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「私は、シュナになる」
――地味な会社員の優奈には、美少女着ぐるみで理想のキャラに変身する秘密の趣味があった。
だが、至福の時間は妹・加奈の突然の帰宅で打ち砕かれる。
着替える暇もない優奈は「等身大フィギュア」になりきり妹を欺く賭けに出るが、溢れる汗と熱が「中身」の存在を暴き出し……。
姉妹の密室で境界線が崩れ去る。
※FANBOX / Pixiv 同時掲載
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都内の2DKマンション。リビングに足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んでくるのは壁一面を覆い尽くすように飾られた、全て同じキャラクターのグッズだった。
ポスター、フィギュア、缶バッジ、アクリルスタンド、クリアファイル、タペストリー、ぬいぐるみ、抱き枕カバー。
棚には整然と並べられた限定版のブルーレイボックス、原作小説の特装版、各種雑誌の切り抜きを丁寧にファイリングしたバインダー。
部屋の主である中川優奈(24歳)の給料の半分、いや、もしかしたらそれ以上が、全てこの異世界転生アニメのヒロイン「シュナ」に注ぎ込まれている。
優奈は、いわゆる「地味で真面目」なタイプの女性だった。
会社では、必要最低限のコミュニケーションしか取らない。朝の挨拶も小さな声で、誰かと目が合うとすぐに視線を逸らしてしまう。
ランチは一人で食べることが多く、休憩時間も自分のデスクで過ごし、同僚が飲み会に誘ってくれても、だいたい断る。
「優奈ちゃんって、何考えてるかわからないよね」
そんな風に言われているのを、聞いてしまったこともある。
別に、人が嫌いなわけじゃない。
ただ人と話すのが苦手で、何を話せばいいか分からなくて...
気づくと、いつも一人でいる。
服装も地味だ。
黒、紺、グレーといった無難な色のシャツとパンツやスカートにメイクも最小限。
髪は肩までの長さで、いつも後ろで一つに束ねている。
妹の加奈が「もうちょっとオシャレしようよ」と言ってくれても、「別にいいよ」と答える。
目立ちたくない。
注目されたくない。
できれば、誰の視界にも入らずに、静かに生きていきたい。
そんな、暗くて地味で、おとなしい女性。
それが、中川優奈という人間だった。
でも、そんな優奈にも心の底から愛せるものがあった。
シュナ
異世界転生アニメの登場するキャラクターの「シュナ」
優奈にとって、シュナは単なる推しキャラではなかった。
もはや人生そのもの、生きる理由と言っても過言ではない存在だった。
ピンク色の長く美しい髪。
白い巫女装束の上に、薄ピンクの花柄の羽織を優雅に羽織り、鮮やかな赤い袴スカートが華やかさを添える。
帯飾りが全体のバランスを整え、切長の大きめの瞳は綺麗なピンク色で、口元は少し微笑んでいる。
可憐でありながら気品に満ちた容姿。
優奈はシュナの全て、その存在の全てが愛おしくてたまらなかった。
仕事から帰宅すると、まずシュナのグッズに囲まれたリビングに直行する。
お気に入りのフィギュアを眺め、新しく届いたグッズを開封する時間が、優奈にとって何よりも幸せな瞬間だった。
「お姉ちゃん、また増えてるよ? 先月買ったばっかりじゃん」
3歳年下の妹、加奈(21歳)が呆れたような声で言う。
リビングに入ってきた加奈は、新しく飾られたフィギュアを見て、思わず溜息をついた。
この2DKのマンションは、元々は優奈が一人暮らしをしていた部屋だ。2年前、加奈が大学進学をきっかけに、実家を離れて上京することになった。
その時、「お姉ちゃんと一緒に住めば家賃も浮くし」という理由で、加奈はこの部屋に居候することになった。
加奈には専用の部屋が一つある。でも、リビングやキッチンは、優奈が使っていた時のままだ。
だから、リビングの壁一面には、シュナのフィギュアやグッズがそのまま飾られている。
最初、加奈は「ちょっと多くない?」と言ったけれど、今ではすっかり慣れた。むしろ、このリビングに入ると、「お姉ちゃんの家に帰ってきた」という安心感すら覚える。
加奈は、優奈のことが大好きだった。地味で暗くて、人と関わるのが苦手な姉だけど。いつも優しくて、困った時は助けてくれる。そんな姉と一緒に暮らせることが、加奈にとっては嬉しいことだった。
「だって、このフィギュアは限定版なんだもん」
優奈は嬉しそうに、新しく届いたフィギュアを手に取って見せる。
「ほら、見て見て。この表情の作り込みとか、すごいでしょ? 衣装の質感も完璧なの。特に、この袴のプリーツの再現度とか…」
目を輝かせながら細部を説明する優奈の姿に、加奈は小さく溜息をつく。でも、その表情には呆れだけでなく、少しだけ羨ましさも混じっていた。
明るく社交的で、友達も多い普通の女子大生である加奈。
優奈とは正反対のタイプだと自分でも思う。
アニメは好きだし見ることもある。
でも姉のような熱量はない。
何かひとつのことに、ここまで夢中になれるものがない。
サークルも、バイトも、友達付き合いも、全部楽しい。
でも、どれも「すごく」ではなく「まあまあ」楽しいだけ。
姉のように、何かに全力で没頭できる、そんな対象を持っている人が、実は少し眩しく見えていた。
「まぁ、お姉ちゃんが幸せならいいけどね」
加奈がそう言って自分の部屋に戻っていく。その背中を見送ると、優奈は改めてシュナのフィギュアを見つめた。
丁寧にライトアップされた専用の棚に飾られた、シュナの優しげな微笑み。
そして、優奈は誰にも言えない秘密を思い出して、胸の奥がざわざわと高鳴った。ドキドキと脈打つ心臓。少し呼吸が浅くなる。
その秘密は、クローゼットの奥深くに、厳重に隠されている。
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優奈には、妹にすら明かしていない秘密の趣味があった。
ーーシュナを再現した美少女着ぐるみ。
ただの着ぐるみではない。
シュナを完璧に再現した、特注の、世界にたったひとつの逸品だ。
クローゼットの奥深く、古い冬物のコートの陰に隠された段ボール箱。
表面には「書類」と書かれたラベルが貼られているが、中身は全く違う。
慎重に箱を開けると、丁寧に梱包されたあの姿が現れる。
ピンク色の長い髪を持つマスク。
白い巫女装束。
薄ピンクの花柄の羽織。
鮮やかな赤い袴スカート。
帯飾り。
そして、全身を覆うベージュ色のタイツ。
優奈がこの着ぐるみを手に入れたのは1年前のこと。
きっかけは、あるイベントで見かけた着ぐるみパフォーマーだった。
当時、優奈はシュナのグッズ販売イベントに参加していた。
会場では、美少女着ぐるみによるグリーティングが行われていた。
その着ぐるみを見た瞬間、優奈の心臓は激しく高鳴った。
目の前にいる。
シュナが、目の前にいる!
二次元の存在が、三次元に現れている!!
いろんな人達に囲まれ、優しく手を振るシュナ。
その仕草のひとつひとつが、まるでアニメから抜け出てきたかのように可愛らしかった。
優奈はその場から動けなくなった。
ただずっと、シュナの姿を見つめていた。
胸の奥から、言葉にできない衝動が湧き上がってくる。
ああ、なりたい。
私も、シュナになってみたい。
家に帰ってからも、その光景が頭から離れなかった。
ベッドに横になっても、目を閉じれば、あの着ぐるみの姿が浮かんでくる。
もし、自分がシュナになれたら...
その衝動は日に日に強くなり、ついに優奈は決断した。
貯金を切り崩してでも、自分だけのシュナを手に入れよう、と。
ネットで見つけた着ぐるみ製作者。最初のメールを送る時、手が震えた。
でも、返ってきた返信は丁寧で、優奈の要望を真摯に聞いてくれた。
「シュナというキャラクターを、できる限り忠実に再現したいんです」
優奈は製作者に、大量の資料画像を送った。
アニメのスクリーンショット、公式イラスト、フィギュアの写真。あらゆる角度から撮影された、シュナの姿。
製作者とのやり取りは3ヶ月に及んだ。マスクの造形、髪の色、衣装の生地、細部のデザイン。ひとつひとつを確認し、修正を重ねていく。
そして、ついに完成品が届いた日。
段ボール箱を開けた瞬間、優奈は息を呑んだ。
完璧だった。目の前にあるのは、まさにシュナそのものだった。
その日から、優奈の秘密の時間が始まった。
加奈が夜遅くまで外出している時。
加奈が友達と泊まりで出かけている時。加奈がすでに寝静まった深夜。
優奈は、加奈の目を盗んでは、密かにシュナに変身した。
最初に変身した時のことは、今でも鮮明に覚えている。
全身タイツに身を包み、衣装を着て、マスクを被った瞬間。
鏡に映った自分の姿を見て、優奈は思わず声を失った。
そこにいたのは、優奈ではなかった。
シュナだった。本物のシュナが、鏡の中に立っていた。
その瞬間の感動は、言葉では表現できない。
胸の奥から込み上げてくる、熱いもの。
でも最初の頃は、15分も着ていられなかった。
マスクの中は、想像以上に暑くて、息苦しかった。
視界は狭く、呼吸は苦しく、汗が噴き出してくる。頭痛がして、めまいがして、立っていられなかった。
15分程度で限界。
マスクを外すと髪の毛は汗で湿り、顔にはスポンジの跡がくっきりと残っていた。
それでも、優奈は諦めなかった。
シュナでいられる時間を、少しでも延ばしたい。
シュナとして、もっと自然に動けるようになりたい。
そのために、優奈は練習を続けた。
最初は週に1回、着られるかどうか。
加奈が外出している隙を見計らって、こっそりと変身する。
15分、20分、25分。
少しずつ、着ていられる時間が延びていった。
1ヶ月が過ぎる頃には、30分〜40分は着ていられるようになった。
2ヶ月が過ぎる頃には1時間以上。
そして、加奈が友達と旅行に行った時、優奈は、初めて丸一日1人で過ごせる時間を手に入れた。
その日、優奈はシュナに変身して、できる限り長く過ごそうと決めた。
1時間、2時間。休
憩を挟んでまた変身。
もう一度休憩してから、また変身。
でも3時間連続で着続けた時、シュナの中で異変が起きた。
視界がぼやけ、意識が遠のいていく。
体がふらふらと揺れ、このままでは倒れてしまうと思った。
優奈は、急いでマスクを外した。
外した瞬間、その場にへたり込んだ。
息が荒い。
心臓が激しく鼓動し、全身が汗でびしょびしょだった。
危なかった...
本当に、危なかった...
