいで壊れちまったのかよ!
ぐっとのしかかられると、見た目通りの体重がかかる。それだけでオレは不利だ。解放を求めて四肢を暴れさせるが、なんの意味も生み出さない。
犯されるだけならまだいい。だが、この不穏な気配では命すら危ないかもしれない。
そんなのは御免だ。こんなわけのわからないまま死にたくねえよ。
「ああ、アレンダート……どうか私を……私を……」
赤く大きな手が伸ばされる。広い掌が視界を覆い、有無を言わさず黒がオレを満たしていく。
「――――――恨んでくれて構わない」
そこでオレの意識はぷつんと切れて――
****
「……何だったんだよいったい」
神殿から全力で逃げながら、悪態をつかずにはいられない。オレは自分の体が五体満足なことに感謝していた。
「うまく逃げられたのはいいが……変なことしてなきゃいいな、オレ」
下手打って指名手配なんてされた日には、裏家業とかに手を出す必要がある。そうなりゃ二度と日の目を見れねえかもな。
「うへぇ……最悪。あんな聖獣が長って、神殿は大丈夫なのかよ」
まあもうオレの知ったことではないがな。神殿からできるだけ遠くへ走ろう。最悪この国から出てもいい。あいつに見つかりたくないんだ。
神殿は王都の中心にあるため、周りの光景は優雅に開発されている。整えられた区画では、全力疾走するオレはかなり悪目立ちしていた。だがそれがわかっていても、本能的な恐怖から逃れるために足は止まってくれなかった。
「とにかく宿に戻って速攻準備して、こんな所とはおさらばだ。金をかき集めれば、今夜には出発できるだろ」
頭の中で逃げる算段を重ねていき、逃走経路を確保する。できれば神殿に見つからないようにしたいから、やっぱり夜だな。
と、思考に夢中だったオレは前方への注意が足りず、ふいに。
目の前におっぱいが飛び出してきた。
「ふえ……んぐっ?!」
なんか一瞬すげえでかい胸が見えたと思ったら、オレが弾き飛ばされていた。何にぶつかったんだ。まるで壁にでもぶつかった感覚なんだが……視界は雌だったぞ……。でもすごくいい匂いだったし……。
「おっと、大丈夫かい?」
そいつは男の声で、男の腕で、倒れかけたオレを支えてきた。筋肉を背中に感じながら、あれは幻だったのかと思いながらもう一度顔を上げると、やっぱりおっぱいがあった。
おっぱいとその他の情報に齟齬が称して、脳が混乱する。だが冷静に考えると、でかいのは胸だけじゃねえ。
「前を見ないと危ないよ。君みたいにたくましい人がぶつかると、相手の方が怪我をしてしまうかもしれないからね」
さらに視線を上げて膨らんだ騎士服より上、そこには心配そうにこちらをうかがうリカオンがいた。
オレは自分がでかい方だと思っている。傭兵をやってても大抵の相手は目線が下だし、筋肉だって鍛えた立派なものだ。……少し腹は出てるがな。
拳を振り回して戦う姿だって雄々しいと評判で、抱きたいと何人もの金持ちがオレを買ったこともある。
だというのに、今日はオレ以上の大男と縁がありすぎる。
聖獣イーラガッタに王国騎士団長ユラン、そしてこのリカオンだ。
肩幅にふさわしい腕の太さを兼ね備えており、引き延ばされた騎士服が窮屈そうだという感想を抱くほどだ。分厚さもすさまじく、それが全部筋肉だというのはぶつかったオレが断言できる。
だが何といっても一番目を引くのはそのでかい胸。雄が持ってていいもんじゃねえだろ。舐めてんのか。騎士服がそこだけ悲鳴上げてるぞ。全身鋼のくせに、ちょっと太ったオレよりでかいのは何なんだ。
こんな風貌の騎士なんて一人しか知らない。
あのユランデータと双璧を成すと評され、平民から近衛隊長に昇進したオレらの希望の星、タラタネラ=クィネルだ。
……まさか噂よりおっぱいがやばいとは思わなかった。下卑た噂だと王太子への色仕掛けで地位を手にしたとか言われてたが、実物を見れば納得しちまうわ。
「なんで近衛隊長がここに……?」
「おや、私を知っているのかい。とは言っても、ここはまだ中枢区域だし、私がいても不思議ではないと思うんだけど」
「…………」
今日だけで様々な人と会った経験から、絶対何かあるとオレの勘が告げている。猜疑の視線でにらめば、微笑んで受け流された。
「ふふっ、どうやら偶然だとは思ってくれないみたいだね。だけど、正解だよ。……アスモ」
「はいはーい」
ふわっと巨体の虎がリカオンの後ろに浮かぶ。突然の出来事にオレの毛皮が逆立つが、すんでのところで声は抑えることができた。今人目を引くのはかなり悪手だ。
まるで唐突に現れたような錯覚を抱いたが、おそらく姿を消していたんだろう。その証拠に、周りの人らは誰もオレらに注意を向けていない。オレだけに見えるようにしたって感じだ。
「お前はさっきの悪魔……!」
「そうだよ、また会ったね」
「オレに何の用だよ」
「いやさ、実はさっき見た時、君の魂が気になってね。タラタネラに無理言ってついてきてもらったんだよ。ユランは仕事だっておれを置いてっちゃったし!」
「今なら私は余裕があったからね。それで急いで王宮から走ってきたら、君を見つけたってわけさ」
走ってきたって、王宮からかよ?! いくらここが中枢地区とはいえ、ユランデータと別れてからそんなに時間も経ってないのに!
さすがオーラマスターといったところか。オレの全力疾走に追いついたくせに、汗一つかいてねえ。優しい顔をしているけど、戦いは結構容赦ねえって噂を聞いている。逃げるのは難しそうだな。
「ねえタラタネラ……」
「なんだいアスモ?」
「この人さっきからタラタネラの胸しか見てないよ」
「え……えええぇ?!」
おい、適当言うな! 向こうの方がちょっと背が高いから、視線を下げると見えちまうだけだ! 別にすっげえおっぱいだとか、これで騎士服の圧迫が無くなったらどうなるんだろうとか、か、考えてねえから……!
「ほら、タラタネラは無意識にスケベを振りまきすぎなんだって。窮屈そうだし、せめて騎士服のボタン一つ外したら?」
「そんな格好悪いことできないよ! それに、そんなのはアスモの言いがかりだろ……そうだよね?」
「…………」
「お願いだから何か言ってくれよ!」
いやさすがにその胸で見るなって言われても、無理だろ。傭兵生活やってて見たことねえもん。それに顔もいいんだぞ。
こいつはユランと別の意味で傭兵に向いてねえわ。絶対金持ちに飼われてた。護衛兼性奴隷とかにされるのが関の山だぜ。
「おっぱい揉ませてあげたら、仲良くなったりしないかな。でもタラタネラが取られるのは嫌だな……」
「アスモっ!」
「なんか警戒されてるみたいだし、まずはリラックスしてもらわないと。……まあおれは悪魔だからしょうがないんだけどさ」
「そ、それで!」真っ赤なリカオンが強引な話題転換を図って。「この人の魂がどうかしたのかい?」
「それがさあ……あ、一応結界張るね。誰かに見られてても嫌だし」
オレが何かを言う前に、さらっと隔離されてしまった。こと魔法の扱いに関して、やはり悪魔は特別だ。態度こそ異質だが、やはりこいつは悪魔なんだと痛感する。
これでオレが何をされてもばれることはない。勝てる気もしないし、おとなしくしてた方が無難だな。さっきからずっと待機しかしてない自分に嫌気がさすが、しょうがねえだろ。普段はもっと状況をコントロールできる力があるのに、今日は格上としか当たらねえ……。
いったいオレの周りはどうなっちまったんだよ。
「よし、これ大丈夫。町中で露出とかしたいなら今だよ」
「しないよっ!」
タラタネラがツッコミを入れてアスモが楽しそうに笑う。
人と悪魔とは思えないほど仲がいいな。それになんか距離が近い気がする。そこらのカップルでもそこまでべたべたしてねえよ。
でもユランの背中に隠れていたことを思い出せば、アスモがそういう性格なのかもしれないな。
「ここで立ち話もなんだから、どこか座ったほうがいいかな」
「別にオレは構わねえよ。仕事柄動きっぱなしも慣れてる」
「そうかい、それならこのままで」
「なら」悪魔がにこやかにしゃしゃり出て。「疲れたらおれに言ってね。大きな泡とか座れるものくらいすぐに出せるから」
……悪魔ってこんなお人好しなこと、絶対言わないと思ってんだが。あの聖獣ですら他とは違うと言っていた理由もわかる。こいつと話していると、オレの中にある悪魔像がガラガラと崩れていく気がするな。
「んで、オレの魂がなんだって?」
「そうそう」悪魔は誰憚ることなくふわりと浮き上がって。「おれは悪魔だから、人の魂を見ることができるんだ。まずこれが大前提ね」
「そんなことくらい知ってるよ。一応最低限の知識くらいは持ってるつもりだ」
「ならいいんだ。それで、おれが見たところ……君の魂はかなり歪だよ」
「はっ……歪って、なんだよ……」
さらりと投げかけられた一言がオレの胸をえぐる。オレが勇者の生まれ変わりなんていう与太話が、嫌が応にも現実味を帯びて肩にのしかかってきた。
「うーん、おれはここに来たのが初召喚で人の魂の例外っていうのにあんまり詳しくはないんだけど……それでも一目でわかったんだ。君の魂は、なんていうか、とっても歪んでいる。人の魂って、人魂とかそう言うのを想像してもらえればわかりやすいんだけど、君は全然形が違うんだ。その形で安定してるのは、どう考えてもあり得ないよ」
「んだよ、それ……」
「ふむ」黙ったオレの代わりにリカオンが。「それが本当だとすると、どうしてそんなことが起きるんだろうね」
