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クラウストラムの地下深くに、石牢がある。
普段、ほとんど使われる場所ではない。
だが今、その独房のひとつに、灯りが点っている。
そこにやってきたのはメイド服を身に纏った一人の少女だ。
館に仕える精霊のしもべのひとり、エマである。
髪の毛と同じ色の鳶色の瞳に緊張したような、やや不安げな感情を浮かべ、灯りの点った房の前に立つ。
懐から一本の鍵を取り出すと、頑丈な鉄扉を開けて中に入っていく。
魔法の灯りに照らされた六畳間ほどの大きさの独房の中には、調度品のようなものは何もない。
ただ奥側の壁から、囚人を縛りつけておくための鎖が伸ばされているだけだ。
そして今、その鎖には何者かが繋がれている。
それは人ではない。
部屋に入ってきたエマよりも幾分か小柄な体躯。
脚は短く、体はやせ細っているが腹だけはぼってりと膨らんでいる。
黄緑色の不健康で不潔な体表。
形の歪んだ醜悪な顔。
黄色く濁った白目と黒い紡錘形をした虹彩を持った凶々しい瞳でエマのことを睨みつけている。
大きく裂けた口にはやはり黄色く濁った乱杭歯が並んでおり、絶え間なく涎を垂らしながらシューシューと呼吸音をたててエマのことを威嚇している。
低級な障魔の一種、ゴブリンだ。
独房にこもったゴブリンの放つ濃厚で不快な悪臭に顔をしかめながらも、エマはゴブリンの届かぬギリギリのところまで近づいた。
[[rb:大地と樹木の精霊 > ドライアド]]の顕現であるエマにとって、大地を、生き物を汚す存在である[[rb:腐れる地の精霊 > ゴブリン]]は、まったく相反する存在といっても過言ではない。
そんなゴブリンと一対一で相対して彼女は一体、何をしようとしているのだろうか。
「うぅぅ……ひどい匂い……」
エマは鼻を手で覆った。
わずかに身を屈めて、威嚇するゴブリンを正面から見据える。
「ねぇ、ゴブリンさん……まだあなたの中に、あたしはいるの?」
エマの言葉を聞いたゴブリンが、一瞬驚いたような表情を浮かべたように、見えた。
その顔は、知性のある者の、表情だ。
それは、ほんの瞬時のことで、すぐにゴブリンは先程までと同じように歯を剥き出して、唸り声を上げ始めた。
だがもはやエマにはその様子がいかにもそう装っているように感じられてしまう。
(やっぱり……やるしか、ないのか……)
もうエマにはあまり時間は残されていない。
アデラがエマに告げた通り、眠らされ封じられたエマのうちに潜む者がじきに弱りきって消滅してしまえば、残された仮初めのエマは本来のエマの内に戻ることになる。
[[rb:幻力の面紗 > マーヤーのヴェール]]に覆われてゴブリンと化した、本来のエマのもとに。
そうなれば、エマという存在は世界から消え失せ、一匹の醜く下劣なゴブリンが残るだけだ。
蜍没が滅び、エマ自身がそれを望まぬ以上、エマは永遠にゴブリンの内側に閉じ込められることになってしまう。
そうなる前に、幻力を打ち破り本来のエマを救い出さくてはならない。
そして、今のところその方法は、フェイとノルンが既に成し遂げたという方法しかなかった。
それは、エマにとってはとてつもなく恥ずかしく、苦痛なものであったが、それだけに他人に替ってもらうことなどできはしない。
自分自身で、やり遂げるしかないのだ。
エマは、もう一度ゴブリンを一瞥してから、深呼吸をすると、メイド服のエプロンの結び目に手をかけた。
そろそろと身にまとっている服を、脱いでいく。
その様子を、見せつけるようにして。
殊更に威嚇の表情を見せていたゴブリンの様子が変わった。
目を大きく見開き、エマが脱衣する様子を見つめる。
その息が少しずつ荒くなっていく。
興奮しているのだ。