それ以来優奈は決めた。
連続での着用は、長くても1時間半から2時間まで。
それ以上は危険と判断した。
でも、それでも。
シュナでいられる時間は、優奈にとって、何ものにも代え難い大切な時間だった。
自分だけの、特別な時間。
誰にも邪魔されないシュナとしての時間。
優奈は、その時間を増やすために、何度か妹の加奈に打ち明けようとしたことがある。
「加奈、あのね…」
そこまで言いかけて、やめた。
着ぐるみ。
それも美少女着ぐるみ。
アニメキャラクターの美少女着ぐるみ。
いくらシュナが好きだからといって。
いくら加奈が理解のある妹だからといって。
これは、さすがに、行き過ぎた趣味だろう。
引かれるかもしれない。
気持ち悪いと思われるかもしれない。
距離を置かれるかもしれない。
優奈は怖かった。
加奈に嫌われるのが怖かった。
だから、まだ言えずにいる。
1年経った今でも、まだ打ち明けられずにいる。
それからも、優奈は時間を見つけては変身するようになった。
休憩を挟みながら、トータルで4時間近くシュナでいたこともある。
シュナの姿のまま、自分の部屋でポーズを取ったり、アニメの名場面を再現したり。誰にも知られない、自分だけの特別な時間。
マスクを被った瞬間、不思議なことが起こる。
優奈は優奈ではなくなる。
鏡に映るのはシュナだ。
そして、優奈の意識も、少しずつシュナに寄っていく。
優しく、上品で、可憐なシュナ。
そのキャラクターになりきることが、優奈にとって何よりも幸せだった。
この秘密は、誰にも知られてはいけない。
たとえ妹にも、友人にも、誰にも。
これは私だけの、特別な世界なのだから。
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平日の朝、加奈は大学に向かうために支度を始めた。
リビングで朝食を食べながら、加奈が言う。
「お姉ちゃん、今日は講義が多いから、ちょっと遅くなるかも」
「そうなんだ。いってらっしゃい、気をつけてね」
優奈は努めて平静を装いながら答える。
でも、心の中では、すでにカウントダウンが始まっていた。
玄関で靴を履く加奈の背中を見送りながら、優奈の心臓は高鳴り始める。
「じゃ、行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」
ドアが閉まり、階段を降りていく足音が徐々に遠ざかっていく。
優奈は玄関のドアに耳を押し当てて、完全に足音が消えるまで待った。
そして、静寂が訪れる。
ふう、と大きく息を吐く。
手のひらが少し汗ばんでいる。
今日は振替休日で仕事が休み。
つまり、加奈が帰ってくるまでの約8時間、完全に一人きりだ。
最近は加奈の予定が詰まっていて、なかなかシュナに変身できる機会がなかった。
前回の変身から、もう2週間も経っている。
この日を、どれだけ待ち焦がれていたことか。
優奈は急いで自分の部屋に向かった。
部屋に入り、ドアを閉める。
心臓の鼓動が、早くなっている。
期待と興奮で、呼吸が浅くなる。
クローゼットを開け、奥に隠された段ボール箱を取り出す。
ずっしりとした重み。
この箱の中に、シュナが眠っている。
優奈は箱を床に置くと、深呼吸をした。
落ち着け、落ち着け。
時間はたっぷりあるんだから、ゆっくり、丁寧に変身しよう。
まず、外から室内が見えないように部屋のカーテンを閉める。
そして、全身鏡の前に立った。
今の自分の姿を、鏡で確認する。
地味な部屋着の、ごく普通の24歳の女性。
でもこれから、この姿は生まれ変わる。
優奈はパジャマを脱いだ。
下にはすでに、スポーツ用のインナーを着けている。
胸をしっかりとホールドし、激しい動きにも対応できる作りになっている。
段ボール箱を開け、中から丁寧に畳まれたベージュ色の全身タイツを取り出した。
この全身タイツは、頭部まで覆うタイプ。顔の部分だけが丸くくり抜かれており、首から頭頂部にかけてファスナーが付いている。
優奈はタイツの足部分に、自分の足を通していく。
ぴったりと密着する感触。
足首、ふくらはぎ、太もも。
生地が肌に吸い付くように、体のラインに沿っていく。
腰まで引き上げ、次に両腕を通す。
手首、肘、肩。全身がタイツに包まれていく感覚。
そして、フード部分。
優奈は自分の髪を、ヘアゴムで束ねた。
後頭部でひとつにまとめ、首の後ろに垂らす。
こうしないと、マスクを被った時に髪が邪魔になるから。
フード部分を頭に被り頭頂部まで引き上げ、顔だけを外に出した状態。
首の後ろから頭頂部へと続くファスナーに手をかけ、ゆっくりと閉めていく。
ジジジジ…
ファスナーが上がる音。
首、後頭部、頭頂部。完全に閉まった瞬間、頭部全体がタイツに包まれた。
鏡を見ると、そこに映っているのは、顔以外が全てベージュのタイツに包まれた、奇妙な姿。
まるで人形のような、不思議な光景。
この状態は、今でも少し恥ずかしくて、誰にも見せられない姿だ。
でも、これはまだ序の口。
ここから、本当の変身が始まる。
段ボール箱から、白い巫女装束を取り出す。
柔らかで上質な布地。
袖を通すと、ふわりと優しく体を包み込んだ。
前を合わせ、胸元の紐を結ぶ。
袖口を整え、裾を整える。
次に、薄ピンクの花柄の羽織。
繊細な花の刺繍が施された、美しい羽織。
巫女装束の上から優雅に羽織ると、シュナらしい可憐な雰囲気が増す。
そして、赤い袴スカート。
鮮やかな赤色が、白い装束と薄ピンクの羽織に映える。
腰に回し、紐でしっかりと結ぶ。
最後に帯飾りを腰に巻き、結び目を作り形を整えてから後ろにもっていく。
足元には、専用の足袋を履く。
白い足袋の上から、草履を履いた。
再び鏡の前に立つ。
ここまでで、首から下はもうシュナだ。
白と赤の衣装、薄ピンクの花柄の羽織に帯飾り。
でも、まだ完成ではない。
一番大切な部分が、残っている。
優奈は段ボール箱の中を見た。
そこには、ピンク色の長い髪を持つマスクが、静かに眠っている。
手を伸ばし、マスクを持ち上げる。
ずっしりとした重量感。
ピンク色の髪の毛の量が多いため、かなりの重さがある。
このマスクは、前面の顔パーツと後頭部パーツに分かれていて、両耳の上側には、小さな金具が取り付けられている。
この金具で固定することで、マスクが頭部に完全に密着する仕組みだ。
超小顔設計。
人間の女性の頭とほぼ同じサイズ。
だからこそ、衣装とのバランスが完璧になり、リアリティのあるキャラクターとして成立する。
優奈は前面の顔パーツを手に取った。
内側を覗き込むと、目の周り、額、顎、頬、頭頂部に、薄いゴムスポンジが貼られているのが見える。
これが演者の顔に密着しマスクを固定する。
シュナの瞳。
大きく、優しげで、どこか神秘的な輝きを持つ、ピンク色の瞳。
その黒い部分に、視界確保用の小さなスリットが開けられている。
内側に黒い布は優奈が自分で貼ったもので、外からは中が一切見えないようにした。
口元にも、ごく小さなスリットが開いている。
スリットがかなり小さいため、外から中の人の口や肌が見える心配はほとんどない。明かりを当てて、かなり近くで覗き込めば見えるかもしれないが、優奈はそんなことをしたことはない。
ここから、わずかに呼吸ができる。
優奈は深く息を吸い込んみ心の準備をする。
いよいよだ。
今から私はシュナになる。
優奈は前面の顔パーツを、自分の顔に当てた。
視界が一気に狭くなる。
広かった視野が、突然、小さなスリットからしか見えなくなる。
まるで、覗き穴から世界を見ているような感覚。
そして額、頬、顎に、スポンジが密着する。
ぐっと押し当てられるような圧迫感。
特に鼻の部分が、少し押し潰される。
鼻呼吸がほとんどできず、。自然と口で呼吸するようになった。
優奈はそのまま、後頭部パーツを手に取り、後ろから自分の頭に当てる。
前面パーツと後頭部パーツが、優奈の頭を完全に挟み込む形になった。
頭全体が、硬いプラスチックに包まれる感覚。
両耳の上側にある、小さな金具に手を伸ばす。
指先で金具を探り、前面パーツと後頭部パーツを繋ぐ。
カチリ。
右側の金具が嵌まった。
カチリ。
左側の金具も嵌まった。
その瞬間、マスクが完全に固定された。
頭部にぴったりと密着する。
完璧なフィット感。
優奈は口で、大きく息を吸い込み、ハァ…と吐き出す。
その吐息が、マスクの内側に跳ね返ってくる。
自分の熱い息が顔全体にかかり、少し気持ち悪い。
マスク内部の温度が、じわじわと上がっていくのが分かる。
湿度も上がっている。
自分の呼吸で、マスクの中が蒸されていく。
でもこの感覚、この密閉された世界。
外から遮断された、この特別な空間が優奈は好きだった。
鏡の前に立ち、全身が映る位置に移動する。
そこにいるのは、もう優奈ではなかった。
鏡に映っているのは、シュナだった。
完璧なシュナが、そこに立っていた。
ピンク色の長い髪。
切長の大きめの綺麗なピンク色の瞳。
少し微笑んでいる口元。
白い巫女装束の上に、薄ピンクの花柄の羽織。
赤い袴スカートに帯飾り。
全てが、完璧に再現されている。
優奈はシュナのマスクの中で、思わず笑みを浮かべた。
でも、その表情は外からは見えない。
マスクは微動だにせず、優しげな微笑みを浮かべたまま。
マスク内部で、自分の呼吸音が大きく響く。
ハァ…ハァ…
と、規則正しい呼吸。
自分の心臓の鼓動も、耳に響いてくる。
視界は狭い。
シュナの瞳のスリットからしか外が見えない。
しかも、自分の目とマスクの目の位置は完全には一致しないため、視線を正確に向けることが難しい。
息は苦しく、口呼吸だけでは十分な空気が入ってこない。
でも、それでも。
それでも、この瞬間が、幸せだった。
時計を見ると10時を少し回ったところ。
着替えに、約30分かかったことになる。
優奈、いや、シュナは鏡の前でポーズを取り始めた。
◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎
シュナは鏡の前で、ゆっくりと動き始めた。
まず、アニメの中でシュナがよくする仕草。
両手をそっと胸元に置き、優しく微笑むような動き。
マスクの表情は変わらない。
でも優奈の心の中では、確かにシュナが微笑んでいる。
次に、首を少し傾げてみる。
ピンク色の長い髪がふわりと揺れる。
その動きが鏡に映る。
美しい。
手を広げて、くるりと回転してみる。
マスクの重みで少しバランスを取るのが難しい。
約2キロの重さが頭部にかかっており、首に負担がかかるが、それもまたシュナでいることの証だ。
優奈は鏡に映る自分の姿に、完全に見惚れていた。
どの角度から見ても完璧なシュナ。
横顔も、後ろ姿も、全てが美しい。
時間を忘れて、ポーズを取り続ける。
アニメの中で、シュナが初めて登場した時のポーズ。
主人公を励ました時の仕草や、敵と対峙した時の凛とした立ち姿。
全てを、再現していく。
鏡の中のシュナが動く。
生きている、呼吸している。
マスクの中で、優奈の呼吸は少しずつ荒くなっていた。
動き続けることで、体温が上がっている。
マスク内部の温度も、それに伴って上昇していく。
額に汗が滲んできたけど、拭くことはできない。
マスクを外さない限り、顔に触れることはできない。
汗が目の上を流れていく。
少し視界が滲む。
何度も瞬きをして、汗を払おうとする。
それすらも、シュナでいることの一部だった。
ふと時計を見ると10時30分。
気づけば、変身してから30分以上が経過していた。
鏡の前で、ずっとポーズを取り続けていたのだ。
そろそろ、リビングに出てみようかな。
優奈は、いや、シュナはそう思った。
部屋のドアに手をかける。
狭い視界の中で、ドアノブの位置を確認すると、ドアを開けて、廊下に出る。
足元を確認しながら、慎重に歩く。
草履の感触と床を踏みしめる感覚。
一歩、一歩、ゆっくりと。
優雅で、上品で、落ち着いた足取り。
廊下を抜けて、ビングのドアを開けた瞬間、視界の端に壁にかけられた大きな鏡が映った。
そこにシュナがいる。
廊下を歩いてくるシュナの姿。
優奈の心臓が、高鳴った。
リビングに入るとそのままソファに向かって、ゆっくりと歩いていく。
ソファの前に立ち、ゆっくりと丁寧に、上品に腰を下ろす。
膝を揃え背筋を伸ばし、両手を膝の上に置く。
完璧なシュナの座り方。
優奈はマスクの中で、満足げに微笑んだ。
自分は今、完璧にシュナになりきっている。
ゆっくりと、リビングを見渡す。
いつも見慣れた自分の部屋。
でも、今日は、何かが違う。
マスクの狭い視界を通して見える世界は、まるで別の場所のようだった。
視界が制限されているせいで、見えるものが限定される。
正面しか見えない。
左右を見るには、首を動かさなければならない。
足元は、顔を大きく下に向けなければ見えない。
その制約が、不思議な感覚を生み出していた。
まるで、初めて訪れた場所のような新鮮さ。
見慣れたリビングが、知らない部屋のように感じられる。
ソファの感触もいつもと違う。
シュナの衣装を着ているせいで、肌に直接触れる感覚がない。
全身タイツ、巫女装束、薄ピンクの花柄の羽織、袴スカート。
何層もの布が、体を包んでいる。
手を動かすと、袖が揺れる音がする。
シュッ、シュッと、布が擦れる音。
草履を履いた足を動かすと、パタパタと小さな音が響く。
全てが、いつもの自分とは違う。
優奈は、そっとテレビのリモコンに手を伸ばした。
マスクの狭い視界の中で、リモコンの位置を確認すると、リモコンを手に取り電源ボタンを押す。
画面が明るくなり、映像が映し出される。
朝のニュース番組。
キャスターが何かを話している。
でも音声は、マスクに遮られて少しこもって聞こえる。
狭いスリットを通して見える映像は、少しぼんやりとしている。
でも、それでも十分に認識できる。
シュナは、そのままソファに深く体を沈めた。
背もたれに、ゆっくりと体を預け、両手を膝の上に置いたまま上品な姿勢を保つ。
なんて、贅沢な時間だろう。
シュナの姿のまま。
自分の家で、自分のリビングでこうしてくつろいでいる。
誰にも邪魔されない。
誰にも知られたくない、自分だけの特別な時間。
マスクの中で、優奈は静かに呼吸をしていた。
ハァ…スゥ…ハァ…スゥ…
その呼吸音が、マスクの内部で大きく反響する。
規則正しい自分の呼吸が耳に響く。
まるで、潜水服の中にいるような感覚。
外界から隔絶された密閉空間。
自分の呼吸だけが、はっきりと聞こえる世界。
吐き出した息がマスクの内側に跳ね返り、マスクの中が熱い空気で満たされる。
ハァ…スゥ…ハァ…スゥ…
マスク内部の温度がじわじわと上がっていく。
湿度も、徐々に上昇しているこの感覚。
この、自分だけの密閉された世界が優奈は嫌いではなかった。
むしろ、心地よいとすら感じていた。
視線を、テレビから鏡へと移す。
壁にかけられた、大きな鏡。
そこに映っているのは、シュナがソファに上品に座っている姿。
ピンク色の長い髪。
切長の大きめの綺麗なピンク色の瞳に少し微笑んでいる口元。白い巫女装束の上に薄ピンクの花柄の羽織と赤い袴スカート。
完璧だ。
優奈は、マスクの中で見惚れていた。
鏡の中のシュナは静かに座ってテレビを見ているような、落ち着いた佇まい。
でも、時折、こちらを見る。
優奈が首を動かして鏡を見ると、シュナもこちらを見る。
当たり前のことだ、鏡なのだから。
でもその瞬間。まるで本物のシュナと目が合ったような錯覚に陥る。
心臓がドキドキと高鳴る。
美しい、可愛い、愛おしい。
自分がシュナになっているというその事実が、たまらなく嬉しい。
優奈は、そっと手を動かしてみた。
右手を、胸元にそっと置く。
鏡の中のシュナも、同じ動きをする。
優雅で、可憐な仕草。
アニメの中で、シュナがよくする動き。
それを、今、自分がしている。
次に首を少し傾げてみる。
ピンク色の髪が、ふわりと揺れる。
その動きが、鏡に映る。
美しい。
優奈は、何度も何度も、鏡を見ては自分の姿に見惚れていた。
テレビの内容なんて、全く頭に入ってこない。
意識は、全て、鏡の中の自分に向いている。
マスクの中で、優奈の呼吸は続く。
ハァ…スゥ…ハァ…スゥ…
規則正しく、でも少しずつ浅くなっていく呼吸。
マスクの口元には、ごく小さなスリットが開いているだけ。
そこから、わずかに空気が出入りする。
でも時間が経つにつれて、呼吸が少しずつ苦しくなってきていた。
口呼吸だけでは、十分な酸素が取り込めない。
ハァ…ハァ…。
呼吸が、わずかに荒くなる。
マスクの中は徐々に暑くなってきていた。
自分の吐息が、何度も何度も顔にかかる。
マスク内部の温度が上がり、湿度も上がっていく。
額に、汗が滲んできた。
最初は、ほんのわずか。
でも、徐々に量が増えていく。
額から、頬へと流れ落ちる汗。
拭きたいけど、拭けない。
マスクを外さない限り、顔に触れることはできない。
汗は、ただ流れるに任せるしかない。
頬を伝い、顎へと流れていく。
そしてマスクの内側に当たって、そこで止まる。
マスクの内側が、じっとりと湿っていく感覚。
気持ち悪い。
でも我慢する。
口の中も、乾いてきた。
口呼吸を続けているため、唾液がどんどん減っている。舌が、上顎に張り付くような感覚。
喉も、少し渇いている。
水が飲みたい。
でも飲むということは。マスクを外さなければならない。
それはこの特別な時間を終わらせることを意味する。
まだ終わりたくない、まだ、シュナでいたい。
優奈は、マスクの中で我慢することにした。
視線を、再び鏡に向ける。
そこには変わらず、美しいシュナが座っている。
汗をかいているはずなのに、息が苦しいはずなのに、喉が渇いているはずなのに、鏡の中のシュナはずっと美しいまま。
優雅で、上品で、落ち着いている。
その姿を見ていると、不思議と苦しさが和らぐ気がした。
自分は、シュナなんだ。
今この瞬間、自分はシュナになっている。
その事実が、何よりも嬉しい。
でも、さすがに一度休憩を取ろう。
水分補給もしたい。
優奈は立ち上がり、キッチンに向かった。
冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を取り出す。
そして、マスクに手をかけた。
両耳の上側にある金具。指先で探り、カチリ、カチリと外していく。
金具が外れた瞬間、マスクの固定が解除された。
前面パーツと後頭部パーツを、ゆっくり外していく。
マスクが顔から離れた瞬間。
「ふぅぅぅ…」
優奈は、長く、深く、息を吐き出した。
ふわっと、冷たい空気が顔に当たる。外気が、汗で濡れた顔に触れる。
まるで、水中から顔を出したかのような感覚。
肺の中の、熱く湿った空気を、全て吐き出す。
そして、新鮮な空気を、大きく吸い込む。
ああ、空気が美味しい。こんなに、呼吸が楽だったなんて。
優奈は何度も、深く深呼吸を繰り返した。
額や頬には、スポンジの跡がくっきりと残っている。
触ってみると、少し痛い。圧迫されていた証拠だ。
優奈は水のペットボトルを持ち、一気に半分近くを飲み干した。
渇いた喉に、冷たい水が流れ込んでいく。
生き返る。
マスクの内側は、少し汗で湿っている。
優奈は清潔なタオルで、丁寧にマスクの内側を拭いた。
スポンジの部分も、優しく押さえるようにして水分を吸い取る。
このマスクは大切な宝物。丁寧に扱わなければ。
10分ほど休憩した後、優奈は再びマスクを手に取った。
時計を見ると10時55分。
加奈が今日何時に帰ってくるのかはわからない。
でもまだまだ時間はあるし、もう少しシュナとしての時間を楽しもう。
優奈は再び前面パーツを顔に当て、後頭部パーツで挟み込む。
カチリ、カチリと金具を固定する。
また、あの密閉された世界が戻ってきた。
狭い視界、口呼吸、顔にかかる熱い吐息とマスクの圧迫感。
全てが愛おしい。
シュナはリビングのソファに座り、リモコンを操作してアニメのチャンネルに合わせる。
録画していた、シュナが活躍するお気に入りの回。
狭いスリットを通して、画面を見つめる。
自分と同じ姿のキャラクターが、画面の中で動いている。
(私もあの子と同じ)
(今、私はシュナになっている)
その事実が何よりも嬉しかった。
◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎
時計を見ると11時15分。
10時に変身してから、1時間15分が経過している。
そろそろ、休憩を取った方がいいかもしれない。
でももう少し、もう少しだけこの時間を楽しみたい。
シュナはリビングを出て、一度自分の部屋に戻ろうと廊下を歩いていた。
その時だった。
「ガチャリ」
玄関の鍵が開けられる音がした。
シュナのマスクの中で、優奈の目が見開かれた。
心臓が、激しく跳ねる。
ドクン、ドクン、ドクン
と、耳に響くほどの鼓動。
まさか加奈が、帰ってきた? でも、なんで? 今日は講義が多くて遅くなるって言ってたのに…?