「まず人為的なのかそうじゃないのかってところだけど、さすがにそこまでは……そもそも魂は輪廻転生の中で精査されるはずだから、こんな魂が出ること自体が稀だよ。だから、生まれつきというよりかは、生まれた後何かされたんじゃないかな」
「いや……」
口を開いて初めて、自分の言葉が震えていることに気づいた。悪魔の考察はもっともらしかったが、オレには否定材料があった。
今自分がどんな顔をしているのかわからねえが、二人が真剣な目を向けていることから相当憔悴してんだろうな。
そりゃ魂が歪って言われれば――しかも魂の専門家である悪魔にだ、どうしたって衝撃を受けるだろうとも。
だけどここまで聞いちまったら、知らないふりはできねえ。オレは脳みそをひっくり返して、あの時の言葉を思い出す。
「あいつは……あの聖獣は、『オレの魂を見間違えるはずがねえ』って言ったんだ。あいつとは初対面なのに、だ」
「つまり、聖獣イーラガッタ様は君の魂の形を知っていたってことだね……となると、君の魂は今の形のまま輪廻転生を経た可能性が高い。それで、君らは前世からの知り合いってことになるのかな」
そこでオレはその説明をしてないことに思い至った。そんな与太話を語っていいものかと逡巡したが、ここまで来るとオレも知りたい気持ちが沸き上がっている。
悪魔を信じるなんてと思う自分もいるが、猜疑は切実な渇望の前には無力だ。オレはいったい何なのか、それを知る足掛かりがどうしても欲しかった。
だから神殿に呼ばれてイーラガッタから聞かされたことをしゃべった。二人は驚いていたようだが、自分もまだ信じられていないんだ。半信半疑に聞いてくれて構わない。
「君が伝説の勇者アレンダートの生まれ変わり……聖獣様がそう言ったんだね」
「もうろくしてただけかもしれねえけどな。様子がおかしかったし……」
「でも確かに、聖獣様が嘘を言うとは思えないし……きっと何か理由があるんだろう」
「その理由ってのがわかれば苦労しねえけどな。だが、オレはできればもう会いたくねえ。命の危機さえ感じたんだ、二度とごめんだ」
「ふむ、それなら私が調査を手伝おうか。ユランは悪魔召喚事件の調査に忙しい。人員を増やそうにもアスモのことを信じてくれる人がなかなかいない上に、勇者の生まれ変わりと言うのは軽々に吹聴すべきじゃないだろうしね。私ならスウェンガル様に話を通せば少しは身軽になるはずさ」
「まあ……そうしてくれると助かる」
「気にしないで。私もこの悪魔召喚事件での神殿の対応には、ちょっと気がかりなところもあったからね。イーラガッタ様が関わってるかはわからないけど、別視点の調査になる可能性もあるんだ。ユランと手分けして調査するのが、効率としても悪くないってだけだよ」
黙っていれば凛々しい顔が、しゃべれば雪解けのように温かくなる。話せば話すほど人の良さがにじみ出てくる。平民で近衛隊長って絶対大変だっただろうにな。お貴族様の相手は何度かしたことあるからわかるが、ろくな目で見られてねえだろ。あいつらは選民思想の塊だからな。
……そんな体をしてればなおさら。確かにこれは無自覚でスケベを振りまいてるわ。
「あのタラタネラが味方になってくれるなら、オレも別に逃げなくてもいいか……このままだと夜逃げするところだったぜ……」
「おや、それなら急いで出かけてきて正解だったね。アスモがどうしてもって言ってくれたおかげだ」
「ふふん、さすがにこんな魂は放置できないからね。どんな影響があるのかもわからないし、早く教えてあげたほうがいいと思ってさ」
つくづく悪魔らしくねえな……。まさか悪魔に心配されるとは思わなかった。
だがタラタネラはもうアスモがこういうやつだって理解してるんだろうな。お礼を言って笑うだけだった。こうして見ると、こいつらの間には偏見ってもんが存在してねえんだな。
「ところで」虎がオレらの周りを一周して。「おれはその伝説ってやつ、この国どころか魔界出身だから聞いたこともないんだよね。できれば教えてもらえると嬉しいんだけどなあ」
「あ、そうだったね。ならすり合わせもかねて確認しようか」
そう言いながらリカオンはこの国に伝わるおとぎ話を語りだした。
それは勇者が神の使いである聖獣を伴って行う、長い長い旅の話。
いくつもの苦難や悪魔が彼らを襲うが、彼らは知恵と勇気で切り抜けていく。
最後には魔王と呼ばれる悪魔と戦い、勇者はおのれの命を犠牲に魔王を倒し、世界に平和をもたらした。
それから聖獣たちは勇者を忘れないように、彼の意思を継ぐため、天に帰ることなくいつでもこの世界を見守っている。
……簡単に言うとこんな話だ。この国、いやこの世界中で親しまれているおとぎ話を聞いて、アスモは楽しそうにうなずいた。
「なるほどねえ……こっちと伝わり方が違うんだ。魔界では魔王が悪しき勇者に倒されたとか、別視点で語られてるよ。確かにどう聞いてもおとぎ話なんだけど、聖獣がいるってことは実話なんでしょ?」
「そう言われてはいるけど、イーラガッタ様はことを考えるとどうもそれだけじゃない気がするね」
「隠された真実ってことだね。なんだかわくわくする響きだねえ。数百年前本当はなにが起こったのか……」
なんて悪魔は嬉々として弾んだ声を出しているが、オレとしちゃ頭が痛くなる話でしかない。
なにせ、勇者の生まれ変わりだと言われたオレの魂が歪なのだ。絶対何かあることは明白で、それがろくでもない可能性が高いとなりゃ、落ち込むなっていうほうが無理だろ。
がっくし肩を落とすオレに気を使ったのか、リカオンは即座に言葉をつないできた。
「問題はそれを調べる手がないってことだよね。スウェンガル様に頼んで王宮図書館の禁書辺りを調査できたらいいんだけど……」
「おれがいるからねえ……国が保管する最高機密を調査するなんて、悪魔憑きであるタラタネラに許可が下りるのか正直不安じゃない?」
「申し訳ないけど、そうなんだよね……。今の私は例外処理として扱われているけど、それを良く思わない人も当然いるから。いくらスウェンガル様でも難しいかもしれない」
「ならこっそり忍び込めばいいだろ。悪いが、オレにとっては死活問題で、手段を選んでる場合じゃねえんだ」
「う、うーん、近衛隊長としては絶対推奨できないんだけど……アスモに頼んだら何とかなるとは思うよ……」
「出来るとは思うよ。だけど、かなり厳重に封印されてるはずだから、準備するのに時間はもらうかも。失敗したらタラタネラも危険な目に合うんだから、絶対成功させないといけないからね」
「オレは急いでるってのに……だったら他に手はねえのか?」
今日はとことん自分の無力さを噛みしめる日だ。力に地位と、問題に対してオレが出せる策が無さ過ぎる。
オレには王宮図書館に入るだけの伝手も、それを突破するだけの能力もねえ。勇者の生まれ変わりと言われてるくせに、その実少し強い程度の傭兵でしかねえんだから。
どれだけ脳みそをひっくり返してみたところで、おとぎ話の真実に近づくアプローチ方法は出てきやしない。ただいらだちだけが募って、言葉尻が強くなる。んで、そんな自分がさらに嫌になっちまう。
「あっ」悪魔が何かを思いついたようだ。「父さんなら何か知ってるかも」
「アスモの父さんって……確か魔界学園の学園長だっけ?」
「そうだよ。父さんは人が好きで、かなり長生きだから、いろんな資料を持ってるんだ。もしかしたら手掛かりくらいはあるんじゃないかな」
「だとしたら助かるね。聞いてみてくれるかい?」
「うん、ちょっと待ってね。今魔界と連絡入れるから……」
アスモが魔法陣を作ったのと、それを感じたのは同時だった。
経験で磨いてきたオレの直感が警告を発し、全身の毛皮が一気に逆立つ。悪寒は思考を返さず、いつの間にか体は動いていた。
それはあまりにも強い死の予感だった。傭兵として常に隣り合わせの存在であり、決して捕まってはいけない死神。脳裏に己の死に際がまざまざと浮かび上がるほどの、直感という名の確信だ。
「え? タラタネラ……なにっ?!」
リカオンも感じ取ったのだろう。黒虎の首根っこを引っ張って、一息に後ろへ飛ぶ。あんな巨体を持ち上げての跳躍距離とは思えないな。つくづく化け物じみてやがる。
だが嫉妬もほどほどに視線を上げれば、予感は現実に代わっていた。
オレらがたった数秒前までいた空間を、白刃が駆け抜けている。確実に命を刈り取る軌跡には躊躇がなく、殺し慣れているように見えた。
「本当なら一息で楽にしてあげたかったのだが……」
だがそいつの漏らした声に含まれていたのは多大な慈悲だ。神殿で聞いたのと変わらない、子守歌のような声音が殺し損ねたことを憂いていた。
その落差にオレは恐怖を抱く。仕事柄いろんな犯罪者を見てきたつもりだが、あれほどまでに慈悲を持った殺人鬼を、オレは知らない。
言葉を無くしてたたずむオレの真正面。
赤く強大な聖獣、イーラガッタが荘厳なローブをはためかせてそこにいる。
「イーラガッタ様……」すぐさまリカオンが前に立ちはだかって。「説明を求めます。何故、殺意を向けたのですか」
「知れたことを。悪魔を討伐するのに理由が必要だと?」
「アスモは協力者であると、通達をしたはずです。スウェンガル様の意向を無視することは、王家への敵対とみなされます」
「そうではないよ、タラタネラ」
柔らかい笑みはいささかも揺らがず、赤龍は首を振る。
神殿からここまで走ってきたのかもわからないし、どうやってアスモの結界を見抜いたのかもわからない。
ただ一つ言えるのは、こいつが大昔に魔王を倒した聖獣であり、途方もなく強いってことだけだ。