粗末な腰布を持ち上げ、大地を、生き物を汚すための邪悪な器官が持ち上がる。
その先端からは、ゴブリンの汚れた精が漏れ始め、窓一つない狭い石牢の中に、濃厚な臭いが立ち込め始めた。
そのむせ返るような匂いに、頭がくらくらするような感覚を覚えながらも、エマはついにメイド服を脱ぎ去り、下着だけの姿となった。
エマは、ぎこちなく作り笑顔を浮かべ、腰を曲げ、胸をゴブリンの前に突き出すような姿勢をとった。
ひらひらと手を振りゴブリンに微笑みかける。
胸を両手で持ち上げ、揺らして見せる。
ゴブリンの情慾を、刺激しようとしているのだ。
そのようなことにはまるで不慣れなエマではあったが、[[rb:大地と樹木の精霊 > ドライアド]]の美しい肢体のあられもない姿を前に、ゴブリンの興奮は異常なほどに高まっていた。
「グハァ……オデ……オデ!……エマァ!……」
自身がくくりつけられた真鉄の縛鎖から逃れることはできず、ゴブリンは目を剥きながら、エマの名を叫んだ。
森に現れたゴブリンであれば、その名を知るはずがないにも関わらず。
目前で歯をカチカチと鳴らし、涎を撒き散らして興奮するゴブリンの様子に、エマは怯みながらも、努めて扇情的になるように、そろそろと下着を脱ぎ始めた。
この下劣な生き物を、脱衣しながら、誘っているのだ。
そういう風に意識してしまうと、エマの気持ちもどうしてか昂ぶっていく。
石牢の中には、ゴブリンの精臭と、エマの放ち始めた蜜の香りが充満していく。
そして、その香りにゴブリンはますます興奮していく。
手の届かぬ目前で、エマが、自分が何よりも貶め汚したい存在が、その美しい肢体を見せつけて、自分を挑発している。
ついにエマは全裸となり、滾り狂うゴブリンの目前に秘部を露わにしてみせた。
次の瞬間。
「ゥエマァ〜!」
ゴブリンが異様な叫び声をあげ、その下の石床を突き破ってつる草が一気に広がった。
それはエマの、[[rb:大地と樹木の精霊 > ドライアド]]の力だ。
つる草が真鉄の縛鎖に巻きつくと同時に、ゴブリンの顔がふたつに割れた。
皮を割くようにその内に閉じ込められていた存在が抜け出してくる。
「あ、あたし……!」
エマは叫んだ。
外側を覆っていたおぞましいゴブリンそのものの、恐ろしい形相で、本来のエマが飛び出してきた。
情欲を阻む縛鎖を破るために、ついに自分本来の精霊の力を使ったことによって、本来のエマは自らがゴブリンであることを否定した。
[[rb:幻力の面紗 > マーヤーのヴェール]]を打ち破ったのだ。
本来のエマは目を剥き、歯をむき出しにした、ゴブリンそのものの形相でもうひとりのエマを睨みつけていた。
しかし彼女を覆っていたゴブリンの醜悪な肉体は、形を失い、黒ずんだ粒子のようになって霧散していく。
そして、本来のエマをあ然と見つめるもう一人のエマの身体も、燐光を帯びた粒子となって、本来のエマに吸収されていった。
「あ……あ……」
今やただひとりとなったエマは、声にならぬうめき声をあげながら、石牢の床にうつむけに突っ伏してしまう。
「う……あ……あたし……」
ふたつの記憶と感情がひとつとなり、脳裏を飛び交う膨大な情報に、エマは呻いた。
涙がボロボロとこぼれ落ち、鼻水とよだれも垂れ流しだ。
受け止めることの難しい記憶が、奔流のように走る。
醜悪なゴブリンに成りきって、自分自身を貶めるためにひたすら繰り返した下劣な行為の記憶。
自分自身に成り変わったゴブリンとして行った、満足遊跳に対する卑劣な奸計の記憶。
(あ……あたし……ユートさんに……大変なことをしてしまった……)
憔悴して荒い息をつきながら、エマはしばし突っ伏したまま泣き続けた。
そして数刻の後。
エマはやっとのことで涙でベトベトになった顔をあげた。
とにもかくにも、自分はなんとかやり遂げたのだ。