優奈の頭の中が、真っ白になり思考が停止する。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう)
パニックになり、呼吸が乱れる。
ハァ、ハァ、ハァ
と、荒い息がマスクの中に響く。
自分の吐息が何度も何度も顔にかかり、余計に息苦しくなる。
シュナは慌てて、自分の部屋に駆け込んだ。
草履の音がパタパタと廊下に響く中、慌てて自分の部屋に入りドアを閉める。
そのまま、部屋の隅に移動し、壁際にぴったりと背中をつける。
(落ち着かなきゃ! 深呼吸、深呼吸しなきゃ!)
でも、できない。
息が浅く速くなっている。
(どうする? このままじゃ、この状態が見られたらシュナのことがバレちゃう!)
(この秘密は、まだ誰にも知られてはいけないんだ!)
(妹にも、絶対に、絶対に知られちゃダメなんだ!!)
その時、体の異変に気づいた。
暑い...すごく、暑い...
これまで感じたことのないような、体温の上昇。
マスクの中だけではない。
体全体が、内側から燃えるように熱くなっている。
緊張と焦りで、体温が急激に上がっているのだ。
そして、汗。
額だけではない。
胸元にじわりと。
意識してしまうと、すぐに噴き出すように汗が滲み出てくる。
インナーが、汗を吸っていく。
でも、それでも追いつかない。
さらに汗が出てくる。
背中、肩甲骨のあたりから、じっとりと湿っている感覚。
背骨に沿って、汗が染みていく。
脇の下が急激に熱くなり、汗が一気に噴き出した。
脇から胸にかけて、汗が広がっていく。
(やばい、さっきから汗が止まらない)
(こんなの、初めて...)
全身タイツが、汗を吸い始めている。
肌に密着しているタイツが、徐々に湿っていく感触。
最初はただ湿っているだけだったが、すぐにべっとりと肌に張り付くようになった。
特に胸のあたりのタイツが、汗でひんやりと冷たくなる。
背中も、脇も、汗を吸って重くなっていく。
(胸は衣装で隠れてるし、背中も、脇も、外からは見えない)
(大丈夫、大丈夫...でも...)
でも問題は首元だ。
マスクと衣装の境界。
そこだけは、隠すことができない。
白い巫女装束の襟元から、わずかに見える首元。
ベージュ色の全身タイツが、そこだけ露出している。
(首も、汗をかいてる) (じっとりと、湿ってる)
汗で湿ったタイツは色が変わり、濃いベージュ色になる。
きっと今、肌色だったタイツが、汗を吸ってじわりと濃い色に変わっているだろう。
乾いた部分と、湿った部分。
その境界が、少しずつ、じわじわと広がっていくのが分かる。
「ただいまー!」
玄関から、加奈の明るい声が響いた。
心臓が、爆発しそう。
汗が、さらに噴き出す。
焦れば焦るほど、汗が止まらない。
「お姉ちゃん、まだいるー?」
加奈の声が、リビングの方から聞こえる。足音が、近づいてくる。
「講義が中止になっちゃって、一回帰ってきちゃった」
(講義が中止!?)
(そんな、そんなことある!?)
「お昼ご飯、一緒に食べに行こうよー!」
加奈がリビングの方へ向かう足音が聞こえてくる。
「あれ? お姉ちゃん、いないの?」
足音が止まる。
リビングで加奈が辺りを見渡しているのだろう。
「あれ、いない…? 電気消してないし、お姉ちゃんいるはずなんだけど...」
加奈の声が、少し不思議そうな調子になる。
「ねぇ、お姉ちゃ〜ん?」
足音が再び動き出す。
今度は廊下を優奈の部屋に向かって歩いてくる音。
「お姉ちゃーん、返事してよー」
優奈の部屋のドアの前で、足音が止まった。
「ご飯食べに行こうよー。美味しいお店見つけたんだよー」
ドアの向こうから、加奈の声。すぐそこに、妹がいる。
「いるんでしょー?」
(どうしよう...)
(シュナの姿を見られたら、全部バレてしまう)
「ねぇ、入るよ? いい? お姉ちゃん入るよー!」
ドアノブに、手がかかる気配。
(どうする!? どうすればいい!?)
(着ぐるみ脱ぐ? 今から?)
(とても間に合わない)
(マスクを外して、タイツを脱いで、衣装を脱いで)
(絶対に、間に合わない!!)
優奈の頭の中で、様々な選択肢が浮かんでは消えていく。
(あ、クローゼットに隠れよう!!)
(いや、誰もいないのは不自然でしょ...)
(逃げる!?)
(窓から? いやここ7階だし...)
全ての選択肢が、不可能だと告げている。
(もう、手遅れだ)
(どうすることもできない)
絶望が優奈の心を覆い尽くし、もう覚悟を決めようとしたその時。
(そうだ!!)
(まだひとつだけ! まだ方法がある!!)
優奈の思考が、急激に研ぎ澄まされていく。
極限状態で、脳が別のモードに切り替わる。
(動かなければ、完璧に静止すれば、フィギュアに見えるんじゃない!?)
(等身大のフィギュア!!)
(そう! シュナの等身大フィギュア!!)
優奈は今まで集めてきた、無数のフィギュアを思い出す。
棚に並ぶ、シュナの姿。
微動だにしない、完璧な造形。
生きているようで、しかし絶対に動かないその佇まい。
(そうだ、自分もフィギュアになればいい)
(シュナの等身大フィギュア)
(それなら、説明がつく)
(お姉ちゃんが、新しく買ったフィギュア)
心の中で、何かがカチリと音を立てた。
覚悟が、決まった。
(動かずに息を殺す)
(等身大フィギュアになりきる)
(そう、自分は今ただの等身大フィギュアなんだ)
(シュナの等身大フィギュア)
(動かない、呼吸もしない、ただそこに立っているだけのフィギュア)
(どうか首元の汗が見られませんように)
(お願い、気づかれませんように)
ギィ…。
ドアが、ゆっくりと開く。
同時に優奈は全身の筋肉を固めた。
微動だにしない。
完璧に静止する。
呼吸も、最小限に抑える。
浅く、静かに、ゆっくりと音を立てないように。
「あれ? お姉ちゃんいないの?」
加奈の声が、部屋の中に響く。
足音が、部屋に入ってくる。
「でも、電気ついてるし… エアコンもつけっぱなしじゃん...」
加奈が、部屋を見渡している気配。
「あれ? この時間からエアコンつけてるなんて珍しいな。お姉ちゃん、ほとんど夜しか使わないのに」
加奈が首を傾げる気配。
「しかも設定温度20度 寒くない?」
「部屋が妙に涼しいっていうか… なんか空気が冷たい」
加奈が腕をさする音。
「お姉ちゃん、どこ行ったんだろ。コンビニかな? リビングにも居なかったし...」
「ま、いっか。お姉ちゃんの部屋だし」
(シュナのマスクの視界から加奈の姿を捉えた)
(でも、視線を向けてはいけない)
(動いてはいけない)
(フィギュアだ! 自分は、フィギュアなんだ!)
「しっかし、相変わらず凄い部屋だね…」
加奈の声が、少し呆れたような、でもどこか愛おしそうな調子になる。
「お姉ちゃんって、本当にシュナちゃんが好きなんだなぁ」
「なんか、また増えてない? この前見た時よりフィギュア多い気がする」
足音が、ゆっくりと部屋の中を歩いている。
新しく飾られたフィギュアや、グッズを並べた棚を見ているのだろう。
「あ、これ限定版のやつだ。お姉ちゃん、ちゃんと買えたんだ。良かったね」
加奈の声が、優しい。
姉の趣味をちゃんと理解しているかのような。
そして、足音が止まった。
沈黙。
数秒間の、長い沈黙。
(心臓が、爆発しそうなほど激しく跳ねる)
「…え?」
加奈の声が、わずかに驚きを含んでいる。
「…うわ!」
突然、大きな声が響いた。
「な、何あれ…!」
足音が、こちらに近づいてくる。ゆっくりと、でも確実に。
(来る、来る、来る、来る)
(お願い! バレないで!)
「これ...フィギュア?」
加奈の声が、すぐ近くから聞こえる。本当に、すぐそばに。
「等身大の… シュナちゃんのフィギュア......?」
(必死に息を殺し続けた)
(呼吸を、できる限り小さく、静かに)
(でも、完全に止めることはできない)
(人間である以上、呼吸をしなければ死んでしまう)
「うっわ、すっご…」
加奈の声が、感嘆に満ちている。
「めっちゃ可愛い… 本物みたい」
「お姉ちゃん、こんなの持ってたんだ」
足音が、さらに近づいてくる。
本当にすぐ目の前まで。
(視線を動かさないように必死に耐える)
(加奈の顔が、視界の端にぼんやりと映っている)
(でも、見てはいけない)
(視線を合わせてはいけない)
「っていうか、いつ買ったんだろ… こんなの、見たことないよ?」
「私が知らない間に、こんなの買ってたなんて」
加奈が、シュナの周りをゆっくりと歩き始めた。
「すごいなぁ… ちゃんと立ってるし」
右側を通り過ぎる。
「でも、この部屋、エアコンガンガンなのに… このフィギュアの近くだけ、なんか暖かい気がする…? っていうか人の気配する...」
加奈が首を傾げる。
「気のせいかな」
「でも髪の毛とか、めっちゃリアル」
背後を見る。
「後ろ姿も完璧じゃん」
左側を通る。
「衣装も、細かいところまでちゃんと作り込んであるし」
また正面に戻ってくる。
観察している。じっくりと、細部まで。
「お姉ちゃん、こんなのいつの間に…」
加奈の声が、正面から聞こえる。
感心したような、でもどこか不思議そうな調子。
「高そう… これ、いくらするんだろ」
「オーダーメイドとかかな? この完成度、既製品じゃないよね」
そして、加奈がシュナの顔に、顔を近づけてきた。本当に、すぐ目の前まで。
(耐える)
(視線を動かさない)
(意味はないけど、瞬きもできる限り減らす)
優奈は、必死に耐える。視線を動かさない。瞬きも、できる限り減らす。
「顔とか、そのまんまシュナじゃん。完璧」
加奈が、シュナの顔を細かく観察している。
「すごーい… 本当によくできてる」
「目の色とか、綺麗なピンクの瞳の感じとか、アニメそのままだ」
「切長の大きめの目で、口元も少し微笑んでて… 完璧!」
目、鼻、口、頬、額。加奈の視線が、シュナの顔の各パーツを見ていく。
そして、視線が下に移動していく。
「でも、なんか…」
加奈の声のトーンが、わずかに変わった。
「あれ? これ…」
(何?)
(もういいでしょ、何に気づいたの?)