「ただ、まあ、我が言えるのはそなたに伝える必要はないということだ」
「わかりました。それではこれは明確な王家に対する反抗とみなし、対処させていただきます」
タラタネラが剣を構えると、ゆらりと全身に赤いオーラが満ちていく。物腰の柔らかさに反してそれは禍々しいほど赤く、本能的な恐怖心を刺激する。
密度がやべえ……! なんだこのオーラ。どうやったらこんな量を出しながら安定できんだよ。
オーラも魔力も魂の生み出すエネルギーという点では同じだが、使用方法が違う。
魔力は魔法の燃料として排出されるのに対して、オーラは大半が自身の強化に使用される。ようは純粋なエネルギー兵装ってやつだ。
それをここまで圧倒的な量で、しかも自身の体周辺で安定化させている。技能も出力もオレとは比べ物にならねえ。これがマスターの称号をもらえる男か……。
オレが圧倒されている横では、黒虎の悪魔が困ったようにおろおろしている。それでも空中にいくつもの魔法陣を展開しているのを見るに、迎撃の構えは取れているみたいだが。
「もしかしなくても、おれのこと見えてる? 二人にしか見ないようにしたはずなんだけど……」
「たぶんそうじゃねえか? あいつ、お前のこと殺りにきたみてえだし」
「だよねえ……! おれの隠ぺいを結界越しに看破するって、どんな感知能力してるんだよ! これでも魔法は得意のはずなんだけど……」
悪魔が魔法に熟達しているとはいえ、相手は聖獣だ。正直伝説しか知らないオレからすれば、その力は未知数もいいところ。
死の危険が迫っていても、アスモはオーラで身体を補強するそぶりもない。エネルギーを全部魔法に使うタイプの完全後衛型だな。耐久がないから、一撃食らったら死にそうだ。
「と、とにかく……騒ぎが大きくなるとまずいから、周囲を結界で囲っちゃうね!」
聖獣に近衛隊長が対面するこの状況を、市街地で行う利点は一つもない。いくら人気が無かったとはいえ、あの二人の圧は人目を引きすぎる。
幸いアスモの判断が早かったおかげか、そこまでの混乱は起きていないみたいだが……。それにしても、一瞬で広範囲を囲うところを見るに、こいつも相当やるな。魔法の使い方がうまいだけじゃなくって、そもそもの魔力量も多そうだ。
「タラタネラ! 今ユランに連絡を入れたから、ちょっとだけ耐えて!」
「ありがとうアスモ。相手が聖獣となると、制圧するのは難しそうだからね」
この二人はオレをはなから戦力に入れてねえ。そりゃ確かにこいつらと比べりゃ弱いかもしれねえが、オレにも意地がある。
ええいくそ、オレは腹をくくってタラタネラの横に並ぶ。足手まといかもしれねえが、これはオレの問題なんだ。守られっぱなしは性に合わねえ!
「やってやるよ! 囮にくらいは使えるだろ!」
「大丈夫なのかい? 相手は聖獣だよ」
「知らん! だけどな、これでも戦いが仕事なんだ。指くわえて見てられっかよ!」
「ならお願いしようかな。この距離ならユランはすぐ来るはずだから、無茶はしちゃ駄目だよ」
「今この現状が無茶なんだ。これ以上しようがねえ! それに、オレには切り札がある! 何もしねえよりかはましだろ!」
こげ茶の毛皮に白いオーラを浮かばせて、オレはやけくそ気味に吠えた。勝てる気はしねえけど、あのユランデータが来てくれるってんなら時間さえ稼げばいいんだろ。
オレはその切り札でさっき神殿から逃げ出せたんだ。自分でも把握してない力だが、効果があるのは分かっている。
「君のオーラ……いや、今はそんなことを言ってる場合ではないね」
タラタネラの言いたいことくらいわかる。オレのオーラは白を基調としながらも、たまに黒い炎が混じる特殊なものだからだ。
傭兵仲間からも見たことないと言われていたが、今なら理由もわかる。オレの魂が歪だから、生まれるオーラもこうなっちまうんだろ。答え合わせみたいで癪だがな。
拳を構えて深呼吸。オレの武器はこの肉体のみ。剣も盾も、すべて自前のオーラで賄ってきた。
「なるほど」赤い龍は目を細めて。「それが今のそなたの戦い方か。こうして見ると、アレンダートに……いや、そなたには関係ない話だ」
寝物語を聞かせる母親のように優しい笑顔のまま、イーラガッタは消えた。
いや、違う。移動したんだ。気が付いたらタラタネラの剣が龍の拳を防いでいた。こんなひらひらした聖職者の衣装を着ているくせに、目にも留まらぬ速さで距離を詰めてきやがった。
でもこれならまだ反応できる。タラタネラよりほんの僅かに遅れはしたが、こっちも拳で殴りかかっている。完全なカウンターの要領だ。相手が格上ってのがわかってるなら、それ相応の戦い方がある。
本当は一撃貰うつもりだったんだが、そこは近衛隊長。守り方もうますぎる。さすが平民からのし上がった男だ。
「うらぁ!」
振りかぶった隙をついてぶん殴ってやる。さっきのお返しだ、悪く思うなよ。
普通に考えたら殴った直後で体勢も整ってねえんだから、避けられるわけがねえ。
なのに、あいつは身をひるがえしてあっさりかわしやがった。どうなってんだよ。
「ふむ。練度が足りんな。やはりアレンダートの生まれ変わりと言えど、修行せねばこの程度か」
「舐めやがってぇ……!」
「口車に乗せられたら駄目だよ。落ち着いて」
あくまで冷静に、リカオンは剣を構えている。表情こそおとなしいままだが、視線は抜け目なく周囲を見ており、隙なんてまるで見当たらない。
その後ろではアスモがきょとんとしていて、オレらのやり取りを全く理解できない顔をしていた。
「なに! なになに?!?! 今なにが起こったの?!」
「アスモ」タラタネラは人を落ち着かせる声で。「魔法の援護はできる?」
「う、うん。市街地だし、破壊よりはサポートの方がいいよね。一応準備さえできれば向こうの時間を数秒程度止められるよ。でも、相手は聖獣だから数秒も無理かも。できて一瞬かな……」
一瞬でもえぐいな。時間停止なんて聞いたことないぞ。完全後衛型とはいえ、やはり悪魔ともなると魔法の規模が違いすぎる。悪魔って取引によっては不老長寿もいけるらしいし、人智を超えてるわ。
「わかった、一瞬でもあれば勝負は決められるからそれで十分だよ」
まあそうだろうな。今の邂逅すら一瞬だったんだ。その時間を制することができるなら、勝負は決まったみたいなもんだろ。
悪魔に背中を預けているというのに、タラタネラには忌避感がない。完全に信用してるんだな。そういえば、ユランがアスモは契約によって裏切らないと言っていたが、こいつともそうなんだろうか。
なんか……悪魔に対する印象が揺らぐな。
「ふふっ」
それでも龍は笑う。オレらなど恐れるにも値しないとでも言いたげな声で。
まだ全然本気じゃねえだろうしな。オレにとっての拳は武器だが、あいつにとってはそうじゃねえ。
「悪いが、我を足止めするには力不足だ。大丈夫、痛いのは一瞬で、すぐに終わる」
殺気などまるで感じない笑みを向けられて、アスモの肩が大きく震えた。あんなの向けられたらオレだってビビるぞ。
「や、やだー!」
「アスモ、落ち着いて。私が守るから」
「もう帰っちまった方がいいんじゃねえの? そんだけ魔法がうまかったらすぐ帰れるだろ」
「それでも、帰ったらまた来るの大変なんだよ。おれらは契約によって召喚されないと、こっちに来れないから。だから、取引を果たすためにも、できる限り帰りたくないの!」
悪魔のくせにものすごく真面目なことを言うんだな。んなこと言われたら、オレもやらなきゃって気になるだろうが。
拳を構えて神経を研ぎ澄ます。相手は聖獣だ。自分の限界を超えるつもりでやらないと、歯が立たないだろう。
魂が歪なんてどうでもいい。オーラを練り上げてまとい、白と黒を濃くしていく。
オレにできる最大限までため込んで、さあ殴りかかろうとした時、タラタネラが声のする方へ視線をそらした。
「そこまでだ」
「……どうやら間に合ったみたいだね」
タラタネラが胸を撫でおろすのもわかる。最高の騎士と言われている金の犬は、そこにいるだけで絶対の安心感をもたらしてくれるのだ。
「ユランーーっ! 怖かったよ!」
アスモが即座にユランに飛びついて、背後に回ろうとしている。マスター二人が壁になってくれるなら、災害が来ない限りは安全だろうしな。
だがユランは黒虎を眼中にも入れずにかわしたあと、剣を向けたのは――
オレに対してだった。
「ジギタリス、だな」
「え、ああ……そうだけど……」
何のことかわからずに、リカオンと黒虎が唖然としている。オレだってそうだ。騎士に剣を向けられる理由なんて、さっぱりわからねえ。
オレを見る視線は冷たく、青い瞳と相まって氷を背筋に押し当てられている気分になる。イーラガッタが殺気をまるで出さずに人を殺せるのなら、こいつは研いだ殺気だけで人を殺せそうだ。
間違いなく傭兵生活をしていて一番の危機だろう。今から死ぬのだと、頭が勝手に最悪の想像をして震えあがってしまう。だが、そんなのに意志を折られてちゃ、こちとら仕事にならねえんだよ。
できる限り力を込めてにらみつけて、乾いた舌を引きはがして問う。
「なんだよ……どうして、オレを……」
「お前の身元はこちらでもらい受ける。拒否は許さん」
「はぁ?! どういうことだよ!」
「話はあとで聞く。イーラガッタもそれでいいな?」
「いいわけがなかろう。いくら独立機関とはいえ、我にたてつくつもりか?」
「はんっ」
国の守護獣、救国の聖獣相手に、騎士は鼻で笑った。
前見た時もそうだけど、あまりに命知らずが過ぎるだろ。無敵か、こいつ?