この石牢を出て、事の顛末をアデラ達に伝えなくてはならない。
遊跳に……彼に対したときにどんな顔をすれば良いのだろう。
エマはよろよろと立ち上がり、石牢の入口に向かおうとして、足を踏み出した。
その、動きが阻まれた。
「……あれ?」
彼女の両手首には、依然として真鉄の手枷が鎖で繋がれていた。
縛めのつる草では、その鎖を断ち切ることはできなかったのだ。
「ちょっと、イヤだ……これ……何で?」
目を白黒させて鎖を引くエマだが、彼女にそこから逃れる術はない。
もちろんエマはその鍵を持っていない。
そして石牢の中で叫んでも、地上に声が届くことはない。
エマはただ一人、石牢の中で、一糸まとわぬ姿で閉じ込められてしまったのだ。
いつかはノルンかフェイが様子を見に来てくれることは間違いない。
だがそれは一体どのくらい先のことになるだろうか。
「もう、いや……」
エマは冷たい床の上に力なくへたり込んだ。
[newpage]
何日かが過ぎた。
クラウストラムを囲む深い森の中にある丸太小屋を、エマは再び訪れていた。
小屋の中で一人、神妙な面持ちで衣服を脱いでいく。
幻力の軛を逃れて以降、エマは自分の中で何かが変わったと感じていた。
分かたれた自分の存在が一つに戻ったあの時、仮初めのエマの内に潜んでいた者はその姿を露わにすることはなく、魔玉も形を取り戻すことはなかった。
きっと、混じりこんでしまったのだ、とアデラは言った。
その言葉に寒気を覚えたのは自分だけで、同じことを体験したはずのフェイもノルンもいたって平然としているし、アデラもそのことを問題とは思っていないようだった。
「エマ。人間であれ、精霊であれ、長く存在し続ければ変化していくものなのよ。それは常に美しく、素晴らしいものとは限らない」
まるで諭すようにアデラは言った。
「どんなに拒絶しても、今はもうあなたの本質の一部なの……だから向き合わなくてはならないのよ」
エマがこの丸太小屋を再び訪れたのは、アデラの言葉を確かめるためだった。
魔玉に囚われたときから抱いている彼女を苛む欲求は、消えていない。
それどころか、以前よりも強くなっているようにすら感じられる。
今のエマはそれを頑なに抑え込んでいるが、そのたがが外れるのは、時間の問題だった。
それを待つまでもなく、抑え込もうとすることを止めるだけでその欲求はエマの外側に溢れ出すだろうと、エマには思えた。
自分はそれを克服できるだろうか。
向き合って、それを確かめなくてはならない。
衣服を脱ぎ去り、一糸まとわぬ姿になったエマは、心を落ち着けようとして、目を瞑り、深く息を吐いた。
すると。
エマの身体の内側から黒い粒子のようなものがふつふつと湧き出してきた。
それはじきにエマの全身を真っ黒に包み込み、そのシルエットを作り変えていく。
美しいドライアドの少女の姿から、醜いゴブリンの姿に。
やがて、粒子の覆いは、黄緑色のしなびたコブだらけの表皮へと質感を変じていく。
ほどなく、エマの姿は、完全にゴブリンのそれへと変わってしまった。
肩と首を回し、腰を動かしてみる。
ゴブリンの皮の内側で、締めつけられたエマ本来の身体が悶える。
「ふひ……ヒッ……ヒッ……」
自分のやってしまったことがおかしくて思わず、声が漏れた。
あんな恥ずかしい思いをしてまで、やっとのことでこの醜いゴブリンの姿から逃れ得たというのに。
自分から好き好んで、元に戻ることを選ぶなんて。
エマは、高揚感に包まれて自らを覆う醜い体を撫で回した。
「グゲッ……ゲヒヒ……」
品性のかけらもない下劣なゴブリンとして振る舞うことに興奮を覚える。
汚れた精を思う存分放出して、自らを貶めたい。
黄色く濁った瞳に狂気を湛え、ゴブリンとなったエマは丸太小屋の外に飛び出していった。
……丸太小屋を汚してしまうことは避けようと思ったからだ。