「タイツみたいなの着てない? これ..」
優奈の心臓が、ドキンと跳ねた
「フィギュアなのに、なんでタイツ?」
加奈の視線が、シュナの体を細かく見ていく。
衣装の下、わずかに見える全身タイツの部分。
「首のところや手に… ベージュ色のタイツみたいなのが見えるよね」
加奈が、シュナの首元に顔を近づけてくる。
「袖のところからも見えるし」
「なんか、シワとかもあるし… 布っぽいっていうか」
加奈が、じっと首元を観察している。
首を傾げて、不思議そうに。
「あれ? なんか…」
優奈はマスクの中で冷や汗をかいていた。
額から、大量の汗が流れ落ちる。
でも拭けない。ただ、流れるに任せるしかない。
(そして、首元)
(汗で濡れたタイツが、濃く変色してないだろうか)
(襟元から見える首のあたり)
「首のタイツ、なんか色が濃くない?」
(気づかれた!)
「ここだけ、色が違うっていうか…」
加奈が、さらに顔を近づけてくる。
加奈の目が、首元の境界線を追っている。
乾いた部分のベージュ色と、汗を吸った部分の濃いベージュ色。
その境界線が、はっきりと見えているはずだ。
「あれ? なんか、じわじわ広がってる…?」
加奈が目を細めて、じっと見つめている。
まるで、水彩絵の具が紙に滲んでいく様子を観察するように。
「湿ってる… みたいな?」
(やばい、やばい、やばい)
(汗が止まらない!)
(首元で、新しい汗の雫がタイツに染み込んでいく)
「フィギュアなのに、なんで湿ってるの?」
加奈の声が、さらに不思議そうになる。
「っていうか、フィギュアって、こういうの着せるものなの? それとも…」
加奈の声が、考え込むような調子になる。
「あ、まさか…」
そして、次の瞬間。
加奈の手が、伸びてきた。
「ちょっと失礼しまーす」
(来る!)
ゆっくりと、シュナの首元に触れようとする。
加奈の手が、方向を変え、首元ではなくシュナの肩に触れる。
そして、ゆっくりと胸のあたりに手を移動させる。
その瞬間。
ビクッ。
優奈は反射的に、ほんのわずかだけ、体を震わせてしまった。
(しまった!!!)
「…あれ?」
加奈の声が、明確な疑問を含んでいる。
「今… なんか、動かなかった?」
優奈は再び完全に静止する。
(動かない、もう絶対に動かない)
でも、心臓の鼓動は、どんどん速くなっていく。
呼吸も乱れ、マスクの中で、ハァ、ハァと荒い息が響く。
「っていうかさっきから…」
加奈が、じっと観察している。
目を細めて、シュナの胸のあたりを見つめている。
「なんか、すごく微妙に… 動いてる気がするんだけど…?」
「胸のあたりとか」
加奈が、シュナの胸を指さす。
「上下してない? ゆっくりだけど」
「呼吸してる…?」
加奈の視線が、シュナの体を隅々まで見ていく。
胸の辺りの、わずかな上下動。
呼吸に合わせた、ほんのわずかな動き。
「フィギュアが呼吸するわけないよね?」
「でも、確かに動いてる…」
マスクの中で必死に呼吸を整えようとする。
(静かに、静かに呼吸しなきゃ)
でも、パニック状態で、呼吸のコントロールができない)。
むしろ、意識すればするほど、呼吸が乱れていく。
その時、加奈がシュナの顔の口元に、ゆっくりと耳を近づけてきた。
「これ…もしかして…」
息を止めた。
でも、完全には止められない。
数秒間なら止められても、それ以上は無理だ。
「………」
静寂。
加奈が、じっと耳を澄ませている。
シュナの口元に、顔を近づけたまま。
1秒。2秒。3秒。
肺が、空気を求めて悲鳴を上げる。
でも我慢する。
4秒。5秒。
そして限界が来て、わずかに空気を吸い込む。
「…ハァ…」
「!」
加奈が、わずかに反応した。
「…スゥ…」
また、吸い込む。
「…ハァ…」
かすかに、でも確かに、呼吸音が漏れている。
「聞こえる…」
加奈の声が、小さく呟く。
「息してる音… 確かに聞こえる」
加奈は、じっと耳を澄ませ続けている。
動かない。ただ、シュナの口元に耳を近づけたまま。
「やっぱり、呼吸してる」
「フィギュアじゃ、ない…」
そして、ゆっくりと顔を離した。
「じゃあ、これは…」
加奈が、シュナから一歩下がって全体を見渡す。
「もしかして、中に人が…?」
今度はシュナのお腹に、そっと手を当てた。
お腹が、呼吸に合わせてわずかに上下している。
膨らみ、縮み、また膨らむ。その動きを、加奈の手が感じ取っている。
「やっぱり…」
「お腹も動いてる」
「呼吸に合わせて、膨らんだり、縮んだり」
加奈は、何も言わずに、静かに観察し続けている。
手のひらに伝わってくる、体温。フィギュアにしては、あまりにも温かい。
いや、温かいどころか。
「すごく、あったかい…」
「これ、完全に人の体温だ」
「36度くらい? もしかしたら、それ以上?」
加奈が、手のひらでじっくりと温度を確認している。
「フィギュアが、こんなに温かいわけない」
そして、呼吸のリズム。規則正しく、上下するお腹。
「完全に、生きてる…」
「これ、中に人が入ってる!?」
加奈の頭の中で、思考が巡る。
加奈の視線が、再びシュナの全体を見渡す。
全身タイツに走る、自然なシワ。
体のラインに沿った、リアルな形。袴スカートの、わずかな揺れ。
「タイツも、本物の布だよね」
「シワの入り方が、自然すぎる」
「フィギュアだったら、もっとつるっとしてるはず」
加奈は、シュナの首元に視線を向けた。そして、再び顔を近づける。
「やっぱり…」
「首のところ、タイツの色が濃くなってる」
加奈が、首元をじっくりと観察する。
「これ完全に汗だ、湿ってる...」
加奈が、そっと首元に指を伸ばす。
(来る!)
(首元に触られる!)
加奈の指先が、シュナの首元のタイツに触れた。
「あ…」
加奈の声が、確信に変わる。
「やっぱり、湿ってる」
「しかも、あったかい」
「これ、汗だ。人の汗」
加奈は指を離し、シュナから一歩下がった。
「フィギュアが汗をかくわけない」
「呼吸して、体温があって、汗をかいてる」
「これ、完全に人間だわ...」
加奈の頭の中で、点と点が線で繋がっていく。
「ふ〜ん...なるほどね」
「そういうことか」
加奈の顔に、理解の色が浮かんだ。
そして、小さないたずらっぽい笑みが加奈の唇に浮かぶ。
「これ、フィギュアじゃないよね?」
「完全に、着ぐるみだ!」
「中に人が入ってる着ぐるみってやつ!」
加奈は、シュナからもう一歩離れた。
そして、改めて全体を無言で見渡す。
「(そっか、今この中に入ってるのは…お姉ちゃんってことね!)」
この部屋は、お姉ちゃんの部屋。
他に誰かが入るわけがない。
この部屋は、優奈の部屋。優奈以外、この部屋に入る人間はいない。ということは、この着ぐるみの中にいるのは、間違いなく優奈だ。
「いつの間に、こんなもの作ってたんだろ」
「っていうか、作ったの? それとも買ったの?」
加奈は、内心で驚いていた。でも、同時に、少し納得もしていた。
「お姉ちゃんのシュナちゃん愛は知ってたけど」
「グッズ集めとか、フィギュア集めとか...」
「まさか、ここまでするとは...」
フィギュアや、グッズを集めるのは知っていた。
部屋がシュナで埋め尽くされているのも、見慣れている。
でも、まさか、着ぐるみまで作っているとは。
「すごいなぁ、お姉ちゃん… 情熱っていうか、愛っていうか」
「本当にシュナちゃんが好きなんだね〜」
加奈は、シュナの姿をじっと見つめる。
中にいる姉の姿を、想像する。
きっと、今頃この中ですごくドキドキしてるんだろうな。
バレたかな、バレてないかなって。
必死にフィギュアのふりをして、汗だくになりながら息を殺して。
「(お姉ちゃん… 頑張ってるんだろうなぁ)」
加奈の顔に、さらにいたずらっぽい笑みが広がった。
「(でもねお姉ちゃん、もう、完全にバレてるよ?)」
「(あ、そうだ! せっかくだし、ちょっと遊んじゃおうかな)」
加奈は、シュナからもう一歩下がった。
そして、明るい笑顔を浮かべた。
◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎
加奈は、シュナを見つめながら、明るい笑顔を浮かべた。
その笑顔は、いつもの加奈のものだ。
でも、どこか、いたずらっぽい光が瞳に宿っている。
「はじめまして、シュナちゃん!」
加奈の声が、部屋に響く。
明るく、弾んだ声。
「私は加奈っていいます。この家に、私のお姉ちゃんと一緒に住んでるんだよ」
(優奈はマスクの中で混乱した
(加奈はもう完全に分かっている)
(この着ぐるみの中に、自分がいることを)
(でも、それを口に出さずに、シュナとして話しかけてきている)
(どういうこと? 何をしようとしているの?)
疑問がぐるぐると回るが、答えは出ない。
(もう完全にバレてる、加奈は全部分かってる)
(このまま固まっていても仕方ない)
(いっそ、潔く打ち明けた方がいい?)
(マスクを外して、ごめん、これは私でしたって言った方が)
優奈は意を決して、体を少し動かした。
そして、加奈に向かって丁寧にお辞儀をして見せる。
シュナとしての、礼儀正しい挨拶。
「わぁ!」
加奈の声が、歓喜に満ちている。
「すごい、シュナちゃん、動けるんだね!」
「可愛い! 本当に可愛い!」
「まるで本物のシュナちゃんみたい!」
加奈の目が、キラキラと輝いている。
まるで、本物のシュナに会えたかのような、純粋な喜び。
(その反応に、少し戸惑う)
「…えっと… あの…」
シュナのマスクの中から、くぐもった声が漏れた。
「加奈、これは…」
その瞬間、加奈がシュナに駆け寄ってきた。
両手を前に出して、慌てたような仕草で。
「シュナちゃん! ダメだよ、喋っちゃ!」
(え?)
思わず言葉を失った。何を言っているんだろう、加奈は。
「いい? シュナちゃんは今、お人形さんなんだよ?」
加奈が、真剣な顔でシュナを見つめている。
「お人形さんは、声を出しちゃダメなの。いい?」
加奈が何をしようとしているのか、全く理解できなかった。
(お人形さん? 声を出しちゃダメ?)
(もう正体はバレてるのに、なんでシュナとして扱おうとするの?)
「...あ、あのね… 加奈…聞いて」
もう一度、説明しようと試みる。
「だからダメだって!」
加奈の声に、強い調子が混じった。
「シュナちゃん!!」
その声の大きさに、びくりと体を震わせる。
「シュナちゃんは今、シュナちゃんなんでしょ!?」
「シュナちゃんが喋ったら、それはもうシュナちゃんじゃなくなっちゃうでしょ!」
加奈が、シュナの目を真っ直ぐに見つめている。
その瞳には、確固たる意志が宿っている。
優奈はハッとした。
(ああ、そうか、そういうことなのか)
(とりあえず、加奈は… 受け入れてくれてるのかな)
(でも、シュナとして扱いたい、ってこと?)
優奈は困ったような表情になる。
(今は、取り敢えず言う通りにした方がいいのかな… シュナとして扱おうとしてくれてるんだし...)
ゆっくりと、加奈に向かって小さく頷いた。
「そうだよね!」
加奈の顔が、ぱっと明るくなる。
「シュナちゃんはシュナちゃんだもんね」
「よろしくね、シュナちゃん」
そう言いながら、加奈は右手を差し出してきた。
握手を求めている。
恐る恐る、右手を差し出した。
マスクの狭い視界の中で、加奈の手の位置を確認する。
次の瞬間、加奈の手がシュナの手を握った。
強く、しっかりと。そして、笑顔を向けてくる。
温かい手のひら。優しい笑顔。
優奈はマスクの中で考えた。
(多分、加奈にはもう、私が中に入ってるってバレてる)
(でも、それを口に出さずに、シュナとして扱おうとしてる)
(着ぐるみなんて、普通は引くよね)
(変な趣味だって思われても仕方ないのに)
(でも、加奈は… 受け入れてくれてる)
(それに、私のことを"シュナちゃん"って呼んでくれる)
(なんだか… 嬉しいな)
(胸の奥が、じんわりと温かくなった)
(よし、決めた!)
(せっかくだし、加奈の前で、このまま完璧にシュナになりきってみよう!)
覚悟を決めた瞬間、体の動きが変わった。
シュナとして優しく、可愛らしく、上品に。
両手をそっと胸元に置き、加奈に向かって、にっこりと微笑むような仕草を見せる。もちろん、マスクの表情は変わらないけれど。
でも、仕草だけで、感情を伝える。
「わぁ!」
加奈の目が、さらに輝いた。
「シュナちゃん、可愛い!!」
「仲良くしてくれるんだね!」
「本当にシュナちゃんみたい!」
加奈は、心の中で驚いていた。
(お姉ちゃんすごい!)
(この仕草、完璧にシュナちゃんだ)
(っていうか、お姉ちゃん…)
(普段のお姉ちゃんと、全然違う...)