「文句があるのならどうぞ王太子様へ。俺は命令を遂行しているだけにすぎん」
「そんなことばかりしてるから、スウェンガル様も胃を痛めるんだって……」
小さくつぶやかれたタラタネラの言葉にアスモも頷いてる……。まじで年がら年中こんな感じかよ。
だけど、こうなっちまったらオレにとれる選択肢はない。さすがにこの状況で逃げられると思うほど馬鹿じゃねえよ。ユランが捕獲を命じられているのなら、タラタネラを頼るのも無理だろうしな。
なんでオレが捕まらねえといけないのかわからねえが、この地獄を抜け出せるのなら話に乗ってやろうじゃねえか。
力や地位で負けてるオレにできるのは、折れないことだ。最後に勝ちさえすりゃいいんだ。それまでは決して膝を屈さない。
そんな覚悟を決めて、オレは金の犬の後についていくことを決めた。っていうかそれしかできねえ。悔しいことにな。
だがもちろん、それを許せるイーラガッタではない。聖獣は周囲にいくつもの魔法陣を展開しながらも、体を白く眩いオーラをまとい、圧倒的覇者の雰囲気で怒気を表した。
「それなら王家との取引もここまでだ。そなたの首を送れば、向こうも少しは我への威光を思い出すだろうか」
「はあ、そんなのは俺の知ったことじゃない。できるものならすればいいだろ。大体、お前がきちんと情報を提示していれば、こんなことにはなっていない。自業自得だ」
いったい王家と神殿の間にどんなやり取りがあったのか、オレにはよくわからねえ。ここで話していた二人も同じようで、黒虎が我慢できずに口を開いた。
「ねえ!」アスモが金犬の背中を叩きながら。「なんでジギタリスが連行されないといけないの? 何したの?」
「ただの参考人だ。どうやらこいつ、神殿から逃げる時に悪魔の力を借りたらしい。おかげで神殿はパニックだ。だからこちらにも協力要請が来た」
「え、ジギタリスって契約者だったの?」
「知らねえよ! んなの初耳だ! 大体あれは……」
言葉が出てこなくて、オレは言いよどむ。何を説明しても状況がよくなるとは思えなかったし、オレ自身もあれについてよく知っているわけじゃない。
「あれは……」
なんなのだろう。
窮地に陥った時、オレは覚醒するらしい。全く覚えていないが、傭兵仲間がそう言っていた。おかげで何度か危ない目に合ったがオレは未だに現役で、周りからは鬼神とあだ名をつけられている。
そうじゃなけりゃ、オレが聖獣から逃げられるわけがないんだ。
気づけば神殿の外にいただけで、オレは何も覚えていない。
普段のオレとは全く違う感じになるらしいから、それを悪魔憑きと言われても否定はできない。そして自分でもそれについては、なんでこんなことができるのか全くと言っていいほどよく知らない。
……でも、オレが勇者の生まれ変わりで、魂が歪だというのなら、おそらく答えはそこにあるんだろう。誰だってそう考えるに決まってる。
答えを持たないオレを見て、ユランは金のオーラを放つ。タラタネラに負けないくらい濃く、途方もない量だ。こちらに殺意と剣先を向けて、オレとその後ろの聖獣を牽制しながら牙をむく。
「悪魔憑きの疑いがあるものを聖獣は囲おうとしていた。よって、神殿は信用できない。こいつの尋問は俺がする」
「愚かな。そなたに扱いきれる魂ではない。我に楯突いたこと、すぐ悔いるはめになるぞ」
龍と犬はバチバチと火花を散らしていて、一触即発の気配を漂わせている。そこに割って入れるほどオレは強くもないし、命知らずでもない。
だが、オレの身元を奪い合ってというのなら話は別だ。オレの処遇をお前らが好き勝手に決めるんじゃねえよ!
「畜生……!」
自分の弱さに歯噛みして、魂を燃やしてオーラをねん出する。例え悪魔だと言われたとしても、オレはオレだ。知ったことじゃねえ。
すると、オレの心臓が高らかに叫びだす。これが覚醒の予兆だ。どうやら魂までこの状況を命の危機だと思ったらしい。
「はんっ。好都合だ。そんなに知りてえなら見せてやるよ……!」
この場の全員がハッとオレに視線を向けたところを見るに、かなりの存在感を発揮しているみてえだ。もういい、この場をとにかくとんずらして、王都から脱出してやる。
もうこいつらと関わりたくないという意志を固めて、衝動に身を任せる。こうしてやれば、大抵の危機は乗り越えられてきた。
悪魔だか何だか知らねえが、それがオレの生き方だ!
「うがああぁぁ!」
オーラに黒が滲み出し、その色を変えていく。オレは徐々に意識を閉ざし、ただこの場を逃げたいと願うだけになる。オレが化け物どもから逃げるには、こうするしかねえんだ。
「なにこれ! すっごい嫌な気配! さすがに援護するよ!」
この場で慌ててるのがアスモだけで、他の三人は冷静だ。しかも犬の騎士二人にいたっては、目くばせだけで連携して切りかかってきた。
さすが最高の騎士と称されるだけはある。正面切って戦うのは無理だから、頑張って逃げとけよ。
自分の事なのに他人事のように内心で言い捨てて、オレは閉ざされる意識の終わりに剣戟を感じるだけだった。
****
急に悪魔みたいな姿になったジギタリスを全員で抑えた後、聖獣は隠し通すことをあきらめたようだった。説明してくれるって言うからついてきたけど、正直混乱は収まる気配を見せない。
どういうこと?! ジギタリスが悪魔憑き?! アレってなに?!
急展開に継ぐ急展開に、さしものおれも頭がパンクしそうだよ! これでも学者型として売ってる、頭脳派の悪魔なんだけど!
「というわけで、説明を求めます!」
おれは神殿の個室について早々、黒い毛を逆立てながら要望を投げる。いくらおれが手伝う取引を結んだ悪魔だからって、説明責任は存在してるんだよ!
「元気だなお前。殺すぞ」
「なんで! むしろみんな暗すぎるって! せっかく話が聞けるんだから、もっとアグレッシブに行こうよ!」
「でも確かにアスモの言う通りかもね。ここで臆してても、何も進まないからさ」
さっき来たものすごく水をぜいたくに使った部屋で、おれらは三人ソファにすし詰め状態。さすがに向かい合う聖獣と同じ椅子に座れないとはいえ、この巨体たちを同じソファに座らせるのは無理があるって!