[newpage]
それから数刻後。
丸太小屋の扉が開いた。
ゴブリンとなったエマが、中に踏み入ってくる。
外で欲望を発散しきったのか、満足げな表情を浮かべている。
がに股の下品な動作で部屋の真ん中まで足を進めると、座り込む。
それから目をつむると、徐々にゴブリンの体表が黒ずんでいった。
それは粒子状に分解していき、内側の肉体に吸収されていく。
ほどなく醜いゴブリンの体の内側から、美しいドライアドの少女の肉体が現れ出でた。
「ふう……」
ドライアドの姿に戻ったエマは、深く息を吐きそれからころんと小屋の床に寝転がった。
心なしか満足そうな表情だ。
それは自力で、自分の意志で、姿を変えることができたからだ。
元の姿に戻ることが、できたからだ。
自分の中に混じってしまったゴブリンの意思に飲み込まれることなく、自分の意思でそれを制御できたのだ。
凶々しい情慾に支配されきってしまうことなく、克服したのだ。
もちろんそれは、充分に欲求を発散した上のことではあったが……。
(……)
脱力したまま、無言でしばらく床に寝転んでいたエマは、やがてそろそろと起き上がると、ベッドにおいてあった自分の衣服を手に取る。
いつまでも館を離れているわけにはいかない。
下着を身に着けようとして、ふと、自分の身体の肌色が目に入る。
心臓がどきりとする。
(あたしって……)
こんなに可愛かったけ?
心の中に浮かんだのは、そんな疑問だ。
エマには、自分の容姿が審美的に見て優れているという自覚は、ある。
だが今、自身の身体を見て込み上げてくる感情はそういうものとは少し異なるようだった。
鼻をすんと鳴らすと、爽やかな汗臭混じりの芳香が感じられる。
エマは思わず、ごくんと唾を飲みこんだ。
ほんのりと頬を染めながら、やっとのことで衣服を身につける。
ただ服を着るだけで、どうして自分はこんなにドキドキしているのだろうか。
(だけど……)
それは、不快な感覚ではない。
むしろそれは浮き立つような、ときめく感覚だ。
今までは存在しなかった自分の一部が、そんな風に感じさせているのだ。
それはエマにとって忌避すべき感覚ではない。
肯定できる、好ましい感覚だった。
……では、遊跳にとってはどうだろうか。
彼女の変化を、遊跳は受け入れて、くれるだろうか。
エマにとって、それはとても大事なことだ。
だが、エマという存在に加わった新しい一面は、少し前に満月遊跳という存在を決定的に変えてしまったいわば主犯であるのだ。
(ユートさんは……きっと、わかってくれるよ……)
エマはそのように信じたかった。
(それに……)
メイド服を着込みながら、エマは思い返してみた。
それが彼女を支配していた間の記憶を。
ゴブリンが、精霊の少女を汚し、嬲り尽くして、奴隷人形に貶めたときの記憶を。
はじめ、エマはそれをひたすらおぞましい記憶だと捉えていた。
遊跳に対して贖罪しなくてはならない、おそろしい行為の記憶だ。
だが、今のエマの捉え方はそれとは少し違っていた。
(……考えてみれば……ユートさんも……そんなに嫌がっていたわけじゃ、なかったよね……)
エマは思った。
たぶん、いずれは遊跳も自分と同じように、自身の内面と向き合わなくてはならないだろう。
その結果、エマの妹である精霊の少女が、そうであることを受け入れるのであれば……彼女は今のエマのことも受け入れてくれるに違いない。
そうなれば……結局のところエマのすべきことは変わらない。
常に彼女の傍らで彼女を庇護し、彼女の望むように、して、あげるのだ。
(だってあたしは、そう、誓ったもの)
そう心の中で呟くと、股間の奥が疼くような、何かが滾るような、切ない感覚が湧き上がってきた。
それは以前のエマには、存在しなかった、感覚だ。
着替えを終えたエマは、新しい想いを胸に、丸太小屋を後にした。