加奈が知っている優奈は、いつも猫背で、目を合わせるのが苦手で、人前ではおどおどしている姉だ。
家でも、ソファに座る時は背中を丸めて、スマホを見ているか、シュナのグッズを眺めているか。
動きも、仕草も、全部地味で、控えめで、目立たないように気をつけているような。
でも、今。
目の前にいるシュナは。
背筋がピンと伸びて両手の置き方も上品。
首の傾げ方も、可愛らしくてまるで、別人みたいだ。
(お姉ちゃん、こんな可愛い動きできるんだ)
(こんな仕草、できたんだ)
加奈は、少し呆然としながらも、嬉しくなっていた。
(お姉ちゃん、普段はあんなに暗いのに)
(シュナちゃんになると、こんなに生き生きしてる)
シュナは大きく頷いた。
ピンク色の長い髪が肩の前後で大きく弾む。
マスクの髪の重みで、首に負担がかかるが、優奈は気にしない。
加奈は嬉しそうに、シュナの手を握ったまま言う。
「じゃあさ、シュナちゃん! 早速ね、お願いがあるんだけど」
首を少し傾げた。何?という仕草。
「聞いてくれるかな? シュナちゃんにしかできないお願いなの」
私にできることなら何でも言って、という感じで、両手を広げて見せる。
「ありがとう! 嬉しい」
加奈が、笑顔で答える。
「あのね、お願いっていうのはね…」
小さく何度か頷きながら、加奈を見つめる。
狭い視界の中で、妹の顔を必死に捉えようとする。
マスクの目と自分の目の位置がズレているから、正確に視線を合わせるのは難しい。
でも、できる限り、加奈の方を向く。
「さっき言った、私のお姉ちゃんなんだけどね」
加奈の声が、続く。
「今、家にいないみたいなの」
そうなんだ、という感じで頷く。
「だからね」
加奈が、少し寂しそうな顔をする。でも、その演技は、どこかわざとらしい。
「お姉ちゃんが帰ってくるまで、一緒にいてよ」
「私、寂しがりやでさー」
(え?)
優奈はマスクの中で驚いた。
(それだけ?)
(一緒にいるだけでいいの?)
(加奈のことだから、もっととんでもないこと言われるのかと思ったけど…)
安堵が、胸に広がる。
シュナはもちろん!という感じで、右手をそっと胸に置いた。
そして、今度は両手で加奈の手を握る。
嬉しそうに、上下に振りながら、一緒にいよう、とアピールする。
その瞬間。
一瞬だけ、加奈の顔に、不敵な笑みが浮かんだ。
でも、気づかなかった。
マスクの狭い視界と、安堵の気持ちで、その微妙な表情の変化を見逃してしまった。
「シュナちゃん、ありがとう!」
加奈が、明るい声で言う。
「じゃあ、とりあえずリビングに行って、ゆっくりしよう!」
「お姉ちゃんが帰ってくるまで、シュナちゃんと一緒に過ごせるなんて、嬉しいな」
シュナは小さく頷いた。
加奈がシュナの手を取り、リビングへと誘導する。
加奈に手を引かれながら、優奈の部屋を出た。
◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎
リビングに入ると、時計はまもなく12時を示そうとしていた。
加奈に手を引かれたまま、ソファの前に立っている。
狭い視界の中で、ソファの位置を確認する。
「シュナちゃん、座って座って」
加奈が、優しく促す。
ゆっくりと、丁寧に、ソファに腰を下ろした。
膝を揃え背筋を伸ばす。
両手を、膝の上にそっと置き、まるでお姫様のような、上品な座り方。
アニメの中で、シュナがよくする座り方を、完璧に再現する。
加奈は、その姿を見て、目を輝かせた。
「わぁ…」
感嘆の声が漏れる。
「シュナちゃん、すごく綺麗な座り方だね!」
「さすが! 本物のお姫様みたい!」
加奈の心の中では、驚きが広がっていた。
(お姉ちゃん、こんなに綺麗に座れるんだ)
普段の優奈は、ソファに座る時、背中を丸めて、足を組んで、だらしなく座る。
「姿勢悪いよ」と注意しても、「楽だからいいの」と言って直さない。
でも、今。
シュナとして座る姿は。
背筋がピンと伸びて。膝がぴったりと揃って。
両手が優雅に膝の上に置かれて。
まるで、本当にお姫様みたい。
(お姉ちゃん、できるじゃん)
(普段もこうやって座ればいいのに)
加奈は、思わず笑みがこぼれそうになる。
(でも、お姉ちゃん、シュナちゃんになると本当に別人だね)
(動き方も、姿勢も、仕草も)
(全部、違う)
(まるで、本当にシュナちゃんが、そこにいるみたい)
加奈は、シュナの隣に座った。
少し距離を置いて、でも親しみを込めて。
「ねぇ、シュナちゃん」
加奈が、優しく話しかけてくる。
「喉、乾いてない?」
一瞬、体を強張らせると、困ったように首を横に振った。
「そっかー」
加奈は、あっさりと引き下がった。
「でも、無理しちゃダメだよ?」
「シュナちゃんが辛かったら、いつでも言ってね」
シュナはしばらく考えるような素振りをした。
首を少し傾げて、何かを思案するように。
そして、パッと顔を上げ、何か思いついたという仕草。
ソファから、ゆっくりと立ち上がる。
膝を揃え、上品にシュナらしく、優雅に。
そして、キッチンの方に向かって歩き出した。
加奈は、その姿を黙って観察している。
シュナの歩き方は、安定している。狭い視界のはずなのに、まっすぐキッチンに向かっていく。
足元を見なくても、障害物を避けている。
(お姉ちゃん、あんなの被って良くあんな風に動けるね…)
加奈は、感心したように思う。
(ちゃんと前見えてるのかな)
(っていうか、あの動き…)
(完全に、慣れてる人の動きだよね)
シュナの動きには、迷いがない。
ぎこちなさもなく、まるで何度も何度も練習したかのような、スムーズな動き。
そして、何より。
(歩き方が、綺麗)
加奈は、シュナの後ろ姿を見つめる。
背筋が伸びて、肩の力が抜けている。
一歩一歩が丁寧で優雅。
袴スカートが、ふわりと揺れている。
(お姉ちゃん、普段はあんなに猫背でいつもダラダラ歩いてるのに)
(シュナちゃんになると、こんなに姿勢が良くなるんだ)
加奈が知っている優奈は、いつも俯きがちで、小股で歩いて、誰かとすれ違う時は壁側に寄って、できるだけ存在感を消そうとする姉だ。
でも、今のシュナは。
堂々としている。自信に満ちている。まるで、本当にお姫様みたいだ。
(ひょっとしてお姉ちゃん)
(着ぐるみ買ったの、最近じゃないな?)
加奈の推理が、さらに深まっていく。
(私に黙って、こんな事してたんだね)
(でも、いつからだろ?)
(どれくらい前から?)
(どれくらい練習してたの?)
シュナは、キッチンの引き出しの前で止まった。
そして、特定の引き出しを、迷わず開ける。
その動作も、無駄がない。
まっすぐ手を伸ばして、引き出しを開ける。
中から、細いストローを取り出した。
加奈に向かって、ストローを高く掲げる。見て!という感じで。
その仕草も、可愛らしい。
片手を高く上げて、もう片方の手は胸元に添えて。
(お姉ちゃん、本当に…)
(こんなに可愛い仕草、できたんだ)
加奈は、心の中で呟く。
(普段は、あんなに動きが小さくて、ぼそぼそ喋って、人の目を見られないのに)
(シュナちゃんになると、こんなに表現豊かになるんだ)
そして加奈の顔が、パッと明るくなる。
「なるほど! ストローがあれば飲めるんだね!」
「さすがシュナちゃん、頭いい!」
シュナは、嬉しそうに何度も頷いた。
ピンク色の髪が、ふわふわと揺れる。
そして、ストローを持ったまま、加奈の横に戻ってきた。
ソファに座り、テーブルの上に置いてあった水の入ったコップを取る。
ストローをコップに刺すと、コップを両手で持ち上げた。
ストローの先を、マスクの口元の小さなスリットに差し込む。
ゆっくりと、吸い込んでいく。
チュー…。
水が、ストローを通って口に入ってくる。
渇いた喉に、冷たい水が流れ込んでいく。
口の中の乾きが、少しずつ癒されていく。
シュナは、ゆっくりと、何度も水を吸い込んだ。
加奈は、その様子を黙って見ている。
そして、ふと、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「でもシュナちゃん」
シュナが、ストローを吸うのを止めた。加奈の方を向く。
「うちのストローしまってある場所なんて、よく知ってるね」
その瞬間。
シュナの動きが、固まった。
コップを持ったまま、完全に静止する。
「シュナちゃんは、うちによく来てるの?」
加奈が、首を傾げて聞いてくる。
シュナは、困ったように、少し俯いた。
肩が、わずかに震えている。
「あ、そっか!」
加奈が、パッと明るい声を出した。
「お姉ちゃんと遊んだりしてたんだね!」
「だから、うちのこと、よく知ってるんだ!」
シュナは、ハッとした。
加奈に向かって、大きく頷いた。
何度も、何度も。
そうだよ、そうなんだよ、という感じで。
「そっか〜」
加奈が、少し寂しそうな顔をする。
「お姉ちゃん、こんなに可愛いお友達がいるなら、私にすぐに紹介してくれてもいいのにね」
「お姉ちゃん、意地悪だね!」
そう言うと、加奈は黙ってシュナを見つめた。
じっと。
まっすぐに。
シュナの目を、見つめている。
(これって…)
(早くシュナの着ぐるみの事、話せっていうこと?)
(もっと早く教えてよって事なのかな…)
加奈の視線が、突き刺さるように感じる。
(シュナとして扱ってくれてるけど)
(私自身に対して言われてるみたい…加奈が、ちょっと怖いよ…)
マスクの中で、優奈は困惑していた。
シュナは、困ったような仕草を取る。
両手を胸の前で組んで、少し俯く。
ごめんなさい、という雰囲気。
加奈は、その様子を見て、ふっと笑った。
「まぁ、いっか、今日会えたんだし!」
「これから、仲良くしようね、シュナちゃん」
シュナは、ほっとしたように、大きく頷いた。
加奈は、のんびりとテレビのリモコンを手に取る。
「何か見よう、シュナちゃん」
画面に、昼のバラエティ番組が映し出される。
しばらく、二人で画面を見ていた。
でも、加奈の視線は、徐々にテレビからシュナへと移っていく。
隣に座っている、シュナ。
こうして近くで見ると、改めて、その完成度の高さに驚く。
加奈は、そっと体を動かして、シュナに近づいた。
シュナのマスクに、ぐいっと顔を近づける。
本当に、すぐそばまで。
シュナが、わずかに体を引いた。
でも、加奈は気にせず、マスクをじっくりと観察している。
(視界は、どこなんだろう)
加奈は、シュナの目を見つめる。
綺麗なピンク色の、切長の大きめの瞳。
アニメそのままの、美しい目。
でも、この目は飾りだ。
お姉ちゃんが見ているのは、多分ここじゃない。
(目の、黒い部分?)
加奈は、瞳の黒い部分をよく見る。
よく見ると、ごく小さな、スリットのようなものが見える。
でも、内側から黒い布が貼られているのか、中は全く見えない。
(ここから見てるんだ)
(すごく狭い視界だよね?)
(よく、こんなので動けるな)
次に、加奈は口元を見る。
シュナの小さな口。
少し微笑んでいるような口元。
可愛らしく、ほんのわずかに開いている。
その口元から。
「…ハァ…スゥ…ハァ…スゥ……ハァ…スゥ…」
かすかに、呼吸音が漏れている。
さっきより、明らかに大きくなっている。
(呼吸してる)
(さっきより、荒くなってる気がする)
加奈は、口元をじっと見つめる。
ごく小さなスリットが、口元に開いているのが見える。
そこから、わずかに空気が出入りしているのだろう。
(こんな小さな穴だけで、呼吸してるんだ)
(お姉ちゃん、苦しくないのかな)
次に、加奈の視線は、マスクと首の境界へと移る。
マスクの下端と、巫女装束の襟元。
そのわずかな隙間から、ベージュ色の全身タイツが見える。
加奈は、そこをじっくりと見つめた。
(隙間、ほとんどないよね)
(マスク、首にピッタリくっついてる)
タイツの色が、わずかに濃くなっている部分がある。
汗だ。
マスクの中からの汗が、首元まで流れてきているのだろう。
(汗かいてるんだ)
(やっぱり、この中は暑いんだろうな...)
加奈は、マスク全体を見渡す。
マスクの大きさは、人間の顔とほとんど変わらない。
ということは。
(お姉ちゃんの顔に、ピッタリと密着してるんだ)
(額も、頬も、顎も全部、マスクに押し付けられてる)
想像するだけで、息苦しそうだ。
加奈は、そっと手を伸ばして、シュナの肩に触れた。
温かい。
いや、温かいどころではない。
かなり、熱い。
(体温、すごく高い)
次に、シュナの腕に触れる。
やはり、熱い。
太ももにも、そっと手を置いてみる。
同じだ。かなりの熱さを感じる。
(やっぱりマスクの中、相当暑いんだろうな)
(汗、すごいかいてそう)
加奈は、シュナの顔をもう一度見つめる。
マスクから漏れる呼吸音。
「…ハァ…スゥ…ハァ…ハァ…スゥ……ハァ…スゥ…」
明らかに、荒くなっている。
(お姉ちゃん)
(この状態で、いつまでいるつもりなんだろう)
(めっちゃ我慢してるのかな)
(本当はもう限界で、すぐにでも脱ぎたいのかな)
でも。
加奈は、少し不思議な気持ちにもなっていた。
(お姉ちゃん、こんなに頑張れるんだ)
普段の優奈は、すぐに「疲れた」「もうダメ」と弱音を吐く。
会社から帰ってきたら、すぐにソファに倒れ込む。
「今日めっちゃ疲れた」と言いながら、スマホをいじる。
何かを続けることが苦手で、すぐに諦める。
ダイエットも、運動も、習い事も、全部三日坊主。
でも今は...
シュナとして、こんなに苦しい環境の中で。
汗だくになって、息を切らして。それでも、シュナを演じ続けている。
(お姉ちゃん、シュナちゃんのためなら、こんなに頑張れるんだね)
加奈は、少し感心してしまう。
そして、同時に。
(私も、何かこんなに夢中になれるものがあったらなぁ)
そう思ってしまう。
姉が、シュナとして生き生きと動く姿。
辛そうなのに、それでも諦めずに続ける姿。
それは、普段の暗くて地味な姉からは、想像もできないものだった。
(本当はもう限界で、すぐにでも脱ぎたいのかな)
加奈の頭の中で、様々な思いが巡る。
姉が、この着ぐるみの中で、必死に耐えている姿を想像する。
汗だくになって。息を切らして。それでも、シュナを演じ続けている。
(でもね、お姉ちゃん)
加奈の唇に、小さな笑みが浮かぶ。
(自分で脱ぎたいって言うまでは、脱がせてあげない)
(私に黙って、1人でこんな楽しそうなことやってたんだから)
加奈は、ふと視線を下に移した。
シュナの胸。
アニメの中のシュナは、もっと大きな胸をしていたはずだ。
でも、今目の前にいるシュナの胸は。
(あれ? 思ったより、小さい)
(普通の、人間の女性くらいの大きさだ)
加奈は、そっと手を伸ばした。
シュナの胸に、手を置く。
その瞬間。
ビクッ!