「暑苦しい、どけ」
とか思ってたらユランに首根っこをつかまれて放り出された。おれは浮遊できるからって扱いが雑すぎるでしょ。いいけどさ。
しょうがないのでふわふわと二人の間から顔をのぞかせつつ、お話とやらを聞く体勢を整える。イーラガッタはなぜか不思議そうにおれを見つめて、少し首を傾げた。
「悪魔とはプライドの高い種族だと思っていたが……それは人を謀るための仮面というわけでは……」
「ないな。これはそんな器用なことができる奴じゃない」
「疑う気持ちはわかりますけど、アスモは素直ですから。これが素なんですよ」
「そういうこと。悪魔らしくないとは方々(ほうぼう)で言われてるから慣れてるよ。おれのことはいいからさ、早く話を聞かせてよ。ユランが待ちきれなくて爆発しちゃう」
「そこまで短慮ではない。殺すぞ」
ぎろりと後ろのおれをにらみつけるけど、昔に比べたら全然優しい。にへへと笑い返したら憮然とした鼻息で返してきた。でも、体を合わせるような関係になったのにこのくらいしか柔らかくなってないなんて……この騎士、心まで鉄壁すぎる。
「そうか……」
おれがあまりに悪魔らしくないせいで、聖獣が困惑してる。そこまでかな?
なら、悪魔らしい態度で浮遊をしながらそれっぽく振舞って、違和感を消してあげよう。と思ったのに、さらに困惑が強くなった。
「そなた、遊んでいるのか?」
「なんでだよっ!」
「話が進まん……邪魔するなら殺すぞ」
「じゃあ私のところにおいでよ、アスモ」
それならと後ろからお邪魔して、タラタネラのぶっとい首に抱き着いて頬を合わせておく。他の人に見えないからって最近べたべたしすぎな気はするけど、タラタネラから文句が出ないので好きにさせてもらっている。
「はあ、こいつらのことは気にせず話してくれ。それで、あいつはいったい何なんだ。さっきアスモから聞いたところ、なんでも勇者アレンダートの生まれ変わりらしいが……」
「その通りだ……彼こそ、勇者の生まれ変わり。我が見間違えるはずがない、あの魂がそれを証明している」
「そうそれ」思わず口をはさんでしまった。「あの魂、すごく歪だった。普通に考えたらありえないくらいに。しかも輪廻転生してるって? なんでそんなことになったの?」
「やはり悪魔の目はごまかせんか……。話せば長くなるが……我らのおとぎ話は知っているか?」
「ついさっき聞いたよ。魔王を倒すために勇者が相打ちしたって」
「それは後世に残すための話であって、大事な部分が欠けているのだ」
それからイーラガッタはお茶をひと口含んで気を紛らわせてから、ゆっくりと口を開く。多分、これを人に話すのなんてめったになかっただろうし、緊張で尻尾の先がこわばっているのがおれから見てもわかる。
魔王を倒すために天から遣わされたと言われる聖獣が語る内容は、おれだけじゃなくて二人からしても驚くべきことだった。
「アレンダートは魔王を倒すとき、呪いをもらってしまったのだ」
「呪い……それが魂がいびつな理由だね」
「そうだ。魔王はアレンダートの魂に自らの魂を混ぜ込み、いつか魂を乗っ取って生まれ変わる。そういう呪いだ」
「そんな呪いが……」リカオンが呆然とつぶやいて。「アスモ、いくら魔王でもそんなことできるのかい?」
「できるんじゃないかな。魔王と呼ばれるまでに強い悪魔なら、そのくらいはまあ……」
悪魔は魂の専門家だ。おれみたいな学者型でもできそうとは思うから、魔王ならとっさにそのくらいの魔法は放てるんじゃないかな。
試しに頭の中でいくつか術式を考案してみたら、ちゃんと仮定が浮かんだ。うん、推敲していけば不可能じゃないかも。
「アレンダートの生まれ変わりとなったものは、だんだんと魂を蝕まれていき、やがて完全に魔王が復活する。あれはそういう呪いだそうだ」
「対策はなかったのか? お前らは聖獣、人の常識外の存在だ。手をこまねいているだけとは思えんが……」
「無論、我らはいくつもの方法を試したとも。生まれ変わりを封印したり、死後の魂を捕まえようとな……だが、どれも上手くいかなかった。生きたまま封印しても結局は汚染が進行し、死後の魂は我らの探知を抜けるように消えていく。そもそも、生まれ変わりがどこに生まれるのかもわからないのだ。ようやく見つけたとしても、試せる手は限られていた」
「ん? 生きたままだと進行が進むのだとしたら、殺すしかないということか?」
「ああ……そうだ、それしか……汚染を遅らせるには輪廻転生の輪に組み込むしかないのだ。有効打を見つけるまで、我らは少しでも早く魂を天に返さねばならん……そうでなければ、アレンダートという存在は、この世界から消えてしまうのだから……」
改めて突きつけられると、赤い龍は顔を押さえてしまった。喉から絞り出される悲痛な声は、まるで懺悔みたいだ。聞いてるこっちが心を痛めてしまいそう。
今のイーラガッタに堂々とした面影はなく、自分の意に反したことを延々とやらされた憔悴が目立っている。長い時を生きるってことは、重荷をずっと背負うってことだ。悪魔であるおれも、ちょっとは理解できる。
だって、おれは二人にそれを頼み込んだから、理解しとく義務がある。
今わかった。おれらが部屋に踏み込んだ時、イーラガッタはジギタリスを殺す直前だったんだ。もし少しでも遅れていたら、死体があったかもしれないってこと?!
「いや、今のように逃げられていただろうね。もはや彼の魂はかなり汚染が進んでいる。命の危機が迫れば悪魔としての側面が顔を出すほどだ。それも、前に生まれ変わりを見た時よりも活動時間が長くなっているようにも見える。我がもっと早く殺していれば……」
「なるほど、悪魔が神殿に出たという通報はそういうことか。つまり、あいつをこのまま放っておけば……」
「いつか魔王が再臨するってことだね。それは何としてでも止めないといけないね……」
「そうだ。我とて、したいわけではない……それしかないからやっているだけだ」
魔王を復活させないようにするには、勇者の生まれ変わりを見つけ次第殺すしかない。
聖獣たちはそうやって勇者の名誉と魂を守り続けてきたんだ。自分の心を犠牲にして。
でも見た感じ、イーラガッタは限界に近い。あっさりとおれらに暴露してくれたのが証拠だろう。悲壮を漏らす言葉の端々から、この事実を抱えきれていない雰囲気がある。
まあ、ユランがジギタリスに圧をかけることで魔王が出てくるのを恐れて、っていうのもあるとはいえ、うなだれた態度には取り繕おうとする気概も見当たらない。
勇者に対してどんな思い入れがあるのか知らないけど、少なくとも好意は持っているはずで、それを数百年にわたって殺し続けてきたとなると、心中察するに余りあるよね。
おれだってこの二人に同じことができるかって聞かれたら、絶対嫌だからさ。
なんとかならないかなって考え込んでいると、ユランが口火を切ってきた。
「今回の悪魔召喚事件、神殿の対応に不信感を持っていたのだが……もしかして、お前は魔王が犯人だと思っているのか?」
「……ああ、その通りだよ。悪魔召喚の流布された場所を調べていくと、ジギタリスの活動地域との関連性があってね……正確には、調査を進めていくうちに怪しい人物としてジギタリスが浮かび上がり、実際見たら勇者の魂だと分かった、というところだね」
「それで手をこまねいていたわけだ。時間をかけた理由は?」
「我の意志が弱いせいだ。殺すことに躊躇した。殺す前に良い暮らしをさせたいと思ったが、悪魔に見られたせいでそれも無理だと思ってな……とっさに殺そうとしたが決心がつかなかったせいで手が鈍り、まんまと逃げられたわけだ」
あの時だ。勇者の魂はおれが見たら一発で異常がわかる。だからおれらが退室してからイーラガッタは隠せないと判断して手を下そうとしたんだね。
つまり神殿――ひいてはイーラガッタは最近悪魔召喚を流布している犯人についてあたりはついていたけど、それが勇者の生まれ変わりだったから隠ぺいしようとしてたってわけだ。
だからユランたちにも情報を渡さなかったせいで、不審がられたと。
「じゃあやっぱり……」話を聞いていたタラタネラが不憫そうに。「結局は殺すしかないということでしょうか……」
「そうだ。アレンダートやジギタリスのためには、こうするしかないのだよ」
「生かすにしても、それ相応の大義名分が必要だな。俺とてむやみに殺したいわけではないが、今のままではかばう要素が薄いな……」
三人はそろって頭を抱えて、行き止まりの閉塞感に息を詰まらせている。確かに解決策がないように見えるけど……おれは悪魔なので、しかも魂に関しては一家言があると自負してる。
「ねえ聖獣イーラガッタ」
タラタネラから離れたおれは先ほど白い目で見られた悪魔らしい浮遊をして、赤い龍と向かい合う。彼はまたしょうがないなと子どもをたしなめるような視線を向けて来たけど、次の言葉を聞いて顔色を変える。
「おれと取引しない? 契約さえ結んでくれれば、特例でサービスしちゃうよ」
「……なぜ我が悪魔と取引を結ばねばならん。そなたがジギタリスの魂を何とかできるというのか?」
「多分ね。研究してみないと確証はできないけど、仮説を提案することはできる。これでもおれは魔界学園で魂の研究をしてたからね」
「魔界、学園……?」
そりゃ知るわけないか。結構新しいって父さんが言ってたし。少なくとも聖獣が生まれた時にはなかったはずだ。
久しぶりに悪魔らしいことができるから、おれは調子に乗ってイーラガッタを中心に回りだす。なんか唆してる風じゃん。
向かいでユランが呆れ顔を、タラタネラが苦笑してるけど、今おれは真面目だから水差さないで。
「確かにあそこまで融合した二つの魂を分離するのは無理かもしれない。でも、新しい魂を作るならできるんだ」
「なんだそれは。魂を新しく作り出すなど、神でなければできるわけがない」
「おれならできる。精液さえあればね」
「……そなた、我を馬鹿にしているのか? 今ここでその首をはねてもいいのだよ?」
「待って待って! おれの話を最後まで聞いて!」
普段なら悪魔の話しなんて一蹴して終わりだろうけど、今のイーラガッタは藁にもすがりたい気持ちなはずだ。付け入る隙を悪魔に与えるのはよくないんだけど、おれとしては殺されないので助かる。
「精液には微量の魂が含まれてるんだ。なんでかの理由は極秘だから省くけど……」
「輪廻転生の輪から魂を呼ぶためだろう。まさか悪魔にばれてしまうとは……」
「あ、知ってるんだ。なら話は早いね。ちなみに言うと、その方法は絶対使わないし、誰にも教えないってあの二人と取引を結んでるから安心してね。悪魔は取引を守るよ」
「……そんな取引が成り立つことがあるのか? 何を対価にすれば、そなたは無数の魂を諦められるというのか……悪魔にとって魂の入手は死活問題だろうに」
イーラガッタが驚愕の顔をしているけど、詳しい話は後でね。それに、おれの矜持を無視して頼み込んだ話だから、ちょっと恥ずかしいし……。
「まあそれは置いといて、なのでジギタリスの精液を集めれば人の魂、つまりはアレンダートの魂だけを綺麗な状態で作ることができるよ。その方法をおれは研究済みだから、確かだと思ってもらっていい」
「……そんな方法が……それなら悪魔の魂と分離できると? 悪魔の魂が混ざったりはしないのか?」
「違うんだ。人と違って、『悪魔の魂は精液には含まれない』んだよ。輪廻転生の輪から魂を引っ張ってこれない悪魔の魂は精液に入らないようになっている。時間はかかるけど、確実な方法だよ。疑うんだったら、おれの精液かジギタリスの精液を調べてみるといい、それでわかる話だからさ」
「おお……なんと……」
輪廻転生の輪から魂を引っ張ることは知っていたけど、悪魔の精液に魂が含まれていないことは知らなかったのか。確かに悪魔の精液を調べないと分からないよね。
聖獣たちは分離することだけを考えてて、新しく魂を作るって発想がなかったのかも。神の御業だから、敬虔な聖獣にとっては禁忌だろうし。
「出来上がった魂を生まれ変わりの中見と取り換えることさえできれば、あとは汚染された魂を手ごろな器に移して、二つの魂は完全に分離したことになる。体の魂を取り換える方法については研究がいるけど……少なくとも可能性はあるし、アレンダートの魂は綺麗にできるよ」
おれの提案をイーラガッタは真剣な顔で吟味している。妥当性とかおれが嘘言ってるんじゃないかとか、いろんなことを考えてるんだろうな。
「本当……なのか? 私を謀ろうとしているのではないだろうね?」
「嘘なんて言わないよ。なんだったら魔界に戻っておれの論文を見せてもいいよ。それを君らで実際に確かめた後なら、疑う余地はないでしょ? まあ、論文には全部の方法を乗せてないから、確認くらいしかできないけどね」
「では、本当に……?」
藁を握る手がどんどん強くなるのを感じている。おれに向けられた目は潤っていき、一滴の安堵が鱗の上を流れ落ちていた。
「そうか……もう私は、アレンダートを殺さずに済むのか……」
法衣に包まれた巨大な体が今だけは小さく見える。そのつぶやきには、幾年もの積み重ねで疲弊した心境がよく表れていた。
やっぱり限界だったんだね。いつの間にか一人称も変わってる、というかそっちの方が素なんだろう。聖獣としての仮面で何とか体裁を保ってきた感じがする。
だけど、世の中は希望ばかりじゃない。はっきりさせておかないと、突き落とされた時にかわいそうだ。
「感極まってるところ悪いんだけど……おれは公平を尊ぶ悪魔だから、もちろんデメリットも伝えるね」
「……そなたはつくづく変わった悪魔だ」
「よく言われる。デメリットは使用する精液が膨大なこと。多分ジギタリスの代では終わらない。何度か転生をまたぐことになると思う。その間に汚染が進みきっちゃうと、この作戦は失敗だ」
「だが生かしておく名分としては十分だ。そうだろう?」
ユランが確認を求めて来たから、頷いておく。殺意の塊だけど、人を助けることにいつも本気なんだ。おれもそれで救われたしね。
「そして、ジギタリスをできるだけ多く射精させないといけないんだけど……おれがやろうか?」
まさか聖獣に性的知識があるとは思えないし、ここはおれが手伝うべきかな。
なんて思ってたら、意外にもイーラガッタは真面目だった。
「いや、私……我がしよう。流石にそこまでさせては、我が不甲斐なさ過ぎる。元々これは我々の問題だ。少しは何かをしなければいたたまれない」
「そっか、じゃあお願いしようかな。言ってくれればおれ特製の淫具を貸すから、それで楽しんでね。せっかくなんだからお互い楽しんだ方がいいよ」
「う、うむ……」
淫具と聞いて龍の顔が曇る。罪悪感とか不安とかいろんなものを詰め込んだ表情からは、不慣れだと読み取ることしかできない。こっそり手助けしよう。
「それに、ジギタリス本人にも確認がいるよね。射精したら精液がおれの所に転送するようにしたいからさ」
「……それは少し待ってほしい」
龍の口唇から出たのはさっきまでとは全然違う、控えめでためらいがちな声音だった。
「ジギタリスからすれば、到底納得できぬ話だろう。今の自分では解決できぬ問題のために、身を粉にしろと言っているのだから」
「まあ確かに来世の自分に丸投げだし、今世では魔王にならない可能性の方もあるから協力する必要もないだろうしね……」
ジギタリスは寿命の長いおれらとは違い、普通の人だ。魔王や魂のあれやこれやなんて、正直無関係に近い。だって魔王が復活するころには生きてないだろうしね。だからメリットを提示する必要があるというのは、納得できる話だった。
「それに」口をはさんだのはユランだ。「先の行動を見るに、魔王の力を当てにしている節がある。これ以上傭兵をさせるのは、汚染を進めるだけではないのか?」
「ああ、その通りだよ。我としては、できるだけあの状態へと移行してほしくはないのだ」
「なら傭兵は廃業だな。それじゃあ大事なのは、食い扶持の稼ぎ方だが……民を守るのは俺の仕事だ。仕事の斡旋くらいはできるぞ」
「でも問題は」やんわりとタラタネラが。「彼が何を望んでるのかってことだよね。傭兵としての名誉だったら、廃業を迫るのは悪手だよ」
「それは聞きとらないことには始まらないな。どうせお前がするんだろう?」
うっわ、聖獣相手にぞんざいすぎる。でもイーラガッタもそんなことに構う余裕はないみたいで、厳かに頷いて応えた。
「そうさせてもらうよ。それに繊細な話題だから機を見て話す必要がある。我のすべてをはたいてでも、確約を取り付ける。しばらく待ってくれないか」
「わかったよ。その間に、おれも魂の転移方法とか調べておくから。ひとまず、話の続きをしようか。まだまだ話すことはたくさんあるよー」
聖獣相手の取引なんだ。少しの瑕疵も許せない。
悪魔として、完璧な取引をしないとね。
でも、初召喚にしてはいろいろ起こりすぎじゃないかなあ。魔界で勉強してた頃とは充実さが違いすぎる。帰ったら両親にする土産話がたくさんだ。
「じゃあ次の懸念事項は……その方法を使えるのはおれしかいないってこと。だからおれにもし何かがあったら、途中で終わっちゃう。この技法を教えてもいいんだけど、その場合取引がさらに重くなる。おれの飯のタネみたいなものだからね」
「安心して」今度はタラタネラが。「そんなことは起こらないよ。私たちがいるからね」
なんて言われると、胸の奥がじーんときちゃう。悪魔になってもおれらはずっと一緒だから、守ってくれるつもりなんだ。
思わず抱き着きたくなっちゃったけど、今は取引の場だから抑えた。今晩たくさんしよう。最近恋人でもしないようなことたくさんしてるけど、タラタネラならいいよね。
「それに最後……これが一番の難点なんだけど、生存時間が長引くってことは魔王が復活する可能性が高いってこと。そうなるとおとぎ話的な厄災が広がるんだよね。魔界もただじゃすまないだろうけど、まあこれは遅かれ早かれって感じだし、しょうがないかな。魔王って悪魔に優しい? ホワイトに働ける?」
「我が対峙した時は、魔界のすべてを牛耳り意にそぐわぬものを皆殺しにしていたな」
「はい駄目。却下。おれはいつかのために安定した職場を作る義務があるので、それは認められない」