シュナが、勢いよく後ろに身を引いた。
マスクから、大きな呼吸音が漏れ始める。
「ハァ...ハァ ハァ....」
「ねぇシュナちゃん?」
加奈が、いたずらっぽい笑顔で聞く。
「私の知ってるシュナちゃんは、もっとおっぱい大きかったと思うんだけど」
「縮んじゃった?」
シュナは、必死に加奈の手を引き剥がそうとする。
両手で、加奈の手首を掴んで、引っ張る。
でも加奈の力は、思ったより強い。
全く、動かない。
それどころか。
加奈の手が、ゆっくりと動き始めた。
シュナの胸の形を、確かめるように。
優しく、でも確実に。
シュナのマスクから、荒い呼吸音が漏れる。
「ハァ…ハァ……スゥ…ハァ…ハァ…」
そして。
「んっ…」
艶めいた声が、マスクの中から漏れた。
「あれ?」
加奈の目が、意地悪く光る。
「シュナちゃん、もしかして気持ちよくなっちゃってるの?」
シュナは、大きく首を左右に振った。
何度も、何度も必死に否定する。
「シュナちゃんのおっぱい」
加奈の手が、さらに動く。
「お姉ちゃんのおっぱいみたいで、柔らかくて気持ちいいね〜」
加奈は、不敵な笑みを浮かべている。
全く、手を離してくれない。
(もう、やめて!)
シュナは、目一杯、力を入れた。
全身の力を込めて、加奈の手を振り解く。
「ぷはっ」という感じで、やっと手が離れた。
シュナは、すぐに両手で胸を押さえた。
ガードするように。
そして、俯く。
肩が、激しく上下している。
マスクから、荒い呼吸音。
「ハァ…ハァ……スゥ…ハァ…スゥ……ハァ…」
必死に、深呼吸をしようとする。
でも、マスクの中は暑くて、息苦しくて。
なかなか、呼吸が整わない。
加奈は、その様子を見て、少し表情を曇らせた。
(あ、お姉ちゃん、本当に感じちゃってた?)
(ごめん、悪いことしたかな…)
(ただでさえ苦しそうな環境にいるのに)
(余計に、苦しくしちゃったかも…)
シュナは、ゆっくりと息を整えながら、顔を上げた。
そして、加奈を見つめる。
怒ったような、そぶりで。
両手で、大きく×を作る。
ダメよ!
という仕草。
そして、加奈の両手を、ぎゅっと掴んだ。
加奈は、その仕草を見て、少し驚いていた。
(お姉ちゃん、ちゃんと怒ってる)
普段の優奈なら、絶対にこんな風に怒らない。
何をされても、「いいよ、別に」と言って流す。嫌なことがあっても、我慢して、黙って耐える。自分の気持ちを、はっきりと表現することができない。
でも、今はシュナとしてはっきりと、「ダメ」と伝えている。
仕草だけだけど。言葉はなくても。その意思は、しっかりと伝わってくる。
(お姉ちゃん、シュナちゃんになると)
(ちゃんと、自分の気持ちを表現できるんだね)
マスクの口元からは、相変わらず苦しそうな呼吸音が漏れている。
「ハァ…スゥ……ハァ…スゥ…ハァ…スゥ…」
でも、徐々に落ち着いていくのが分かる。
リズムが、少しずつ、ゆっくりになっていく。
「ごめんねシュナちゃん」
加奈は、反省したような表情で、ゆっくりとシュナを見つめる。
「可愛いから、つい調子に乗っちゃった」
「もうしないから、許してくれる?」
シュナは、しばらくじっと加奈を見つめていた。
そして。
肩を、ストンと落とした。
アニメの中で、シュナがよくやる仕草。
「もう、仕方ないわね」
そう言っているような、少し呆れた仕草。
そして、加奈に向かって、人差し指を立てる。
次やったら、本当に怒るからね!
そう言っているような、身振り。
「ありがとう、シュナちゃん」
加奈は、ほっとしたように笑った。
「優しいね」
加奈の心の中では、また驚きが広がっていた。
(今の仕草)
(完璧に、アニメのシュナちゃんだった)
「もう、仕方ないわね」という時の、肩の落とし方。
呆れたような雰囲気。それでも優しさを失わない感じ。
全部、アニメで見たシュナの仕草そのままだ。
(お姉ちゃん、どれだけ練習したんだろう)
(どれだけ、シュナちゃんを研究したんだろう)
普段の優奈は、身振り手振りで何かを伝えることなんて、ほとんどない。
ぼそぼそと小さな声で話して、それで伝わらなかったら諦める。ジェスチャーも、表情も、全部控えめ。
でもシュナとしては。
声が出せないからこそ、身振り手振りで、こんなに豊かに感情を表現している。
(お姉ちゃん、すごいな)
加奈は、素直にそう思った。
(普段は、あんなに暗くて、地味で、人と関わろうとしないのに)
(シュナちゃんになると、こんなに表現力豊かになるんだ)
(本当は、こういうこと、できる人だったんだね)
シュナは、小さく頷いた。
そして、もう一度深呼吸をする。
マスクの中で、少しずつ呼吸を整えていく。
加奈は、シュナから少し離れた。
そして、何事もなかったかのように、テレビに視線を戻す。
「シュナちゃん、このバラエティ面白いよね」
明るい声で、話しかける。
シュナは小さく頷いた。
でも、その動きは、少しぎこちない。
(疲れてきてるんだろうな)
加奈は、内心でそう思いながらも、表情は変えない。
時計を見る。12時00分。
(お姉ちゃん、頑張ってね)
加奈は、心の中でそう呟きながら、テレビを見続けた。
その時、今度はシュナがそっと加奈の方に体を寄せてきた。
わずかに、肩が触れ合う
。
加奈は、少し驚いて、シュナの方を見る。
シュナは、テレビを見たまま、何事もないような様子。
でも、確かに、距離が近くなっている。
(お姉ちゃん…?)
加奈は、シュナの様子を伺う。
マスクは、いつもの優しい微笑みを浮かべたまま。
切長の綺麗なピンク色の瞳が、テレビの方を向いている。
でも、確かに。わずかに、体重をこちらに預けているような。
そして
シュナの手が、そっと動いた。
加奈の手の甲に、シュナの指先が優しく重なる。
触れるか触れないかの、繊細な接触。
温かい。
いや、温かいどころではない。
かなり、熱い。
(お姉ちゃん… スキンシップ取ってきてる…?)
加奈の心臓が、ドキドキと高鳴る。
これは、間違いなくスキンシップだ。
人に触れることすら、躊躇う姉なのに。
こんなに、積極的に。
加奈は、シュナの手を見下ろした。
シュナの指が、加奈の手の甲をそっと撫でている。
ゆっくりと。優しく。
まるで、確かめるように。
そして、シュナは加奈の方を向いた。
マスクの顔が、こちらを向く。
切長の綺麗なピンク色の瞳が、加奈を見つめている。
少し微笑んでいる口元。
その視線は、まるで。
「ねぇ、見て」
そう言っているような。
加奈は、思わず笑みを浮かべた。
「どうしたの、シュナちゃん?」
シュナは、小さく首を傾げた。
加奈の目の前で、ピンク色の髪とマスクが少し傾く。まるで「なあに?」と聞いているような、可愛らしい仕草。
そして、加奈の手を、両手で包み込むようにして握った。
ぎゅっと。
しっかりと。
(え…)
加奈の心臓が、さらに速く鼓動する。
シュナの手は、とても熱い。
そして、わずかに湿っている。
汗だ。
マスクの中で、どれだけ暑いのか。
それでも、シュナは加奈の手を握り続けている。
「シュナちゃん…?」
加奈が声をかけると。
シュナは、加奈の手を握ったまま、体をさらに近づけてきた。
肩が完全に触れ合う。
いや、もう触れ合うというより。
密着している。
シュナの体温が、ダイレクトに伝わってくる。
熱い。
本当に、熱い。
そして、加奈の耳のすぐ近くから。
マスクの口元から漏れる、かすかな呼吸音。
「…ハァ…スゥ…ハァ…スゥ……ハァ…スゥ…」
規則正しい、でも少し荒い呼吸。
加奈は、少し困惑しながらも。
でも、嬉しかった。
(お姉ちゃん、甘えてきてる…?)
普段の優奈からは、絶対に想像できない行動。
でも、シュナとしてなら。
こうやって、甘えることができるのかもしれない。
加奈は、シュナの手を優しく握り返した。
「うん、いいよ」
「こうして2人で一緒にいると、何だか楽しいね」
シュナは、小さく頷いた。
そして、さらに。
シュナは、加奈の腕に、自分の腕を絡めてきた。
まるで、恋人同士のように。
両腕で、加奈の右腕を抱え込むようにして。
「え、ちょ、シュナちゃん…?」
加奈は、少し戸惑う。
でも、シュナは離さない。
むしろ、さらにぎゅっと、加奈の腕に自分の腕を絡める。
そして、頬を、加奈の肩にすり寄せてきた。
マスクの側面が、加奈の肩に触れる。
ピンク色の長い髪が、加奈の肩に流れ落ちる。
髪の毛の感触。
マスクの硬さ。
そして、その向こう側にある、優奈の温もり。
(お姉ちゃん…)
(こんなに、甘えてくるなんて…)
加奈の胸の奥が、じんわりと温かくなる。
そして、シュナの呼吸音が、さらに近くで聞こえる。
「ハァ…スゥ…ハァ…ハァ…スゥ……ハァ…スゥ…」
少し、荒くなっている。
体を動かしたせいだろうか。
それとも、恥ずかしさからだろうか。
加奈は、左手で、シュナの頭を優しく撫でた。
ピンク色の髪の毛。
サラサラとした感触。
でも、その下には、硬いマスクがある。
「シュナちゃん、甘えん坊さんだね」
加奈が優しく声をかけると。
シュナは、小さく頷いた。
そして、加奈の腕を抱える力が、少し強くなった。
まるで、「もっと構って」と言っているように。
加奈の心の中で、何かが溶けていく。
可愛い。
本当に、可愛い。
こんなに甘えてくるなんて。
中にお姉ちゃんが入ってるとは、思えないくらい。
その時、シュナが加奈の腕を抱える力が、だんだん強くなっていく。
ぎゅっと、もっと、もっと。
加奈の腕が、どんどんシュナに引き寄せられていく。密着していく。
そして、シュナはまるで、自分の胸に加奈の腕を押し当てているように、強く抱き抱えて、そのまま、加奈を見つめている。
切長の綺麗なピンク色の瞳が、じっと加奈を見つめている。
「え…?」
加奈は、少し驚く。
でも、すぐにいたずら心に火がついた。
(これは… 面白いことになってきた)
加奈は、わざとらしく首を傾げて、シュナに聞く。
「ねぇ、さっきからどうしたの? シュナちゃん」
すると、シュナは、少し俯いた。
顔を、少し下に向ける。恥ずかしそうに。
そして、さらに、加奈の腕を抱える力が強くなる。
加奈の腕が、シュナの胸に、さらに押し当てられる。
(モジモジしてる…?)
加奈は、シュナの仕草を見て、思わず笑みがこぼれそうになる。
そして、その中に居る優奈を想像して、もっと面白くなってきた。
(お姉ちゃん、今このマスクの中でどんな顔してるんだろう)
(絶対、顔は真っ赤になってるよね)
加奈は、悪そうな笑顔を浮かべて、シュナに聞く。
「もしかして、さっき私が胸を触った時に、気持ち良くなっちゃった?」
「だから、もっと構ってほしいの?」
その言葉に、シュナは、何も言わない。ただ、加奈に、さらに密着してくる。体全体で、加奈に寄りかかってくる。
(答えない… でも、否定もしない…)
加奈は、ニヤリと笑う。
「ねぇ、シュナちゃん。ちゃんと答えないと、構ってあげないよ?」
その言葉に、シュナは、すぐに顔を上げた。
バッと。
そして、加奈を見つめて、小さく、首を横に振っている。ブンブンと、必死に。
(違う、って言ってるの? でもなんか、全然説得力ないんですけど?)
加奈は、シュナを見つめながら、ふと思った。
(でもシュナちゃんって、こんなキャラじゃないよね?)
(こんなに甘えるようなキャラじゃない。アニメの中では、もっとクールで、凛としてて...)
(でも今のシュナちゃんは…)
加奈は、シュナの顔を見つめる。
切長の綺麗なピンク色の瞳。
少し微笑んでいる口元。
でも、その仕草は明らかに、甘えている。
構ってほしがっている。
(これは、もしかして、演技じゃなくて、お姉ちゃんの本性?)
加奈の心臓が、ドキドキと高鳴る。
そして、加奈は、ゆっくりと、シュナのマスクの顎に触れた。
指先で、そっと。硬いマスクの感触。
そして、加奈は、艶めいた声で、シュナに囁く。
「ねぇ、シュナちゃん。もっと遊んでほしいの?」
その言葉に、シュナは小さく頷いた。
コクンと、はっきりと。
そして、さらに、加奈に密着してくる。
体全体で、加奈に寄りかかってくる。まるで、「お願い」とでも言うように。
加奈は、シュナを抱きしめながら、思った。
(お姉ちゃん…分かってる? 完全に、私のおもちゃになっちゃってるよ?)
加奈は、シュナの髪を撫で続ける。
シュナは、満足そうに加奈の肩に頬を預けたまま。
でも、次の瞬間。
シュナは、顔を上げた。
そして、加奈の顔を、じっと見つめる。
切長の綺麗なピンク色の瞳。
少し微笑んでいる口元。
その距離は、とても近い。
20センチもない。
加奈は、思わず息を呑んだ。
シュナの顔が、こんなに近くに。
マスクの目のスリットから、中の人が見えないか、加奈は目を凝らした。
でも、やはり見えない。
黒い布が貼られているせいで、完全に遮られている。
シュナは加奈を見つめたまま。
そして、ゆっくりと。
加奈の膝に、手を置いた。
両手で。
そっと。
でも、しっかりと。
(え…)
加奈の心臓が、バクバクと鳴る。
シュナの手が、膝の上に。
その熱さが、服越しに伝わってくる。
そして、シュナは。
加奈の膝の上で、手を軽く握ったり開いたりしている。
まるで、「ねぇ、見て」「構って」と言っているように。
加奈は、シュナの手に、自分の手を重ねた。
「シュナちゃん、どうしたの?」
「そんなに構って欲しいの?」
シュナは、大きく頷いた。
そして、加奈の手を握って、自分の頬に持っていった。
マスクの頬の部分に、加奈の手を押し当てる。
「…っ」
加奈は、驚いた。
マスクは、とても熱かった。
そして、わずかに湿っている。
中の優奈の体温と汗が、マスクを通して伝わってくる。
シュナは、加奈の手を頬に当てたまま、目を細めた。
まるで、気持ち良さそうに。
満足そうに。
(これって…)
(お姉ちゃんにとって、何なんだろう)
加奈は、ふと思う。
優奈は、いつもこんなに孤独だったのかもしれない。
人と触れ合うことを避けて、誰にも甘えることなく。
一人で、全部抱え込んで。
でも、シュナになるとこうやって、素直に甘えられる。
触れ合える。
(もしかして)
(お姉ちゃんは、シュナになることで自分を解放してるの?)
加奈の胸が、きゅっと締め付けられる。
優しい優奈。
いつも、加奈を支えてくれる優奈。
その優奈が、今シュナという姿でこんなに甘えてきている。
構って欲しがっている。
嬉しい。
本当に、嬉しい。
そして、愛おしい。
こんなに愛おしいと感じてしまうなんて。
シュナは、次に、加奈の肩に、そっと頭を預けてきた。
ピンク色の長い髪が、加奈の肩を覆う。
マスクの重みが、ずっしりと感じられる。
その重さが、加奈の肩にかかる。
そして、加奈の肩に、硬い感触が伝わる。
硬質プラスチック。
人間の肌のような弾力は、全くない。
硬くて、冷たくて、無機質な感触。
(やっぱり、これマスクなんだ)
加奈は、改めて実感する。
目の前にいるのは、本物のシュナではない。
お姉ちゃんが、マスクを被って、シュナを演じているんだ。
加奈の耳のすぐそばから。
シュナの呼吸音が、はっきりと聞こえる。
「ハァ…スゥ…ハァ……スゥ…ハァ…スゥ…」
息がまだ少し、荒い。
体を動かしたから。
マスクの中は、きっととても暑いはず。
それでも、シュナは、加奈に寄り添っている。
甘えている。
離れようとしない。
加奈は、シュナのマスクをそっと見た。
ピンク色の長い髪。
その髪の毛が、マスクを覆っている。
でも、髪の奥の耳の上側のあたりに何か、光るものが見えた気がした。
シルバーに輝く、金属のような。
(え?)
加奈は、目を細めて中をよく見ようとする。
でも、髪の毛が邪魔をして、よく見えない。
気になる。
すごく、気になる。
加奈は、そっと手を伸ばした。
シュナの髪の毛を、優しく掻き分ける。
ピンク色の髪が、指の間をすり抜けていく。
サラサラとした、人工的な感触。
そして髪の毛の奥から、それが見えた。
(金具だ)
旅行カバンなどでよく見る、あの形の金具。
カチッと嵌める、あのタイプのシルバーに輝く、小さな金具。
(え… これって…)
加奈の目が、大きく見開かれる。
(まさか…)
加奈は、そっとシュナの後頭部に手を伸ばした。
シュナは、気づいていないのか、加奈の肩に頭を預けたまま。
ゆっくりと、くつろいでいる。
寝てしまった?
そう錯覚するくらい、大人しく。
可愛らしく、くつろいでいる。
加奈の指先が、シュナの後頭部に触れて髪の毛をそっと掻き分ける。
そしてそこにあったのは、硬質プラスチックのような、硬い感触。
しかも、点ではなく、面。
後頭部の髪の奥、全体を覆っているような。
(まさか…)
加奈の思考が、急速に回り始める。
(このマスクって)
(後頭部まで、全部覆ってるの?)
(で、この金具で留めて、固定してるの!?)
(お姉ちゃんの頭は今、そんなマスクの中に入ってるの!!?)
加奈の心臓が、ドキドキと鼓動する。
顔の前面だけだと思っていた。
でも、違う。
後頭部まで、全部。
頭部全体を、このマスクが覆っている。
ということは。
お姉ちゃんの頭は、今完全に、このプラスチック製のマスクの中に閉じ込められている。
密閉されている。
加奈は、シュナのマスクを見つめた。
優しく微笑んでいる、シュナの顔。
アニメから抜け出してきたような、美しいピンク色の瞳。
少し微笑んでいる口元。
でも、その内側は完全に密閉された空間。
外の空気とは、完全に遮断されている。
加奈は、もう一度、耳の上の金具を見た。
小さなシルバー色の金具。
これを外せば、マスクが外れるのかもしれない。
加奈は、そっと指を伸ばした。
髪の毛を掻き分けて。
指先が、マスクの金具に触れようとした。
その瞬間。
シュナが、急いで起き上がった。
バッと、顔を上げる。
そして、金具の辺りに両手を持っていく。
まるで何かを守るように。
そして、加奈の方を向くと首を大きく左右に振った。
ブンブンと、何度も、何度も。
そして、両手の指で小さくバッテンを作る。
触っちゃダメ! そう言っているような、仕草。
「あ、ご、ごめんねシュナちゃん…」
加奈は、慌てて謝る。
シュナは、小さく頷いた。
そして、何事もなかったかのように、再びテレビの方を向く。
ソファの背もたれに、ゆっくりともたれかかる。
そしてすぐにまた、加奈の肩に頭を預けてきた。
ピンク色の長い髪が、再び加奈の肩を覆う。
マスクの重みが、再び感じられる。
硬い感触に、呼吸音。
「…ハァ…スゥ…ハァ…スゥ……ハァ…スゥ…」
規則正しい、呼吸。
加奈は、複雑な気持ちになっていた。
(これ、本当にお姉ちゃんなの? 可愛いすぎるんですけど…)
さっきまで、あんなに必死に金具を守っていたのに、今は、もう何事もなかったかのように、また、甘えてくる。
(小さい頃は、こんな風に甘えてきてたっけ?)
加奈は、記憶を辿る。
優奈が高校生の頃、加奈はまだ中学生だった。
あの頃の優奈は、もう少し明るかった気がする。
「加奈、宿題終わった?」って、優しく声をかけてくれた。
一緒にアニメを見たこともあった。
でも、大学に入ってから優奈は、どんどん人と関わらなくなっていった。
就職してからは、もっと。
(お姉ちゃん、いつからあんなに人を避けるようになったんだろう)
でも、今はシュナという姿で、まるで昔の優奈みたいに。
いや、昔の優奈以上に、こんなに、素直に甘えてくる。
その時だった。
シュナが、もっと体を密着させてきた。
ただ肩に頭を預けているだけではなく、体全体を、加奈の方に傾けてくる。
体重を、完全に加奈に預けてくるような。
「え、ちょ、シュナちゃん…?」
加奈は、思わず声を上げる。
でも、シュナは止まらない。
むしろ、さらに。
シュナは加奈の腕を、両腕でぎゅっと抱きしめた。
そして加奈の体に、自分の体を完全に密着させる。
横からではなく、もうほとんど正面から。
加奈の胸に、シュナの頭が埋まるような形。
「シュ、シュナちゃん!?」
加奈は、完全に戸惑っている。
シュナの全体重が、加奈にかかっている。
いや、体重だけではない。
シュナの体温が、ダイレクトに伝わってくる。
とても熱い。
そしてシュナの両腕が、加奈の体を抱きしめている。
ぎゅっと、しっかりと。
まるで、離したくない、とでも言うように。
加奈の耳のすぐそばで、シュナの呼吸音が聞こえる。
「ハァ……スゥ…ハァ…ハァ…スゥ…ハァ…スゥ…」
荒い。
密着してきたせいで、呼吸がさらに苦しくなっている。
マスクの中の空気が、どんどん薄くなっているのだろう。
それでも、シュナは離れようとしない。
シュナは、加奈の胸に顔を埋めたまま。
そして、さらにシュナの足が加奈の足に絡んできた。
ソファの上で、体をくねらせるようにして、加奈の太ももにシュナの太ももが密着する。
もう、どこまでが加奈の体で、どこまでがシュナの体か、分からないくらい。
完全に、密着している。
「ちょっとシュナちゃん… どうしたの…?」
加奈は困惑しながらも、でもなんだか嬉しくて、優しく、シュナの背中に手を回す。シュナは、その手に応えるように、さらにぎゅっと加奈を抱きしめた。
全身で、全身全霊で。
その瞬間、加奈は、ダイレクトに感じた。
シュナの体温を。
全身から発せられる熱。いや、熱いなんてものじゃない。
灼熱。
まるで、火照っているかのような、衣装越しに伝わってくるその熱さ。
(熱い… こんなに、熱いの…?)
そして、加奈の耳のすぐそばから、シュナのマスクの口元から漏れる呼吸音。
「ハァ…ハァ……スゥ…ハァ…スゥ…ハァ…ハァ…スゥ……」
激しい。
さっきよりも、明らかに激しい。
荒い呼吸。
まるで、何かに興奮しているかのような。
いや違う、きっと苦しいんだ。
マスクの中が、暑くて、息苦しくてたまらないんだ。
だから、こんなに激しい呼吸になってる。
そう思おうとするけれど。
でも全身で抱きつかれて、耳元でこんなに激しい呼吸音を聞いていると、加奈はだんだん変な気持ちになってきそうで。
(ちょ、ちょっと待って… これは…)
心臓が、ドキドキと速く鼓動する。
顔が熱くなってくる。
シュナの熱さが移ってきたのか。それとも、自分自身が火照ってきているのか。
「シュナちゃん… ねぇシュナちゃん…?」
加奈は、声を震わせながら言う。
「これは、流石にアレなんじゃない…かな?」
でもシュナは、答えない。
答えるどころか、抱きしめる力がどんどん強くなっていく。
ぎゅっと、もっともっと。
まるで、一体になりたいとでも言うように。
そして、マスクからの呼吸音もどんどん激しくなっていく。
「ハァ…ハァ……ハァ…スゥ…ハァ……スゥ…ハァ…ハァ…スゥ……」
息が荒い。
本当に、荒い。
加奈の耳に直接響いてくる。
その息遣いが、その熱さが。
(これは… もう、スキンシップを超えてる…)
加奈の頭の中が、混乱してくる。
(このままじゃ、私まで変な気持ちになってしまう…)
でも、なぜか、拒否する気にはなれない。
シュナを、突き放すことができない。
むしろ、このまま抱きしめていたいとすら思ってしまう。
(ダメだ、ダメだよ、姉妹でこれは...)
加奈は、必死に自分に言い聞かせる。
シュナは離れない。
さらに強く加奈を抱きしめている。
そして、その呼吸音。
「ハァ…ハァ……スゥ…ハァ……スゥ…ハァ…スゥ……」
まるで、何かに溺れているかのような。
加奈の頭の中に、恐ろしい考えが浮かんできた。
(お姉ちゃん、まさか… 本当に、気持ち良くなってるんじゃない…?)
そんなはずはない。
暑くて、苦しいはずなのに。
マスクの中は地獄のような環境のはずなのに。
でもこの抱きしめ方、この呼吸の荒さ、この体温の高さ。
(そこに、快感とか覚えちゃってるの…? ちょっと、さすがに、やばいんですけど…?)
加奈は、必死に理性を保とうとする。
落ち着け。
落ち着くんだ。
これは、お姉ちゃんがただ甘えてるだけ。
シュナとして、甘えてるだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
でも。
全身で抱きつかれて。
耳元で、激しい呼吸音を聞かされて。
シュナの灼熱の体温を感じていると。
加奈の理性が、少しずつ溶けていきそうで。
(ダメだ)
(ダメ、ダメ、ダメ)
加奈は、必死に自分を保とうとする。
でも、シュナは、まだ離れない。
全身で、加奈に抱きついたまま。
甘えている。
加奈は、思った。
(お姉ちゃん…)
(こんなに、甘えたいタイプだったの?)
普段の優奈からは、想像もできない。
いつも一人で、誰にも頼らず。
むしろ、人を避けるようにして生きている姉。
でも。
もしかして。
本当は、甘えたいタイプだった?
シュナに変身することで。
その隠れていた性格が、解き放たれた?
加奈は、全身で甘えてくるシュナを、そっと抱きしめ返しながら。
ふと、別のことを考えた。
(この姿を、私以外の誰かに見せたことあるのかな?)
もしかして。
(私が知らない間に、彼氏ができたとか?)
優奈には、彼氏がいるという話は聞いたことがない。
むしろ、男性と話すことすら苦手な姉だ。
でも。
もし、彼氏がいたら。
(彼氏には、こんな風に甘えたりするの?)
加奈の胸に顔を埋めて。
全身で抱きついて。
こんなに、積極的に。
(これを普通のお姉ちゃんでやったら)
(落ちない男はいないと思うんだけど?)
加奈は、シュナを見下ろす。
ピンク色の長い髪。
加奈の胸に埋もれている、シュナの頭。
切長の綺麗なピンク色の瞳は、見えない。
ただ、聞こえるのは。
「…ハァ…スゥ……ハァ…スゥ…ハァ…スゥ…」
規則正しい、でも少し荒い呼吸音。
そして、感じるのはシュナの熱い体温。
全身から発せられる熱。
マスクの中は、どれだけ暑いんだろう。
それでも、シュナは。
加奈に、こんなに密着して全身で、甘えている。
離れようとしない。
加奈は、そっとシュナの頭を撫でた。
ピンク色の髪の毛。
サラサラとした感触。
でも、その下には、硬いマスクがある。
「シュナちゃん、ほんとに甘えん坊さんだね」
加奈が優しく声をかけると。
シュナは、加奈を抱きしめる腕にさらに力を込めた。
離したくない、とでも言うように。
加奈の心の中で、何かが溢れそうになる。
(私、お姉ちゃんのこと)
(もっと知りたいな)
こんなに全身で甘えてくるなんて。
優奈の中に、こんな一面があったなんて。
知らなかった。
でも、知れて良かった。
(今日、早く帰ってきて良かったかも)
もし、いつも通り夕方に帰ってきていたら。
この姿を見ることはなかった。
シュナとしての優奈を、知ることもなかった。
(お姉ちゃん、いつまでシュナでいるつもりなんだろう)
(でも、それまで、たっぷり甘えさせてあげるね)
そして、加奈の頭の中には、別の思いも渦巻いていた。
(っていうか、このマスク、大丈夫なのかな?)