二人が悪魔になった時に魔王の治世だったら全部台無しだよ。ちゃんと安心して暮らせる場所にしておかないとさ。
タラタネラはまあ百歩譲っていいとして、ユランは絶対無理。聖獣相手に啖呵きっちゃうような人だから、魔王相手でも喧嘩を売るに決まってる。だから不安要素はできるだけつぶしておきたい。
「だから、それに関しては共同前線が張れるよ。魔界の治安のためにも協力できるはず。今ならなんと、最高の騎士二人付き!」
「俺も巻き込むな……と言いたいところだが、それに関しては乗るさ。どちらの世界に関しても、死活問題だからな」
「私も参加するよ。どうせ魔界で暮らすなら、楽しい方がいいからね」
「魔界で暮らす……?」
イーラガッタがいぶかし気に片眉を上げる。さすがにもう襲ってはこないだろうし、しゃべっちゃってもいいかな。
「……そうか、そなたらはすでに取引を結んでいるのか。輪廻転生の輪を乱さない代わりに、自らを差し出す。だというのなら、我が口をはさむことはないよ。むしろ人柱にさせたことを謝るべきかもしれん」
「俺が決めたことだ。謝罪も感謝もいらん。こいつが泣いて頼むから、仕方なくな」
「待って! 本当の事だけど、ここで言わなくてもいいじゃん!」
「ユランは相変わらず素直じゃないよね。実はあの後、ユランったら悪魔になった時どういう見た目がいいかとか聞いてきてね、少し楽しみにしてるみたいだよ」
「黙れ! 殺すぞ!」
「なんだー。それならそうと言ってくれればいいのに。今のところ、見た目を変えるつもりはないよ。タラタネラの胸は、ちょっと盛るかもだけど」
「なんでだいっ?!」
なんていつも通りやいのやいのしていたら、聖獣がぽかんと口を開けたまま呆然としていた。どうやら悪魔のおれが馴染んでる光景に対して、理解が追いついていないようだ。
まあ確かに、悪魔って基本敵だし。こうして和気あいあいと話してるなんて想像もつかないかも。
だけどこのままだと話が進まない。取引はおれのフィールドだから、しっかりリードしていかないとね。
「それじゃあ報酬についてだね。取引としてはかなり重くなるよ。長年にわたる魂の管理、そして途中で失敗しないために進行を抑える方法を探すとか、おれのやることが増えるんだよね」
「そなた、進行を抑える方法も探すつもりか?」
「そりゃやるからには最後まで責任を持つよ。途中まで付き合って駄目でしたじゃ後味悪いし、あまりに無責任だ。公平は互いの信頼が必要で、そのためにも責任は発生すると思ってる。おれは魂の専門家だから、頼りになるよ」
「本当にそなたは……これが嘘の仮面だと言ってくれた方が、まだ信じられるというものだ」
「悪魔にとって取引っていうのはそれだけ大事なんだよ。知ってるでしょ?」
まあ、おれはそんな悪魔の中でもかなり異端な方だと思うけど、もういいんだ。そんなおれでも好いてくれる人がいるってわかったし。
「でもそうなると、君が渡せるものが何なのかって話になる。これまでの話から、この取引は時間も労力もかかるのは分かってもらえたよね。それに、魔王討伐をする時に味方まで得られるとなれば、報酬は弾んでもらわないといけない」
「そうだろうな。覚悟はできている。もとよりこの生活を続けられる気はしてないのだ。希望があるのなら、我は構わない」
言葉にも表情にも陰りが一つもなくて、龍は真っすぐおれを見つめている。本当に覚悟が決まってるんだね。好きな人を殺し続けることに疲弊していて、つかんだ藁を離したくないって気持ちなんだろうな。
だけどおれは公平を尊ぶ。悪いけど、おれ個人の憐憫などは横に置いて話をさせてもらうよ。
「だから君には――――」
****
「駄目だったか……」
目が覚めた時に映る天井で、オレは失敗したことを悟った。多分、ここは神殿だな。
いつもなら絶対に窮地を脱した力も、聖獣とマスター二人相手だとそうもいかなかったみたいだ。さすがに過信しすぎたかもな。
「まだ動かない方がいい。手荒な真似をしてしまって、すまないね」
枕元にいた赤い山、イーラガッタが優しく声をかけてきた。確かに体中が痛むけど、この程度なら仕事で何度も味わってきた。致命傷がないことくらいすぐに分かった。
「んで、オレはどうなるんだ。神殿にいるってことは、ユランたちは退けられたのか?」
「それは……話すと長くなるのだけど、ひとまずそなたを傷つけるものはいないと言っていい。安心してくれ」
「そうかい。それはあんたもって意味だよな?」
「そうだとも。我もそなたを傷つけない」
その顔に浮かぶ笑みにはてらいもなく、大きな手でオレの頭を撫でてくれる。オレを追い詰めた時みたいな思いつめた表情が嘘みたいなほど落ち着いていて、両親ってのがいたらこんな感じだったんだろうなと思った。
「ジギタリス。我はそなたに謝らなければならない」
手をどけて口元を緊張に引き締めた龍が、ゆっくりと語りだす。
「我は最初、そなたを手にかけようとした。共に暮らそうと甘いことを言いながらだ」
「どうせこの魂が理由なんだろ。もう大体察しはついてるよ」
「だが……もうそんなことはしない。いや、する必要が無くなったのだ」
イーラガッタの目に涙が浮かび始めたのを見て、オレはぎょっと瞠目した。まさかあの聖獣が泣くとは露とも思ってなかったから、完全に虚を突かれてしまった。
それからオレは、自分が魔王に呪われた勇者の生まれ変わりなこと。
いつか魔王にとって代わられること。
オレの人としての魂を新しく作るために精液がいること。
など、一度に聞いたら頭が混乱しそうなほどの情報量を渡された。
「……ちょっと待ってくれ。つまり、このままだとオレは魔王になるってことか?」
「そうなってしまうね。それがいつなのかはわからないが、魔王の力を使えることからそう遠くない未来だとあたりをつけているよ」
「そしてそれを防ぐために、オレの精液から新しい魂を作って入れ替える……できるのかそんなこと?」
「わからない。だがその方法をアスモが調べてくれている。今はそれを信じるしかない」
「アスモって……そっか……お前、本当に悪魔と取引したんだな……」
「そなたを殺さずに済むのなら、我は何でもする……何でもだ。この魂が朽ちたとしても、我は後悔などしないとも」
龍はベッドの側にしゃがみこむとオレの手を両手で包み込み、そっと額に当てた。
ああ、震えてるんだなと、嫌でもわかる。それは死に際の傭兵がただただ救いを求める様にも似ていて、そんなものを向けられていることに居たたまれなさすら覚えてしまう。
嗚咽は振動となって、それからこぼれてくる言葉も涙で濡れたものになっていた。
「すまなかった……わ、私はずっと、君を殺し続けてきた……アレンダートのため、世界のためと言いながら、無関係な君らを、ずっとだ……」
転生した魂はオレみたいにみんな記憶がなかったんだろう。それをこいつは優しい顔と地位を使って連れ込んでは、殺してきた。
「君に謝っても意味のないことだとは、理解している……聞き流してくれて構わない。私が、言いたいだけなんだ……」
ああ、こいつはオレだけじゃない。魂に話しかけているんだ。今まで殺してきた魂に向けて、懺悔を続けている。
それしかないと知りながら、理解しながらも、心を摩耗させてきた。節くれだったオレの手は痛いほど強く握られているが、振りほどく気にはなれない。
シーツにこぼれる水滴は増える一方で、比例して嗚咽は言葉を濁していく。もはやただ謝るだけになった聖獣を前に、オレは言葉を探しあぐねていた。
「すまなかった……本当に、すまなかった……」
どれだけ昔のオレに謝ったところで、こいつを許せるのは今のオレだけなんだ。
でも、無事なオレが許すことに意味なんてあるのか。オレは勇者でも、被害者でもねえ。どの面下げて被害者の代弁者ぶれるっていうんだ。
だけど、いつの間にか自由な方の手が動いていた。まるで魂がこうしろとでも言っているかのように、豊かな黄金のたてがみを手櫛で流しほどいていく。
「まあ……いいんじゃねえの?」
いつもなら自分を殺そうとした相手を許すなんてありえねえってのに、オレの口は意志とは真逆のことをつぶやいていた。
それは目の前で泣きながら懺悔するイーラガッタを見て、情に流されたのかもしれないし、魂を見透かすような謝罪が鬱陶しくなっただけなのかもしれない。
「もうオレのことを殺さないってなら、オレは許す。他の奴らは知らん」
ただこの龍に泣いてほしくないという感情が、どうにも心の内から湧き上がってきて止まないんだ。記憶なんてないっていうのに、そうすることが正しいと無意識に理解しちまってる。
龍はオレの言葉をまだ噛み砕けていないようで、顔を上げた拍子に溜まった涙がはらりと零れ落ちていく。威厳ある相貌もこうなりゃ形無しで、雫を吸った髭がどうしたって憐憫を誘う。
「そうか……君は優しいね。その魂はやはり彼のものなんだと思わされるよ」
慈しみを湛えた微笑みは荒れた生活を送っているオレとは縁のないもので、むずがゆくてたまらない。いかつい髭を持った龍だというのに、表情がすべての印象を柔らかく上書きしている。