後頭部まで全部覆ってる。
金具で固定されている。
簡単には外れない構造。
(絶対、息苦しいよね?)
口元の小さなスリット。
あれだけで、呼吸してる。
しかも、マスクの中は密閉空間。
(見た目は可愛いけど)
(これ、拘束具とあんま変わらないんじゃ?)
加奈は、シュナの顔を見つめる。
その内側では。
お姉ちゃんが、必死に耐えている。
暑さと、息苦しさと、圧迫感に。
それでも。
こんなに、甘えてくる。
こんなに、全身で。
(お姉ちゃん…)
(可愛いすぎる…)
加奈の心の中で、何かが弾けた。
もう我慢できない。
こんなに甘えてくるシュナを。
こんなに可愛いシュナを。
そして、こんなに過酷な環境の中で、それでも頑張っているお姉ちゃんを。
抱きしめずにはいられない。
加奈は、シュナの体を思い切り強く抱きしめた。
両腕で、ぎゅっと。
「っ!」
シュナが、びっくりしたように固まった。
体が、一瞬強張る。
でも、加奈は離さない。
シュナの体を、強く、強く抱きしめる。
加奈の耳のすぐ近くに、シュナのマスクの口元がある。
そこから、息苦しそうな呼吸音が漏れている。
「ハァ…スゥ…ハァ……スゥ…ハァ…ハァ…スゥ…」
とても、荒い呼吸音。
そして、シュナの体温が、ダイレクトに伝わってくる。
熱い。
とても、熱い。
でも、それでも。
加奈は、シュナを抱きしめる手に、自然と力が入っていく。
優しい優奈。
いつも、加奈を支えてくれる優奈。
その優奈が、こんなに可愛い姿になって。
嬉しい。
本当に、嬉しい。
「お姉ちゃん」
加奈の口から、無意識に言葉が漏れた。
「本当に、可愛いよ」
「そんな風に、できるんじゃん」
その瞬間。
シュナが、加奈の背中を、何度も何度も叩き始めた。
ポンポン、ポンポン。
苦しい。
そう言っているように。
必死に。
「あ!」
加奈は、ハッと我に返った。
慌てて、シュナを解放する。
両腕を離すと、シュナは少し体を引いた。
そして、マスクから、激しい呼吸音。
「ハァ…ハァ……ハァ……スゥ…ハァ…ハァ……スゥ…」
肩が、大きく上下している。
「ごめん、シュナちゃん!」
「苦しかったよね、ごめん!」
加奈は、慌てて謝る。
シュナは、しばらくじっと加奈を見つめていた。
マスクの中で、必死に呼吸を整えている様子が分かる。
そしてゆっくりとシュナが加奈の手を、両手で握った。
優しく、でもしっかりと。
そして、小さく頷いた。
ありがとう。
そう言っているような、仕草。
加奈の胸が、また温かくなる。
(お姉ちゃん…)
(優しいね)
(こんなに苦しそうなのに)
(ありがとうって言ってくれるんだ)
加奈はシュナの顔を見つめる。
マスクは、優しく微笑んでいる。
切長の綺麗なピンク色の瞳。少し微笑んでいる口元。
でもその内側では...
今、お姉ちゃんはどんな顔してるのかな。
笑ってるのかな。
それとも、困ってるのかな。
照れてるかもしれないね。
シュナは笑ってるけど、マスクの中のお姉ちゃんの表情は見えない。
加奈は、少し不思議な気持ちになった。
でも実は、加奈の視線は、時々シュナの方に向いている。
横目で、そっと観察する。
シュナの座り方、手の置き方、時々見せる、小さな動き。
全部、普段のお姉ちゃんとは違う。
(お姉ちゃん、シュナちゃんになると、本当に可愛いな)
加奈は、内心でそう思いながら、少し笑みがこぼれそうになる。
(普段は、あんなに暗くて、地味で、目立たないようにしてるのに、シュナちゃんになると、こんなに堂々としてる。こんなに、可愛い仕草ができる。こんなに、頑張れる)
それは、加奈にとって、新しい発見だった。姉の、知らなかった一面。
(お姉ちゃん、本当はこういう人だったんだね。シュナちゃんが好きで、シュナちゃんになりたくて、だから、こんなに頑張れるんだ)
加奈は、少し羨ましいような、誇らしいような、複雑な気持ちになる。
そして、同時に
(もう少し、観察させてもらおうかな。お姉ちゃんが、シュナちゃんとして、どこまで頑張れるのか、見てみたい)
加奈の唇に、小さないたずらっぽい笑みが浮かぶ。姉の変身した姿を、側から楽しみながら観察する。それは、加奈にとって、とても面白い時間だった。
◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎
しかし。
加奈がテレビを見ながら、時々シュナの方を横目で観察していると、だんだん、シュナの様子がおかしくなっていることに気づいた。
シュナは、ソファに座ったまま、じっとテレビを見ている。
でも、その姿勢が少しずつ、崩れてきている。
最初は背筋がピンと伸びていたのに、今は、少し前かがみになっている。
そして、肩が大きく上下している。
呼吸が、明らかに荒い。
「ハァ…ハァ……スゥ…ハァ……スゥ…ハァ…ハァ……スゥ……」
マスクの口元から漏れる、激しい呼吸音。
加奈の耳にも、はっきりと聞こえてくる。
(お姉ちゃん… 大丈夫…?)
加奈は、少し心配になってきた。
ついさっきまでは可愛い仕草をして、甘えてきて、あんなに生き生きとしていたのに、今は明らかに様子がおかしい。
シュナは、必死に呼吸を整えようとしているようだった。
一生懸命、息を吸って、吐いて。
でも、マスクの中の空気は限られている。
どんなに頑張っても、十分な酸素は得られない。
加奈は、シュナを見つめる。
可愛いマスクの顔。
優しく微笑んでいる表情。
でも、その下では優奈が苦しんでいる。
肩の上下運動が、さらに激しくなっている。
呼吸のたびに、肩が大きく上下する。
そして、加奈は気づいた。
シュナの衣装の一部、特に脇の下や背中のあたりが、さっきよりも濃い色になっている。
タイツに染みた汗が滲み出ている。
(こんなに、汗かいてるんだ…)
加奈の胸が、きゅっと締め付けられる。
ついさっき、全身で抱き合って、あんなに激しく体を重ねて。
加奈自身も疲れた。
でも、中の優奈は、それ以上に体力を消耗しているはず。
マスクの重さ、密閉された空間。
限られた呼吸。そして激しい動き。
優奈は、もう限界に達しているはずだ。
「シュナちゃん…?」
加奈が声をかける。
でも、シュナは反応しない。
ただじっとテレビの方を向いたまま、必死に呼吸を整えている。
「ねぇ、シュナちゃん?」
もう一度、声をかける。
でも、やはり反応がない。
「シュナちゃん!」
三度目、少し強めに声をかけると。
やっと、シュナが、ゆっくりと顔を向けた。
加奈の方を見る。
切長の綺麗なピンク色の瞳が、加奈を捉える。
そして、シュナは、可愛い仕草をしようとした。
両手を胸元に置いて、小さく首を傾げる。
でも、その動きにはもうキレがない。
弱々しい。
まるで、ロボットの電池が切れかけているような、ゆっくりとした動き。
(お姉ちゃん… もう、限界だよね…)
加奈は、胸が痛くなった。
可愛い顔をしたマスクから聞こえる、苦しそうな呼吸音。
肩の激しい上下運動。タイツに染みた汗染み。
これ以上、続けたら、本当に倒れてしまうかもしれない。
時計を見る。13時30分。
加奈は、ふと思った。
(ここで、お姉ちゃんを試してみようかな)
どこまで、優奈はシュナとして頑張れるのか。
自分がいない間も、シュナのままでいようとするのか。
それとも、限界を悟ってマスクを脱ぐのか。
加奈はシュナを見つめながら、ゆっくりと言った。
「シュナちゃん、私ちょっと用事があるから、少しだけ自分の部屋に戻るね。服も着替えたいし」
シュナは、黙って加奈を見つめる。
マスクの表情は、相変わらず優しく微笑んでいる。
でも、その視線の奥に、何かが見える気がした。
加奈は、少し考えて、続けた。
「1時間〜1時間半くらいかな? ちょっと用事済ませてくるね」
シュナは、加奈を見つめながら、小さく数回頷いた。
コクン、コクンと。
ゆっくりと、でもはっきりと。
加奈は、そっと立ち上がった。
そして、シュナに優しく手を振りながら、自分の部屋へと向かった。
「じゃあね、シュナちゃん。行ってくるね」
シュナは、加奈が部屋に入っていくのを、じっと見つめていた。
◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎
加奈の部屋。
カチャリとドアを閉めた瞬間、加奈は、深く息を吐いた。
(ふぅ…)
リビングでの出来事が、まるで夢のように感じられる。
シュナとの密着。
あの熱さ、あの呼吸音。全てが、加奈の心臓を激しく高鳴らせていた。
部屋の中は、いつも通りの静けさ。
ベッド、机、クローゼット。
窓から差し込む午後の柔らかい光。
全てがいつも通り。
でも加奈の心は、まだ落ち着かない。
加奈は、すぐに着ていた服を脱ぎ始めた。
Tシャツを頭から引き抜く。
リビングでの出来事で、少し汗をかいていた。
肌に張り付いた生地が、ゆっくりと剥がれていく。
ジーンズのボタンを外し、ファスナーを下ろす。
脚を抜いて、床に置く。
下着姿になった加奈は、クローゼットを開けて、リラックスできる部屋着を取り出した。
柔らかいグレーのTシャツ。
ゆったりとしたネイビーのスウェットパンツ。
Tシャツを頭から被る。
柔らかい生地が、肌に優しく触れる。
スウェットパンツに脚を通し、腰まで引き上げる。
(あぁ、楽…)
着替えが終わると、加奈は、ベッドに腰掛けた。
ふかふかのベッドに体重を預けると、少しだけ、体の緊張が解けていく。
でも、心臓はまだドキドキと高鳴っている。
(お姉ちゃん…)
(今、どうしてるんだろう)
加奈は、自分の部屋のドアを見つめた。
その向こうは廊下。
そして、廊下の向かいには、優奈の部屋。
今、優奈はあの着ぐるみを着たまま、リビングにいるはず。
その時だった。
ドアの向こうから、かすかな音が聞こえてきた。
加奈は、息を止めた。
耳を澄ます。
ゆっくりと、何者かが歩く気配。
廊下を、ゆっくり、ゆっくりと。
その足音は、とても重い。まるで、何か重いものを背負っているかのような。
コツ… コツ… コツ…
一歩、一歩、慎重に。
加奈の心臓が、さらに速く鼓動する。
(お姉ちゃん…?)
足音は、加奈の部屋の前を通り過ぎた。
そして、向かいにある優奈の部屋の前で止まった。
静寂。
数秒間の、長い沈黙。
そして。
ギィ…
ドアが開く音。
古い木製のドアが、軋む音。
ゆっくりと、慎重に開けられている。
加奈は、じっとドアの方を見つめた。
まるで、ドアの向こうが透けて見えるかのように、集中する。
(今、お姉ちゃんは部屋に入った…)
そして、すぐに。
カチャリ。
ドアが閉まる音。
静かに、でもはっきりと。
それから。
部屋は、再び完全な静寂に包まれた。
廊下からも、優奈の部屋からも、何の音も聞こえてこない。
加奈は、ベッドに座ったまま、じっとドアを見つめ続けた。
時計の秒針が、カチ、カチ、カチと刻む音だけが、部屋に響いている。
(お姉ちゃん…)
(今、何してるんだろう)
加奈の頭の中で、様々な想像が渦巻く。
優奈は部屋に入って、すぐにマスクを脱いだのだろうか。
それとも、まだシュナのままなのだろうか。
あの重そうな足音。
明らかに、普段の優奈の歩き方ではなかった。
マスクを被ったまま、衣装を着たまま、部屋に戻ったのだろうか。
(お姉ちゃん、今、部屋で何してるの?)
加奈は、壁の向こうを想像する。
もしかして、シュナの姿で鏡の前に立っているのだろうか。
それとも、ベッドに倒れ込んでいるのだろうか。
疲労と、暑さと、息苦しさで。
あるいはマスクを脱いで、やっと解放された顔で、大きく息をしているのだろうか。
加奈は、じっとドアの方を見つめた。
(お姉ちゃん… 一旦休憩するのかな? それとも、シュナちゃんは今日はおしまいかな?)
加奈は、心の中で呟く。
(相当苦しそうだったし、暑そうだったもんね。休憩したいよね)
でも。
(さぁ、私のお姉ちゃん、これからどうするのかな?)
加奈は、ベッドに横になりながら、考える。
(私がリビングに戻った時、シュナちゃんの姿で私を待っているのかな? それとも、もう着ぐるみを脱いで普段のお姉ちゃんに戻っているのかな?)
もし、優奈がマスクを脱いでいたら。
(お姉ちゃんに戻ってたら、いつも通り接して、少しずつシュナちゃんの事を聞き出そうかな)
でも、もし。
(でも、もし、シュナちゃんのままだったら…)
加奈は、不敵な笑みを浮かべて、ドアの向かいにある優奈の部屋の方を見つめる。
(でも多分、お姉ちゃんのことだから、きっと…)
加奈は、そう言うと、スマートフォンを手に取り、いつものように、ベッドに横になってくつろぐ。
スマホの画面を見ながら、でも、頭の中は、優奈のことでいっぱいだった。
(お姉ちゃん、今頃自分の部屋でどうしてるかな〜)
(楽しみだな〜)
加奈の唇に、また、小さないたずらっぽい笑みが浮かんだ。
1時間後、加奈がリビングに戻った時。
そこには、一体、誰が待っているのだろうか。
普段の、地味で暗い、姉の優奈なのか。
それとも、可愛くて、優しくて、でも苦しそうな、シュナなのか。
その答えは、この後に明らかになる。
そして、その答えが、これから起こる出来事の全てを決定づけることになる。
加奈も、優奈も、まだ知らない。
この時間が、二人の関係を大きく変えることになるかもしれないということを。
— 後編につづく —