ようやく笑ってくれたことで溜飲が下がったのか、内心の衝動はもうない。まるで自分が自分じゃないみたいで気に食わねえけど、泣き止ませたい利害は一致しているんだ、気にしないさ。
「ふん、そんなのは知らねえよ。オレはただ自分の感性でしゃべってるだけだ。でも、慰謝料は弾んでもらうからな。聖獣様のスキャンダルだ、口止め料も相当になるだろ」
だけどすぐにこうした即物的な話しかできない自分にほとほと嫌気がさすが、こちとら孤児育ちの金に困った傭兵だ。金で女を抱くことはあれど、握られた手の温かさなんて知らねえから、正解の返答なんてわかるわけがねえんだ。
「もちろんだとも。君が望むなら、好きなだけ持って行って欲しい。……だが」
「精液だろ。好きに持ってけよ。オレは結構多い方だから、すぐ終わるだろ」
「いや、それはありがたいのだが……」
何故そんな口ごもるのかと思ったら、どうやら必要な精液が膨大過ぎて一回や二回では到底まかないきれないらしい。ていうか、オレの人生全部捧げても間に合わないのだとか。
「じゃあどうすんだよ……」
「君だけにすべてをまかなってもらおうとは思っていないよ。来世でも、そのまた来世でも、私は何度でも君を見つけるよ」
「そりゃまた気の遠くなるような話で……」
けどそんな希望でも、こいつにとっては大事なんだろうな。表情が全く違って、輝いているようにも見える。悪魔に救いを求めるくらいだ、憔悴しきってたんだろう。
「だけど、君を囲う話をもう一度させてもらえないだろうか。君のために郊外に家を買おう。蝕むすべてを排除して、そこで何不自由なく暮らしてほしいのだ」
「……死ぬまで飼い殺しってことかよ」
「そういう見方もできるかもしれないが……決して不自由はさせない。私の培ってきた財と名誉をもって、君を守ると誓おう。だから私の側にいてくれないか」
ここだけ聞くと愛の告白みてえだな。でも多分、こいつが愛しているのはオレじゃねえ。そのくらいはわかるさ。
だけど正直条件としては破格だ。命を取られないどころか、豪奢な暮らしをさせてもらええるってんだからな。死ぬ気で傭兵やっててもできない暮らしをさせてもらえるなら、別に悪くねえな。
「……君は傭兵に未練などないのかい?」
「あるわけねえだろ。あんないつ死ぬかもわからねえうえに、金持ちの道楽で身売りするような仕事。楽に暮らせるならそれに越したことはねえんだよ。生きるためにやってんだ、好きでやってねえ」
「そうか……辛かったね」
また撫で返されそうだったので、首を振って逃げた。孤児だったから他人の憐憫に対しては人一倍敏感なんだ。憐れみなんて何の役にも立たないもんはいらねえ。
「同情なんて求めてねえ。別にオレの人生の責任はお前にねえんだ。こんな魂になったのだって、お前が悪いわけじゃねえんだろ?」
「だが、私がもっとしっかりしていたら、こんなことにはならなかったんだ……」
「たらればで責任を背負おうとすんじゃねえよ。傭兵やってりゃ、一瞬の判断ミスで死ぬことなんてざらだ。そのたびに責任感じてちゃ、もたねえんだよ」
「やはり君は優しいね」
「新しい雇い主様への媚び売りに必死なだけだ。悪いが、こっちがオレの素だからな。偏屈だってよく言われる」
「そうかい? 私からすれば、君は優しい人だと思うが。アレンダートも不器用なところがあってね、人を慰めるのがへたくそだった」
「……そういうつもりはねえってのに」
長きを生きた聖獣様からすれば、オレの偏屈も可愛いものなんだろう。しかも長年の憂いから解放された今、心の広さにも余裕がうかがえる。
イーラガッタはようやくオレの手を解放してからハンカチで目元をぬぐい、近くにある椅子へと腰かける。看病されてるみたいでむずがゆいが、かといって逃げられる気はしなかった。
「それで、精液が欲しいという話なのだが……」
荘厳な見た目に恥じらいを浮かべて、龍はどもる。
「言ってくれたらどんな人でも身受けしよう。もちろん、非道なことは推奨できないから、君の性的指向が真っ当であることを祈りたいところなのだが……」
「別に娼館を出禁になったりはしてねえから、多分まともだと思うぜ。まあ、主観だがな。でも……」
なんでこんなことをしたのか、オレにはわからねえ。
こういう時は大体魂のせいだ。わずかに残った勇者としての部分が、隆々とした龍へと手を伸ばしてその法衣をつかませたんだ。
「……お前は駄目なのかよ」
「………………」
完全に聖獣は固まって、衝撃を受け流しきれていない。
かくいうオレもそうだ。何だってこんな大男を相手しようとしてんだ。
一応男色の経験はあるが、メインじゃなかったはずだろうが! ああいうのは任務中に処理するために仕方なくやってただけで……ああもう、自分がわけわかんねえ!
「悪い、やっぱなしで。ちょっと混乱してるみてえだわ」
「そ、そうだろうとも……一度にたくさんの情報を摂取しすぎたのだ。落ち着いてからゆっくり考えてみるといい……」
「ちなみに、なんだが……おまえって雄なのか?」
「…………」
さすがに気娘のように顔を赤らめるとかはしないが、困惑は隠しきれていない。落ち着きのない動きで尻尾をくねらせながら、イーラガッタは苦笑してたしなめるような声音を放つ。
「一応は男性の造りをしているよ。もっとも、聖獣は普通の生き物とは違い、子を残すことはできないが……」
「そっか……」
正直なんでそんなことを気にするんだと自分に突っ込みたい。この見た目で雌はないだろうという感情と、ひょっとしたらという希望があった。
女性だったらオレがこんな感情になったのも百歩譲って受け入れられる気がしたんだが、どうやら見当違いだったみてえだ。
ってことは絶対魂に引っ張られてるな。自覚し始めたとたんにこれかよ……。
「勇者の魂が強すぎるだろ……」
「魔王に侵食されながら長年耐えているくらいだからね。……もしかして、記憶が少し戻ったのかな?」
「そうじゃねえんだけど……そうとも言えるし……」
「こう言ってはなんだが、アレンダートの生まれ変わりがこれほど長生きできたことはないんだ。だからもしかすると、呪いの影響で記憶が戻るようになっているのかもしれないね」
「勘弁してくれよ……オレはまだオレでいてえんだ。お前にとってはそのほうがいいかもしれねえけどさ」
と言ってから、今のは最悪な失言だったことに気づいた。
「……悪い。さすがに駄目なことを言った」
「いや、構わないとも。私はそれだけのことをしていたのだ。信用できないのも、不審になるのも、しょうがないことだ」
言葉の通り、オレの暴言を受け止めるイーラガッタは淡々としていて、感情を乱された様子はない。覚悟を決めているとは思っていたが、さすがは聖獣か。
「だから、もし君が本当に私を望むというのなら、好きにしてよいとも。老化とは無縁ではあるが、なにせロートルだからね。ベッドを共にしても楽しいとは思えないが、望むなら構わない」
「……覚悟決めすぎだろ!」
「これくらいせねば、君は信用してくれないだろう? 私は君に、今までの君たちに、報いる義務がある」
「やっぱ聖獣だわ……」
身を粉にして人々のために働く、こいつは紛れもなく聖獣だ。贖罪とはいえ、龍の体には値段なんて付けられねえだろ。
法衣でごまかしてはいるが少し触った感じ、全身が筋肉の山だ。しかも伝説の存在で、見た目も十分整った凛々しさとくれば、大枚はたいたところで触ることすらできないだろ。
どんな娼婦も見受けしていいとは言ったが、こいつ以上に価値のある存在がこの国にいるわけねえ。それでもなお、イーラガッタは自分を差し出すと言ってのける。その価値を理解したうえで、だ。
そう考えると胸が熱くなる。なんで急にこんな感情を抱いたのか理解できねえけど、確実に言えるのは、オレがこいつを好いているということだ。
意味わかんねえだろ。殺されそうになったくせに、許すどころか好ましく思うなんてよ。
絶対魂のせいなのは分かるが、いったん落ち着く時間が必要だ。
「……わかった、そんな気分になったら頼むわ。今はちょっと、考えがまとまらねえ」
「そうだね、今はゆっくりお休みジギタリス」
どうしようもない問題から目を背けて、オレは布団をかぶる。
イーラガッタの提案はいうなれば精液を与える代わりに保護を受けるって話だ。条件としちゃ破格だし、断る理由もねえ。少し行動が制限されそうだが、ある程度は許容範囲だ。金持ちに飼われるって考えたら、断然待遇はいい方だしな。
だが、どうしたって魔王になるという不安は心にくすぶる。オレが切り札として使っていたこの力がそんなもんだったとは、想像すらしていなかった。
最終的に、オレは自我をすべて塗りつぶされて魔王になる。それは遠い未来だと言われたところで不安が消えるわけがない。
死線をいくつもくぐってきたとはいえ、死の宣告を受け流せるほど豪胆じゃねえ。
できれば来世の自分に丸投げしたいもんだ。オレは悠々自適なヒモ生活をさせてもらう。
なんて都合のいいことを考えながら、龍の微笑ましい視線から逃げるように眠りの船を漕ぐことにした。
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